覚者

ど根性

これが真実じゃないことは分かってる

覚者の書物を読めば、、、これが真実じゃない事は絶対にわかるのです、、、覚者は、、、皆、、同じような雰囲気のことは言っている、、、だから今目の前に広がる世界は実は違うんだと、、、、ここは分かる、、、、だけど、、、、分からない、、、、真実が見えない!!!!ア・ベ・シ

騙し絵みたいなもの

悟りに能力が関係があるか、、、全くない、、、悟りに人格が関係があるか???全くない、、、悟りに愛嬌が関係あるか、、全くない、、、全く何も関係がありません、、、、、在り得ないほどに何も関係がないのです、、、、根性だけです、、、騙し絵を見抜く、、根性だけ、、、、

偽りの世界に閉じ込められるなんて冗談じゃない、、、、これは私の本音でした、、、なぜ偽りの中で死を迎えなくてはならないのか、、、冗談じゃない、、、、仕事???どうでもいい、、、プライベート???どうでもいい、、、とにかくこの偽りの世界から出してくれ、、、、です。今は分かります、、、完璧なタイミングでその理解が自動的に起きたことを、、、、そして世界は完璧なタイミングしかないことも理解できます。焦って解決する問題など皆無です。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

悟り根性論

気づきを根性で起こすことはできないが

悟りを根性で起こすことはできません、、、ですが悟りとは何なのか??これを言葉で理解することは可能です、、、本質は完全に悟っていますから、、その本質である私が悟りを言葉で理解できないわけがない、、、覚者は、、、言葉でしか、、悟りを伝えることができません。。。その声に真剣に向き合います。。この真剣にというのは完全な理解が起きるまで真剣にやるのです。

観念の障害

我々が信じ切っている価値観は観念となり、、、この観念がこのたった一つのエネルギーを裁断します。そして観念を証明するような現実(夢)がこの目の前に現れます、、ゆえにこれが夢かも???ぐらいではこの目の前の現実(夢)に木っ端微塵にやられます。。。超現実的な出来事が嵐のように吹き荒れます。そういう意味で悟りは真剣勝負です、、誰との真剣勝負なのか???観念が作り上げる、、この現実風夢です。

悟りが起きるまで悟り切る

悟れたらいいなー、悟りって最近気になる、、、全然ダメです、、、それではあなたの観念が作り出す現実風夢に木っ端微塵にやられます。。。悟り切る、、そして悟り切るまで手を緩めない、、抵抗が強ければ強いほどにギアを入れる、、、これが夢だ、、、という完全理解が起きるまで、、、徹底的に学びます、、、学ばない方がいい、、こんなメッセージもいっぱい届くでしょう、、完全無視、、そのメッセージは、、、私の観念が送り込んだ使者です。粉砕してください。

思考の産物から脱出するには??

思考の産物から脱出する

じゃあ具体的にどうしたらこの思考の産物の世界から出ることができるのでしょうか???これが思考の産物だと思って最初は生活してみるのです、、思考が瞬時に作りだした、、イメージの世界、概念の世界に居るということを強烈に意識します。。。意識に意識させるのです、、、これが思考の産物であることを、、、すると徐々にそれを経験できます、、、確かに!!が出てきます。。。

経験するまで学ぶ

悟りとは根性です、、、悟りとは忍耐です、、悟りとは根気勝負です、、、つまり感じるまで学び続けるのです、、、どこから入ってもいい、、覚者は其々全く違うことを言っているように感じます、、、、ですがそれはこちらが気付いていないから、、、全く違うように聞こえるという事実だけです、、、全く違うように感じるという階段を登っているのです。先ずは理解が起き、それが絶対的理解になった時にそれを経験する状況が起きます、、すると経験が気づきを起こします。

この携帯がアイフォンだと理解すると

アイフォンを知らない人の世界にはアイフォンは登場しません、、、、この格好良い携帯、、、アイフォンって言うんだ、、、へー、、、、から突然、、、、その人の人生にアイフォンがガンガン登場します、、、悟りも同じ、、悟りってそういうことなんだ、、、、へー。、、、が起きると悟りの体験がガンガン起きる、、、先ずは悟りってそういうことなんだねーへーが起きなくてはならない、、、そこまでは根性です。

どちらが居心地が良いか

自我、無我

覚者は、、、孤独感、不足感、焦燥感、から解放されます、、、この私というイメージ、妄想が、、この物語を作り出し、、、この中に収まっていますと、、、孤独感、不足感、焦燥感が湧き出してきます。この事実を見抜き、、この物語から脱出したのが覚者です。この体は勿論残りますが、、この体の中に私というアイデアがありません、、構って欲しいという衝動も起きないのです。話しかけられた時に、、「私」というアイデアを想像し、、その時は「私」として振る舞います。ですが会話が終われば「私」というアイデアは消滅し、、全体に戻るのです。

体とは無我そのもの

体とは無我の表現、真我の表現そのものです、、、体は自我ではありません、、自我は体が生み出したアイデアです。。。。ですから静かに体と共にあるとき、、無我です、、、体をマッサージして、、緊張を緩めれば、、自然と無我に入れます、、、、マッサージの心地よい感覚、、これを感じているのは無我です、、、そのまま無我としてそこに在る状態になります。

真我が作り出した体、体が作りだした自我

自我とは突き詰めれば真我が作り出した、、真我が体を作り、体が自我を作った、、この自我の存在を実在だといく勘違いが起き、この自我実在ストーリーが作られました、時間という概念も作り、空間という概念も作り、、完全な劇場です。自我はどこまでいっても脳が作りだしたアイデアですからこの事実をしっかりと見つめれば自我は消えます、、自我ありきのストーリーも消えます。

孤独感を幻想と見抜く

私は一体何をやっていたんだろう、、脳が作り出した「私」というアイデア、、脳が作り出した、、分離社会、、この中で私という幻想がこの分離社会を生きるというでっち上げの中で生きていました、、、この体を安全に維持するのが最大の目的です。このことに気づきますと、、孤独感、焦燥感、不足感が湧いてこない、、、なぜならば私とは、、この世界そのもの、、現象そのもの、、大自然そのものです、、私とは脳が作り出した「私」というアイデアではない、、、それは100%。もうアイデアとして生きるのは終わり、、人と接する時だけ、、、「私」というアイデアをでっち上げ、、対応するだけ。

自己というイメージの解体

そもそもは存在しなかった

私とは言葉です、、言葉はその場でイメージを作り出し、、そのイメージがなるで実在するかのように感じることができます、、これが人間の脳が作り出した体平和維持装置です。この体を所有する私という存在を作り上げることで、、、、この体はより安全にこの体を保持できるようになったのです、、体だけじゃない、この私も、、この体に組み込まれ、、、めちゃくちゃ大事な存在になった、、この私は必死になってこの体を守ろうとする、、なぜならば、、、この体の中には「私」が居るのだから。

覚者は「私は居ない」を連呼する

大人になって悟りの本を読んでみる、、、「私は居ない」もうその頃にはすっかり自分というイメージが定着し、、、全く疑いもしない存在に、、、私はがっつりこの体に組みこまれVIP扱いになっています。人間同士はお互いにこの名前がついた「私」を呼び合うまでに、、イメージを共有し最大限強化しています、、、私がいない、、なんて何を言っているのか???です。

私と決着をつける

これだけ強化されたブランドイメージ、、、このイメージが実は実在しないなんて、、どうしたら思えるのか???これをするにはブランド立ち上げから確立までの流れを俯瞰するのが一番、、なぜ我々は名前を呼び合っているのか???そもそも私が居たから、、、名前が付いたのではない、、、名前をつけることで「私」というイメージが誕生したのだ、、、この気づきを得ていくことで、、「私」というイメージに対する関心を薄めていきます。

動くな

自我の動きを止めろ

この私、イメージの私、概念の私はこの物語の世界で、夢の世界で、概念の世界で、、、、動き廻ります、、、そのままでは苦しいからです、そのままでは不足感、渇望感、孤独感が襲ってきますから、、、何かを求めます、、、その何かは「私」には実は分かっていないのですがそれでも求めずにはいられません。これがこの世界に生きることが苦しみをさらに生み出します。悟れば分かります、、この求める動きこそが苦しみを終わらせないことを、、、、ですから覚者は言う「動くな」と、、、、

動いたって無駄

いったい何年間動き続ければ気が済むのか、、、自我に任せて動き続け、、、本当の幸福を得たことはあるのか???という話です。ないはず、、、この地上で横に動き回っても、、思考を動かし続けても絶対に至らない幸福を手に入れるためには、、、先ずは理解することです、、、動いても手に入らないことを。そして今この場所、、、ここに全生命エネルギー、森羅万象の動きがあり、、、それに気づく存在が居る、、この両極の存在が私です。

この夢の動きこそ

この夢、幻想の動きこそが私です、、この夢、幻想の動きを支える場所こそ私です、、、この見かけ上の「私」を生み出す存在こそ私です、、全思考、全感情、全行動を生み出す存在こそ私です、、、全動きが在るから動きのスペースの存在(空)が現れ、、スペース(空)が在るから現象(色)が現れます、、色と空は一つであり、、、それが私です。ここに気づくためには先ずは見かけ上の「私」の動きを止める必要があります、エゴ、自我、自己意識と呼ばれる存在の動きを止めます。

要するにこういうことだよね

大人は子供の悩みを一つ高い位置で解決する

子供に算数を教えることができるのは、、大人は子供がどのポイントで詰まっているかを一つ上の視点から観察し説明できるからです。。。高い位置からその人の行動を観察できなければ人に教えるということはできません。世の中を俯瞰するとはまさにそのことで、、この世界の成り立ちを上から眺めて理解することになります。その最高地点が悟りであり、、悟りとはこの世界がたった一つのエネルギーがただ揺れ動きているのを見抜くことです。

結論は分かっている

悟りを開くとは、、、覚者がその視点で気づいたことを今度はこの見かけ上の「私」がその視点になって体感として気づくことです。。。覚者が伝える「すべては一つだった」を体感できるかが重要になります、、、すべては一つらしい、、ということは、、この思考も、感情も、行動も全部同じエネルギーで、、それゆえ他人の思考も感情も、行動も全部このたった一つのエネルギーが作り出している、、というよりも変化してるだけ、、、それを作り出す存在はこの世界には居るわけがなく、、、ただエネルギーが変化していく様に過ぎない、、、個人が感情、思考を作り出すというのは妄想で、、その妄想がただエネルギー変化で起きた、、、しかしその妄想もいずれ変化する、、、たった一つのエネルギーが作り出している世界であるという気づきが起きることで、、、

言われてみればそうだよね

覚者が話す内容は当初は全く理解できないでしょう、、何を言っているか意味不明、、ですが根気強く学んでいきますと、、、確かにそうだよね、、言われてみればそうだよね、、となっていきます、、、必ず、、なぜならば真実は一つだからです。。。必ず真実にたどり着くことだけは分かっているのです、、、ただしこの自己意識は食べるために発達した機能ですから、、、今食べれているにも関わらず認識を変えたいとは全く思いません。認識を変えたくないという衝動と、、全てを理解して楽になりたいという二つの衝動が同時に起こるため苦しさを伴います。

真我の勘違いを前提にした自動反応=自我

自我という言葉の功罪

自我という言葉をハッキリと理解する、、これはもう悟りの全てです、、、ここが理解できてしまえば、、もう人生は苦しむことができません、、、ですがこの自我、覚者によって説明が曖昧ゆえに、、、混乱を究めます、、、、、そして自我に対応する言葉、、真我、無我があることで益々混乱が起こるわけです。。ここを整理したいと思います。。。

自我は実在はしない

自我という、、、物質はまず完璧に実在しません、、、この体の中に自我があって、、、自我は物質ではない、、、この体の中に「私」という存在が在ってこの私が言動の全てを行っているという勘違いが起き、、その勘違いを元にした全ての反応を自我と呼びます、、、要は人間の発言、行動はほぼ自我そのものです、、これを自我がやっている、、、という表現が出ることで、、、自我という、、実態がないものがまたここで生まれます。。ここが悟りを非常に難しくします。

つまり人間の動きは自我そのもの

あの人の自我が、、、というよりも、、勘違いを前提にしたその動きが自我です、、、悪口を言ったら、、、相手が怒り出した、、、、この動きが自我です、、、全ては真我、根源から言動が自動的に起こっている、、この理解が起きていない、、真我から起こる動き、、これが自我です、、、逆に言えば周囲の見かけ上の人間全ての動きが自我です、、、、自我が居て、、、この表現が混乱を招く気がします。

言葉はイメージ

言葉を覚えることでイメージを共有する

なぜ街をあるけば、、マックがあり、スタバがあり、、吉牛があり、ABCストアがあり、、交差点があり、、信号があり、、車が走り、、、という現象が続くのでしょうか???それは我々がその言葉を覚えたからです。。2、3歳児が生きる世界にはこれらは存在しません、、認識できないのです、、言葉で覚えていないから。。原始人も同じ、、この世界を歩いてもこれらの現象は現れません、、言葉で覚えていないから認識できないのです。視界に入った車を認識するには車という言葉を暗記する必要があるのです、、脳はこれをイメージとして認識に、、このイメージを現象に当てはめることでこれを見ることができます。

言葉を覚えない限り

言葉を全く覚えない、、すると、、2歳児のまま、、この状態で街を歩いても何も認識できない、、車も、横断歩道も、信号も、歩行者も、、、家を出る時に、、パンツも履けない、、靴も履けない、、服も着れない、、となります、、、なぜならばそれらを認識できないからです。。言葉を覚えそれをイメージ化しそのイメージがあるからそれを探し出せるのです。つまり我々は覚えた言葉のイメージを、、この現象界に重ね合わせてそれを「見る」ことができているのです。

だから夢

覚者が言う、、我々は夢を観ている、、というのは本当で、、、この「体」すらもイメージ、、この体の中に「私」がいるもイメージ、、見える世界のイメージを見続けています。この私が居て、私のストーリーがある、、、完全なイメージ、、幻想、、夢です。だからこの世界で私が幸福になる、、というのも完璧なイメージであり、、無理ゲーです、、、、なぜならば幸せになる「私」が実在しないからです。