自由意志

悟ったのは俺だ!!!

最も辛い時期

どの業界でもトップを取った人間が必ず陥るのがこれです!!!!悟ったのは俺だ、、、です。サッカー、野球、芸能界、モデル、役者、、、、、全分野で極めた人は悟った人は、、、「俺が悟った」という精神状態に陥ります。悟った瞬間に俺が悟った!!!という思考の渦が立ち込め、、強引に俺ストーリーを維持されます。サッカーを悟り、、次に悟りを悟られてしまったら、、自我は消滅します。ゆえに自我システムが維持されるもっとも強力な動きが起こるのです。悟りとはこの「自分」という存在を嘘と見抜くことですがそこに至っていないところ(弱点)が完全に狙われるのです。

常に不愉快

全盛期のイチロー選手、中田英寿選手、ビートたけし、松本人志、、、、恐らく全員が現場でピリピリしていたはずです。なぜか????悟ったのは俺だ!!!!病です。悟ったのは俺だぞ!!!がガンガン湧いてきます、、そしてこれは苦しいんです。。しんどいんです。自己実現をしたらそのまま自己超越にシフトできれば悟りは完成ですが、、そうは問屋が卸しません。自己実現をした俺様、、がガンガン湧き上がり、、苦しむのです。

俺の嘘

悟るというのは何かの分野を完全に理解するという意味ですが、、、何かの分野を完全に理解したならば、、次は真実を完全に理解しよう、、に移るのが健全です。ですがそうはいかない、、これを成し遂げた私体験をさせられることがほとんどです。ですが本当は成し遂げた私すらも神の経験でしかなく、、その経験者は神です。神によって勝手にある分野の悟りが起こり、、それを成し遂げた私を体験されられているのです。そのことに気づくと急に笑ってしまいます。なんだ、、、、勝手に全部やらされていたんだと。

自由意志すらもない

全員が全員俺様になるのは、、自由意志があってそれを行使する俺が居ると信じているからです。ですが実際は行動、思考が勝手に起こり、、その経験者も「俺」ではなく神です、、、全部神が経験してきたのです。神から勝手に起こった言動を神が経験していたんです。それを全部俺がやってきたという勘違いが起こりそれすらも神が経験していたんです。どこに「俺」はいるんでしょうか?????いないんですよ。

感じるのはゲーム

マリオは何一つ感じていない

このゲーム内でのマリオの行動の全てを感じているのはゲームです。スーパマリオというソフトが感じています、全てをです。マリオが感じていたとされる痛み、思考、感情の全てをソフトが感じているんです。ではマリオは何を感じているのか???感じていません、何もかもを。今までこのマリオが体験し、マリオが自由意志を発揮し、マリオが勝ち取ってきたと「思っていた」だけです。その体験の全てはソフトが感じていたんです。

今回の勝利をあなたはどう感じますか???

クッパに勝利したマリオはインタビュアーにこう聞かれました『今回の勝因は???』やっぱり日頃の鍛錬ですね、、前回負けた時に辛い気持ちを味わったんで、、、」、、、、、残念!!!!マリオは嘘を今ついたんです、、味わったのはソフトです。そしてこのインタビュアーの質問を感じたのもソフトです。そしてマリオの発言に、、うんうん、、と相槌を打っているこの女性も、、ソフトが感じています。

コミュニケーションのギャグ

友人との会話、、全部の話を感じているのはソフトです。マリオが話しかける内容を感じたのはクッパでもルイージでもありません、ソフトです。そしてマリオが話す時、、それを感じたのもソフトです。誰一人「感じる」はできないのです。マリオがクッパを目撃しました、、それを感じたのはソフトです。そろそろ分かってきあしたかね????私たちは今までこの体が感じその体の中に自分が居ると信じてきましたが、、実は全部ソフトがやっていたんです。このソフトを空、神、真我などと呼びます。

慈しみ

慈しみとは

慈しむという言葉は悟りを非常にうまく表現しています。慈愛の慈です。この世界が空の現れで今起こっている全現象は、、空から起こっています。この体もあの体も全部空から起こり、、空によって気づかれます。つまり全体は全く同じ場所から出現しているのです。そして気づきも全く同じ場所で起こることから、、、私の体とあの人の体には何の差もないのです。このことを本当に理解できますと「慈しみ」という感情が湧いてきます。対象への愛ではなく、、起こった現象に対して愛が起こるのです。

取引の愛ではない

私たちは、、どうしても見返りを期待しての愛を所有しがちです。この見返りを期待しての愛は間違いなく「この体」へのメリットを期待した愛です。ですが慈愛は、、、、存在そのものが現れてくれたことに対しての愛です。私がこんな形で表現してくれたんだ、、、という愛です。ですからこの体に対してどう反応するかはどうでもいいのです。

実は苦しい

見返りを期待しての愛がなぜ苦しいかと言えば、、、この世界にはコントロールできるのはこの体思考だけであり、、他は全部自分以外、、、この恐ろしく貧しい感覚こそが、、作り出すのです。発想が貧しすぎて、、苦しから、、、見返りを期待した愛を求めるのです。本当は何一つこの体には気づきがなく、自由意志もなく、、だから私など居ないのですが、、、大きな大きな勘違いが起こってしまったことで慈愛が消えたのです。全システムを理解しますと、、、全存在は全く完全なノーコントロールで出現し、、自我すらも勝手に湧き上がります。

一日中面白いことを考える????

不可能

毎日を究極的にハッピーに生きたいなら、、、ひたすら面白いことを考えればいいですよね????できますか????できません。なぜできないのか?????自由意志があるならば、、、一日中面白いことを考えればいいじゃないですか。。。。。お笑い芸人は、、一日中面白いことを考える能力がありますよね。。。なぜできないのでしょうか????それは自由意志がないからです。

どこからが自由意思でどこからが不自由意思なのか????

自由意志があると思うならば、、どこからどこまでが自由意思でしょうか????旅行の計画は自由意志で、、友人との会話の反応は不自由意志、、、明確な範囲はあるのでしょうか?????イギリスに行こう!!!!この思考は、、、どうやって湧かしたのでしょうか????はたして全200カ国の中から本当にチョイスしているでしょうか???もしもイギリスとフランスの二択だったならば、、その二つをどうやって選択したんでしょうか????間違いなく勝手に二つが湧いてきて、、勝手にイギリスに絞っていますよね???

昨日は彼のことばかり考えちゃって、、、

最近連絡とってない、、彼のことを昨日は一晩中考えちゃって、、、、辛かったなーーー。。。なぜ自由意志があるにも関わらずこんなことが起きるのでしょうか????自由意志がないからに決まっています。つまり、私たちは、、、、勝手に湧いてくる思考を「自由意思」と呼んでいるのです。そしてさらにその自由意志を管理運営しているのを「私」と呼びます。ですが自由意志がない時点で管理する「私」も崩れます。

吉本新喜劇

いまここ

いまここは完全に吉本新喜劇です、スクリーンがあってその中で現象がまさに今ここに現れています。スクリーンの中にこの体も現れ、、他人も現れ、、消えていきます。この体が主人ではなく、、このスクリーンこそが主人です。この主人の中にこの体という役、相手役、様々な人間が現れては消えていきます。そしてこれらの人々は、、勝手に動き、勝手に活動します。そしてまさかのこの体も勝手に思考し勝手に動いています。これが真実です。にも関わらず、、、自由意志があると思っているから、、この体に関心が異常に湧くのです。

全員に自由意志はない

吉本新喜劇の芸人さんに自由意志がないように、、このスクリーン上の人々にも自由意志は全くありません。ですから彼らをコントロールしようという試みは無駄に終わるでしょう。そして自分をコントロールできるという試みも無駄に終わるでしょう。完全に自動反応がただ起こり続けるのです。そういう意味では吉本新喜劇と何も変わらないのです、、、でその吉本新喜劇はお気楽で楽しいですよね????そうです、その目線でこのドラマを眺めるとお気楽で楽しいのです。

なぜ感情を感じれるのか????

吉本新喜劇では、、、芸人の感情を代わりにこちらが味わうことができません。ですがこのスクリーン上では、、この体から起こる感情思考をスクリーンが拾い感じます。「私」が拾ってはいませんよ、スクリーンが拾って感じているんです。それをこの体が感じている、、という大誤解が起こり、、、この「私」は深刻になるのです。本当はスクリーンが全部拾っているのです。スクリーンが拾えない思考、感情はあるわけがないのです。

空(絶対)が進化する????

なわけない

空とは完全完璧無限です、、既に完璧なので、、空が気づく、空が進化する、空が発展する、、、などの動きが全くありません。そして「どこか」に在ることもなく進化するという時間ありきの存在でもありません。時間もなく動きもなく空間にも存在しない存在です。でも確実に在るのです。完全無欠で進化も退化もしない存在の中に、、、自身は無限の存在で在ると自覚する部分が存在し、、それが神、大いなる存在と呼ばれる存在です。ここには意識がしっかりとあり、、その意識の中に全現象が起こるのです。

無限の存在で在るという自覚が空を感じさせる

無限の存在であるという自覚は、、空の中で起こるので、、この自覚は空を引き寄せます。空に関心が起こるのです、、それはそのはず無限であるという自覚が空の中だからです。空との接点はこの近くの中で起こるのです。無限の存在であるという自覚を作るその場所こそが空です、、だから空を感じるわけです。ではどうしたら無限の存在であるという自覚を持つことができるのか????それは観察力です、、本当に自由意志ってないよね、、本当に自分って居ないよね、、、という実感は感じる以外にありません。この感じる力をつけていき真実に触れることができる状態を目指します。

自由意志がないことを自覚する

自由意志を手放し、、自由意志がないことを自覚すると、、、本当に楽なです。。楽すぎてびっくりします、、この楽は何なのか??????なぜこんなに楽なのか?????を考察しますと、、、そうだ、、真実だからだ、、、という気づきが起こるんです。本当に自分って居ないよね、、、の後にくるこの安堵感、、、なんだ????これは????そうか、、、真実だからだ。。という実感です。その時、、もう焦ってこれをしなきゃ、あれをしなきゃがないんです、そこに気づきます。これが全体として生きるということです。

全体として生きる

全体としていまここに居ます、、全体が主語で、、、全体の中で自分も起こり、現象が起こり、感情が起こり、、が続きます。全ては気づかれる現象として起こるだけ、、、私も起こり、体験されるが起こるのです。主語のない経験だけが起こり続け、、その後に「私」が思考されそれが体験される。。。この全体の起こりをただ観察します。本当にそこには自分も自由意志がないことも確認されます。全体だという自覚が芽生え、、空を感じるが起こり始めます。

神は空の一部

神とは無限全知全能であることを自覚する存在

空は不変の存在なので、、、空が何かに気づく、、空が改心する、、空に悟りが起こる、、、はありません。空は最初から絶対的存在であり、、空には進化はないのです。一方神は全知全能であることを自覚する存在です、、、そして鏡に写った自身の姿を見て、、、全知全能無限である、、という自覚を持つ存在です。神は空の一部であり、、鏡も空の一部です。

空には動きがない

この現象界は「不変の自己」ではなく「変の自己」です。常に動きがあります、、止まっている存在はなく、、全部が動いています。そしてそれを自覚できるのは、、、自身が「不変の自己」だからです。動きを動きと気付くのは、、自身が非動だからです。神が全知全能無限あることを自覚できるのは、、非自覚の存在があるからです。非自覚の存在なしに自覚は起こらないのです。

動きもなく自覚もない

自由意志もなく自分も居ないという気づきが起きますと、、、今ここは神そのものの遊戯の場所であることがわかります。今ここは神、無限の現れそのままです。そしていまこことしてこの現象を認識するという段階に入ります。私なくして、、、そのままに現象を観察するという段階に入ります。ではこの現象、神の現れ、、はどこで起きているのか????という疑問が起こるのです。それが不動、非光、非気づき、非自覚、非スペース、非時間、非色、、、で起こっているという空の気づきに繋がります。

湧いてくる思考を「自由意思」と呼んだ

今日靴を買おう

朝起きて突然閃きます「そういえば靴買おうかな」休みの日ってだいたいこんな感じですよね????そういえば「食料買いこんでおこう」みたいな、、、、急に閃きますよね?????「あの友達最近何やってんだろう???」です。この閃き、思いつき、、これを人は自由意志と呼んでいます。そして周囲からオシャレな靴持ってるね!!!と言われれば昨日靴買いに行ってさ!となるんです。ですが真実は閃きに沿ってその行動が起きたのです。

閃きを「自分」が所有する

全部が全部閃きに沿って行動し、閃きを口にしているだけなのに、、、そこには「自分」という存在が居てその自分がその思考、行動、発言を決めているという誤認識が生まれているのです。だからなぜ私はそんなことを言ってしまったんだ???なぜ私はあんなことやっちゃったんだ????なぜ????なぜ????となるんです。これが人生の苦しみを作るのです。真実は「ただそれが閃き、ただそれが起きた、ただそれが口から発せられた」です。

雑念を払う呼吸法

思考に意識が意識している時、、、雑念が止まりません。この状態が苦しくてしんどいからパチンコ、麻雀、競馬各種ギャンブルがあるんです。この状態がしんどいかから飲酒、タバコ、美味しい料理、嗜好品の数々があるのです。この状態が苦しいからスポーツがあるのです。全部が全部雑念を払ってくれるツールです。このメカニズムを理解できますと何かに頼ることなく意図してこれを「払うこと」ができるようになります、それが呼吸法です。意識を思考ではなく呼吸に意識します。意識を呼吸を通じて体全体を意識させます。思考にへばり付いた意識を剥がし体全体に意識を意識させるのです。体は実は既に悟っています、その悟っている体に意識を意識させるのです。

「自由意志がない」気楽さ

所詮は他人事

自分の行動は自分が背負うべし、、、この考え方がどれほどこの人生を重いものにするかということです。自由意志がないという諦めはこの重さを一気に軽くしてくれます。自由意志って本当にないんです、なぜならば思いつく思考は完全に湧いてきていて、、その湧かすをコントロールできる自我など存在しないからです。過去のデータからもっともベストな回答が勝手に湧いてきて勝手にその通りに動くのが我々なのです。

他人の行動

他人がいかに失敗してもそのことで夜寝れないってないんです。なぜならばこちらには全く責任がないからですよね。自分の行動は自分でコントロールできると信じているから、、自分に起きる出来事に深刻になれるのです。ですがこの自分の行動は全くもってノーコントロールであることが分かると一気に深刻さが消えるんです。だって他人の行動と全く同じじゃないですか。

究極の教え

自分の人生を他人事のように捉えることができますと、、、人生の辛さってほぼないんです。だって他人のことでそれほど悩みませんよね??????つまりもうこれからは悩む必要が全くなくなるんです。自由意志がないというこの真実は人生から深刻さを完全に無くします。同時に過度な期待もなくなるのですがそれが最高なんです、本当はこんな暮らしができたはずなのに、、、がないんです。

呼吸法

これほどの真実が理解できたとて、、思考の渦はなくなることがありません。なぜならば意識が思考を意識している期間があまりにも長いからです。ですから意図的に意識を思考から外す必要があるのです。そのために有効なのが呼吸法、、、呼吸に意識を意識することでその瞬間思考から意識が抜けます、、意識が思考ではなく呼吸に意識を向けるのです。これを1日に何度も行います、思考が湧いたら呼吸法、思考が湧いたら呼吸法です。意志が自動的に思考に意識しなくなるまでこれを行いますと、、、苦しみが消えます。

全員が最短最速で悟りに向かっている

犯罪者も成功者も

犯罪者も成功者も全く同じように最短最速で悟りに向かっています。最短最速以外の道が用意されていないのです。なぜならば人間はデータ上ベストな選択しか選択できないという自由意志に支配されて行動していますので毎日毎日それに則って経験をさせられているのです。つまりそこには実は主体性は一切なく完全な受け身です。犯罪者ですらもそのような法則に則って経験をさせられています。だから重要なこと、、人の行動を判断するのは無駄です、そして自分の行動を判断するのも実は無駄です。

経験の先にあるもの

この私、自分が居るという想定の動きの中にいる時、、、苦しみ、緊張、孤独が必ず伴います。ですからそこから逃げようとする動きが必ず起こります、、、それが私前提で動く場合、、実はこの苦しみがなくなることはありません。そのことに気づくまで最短最速であらゆる経験を積まされるのです。全観念(思い込み)が観念(お見込み)であることが分かるまでこれは続きます。そして最後にこの体の中に私が居るという観念(思い込み)が落ちるのです。そこが分かるまで最短最速で人は経験を積まされます。

初心者は9面には行けない

スーパーマリオは初心者がいきなり9ステージまで進むことはないです。必ずその人のスキルにおいてギリギリのところ、ステージで止まり、、そこでの右往左往が起こります。これは人間も同じ、、その人の気づきステージのレベルで右往左往が起こるのです。経験をがっつりさせられます、、ですから全くもって無駄はなく、、完璧な配分でこの経験は進むのです。ラスボス「私」が徐々に徐々に近づいていきます。

後悔する心配するも罠

自由意志ががっつりある、、、、こう信じるステージが着実にあります。このステージでは後悔、心配を繰り返しまくるのですが、、それこそが最短最速で起こるのです。全く無駄はありません、、マリオに熱中しマリオに成り切るのがベストな時期があるのです。その時は人一倍心配し、後悔するのがベストなのです。我々はデータ上ベストな選択しか起こせないように設定されていますから何も心配せずに、、心配後悔を繰り返せばいいのです。