色即是空

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

経験以外全部嘘

お酒を飲んでいる時

俺はバーでお酒を飲んでいて、、酔っ払って良い気持ちになった、この状況において本当に起こったことは何か???これを五感で説明するとこうなります。俺の体は映像です、俺の体という映像が、、やはりバーという映像の中に入っていき、そのバーと呼ばれる映像の中で、、椅子と呼ばれる映像の上に座り、、その時にお尻の映像の部分に感触がしかっりと確認し、、ウイスキーと呼ばれる液体が入ったグラスを映像で確認する、、その映像グラスをやはり映像の手で触れたところ間違いなく感触があり、、口と呼ばれる映像の中に流し込んだところ、、口の中に感触が確実に在った、そして何かが香ったという経験があり、、、その後に気持ち良いを感じた、、五感を通じた経験が次々に起こり続けていきます。ですが物理空間で物質が在ったということを証明する経験は皆無です。経験以外は何も証明できないのです。バーという場所も、ウイスキーも、グラスも、椅子も実在することは証明できません。

経験は間違いなく在る

自分もバーも、ウイスキーの存在も全く証明できませんが、、、経験は間違いなく証明できます、、そこに嘘はありません。この世界は経験は確実に証明できますが、、物質は全く証明できない世界なのです。覚者がいう「何も無かった」はこのことであり「全部自分(経験)だった」もこのことです。この経験とは誰のものでしょうか、、、自分という物質を証明できない以上、、経験だけがあった、、で終わりです。すると経験=根源ということになります。ですが経験は物質ではありませんから「経験=根源=無」です。空即是色の色で在るこの世界は経験だけがある世界だった、、、だから空(無)でもある。色の中で空を感じることになります。

色(現実)の中で色々やっていたが結局経験しかなかった

色の世界は現象界の世界、、あらゆる物が溢れた世界です。この世界で自分(物質)がこれらの物質に囲まれ人生を謳歌するのがこの人生、、、ですがどうやら経験以外何もない、、物質が実在していない、、、無だった、、、経験は確実に在るがこれを寄せ集めても無は無です。色は所詮幻想で色の中で経験だけをしていたんだ、、というよりも経験だけが在った、、、色即是空、空即是色

全てを自分ごとにする癖

全ては自分に向かって起きている

事実ではこの自分という存在とは何も関係なく現象が起き続けるだけです。自分など何も関係なく現象が起き続けそしてこの自分の体を通じても様々な事象が起き続けます。これを止めることができる存在は居なくただ淡々と事象が起き続けるのです。本当にただこれだけです、風が吹き、太陽が周り、雨が降る、この体も動き、発言もし、思考もする、、これが延々と起き続けています。そこに自分が居るという思考が湧き起こると事象は自分に向かって起きているという思考もまた起きるのです。

今までも自分とは何も関係なく起き続けこれからも起き続ける

これまでの自分人生もこの自分とは何も関係なくあらゆる事件が起き続けました、そしてこれからも同じように起き続けます。その事象を自分に向かって起きていると捉えるが起きるのか、自分など存在せずただ起き続けると捉えるかによって人生の重みが変わってきます。自分に起きたが湧くのか、ただ起きたが湧くのかです。事象に名前というラベルが貼られているこを見抜くと自分というラベルも剥がれ落ちていきます。

自分以外のラベル剥がし

自分というラベルを剥がすのは難しいものです、ですが周囲のラベルを剥がすのは意外と簡単まずはそこからスタートしましょう。雲という決まった物質は存在せず空に薄く広がった白い模様を雲と呼んでいるだけ、川という決まった物質は存在せず陸の間を流れる水を川と呼んでいるだけ、海という特定の物質があるのではなく水が広がる彼方を海と呼んでいるだけ、、、名前が付けられた事象は実は区切りなどなく、、こちらの勝手で区切りらしきものを設け呼んでいるだけ、、この作業を延々と続けそこに自分を付け加えたのが我が人生。

ただ生命現象が広がっている

これまでもそしてこれからも私の目の前にはただ生命現象が広がっていきます。名前というラベルを剥がしてしまえばたった一つの根源が移ろっているだけです。そしてそこに自分という個別の生命体など居るはずがない、、自分というラベルを最後に剥がすと全てになります。色即是空、空即是色があるだけです。こんなことが分かって何になるのか?その疑問が湧くうちは分かっていないだけです。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。

経験自己所有の法則

人間とは経験を自分のモノにしていく生き物

色即是空、この色の世界に実は独立したモノなどありません。この色の世界を構築しているエネルギーはゼロです。ですからこの色の世界はゼロエネルギーで構成されています。ゼロエネルギーがまるで生命が現象しているかのように見せています。だから色なのです。ゼロエネルギーですから例えば鳥が空を飛んでいてもそれを構成しているエネルギーはゼロです。ゼロが集まって鳥に見えている、鳥の感触がある、鳥の泣き声があるだけです。人間はこの色の世界において脳を所有すことでこの体の経験を全部自分のモノとして記憶します。この体が多くの経験を積めば積むほどに自分の経験が増えていくという流れです。これによって色の世界に全く別物の物語が作られました。人間ストーリーです。覚者がこの人間ストーリーのカラクリを発見したときに夢から覚めた感覚だと称するのは人間が勝手にストーリー仕立てにしていたと気づくからです。このストーリーは作り物です。

自分の人生は作りモノ

自分の人生とは作りモノです、なぜならばこの体が経験することを勝手に自分が所有したとしているだけだからです。本当はただ体に経験だけがあります。この経験を脳が記憶して積み重ねてこの自分の歴史だとしたのが人生です。人間の記憶機能がなければただ経験だけがある、そしてその経験は全体の経験です。これを人間が勝手に自分の経験だと言い張り楽しんでいるのです。ですがこの人間勝手経験所有ストーリーは全体が行なっていますからこれは全体の遊び、神の遊びです。遊びは遊びですがまあまあ苦しい遊びですからこの神の悪趣味に付き合う必要はないんです。

経験の全てを全体に戻す

この体の経験を全部この自分のモノにすることもできますし、この体の経験を全て全体のモノにすることもできます。体の中には自分は実はいないので当然です、記憶を起動しなければ経験はそのまま全体の経験になります。音楽が聞こえる、食事が美味しい、お腹が空いた、仕事を辞めたい、、全部全体のからの起こりであり、全体の認識です。自分が所有しなければ。後付けの自分に経験を所有させればエキサイティングで楽しいですが苦しくもあります。自分が欲しがる経験は積めないか、もしくは積んでも直ぐに不足感が襲ってくるからです。

ゼロエネルギーがこの世界を作っている

ゼロはどこまでいってもゼロ

この世界を構成しているエネルギーはゼロです。ゼロエネルギーでこの視界に広がる世界は構築されています。ゼロというエネルギーが様々な形状を作り出しさもこの現実があるかのように見えているのがこの世です。どこまで行ってもゼロはゼロですからこの世は虚像ということになります。ですがこのゼロエネルギーで構築された体が体以外と交わることで経験が生まれます。体を作り出すエネルギーもゼロエネルギー、そして体以外もゼロエネルギー、ということは経験もゼロということになります。どこまで行ってもゼロはゼロです。

色即是空

色即是空、空即是色という言葉があります。空とはゼロです、このゼロが色を生み出しました、色とはイロ(シキ)とと読みますが、、、空がゼロですから色も当然ゼロです。この世界は様々な形態を見せ多様な世界を構築しているように見えますがこれを構築しているエネルギーはゼロです。ということはこの目に見える世界に在るものは全てゼロエネルギーでできています。にも関わらず人間の体(ゼロ)が食べ物(ゼロ)を食べるときに感じる味覚は確実にあります、これは何なのか?ということです。これは大変重要なポイントでして経験は確実に在るのです、経験という形にならないもの(ゼロ)だけは確実に在る世界、これが色(ゼロ)の世界です。

空の世界はゼロ、色の世界は経験(ゼロ)

経験というのは形のない世界(ゼロ)です。これが色の世界の正体です。我々は間違いなく形状を持っています、ですがこの形状はゼロエネルギーでできています。この私の体は確実に在るように見えます(色)そしてこの体は確実にあらゆる経験を積むことができます、、、ですがこの経験とは証拠を出せないモノ(ゼロ)だということです。我々は経験を積んでいるからこそこの体の存在に疑いを持ちませんが、、、この体の存在証明を経験(ゼロ)に委ねているというところが面白いところです。

神はなぜこんな夢を作ったのか?

神のこの悪趣味はなぜ起きたのか?

これは夢です、神が見る夢です。色即是空、空即是色という言葉が般若心経というお経にありますが空が神、色が夢です。これは夢ですがなぜこんな夢を神が作ったのか?ということになります。結論から言えば完璧、安堵、平和そのものである神が違う形で完璧、安堵、平和を体験したかったということになります。いやいや、この夢において完璧、安堵、平和などどこにあるのか?どこを探しても不安、危機、戦争、争い、災害しかないではないか?ということになります。そんなことはありません。不安を解消できた時、危機を克服できた時、戦争を回避できた時、争いを解消できた時、、、その一瞬それが訪れます。そうです、この夢は神が一時的神を人間を使って体験するという機会なのです。

神は神ゆえに神を体験できない

神は神ゆえに神の偉大さを知りません。そこで神はこの夢を作り人間を創造しそれに成り切ることで縮小体験、極弱体験、弱小体験をしたわけです。全知全能の神が無知無能の人間になってこの夢物語を逞しく生きるという夢を設定しました。人間は神に比べて最弱であるがゆえに神は不足感の塊、フラストレーションの塊になります。人間とは基本ストレス塗れなのです、だからこそ幸福になりたい、成功したい、豊かでありたい、人気者でありたい、、、と無限の欲求が湧いてきます。そんな神は何かを達成した瞬間だけは神に戻れます、目標を達成した瞬間自身は人間であるという意識がなくなり神になります。こうして人間は目標を達成していきなりながら神という感覚を思い出していくのです。人間に扮した神は徐々に神にであることを思い出していきます。

神→人間→神

人間という独立した存在がこの夢には実在しません。夢の中に実在した存在は皆無です。ですから今見ている現実とは全てが幻想です、この体も全部幻想です。夢ですから。ただし神というものが人間こそを自分自身と勘違いしている、このことは事実です。これは錯覚ではありますが紛れもない事実です。神は人間になりきってこの夢物語を堪能しているのです。夢物語は夢ですから全ては幻想ですがこの体験は事実です、神はこの体験を経験することで再び神に戻るのです。