悟りを人に依存すると、、

危ない目にあう

悟りとは自分との戦いです、、この自分の再認識です、、この作業を人に委ねれば危険な目にあうこともあるでしょう、、あくまでヒントをもらうという発想が重要でしょう、、常に自分だと認識してきた存在が実は違ったという感覚です。。自分という感覚を絶対的に信じてきたのは、、この私が居るという絶対的感覚からです、、、何が起きようと、、この自分が居るという感覚は疑いようがないほどにあります、、それは事実です、、ですがその感覚をこの体の中に閉じ込めたのは苦しみの始まりです。

「私が在る」の中で

この体とは「私が在る」の中に存在するのです、、相手の体も、、友人の体も、、、鳥も、木も、、全部が全部この「私が在る」の中で活動しています、、独自の活動をしている、、、だから見える世界の変化に気づくのです、、目の前の鳥が動くのをなぜ確認できるのか??「私が在る」の中で起こったからです、、だから気づいたのです。。。この体の活動の全ても全部この「私が在る」の中で日々起こり続けているのです。

「私が在る」の中でマスターに会う

例えば覚者がの存在を知り、その人に会いに行くとしましょう、、、その覚者は「私が在る」の中で登場したのです、、、その人にどっぷり依存するのはおかしいこと、、、どこまでいってもその覚者は「私が在る」の登場人物に過ぎないのです。依存するというのはこの体の中の自分と、覚者が別々に存在するという圧倒的誤解の上で成り立ちます、、、ですから上手くいかない、、、ということになります。

(Visited 4 times, 1 visits today)