覚者

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

ラベルの世界からの脱出

人間たるものこうこう常識を重視して、、、

人間たるもの、、こういうことはやらない方が良い、、これは従おう、、常識を少しづつ覚えて、、、とまあこのイメージの世界では、、社会人としての嗜みが求められます、、、ですが何であろうと、、この私も、、相手も、、全部が全部言葉で支配された世界の住人ですから、、イメージでしかありません。。言葉で決められた物が全部が全部イメージです、、、このイメージの世界で、、この私というイメージを向上させようとい試みは、、イメージの社会で多少は役に立っても、、、至福とは全く関係がありません。。至福とはこれがイメージあるという気づきが起きる以外にないのです。

イメージ同士の強化

他人と一緒に居るのがなぜ苦しいかといえば、、、その他人がイメージする役柄を演じ続けなくてはならないからです。相手も見かけ上の私がイメージする役柄を演じ続ける、、、これが辛いのです。。。本当はこの私も相手もイメージでしかないのです、、、、イメージという創造行為をエンドレスに続けていくのは苦しいのです、、本質ではないから。本質は本質の時に至福になります。本質はイメージになり切る時に同時に分離感が生まれます。

木を見ても木とは思わない、、不可能

我々は、、、木を見ればもう自動的に、、木というイメージが湧くように設定されてしまっています。コップを見ればコップというイメージが即座に湧く、、ですからこれを止めるのは不可能です、、、ですがこの仕組みを理解することはできる、、、、今見かけ上の私は、、、木という生命現象を見て、、木というイメージをそこに重ねた、、、だから木という独立分離した(見かけ上)存在に気づいた、、、となります。。全部はイメージ、、イメージのというレイヤーを現象に重ねただけ。。。。だからこの世には何の意味もないですよ、、と覚者は言います。。。たった一つのエネルギーにラベルを貼り付けまくり、、イメージを創造し続け、、、この私というイメージが、、この独立分離した世界を旅するというイメージを作りあげます。そこに意味はないです、、意味とはまさにこの言葉の世界が作り出したファンタジーです。

今夢を見ているという実感はあるか

多くの人はない

多くの人はこれが夢だという実感が全くないでしょう、、それは当然そのようなことを言う人は全く居ませんから、、、そして悟りの覚者が言う「これは夢だ」というメッセージに出会っても、、、色々な修行を重ねるとそれが分かるようになるんですね!とその言葉を深読みし、、悟りを遠い未来の場所に設定します、、、ですがその思惑、戦略こそが悟りを遠ざけるための覚醒を遠ざけるための思考なのです。

これを夢だと思って生活してみる

これを夢だと思って生活してみてください、、すると直ぐに大きな気づきが生まれます、、誰がこの夢を見ているんだ????見ているとしたら一人しか居ない、、、それはこの自分だ、、、、でもこの自分が夢を見ているとしたら、、この体の中の自分は一体誰だ???この体の中で自分をやりながら夢を自分で見ているのか???確かに夜みる夢でも同じことをしてる、、、すると、、、この体の中の自分が本物ではなく、、、夢を見ている自分こそが本物だという気づきが起きます。

夢を見ている自分がただこの体の中に居るという勘違いをしていた

要はこういうことです、、、これは夢で、、私がこの夢を見ている、、そしてこの夢にはこの体が主人公として登場し、夢を見ている自分がこの登場人物であるこの体に成り済ましていただけだったんだ、、ということです。この夢の展開は、、夢を見ている自分には全くコントーロが起こらず展開し、、この体も例外ではない、、あらゆる思考が湧き、あらゆる行動が湧くが、、これはただ起こっているだけで実は誰もコントロールしていない、、ただし「自分がやっている」という思考も湧き上がるので、、そう信じる、、が起こっている、、この夢の中で。。

全員が悟っている?

たまにあるこの表現

そもそも全員が悟っています、、、この表現を使う覚者はいます、、、我々全員は真我の動きを体現する者、、真我に完全にコントロールされている、、、つまり自由意志など皆無、、ただ真我の動きに対する従順な奴隷、、、そうなれば全員が悟りの中に居る、、、という表現はできます、、、そもそも悟りしかない、、です。。悟りとはこの世界が夢であるという気づきですが、、、この気づきすらも完璧に真我にコントロールされています。ただし真我に自由意志があるのではありません、、真我の動きは、、、、化学反応です。

悟りを開く誰かはいない

全員が悟っているという表現の裏には、、、誰も悟りを開く人間はいないという大前提があります。悟りを開く個人は居ない、、、、個人という存在が夢の登場人物に過ぎなかったという気づきです、、、全員が夢の登場人物だったという突然の気づき、、これが悟りです、、ということはこの体も体に過ぎず、、それ以上もそれ以下でもない、、、

悟りを学び始めると、、、

悟りを学び始めますと、、、そんな夢物語のことを真剣に学ぶなんて、、と揶揄されます、、そんなことより現実が大切だよ、、と、、、、私から言わせれば、、、、現実を見るよりのこの夢をもっと真剣に没入した方が良い、、というアドバイスに聞こえます、、悟りとは現実を現実として見ることです、、これが夢だと悟ることです、、、、この夢の中で嫌われる行動第一位、、、これが夢だと気づかせることです。。

覚者が個人的体験を語らない理由

個人的体験は夢物語

覚者とは覚めた者という言葉の略ですね、、何から覚めたのか???夢です、、この個人物語が圧倒的な夢であることに気づいたのです、、誰が???気づきの意識が、、です。ですが気づきの意識の中でこの体は永続していく、、その残された体が見かけ上「覚者」と呼ばれます、、、ですからこれは矛盾です、パラドックスです。この覚者は、、、私はこういった状況で、、こうやって目覚めました、、と語るのは、、矛盾が矛盾を呼ぶような、、展開になります、、ですから覚者は、、個人的体験をあまり語りたがらないのです。

夢の中でこの体は、、、

厳密に説明すれば、、夢の中でこの体は登場しており、、この体の中に自分という存在を信じていました、、、ところがある時、、これが夢だと気づいてしまった、、するとこの夢の中の私は、、私でなかったという気づきが起こった、、、気づいたのはこの体の中の自分ではなく、、、この夢を観ていた存在、、それが私だ、、、この私は夢の展開中ずっとこの体の中の居ると勘違いが起きていた、、今は起きていない、、、夢の中のこの体には私は入っていない、、、むしろ夢全体を観察する存在であり、、夢を展開する力そのものだ、、、そしてこの夢が湧き上がるスペースも自分、、この私だ、、となります。

それでも夢は続く????

この事実気づいてしまっても、、この体は在り、、相手の体もあり、、動物、植物、、全部が残ります、、ここから先は夢を夢であると気づいてしまった存在として、、、この体物語を進めていきます、、この体の中には自分は居ませんが、、、この体は「私が在る」の中に確実に存在します、、、相手も「私が在る」の中に存在する、、、この体も相手の体も、周囲の人間も「私が在る」の中で、、、動き続けます、、そしてその動きの源が私です。。。空間も私、、全部が全部「私」の中で起こる、、、

悟りを人に依存すると、、

危ない目にあう

悟りとは自分との戦いです、、この自分の再認識です、、この作業を人に委ねれば危険な目にあうこともあるでしょう、、あくまでヒントをもらうという発想が重要でしょう、、常に自分だと認識してきた存在が実は違ったという感覚です。。自分という感覚を絶対的に信じてきたのは、、この私が居るという絶対的感覚からです、、、何が起きようと、、この自分が居るという感覚は疑いようがないほどにあります、、それは事実です、、ですがその感覚をこの体の中に閉じ込めたのは苦しみの始まりです。

「私が在る」の中で

この体とは「私が在る」の中に存在するのです、、相手の体も、、友人の体も、、、鳥も、木も、、全部が全部この「私が在る」の中で活動しています、、独自の活動をしている、、、だから見える世界の変化に気づくのです、、目の前の鳥が動くのをなぜ確認できるのか??「私が在る」の中で起こったからです、、だから気づいたのです。。。この体の活動の全ても全部この「私が在る」の中で日々起こり続けているのです。

「私が在る」の中でマスターに会う

例えば覚者がの存在を知り、その人に会いに行くとしましょう、、、その覚者は「私が在る」の中で登場したのです、、、その人にどっぷり依存するのはおかしいこと、、、どこまでいってもその覚者は「私が在る」の登場人物に過ぎないのです。依存するというのはこの体の中の自分と、覚者が別々に存在するという圧倒的誤解の上で成り立ちます、、、ですから上手くいかない、、、ということになります。

やる気も全部真我

今日はやる気がでない

やるきさえ出れば、、、、このやる気を作るのは誰でしょう、、、個人がこのやる気をせっせと作れるか???全部が全部真我から起きます、、やる気は、、、生まれて死ぬまでの全やる気は真我から起こる、、そもそもやる気という決まったエネルギーはないのですが、、全部が全部真我の動きです、、、、やる気さえあればもっとやれるのに、、、、今この思考が真我から生まれました、、、

立ち止まる

人間活動に集中していますと、、この真実が理解できません、、なぜならば個人は一生懸命に生きていますから、、立ち止まることができない、、止まったら苦しくなってしまう、、個人活動は基本苦しいので、、止まれない、、、プールの中で泳いでいて、、、止まれば息が吸えなく、、苦しい、、、これが個人活動、、、、朝から晩まで空気を吸うために動く、、、、これを完全ストップする、、、すると体が水中から浮いて、、、動かなくても空気が吸えることが分かった、、、これが悟りです。

どうしても途中でもがく

ただこの瞬間しばらく止まっていれば、、、息が吸えるのに、、、途中で怖くなってもがく、、、これで振り出し、、しばらく活動をやめ真我にシフトすれば、、、苦しくない、、、途中でやっぱり怖いと自我はもがいて息を吸う、、、一瞬息が吸えてまた活動の日々に、、、この体に私は居るという個人活動のリスタートが始まる、、、だから覚者は何度でも言う、、、「活動を止めろ、ただそこで活動を止めろ」と。

1000ブログを終えて、

これは書道

私は二年近くをかけて1000ブログを制作しました、、この活動は私にとって大きな試みで、、、悟り、真の静寂、真の平和とは何かを馴染ませる活動になりました、、自身の気づきを文章にすることで体に馴染ませていきます。ここまでのブログは覚者と呼ばれる人々のメッセージを読んで新しい気づきが起きた時にそれを文章化してきました、、、今は気づきが気づきを呼んでいる感覚です、、気づきのドミノが倒れている感覚、、それをこれからは文章化していこうと考えています。

悟りを人生のテーマにする

自我は悟りに対してふざけます、、悟りを人生の一番にしようとしません、、、もっと大切なことがあるだろう、、仕事、結婚、趣味、お金、名誉、、、悟り以上に大切なことがいっぱいあるだろう、、、と悟りを遠ざけます、、先ずこの事実を理解します、、、自我にとって悟りとは自我のお役御免ですから、、ここに抵抗しない自我はいないでしょう、、だからこそ悟りをトップに据える必要な時期があるのです。

夢から覚めると、、覚悟する

これは夢です、、、夢だと分かっていても覚めない夢です、、、夢だと分かった上でいったい何をこの夢の中で達成することがあるのでしょうか、、夢だと分かった時点で一番達成すべきことは夢から覚めることです、、、もしくは夢であることを自覚しながら、、、夢から覚める方法を模索していく他ありません。ただしこれが夢であるという気づきが起き始めますと、、この夢の面白さにも気づいてしまいます、、なんという完成度の高さ、なんという展開力、、深刻さが抜けた後のこの夢は面白くなっていきます。これがパラドックスです。

マインドという現状維持機能を俯瞰する

思考はただ現状維持のために機能する

多くの方は自分の思考に絶対的な信頼を置いていますが、、、この思考は、、、現状を維持するためにただ機能として湧き続けるだけです。今食べれているならば、、、、この状況を維持するために湧き続けます。。。例えばスーパーブラック企業に居てもそこにいて食べれていれば、、、思考はこの会社を辞めさせないように働くのです。過労死が存在するのはこのためです。これが思考のメカニズムです。この思考を絶対的に信頼するのはどなのか???これが気づきです、、、気づきの意識による気づきです。

思考は悪でもなく善でもない

思考とはただの機能です、、、現状維持機能、、、この機能に善も悪もないのです、、、ただしこの現状維持機能は、、、今至福を全く感じれていなくても、、、その状態を維持するために機能します、、、、覚者が思考を止めろというのも一理あるのです、、、、思考が止まり、、、気づきの意識そのものになれば至福が湧いてきますが、、、、この状態が安定すれば思考はこれを維持しようと機能します。思考が湧き続け、これは自分で在るという思考が湧けば、、、苦しいのですが、、、それでも思考は湧き続けこれを維持します。

思考を俯瞰するとは悟りである

多くの方は思考に振り回され、感情に振り回されて生涯を終えます、、そのような中で思考を完全に俯瞰できるのは思考の機能を完璧に理解し気づけた者だけ、、、これは悟りです。悟りとは究極の俯瞰であり、、、思考を現状維持機能であるという気づきはその一つです。「今日で首だ、、、」こう宣告された者からはあらゆる思考が湧き出すのは、、、、現状維持機能が働くからです、、、なぜ???頭がおかしくなったのか?法律的に大丈夫か??、、、これは現状維持機能のフル活動です。

覚者の書籍が読めるようになる

自我の抵抗の終わり

悟り系の書籍は、、、興味があってもなかなか読めない、、、こんな時期は私には長い期間ありました、、、これだけ悟りに興味があるにも関わらずです、、、、それがあることがきっかけでいきなり読めるように、、、それが糖質制限です、、、炭水化物、糖質を一切取らない生活をしてみましたら、、、急に気分が落ち着き、、、書籍が読めるようになったのです。マトリックスのNEOが選んだカプセル、、、こっちを選べば今までの生活が、、こっちを選べば新しい世界が待っている、、、、私にとって糖質は今までの生活を続けるカプセルだった気がします、、、

馴染むように体に染み込む

それからというもの、、覚者のメッセージが、、、馴染むように体に染み渡るようになりました。。。。そして書籍を読むと自動書記のように私自身もこのメッセージを伝えたくなりました、、、現在のこのブログはそのように書いています、、、、覚者の言葉が呼水になって自身の中から湧き出してくるのです。。。。書かずにはいられない、、そんな気分です。

書けば書くほどに静寂に、、、

このブログを書いていて様々な不思議な体験が増えていきます、、、先ず静寂に常に在るということ、そして外に出ると輝いているのです、太陽の光が、、、、さらに気温が心地よいという感覚を超え、、感じたことがない体感があるのです、、、為すべきことはなにもない、、、この不思議な感覚が腹落ちした時に、、これらの感覚が気づくと湧いていました。