至福

体で覚醒する

体だけが真実を知っている

この幻想の世界の中で唯一真実に触れることができるのが、、からだです、、、体だけがこの真実を掴むことができます、、この世界は幻想の世界ですから、、、そこで起こる現象には実は意味がありません。。。無限の現象が起きるだけです、、、意味はないのですが、、、この無限の現象をただ感じているだけで本当は我々は至福に居るはずなのです、、、目の前に至福(現象)が揺れ動いているのですから、、、ですがなぜかこれが退屈に感じる、、、なぜ????五感が鈍っているのです。

五感が鈍ると、、、

五感が鈍ると、、、真実に触れているようで触れていない状態になります、、、借金1億円をしてしまった、、、その時にコーヒーを美味しいと思えるか????恐らく頭は思考でグルグルになり、、全く味を感じれないはずです、、、これが人生においてなっているのです。。。思考に乗っ取られ、、五感が全く働かない状態に陥っているのです。

五感を覚醒させる

五感を覚醒させていきますと、、、ただそこに居るだけで気持ちが良い、、、が起きます、、、なぜならば感じているからです、、真実を、、、そこを追求します、、、、思考という刺激物に頼らなくなります、、、思考よりも、、より体を覚醒しようという動きが起きます、、、ヨガ、ストレッチ、水泳、、、なんでもいいのですが五感を開いていきます、、、そして本当に開ききったと時に、、、思考という罠、マジック、妄想が邪魔になってきます、、その先の真実に触れたくなります、、、これが悟りへの誘いです。

悟りに興味がでる

悟りに興味が出るのは、、、、感じているからです、、真実を、、、真実を感じているから、、、もっと真実を知りたいが起きるのです、、、この衝動は、、、真実に触れていないと起きません、、、真実が誘ってくるのです、、、ここに真実があると、、、ここで思考を使ってもダメです、、、思考とは真実を隠すものだからです、、、思考に入らずに、、、体をより覚醒させていくのです、、、感じる力をマックスにしていきます。

生き辛さという救い

実は救い

生き辛いというのは実は救いです、、、今まあまあ幸せな生活をしているという実感は悟りを遠ざけます、、、快適よりも不快な生活の方が真剣に悟りを求めるからです。見かけ上の私は25歳ぐらいに悟り以外に道はないことを悟りました、、そこに気付けたのは苦しみ以外にありません。そこからの苦しみの全部は、、悟っていないから当然というどこか他人事のような苦しみに変わりました。

全ては悟りが解決する

私は全幸福の術は悟りしかないことを20代で悟りました。その結果、、、あらゆる苦しみの出来事を悟りのせいにできたのです、、、全苦しみは悟っていないから、、、、これは大成功であると同時に悟りへの衝動を維持できたのです。悟以外に解決はない、、、これは間違いのない事実です。どんな成功者も、、悟っていなければ確実に苦しんでいます、、むしろ手に入れた後の苦しみに毎日追い詰められているはずです。

ベクトルがまるで違う

何かを達成したり手に入れることでは人は絶対に幸福にはなれない、、、これが悟りです、、そして次の段階に至ると、、個人がそもそも居ないのですからこの個人を幸福にすることが実は不可能だったという気づきを得ます。個人とは、、実は錯覚で、実在していない、、、むしろこの錯覚を作り出す大元の存在、、それがこの私だ、、、そして見える全ては錯覚であり、、錯覚の中で経験だけがエンドレスに続く、、この経験だけは間違いのない真実、、この経験を寄せ集め、、、集積したものが空、神、絶対と呼ばれる無限の不在です。我々はこの無限の不在の鏡を今見ています。そして鏡に写った景色の中にこの体も現れ、、これを私と誤解しながら生きてきたのです。

見える世界が究極の現実に見えるのは、、

見える世界は究極に現実に見えます、、それもそのはずこの映像は無限の不在の姿だからです、、、無限です、、無限が映像化されているのですから、、、その緻密さは無限なのです、、、細胞はどこまでも細かく解剖できます、、無限の現れですから、、、知り合いを作ろおうと思えば無限にできるでしょう、、無限の鏡ですから、、、何もかもが無限、、、それがこの宇宙が無限である証拠です。

今この場所

今この場所が無限の現れです、、、つまりこの場所以外に何かを求めても無駄なのです、、、この場所で至福に至れなければ、、次の場所でも至れない、、、ということが自然と分かる、、ですがこの場所に縛られる意味も全く無い、、、場所とはどこも無限の現れ、、、このことが分かると、、人生の目的はこの私の欲望追求ではなく私の追求に変わります、、私とは誰だ???の追求です。

自動反応を観察する瞑想

全ては自動反応

縁起、因果、、、仏教では現象の仕組みをこの二つの言葉で表現します、、自動反応、自動プログラミング、、なんでもいいのですが我々の行動、思考、感情の全ては自動反応で起き続けていきます、、、本当に絶え間なく起き続ける、、、これをコントロールできる個人は実在しません。ですから生まれて死ぬまで、、、この活動がひたすらに起き続けて死ぬのです、、、完全自動現象システムです。

これをただ観察する

完全自動オートメーションシステムならば我々は何をすればいいのでしょうか???ただ観察します、、、ことの起こりを観察します、、、何を経験し、何を思い、何を行動するかを観察すればいいのです、、、瞑想です、、、圧倒的他者になってこの動きを見守ります、、、するとそこに静寂が広がります、至福が広がります、明晰が広がります、、、観察者ですから湧いてくる思考をどう処理するかが湧いてきません、、、怒りに対し、孤独に対し、どうするかが湧いてこなくなります、、、思考、感情のラリーが止まるのです。

二日酔い、、、

二日酔い、、多くの方は反省します、、、なぜ飲みすぎてしまったのか???あそこで止めておけば、、、違うんです、、、二日酔いが起きた!!!で終わり、、、そういう自動反応が起きた、、、で終わり、、、、また観察者に戻ります、、、自動反応を見守る存在として経験だけを感じていきます、、、24時間瞑想状態、、この状態が至福、静寂、平和です。。。。そしてそのうちに観察者でもなくなります、、、

委ねる

本当の美しさとは

本当の美しさとは、、委ね切った動きです、、全体に、森羅万象に委ね切った動きこそが美しい動きなのです、、そこには計算がなく皮算用がなく、、動きに任せる動きが起こります、、、自我は計算に継ぐ計算、皮算用に次ぐ皮算用、小賢しさに次ぐ小賢しさ、、これしかない、、、全く美しくない、、、

委ねるには

委ねるには、、、真実を知ることです、、、真実に照準を定め、、真実を手放さないことです、、ギュッと握って、、、手放さない、、、そこにしか至福、静寂、平和がないことを悟ることです、、、この現実社会が100パーセント実在しないのは分かっているのです、、「モノがある」という感覚は100%錯覚なのは分かっているのです、、、なぜならば、、、理屈上ありえないから。

だとすれば

私など絶対に居ないことはわかり切っているのです、、だとすればこの全てが自分でしかない、、そこにしか可能性はない、、その感覚でこの世界を見渡します、、「在る」という感覚が間違いなくあり、、この感覚だけが真実、、、それ以外は全て錯覚、、エネルギーの現れに過ぎないことを悟ります、、その時にこの世界は完全無欠であることに気づきます、、、何も問題など起きたことがなく、、、これからも起きないことが分かります。

全員が病気

人間は病気

気を病むことを病気と言うならば、、人間は全員が病気でしょう、、、なぜならば真実ではないことを真実だと勘違いている状態が人間ですから。本来はHUMAN BEING 人間という形をとった存在、、ですから病気ではありません。ですが現実は、、、HUMANのみ、、、誰しも病気です。

意識がこの私物語に夢中になる

我々の本来の存在「意識」が私物語に夢中になっている状態、、これが現実と呼ばれる世界です。夢中とはまさに言い得て妙、、そのままです。意識が私物語に夢中になって夢の中に居ます。。。。このまま、、、夢中になって何がまずい、、、、まずくはない、、、ですが、、、、ちびまる子ちゃんになりきった子供はTV画面を見ながら、、至福に浸ることはないでしょう、、、なぜならば、、、ちびまる子ちゃんは実在しないために、、まるちゃんがどんなにアニメの中で人気者になっても至福感が継続しないのです、、毎回毎回、、まるちゃんに良いことが起き続けても、、退屈に苦しむでしょう。。。まるちゃんに良いことが起き続けたら子供は飽きてTVを切るでしょう、、なぜか???まるちゃんではないから、、まるちゃんに良いことが起き続ける=至福にはならないからです。つまりこの人間の体を自分だと勘違いしている間は、、10億円の宝くじに当たっても幸福になれないのです、、つまり人間はないからです、、、本当は。

TVを見るとは、、、

TVを観るとは実は、、、人間が見ているのではありません、、、人間は実在しないのでTVを観ることはできません、、本当は「意識』が中の丸ちゃんを自分だと勘違いするが起き、まるちゃんに意識がフォーカスしたのです。。人間にフォーカスが当たっていた意識が、、、まるちゃんに意識がシフトしたのです。。ただそれだけです。。そしてTVを見ていてもやはり至福にはなれないのです。。。TV番組を見終わって、、その楽しさが継続することはあり得ないのです。

意識が意識に意識する

悟りとはこれです「意識が意識に意識する」この状態です。。。意識が人間に意識するのではなく、、意識が意識そのものを意識するのです、、、、これが悟りの状態、、、人間というカゴに意識が向かず、、意識が意識そのものにフォーカスが行く状態、、、これで完璧です、、、意識が人間に意識しなくなりますと、、、至福に浸れます、、、いつでも静寂に包まれます、、、いつも平和です、、なぜならばこの現象はただ意識の中で起こり、気づきが起こり、、、それに気づく存在がいて、、、をただ繰り返す完璧なアートだからです。

何を焦って成し遂げることがあるのか??

究極の安らぎ

今ここに究極の安らぎがあって、、、何を一体焦って叶えることがあるというのでしょうか???今ここに完全な至福があるのに、、、なぜ焦って何かを掴もうとするのでしょうか????これは完全なジョークです、、、人間は脳が進化することで、、その脳が言葉を生み出し、、言葉がイメージ、幻想を作り出し、、、その言葉を絶対的なものであると信じたことから、、、我々は幻想に閉じ込められました。。。。この幻想の中でなんとか幸福になろうともがくのが我々の本質です。

言葉を盲信しない

小説では、、、妄想で10人以上を作り上げ、、、楽しむ、、、、小説を人間が楽しめるのはイメージ力、、、これしかありません、、、このイメージ力が、、、、今目の前の現象にそのまま加わります、、、何かを見れば、、その物には名前がありますから、、、名前に不可されたイメージ、意味ががっつり加わります、、、目の前の現象が、、しっかり意味のある現象に切り替わるのです。。。だから全く同じような現象が起きても全く異なった意味が生じ、、、全く異なった感情が生まれるのです。

そして意味を選べない

ではその意味をハッピーな意味に変えちゃえば、、、全部が全部ハッピーになりますよね、、、、となりますがそうではないのです、、、、この世界において、、個人は幻想で居ません、、ですから意味をコントロールできる個人が実在しないのです、、、勝手に思考、感情、行動が湧き上がりますから、、、、どういう意味が付くかは、、、完全に非コントロール状態です。

我々ができることは、、、

つまり、、だからといってこの我々は能動的に意味づけを変えるなど不可能なのです、、、、できることは、、、、この事実に気づくだけです、、、この事実、、、この事実に触れて、、、今この「私」を取り込む状況を確認するしかありません、、、するとこの環境を変えなくては、この状況を変えてやる、、なんとか這い上がってやる、、、、みたいな思考、感情が湧かなくなっていき、、、観念が崩れてきます、、、、言葉が作りだした幻想が緩んでいきます。

至福が至福になろうとは思はない

既に至福であれば

幸せになりたい、、、これは不可能です、、なぜならば、、なりたいのが自分だからです。幸せは幸せになりたいとは思いません、、平和は平和になろうとは思いません、歓喜は歓喜になろうとは思いません、、静寂は静寂になろうとは思いません、、、つまり、、、自分とは絶対にこれらになれない存在なのです。

そもそも違うから

自分はなぜ幸福に憧れるのでしょうか???幸福になれないことを絶対的に知っているからです。知っているから憧れるのです、、、そもそも幸福であればそこを目指さない、、ではなぜこの自分は幸福ではなくなってしまったのか???もしくは幸福でない時間を過ごすことがあるのか???それは自分という存在こそが幸福から逸脱させたからです。全く存在しない自分という自我を形成し、、自分が全てを決めているという観念を作り出し、、そのストーリーを生きるという物語を想像し続けています。この行為が幸福、至福、平和を遠ざけているのです。

逆に言えば

自分という存在を信じる以外に不幸、孤独、悲しみ、鬱になることができません、、自分を信じることでしかこの感情を味わうことができません、、、不幸、孤独、焦り、憂鬱を味わいたければ、、、自分という存在が居ると信じることです。。悟りとは苦しい感情を味わうための唯一の存在「自分」が実は居ないことに気づくことです。「自分が居る」という洗脳を解き、、この世界から自分を解放することなのです。

全感情を神が回収しているならば

個人が一瞬の楽しいを追求する価値ってあるのか??

全感情は神が回収します、、、すると、、、個人は何も回収していない、、個人は楽しい、嬉しい、を感じることができない、、、個人は思います、、、毎週楽しいを感じなきゃと、、、これは無意味、、、なぜならば楽しいは、、、神が回収しています、、、、個人は人生楽しまなきゃ、、と考えます、、、ですが個人は感じてません、、、そして感情を所有できない、、、、個人が楽しいを追いかけると辛くなるのは、、、一瞬だからです楽しいは、、、、、そしてその楽しいも、、、神が回収します。

なぜ楽しいは一瞬で消えるのか???

楽しいが一瞬で消える理由は、、、この体にとって不必要だからです、、、私とはこの体を安全維持するために作られたイメージであって、、この私はそのために存在しています、、、ゆえにこの私が楽しみ続ける価値が、、体にないのです。。。私はこの私を一生懸命大切にして、、、くれればいい、、、楽しみ過ぎて食べるのを忘れる、、、これは体にとってデメリットです、、、それはさせない、、、、「私」という存在がイメージとして鮮明にある限り、、、「私」は体のために利用され続けます。

体に利用されまくりの「私」

今回の旅行は楽しかったねーーーまた頑張って仕事して旅行に行こうねー、、、、完全に体に利用されています、、、次の楽しいのために頑張って働こう、、、体に利用されています、、、、楽しいを「私」が追い求めると体に利用されます。「私」を生きるとは、、脳が作り出した「私」というイメージに意識が意識を向けている状態です、、そして脳が言葉で分離の世界を作り出し、、、、神をイメージの世界に押し込んだ、、、だから至福そのものの神が、、、一瞬の楽しいしか回収できないのです。体が神を体の中に閉じ込めた状態です。

思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。