自我

海であることを忘れた波は恐怖心が強い

恐怖心とは自身を消滅させようとする動きに関しての拒否反応

海であることを忘れた波は恐怖心の塊です。本来海であるにも関わらず自身を独立した波と言い張る波にとってその理論が実は破綻していることを自らが分かっています。本来が独立した波などは存在せず海が形を変容しただけでどこまでいっても波は海です。波という名称は海の一部を表現しただけで波という独立した存在は地球上に存在しません。だからこそこの思い込みは非常に苦しい思い込みなのです。つまり突っ込みどころ満載、叩けば埃が山ほど出てきます。叩けば埃しかありません。そのため自身(自我)にとって存在を危ぶむ存在が全て恐怖となるのです。

波は自身を拒否したり非難する人間に過剰に反応する

波を非難するということ自体が理論が破綻しているのですが、非難された波は異常な反応を示します。相手(波)を憎み、怒り、もしくは非常に落ち込む。この反応が引き起こされる本当の理由とは自身の存在(波)こそが嘘だからです。嘘であることをしっかりと理解している自我は嘘を見破られることに異常なまでの過剰反応を起こすのです。表層の過剰反応にが実はそういった裏事情があるのです。詐欺師を追い詰めた時に過剰な拒否反応を示すのと同じで嘘を暴こうとする時に相手が反応するのは当然なのです。波は自身を非難する波を過剰に恨むことで逆に自我を強めたりもします。

なぜここまで怒りが湧いてくるのか

海であることを忘れた波は非難されることに過剰に反応します。時には相手を恨むことさえしますがこれも自我の策略、相手を恨むことで問題点をすり替えているのです。自身を非難されるというのは本当はこれが嘘であることを知っている自我にとっては恐怖心を煽られる行為です。いつか自身の嘘がバレることを覚え続ける自我にとってこの非難されることは厄介な行為なのです。そこでその恐怖心を怒りに変換させて相手を攻撃することで自分VS相手という構図を作り出し逆に自分の存在を確固たるものにしようとします。あなたは大した人間ではないと非難されるとこれは自我の縮小であり、自我の暴露でもあるのでVS関係を構築して自我は自我を強化する方法を取るのです。なぜあの人はあそこまで怒り狂ったのか、たった一言でなぜここまで怒るのか?そのような状況に陥った時はこれを思い出してみてください。

海であることを忘れた波は自由を履き違える

自身を波と勘違いすれば不自由が湧き起こる

波とは基本不自由です。自身を波と勘違いすることから始めるこの波物語は不自由がデフォルトです。だからこそ学生は校則を破り、会社の規則を破り、法律を破ることで自由を得ようとします。ですがこのようにルールを破り続けても本当の自由は手に入りません。社会のルール、常識を毛嫌いしそこに一切染まらないことが自由であると勘違いするのがこの波です。その反対に社会のルール、常識に無抵抗に縛られて自由を放棄するのは絶望でしかありません。まず最初に理解しなくてはならないのはこの二元の世界、現象界、波物語において本当の自由はありません。世界中を旅行しようと、奔放に生きても自由を手に入れたとは思えないはずです。自由とは波が手に入れれるものではなく海に戻る(自由)以外にないのです。なぜならば海こそが自由だからです。この自由を忘れてしまったからこそ波はこの現実社会で自由を渇望するのです。

自由な国アメリカに移住して

自由といえばアメリカ、アメリカの憲法では自由を絶対視しています。自由を求めて波がアメリカに移住するとどうなるか、、、確かに制度上は自由が多い、法律的には自由が多い、、、職業選択の自由も。住居の自由も、、、。ですがこの自由を波が手に入れて波は満足できるのか?できません。波は与えられた自由と呼ばれる何かしらを手に入れても満足は得られないのです。それは波自身が不自由を生み出しているからです。自分自身の存在が不自由を湧き起こしているのになぜ外に自由を得ることができるのでしょうか。

何かに夢中になって取り組んでいる時になぜか自由を感じる

刑務所に投獄されて真剣になって出所するために勤務している時、突然波は自由を感じます、無我夢中になって服役に勤める時に突然自由が湧いてきます。投獄された多くの人は早くここを出て自由になりたいと願いますが本当の自由は無心になって取り組む時に皮肉にも湧いてくるのです。これはこういうメカニズムです、真剣になって無心になって服役に取り組む時に思考が消え、同時にこれが自分だという思考(自我)も消えます。その時に無我が湧き出してくるのです。つまり自由が湧き出してきます。そこから不自由が消えます。

海であることを忘れた波は評判を気にする

他人(波)にどう思われているかで自身の幸福度を決める

周りから「あの人は凄い会社に入ったね」、「綺麗な彼女を持っているね」「凄い家に住んでいるね」これらの評価をされることで、、このな評価を受けているならば自身(波)は幸福なんだろうと結論づけます。逆に「自分が入った会社はダメな会社らしい」「評判が悪い人をパートナーにしてしまった」「自分の趣味はセンスが悪いらしい」と周囲から低い評価を受けていると、、ということは自分の幸福度は低いと結論づけます。自我は他人との比較で自身の幸福度を決めるのです。これはなぜかと言えば圧倒的に不幸だからです。不幸だから周囲に言われて幸福か不幸かを自身で決めつけているのです。圧倒的に幸福であれば周囲に何を言われても自身の幸福度が変化するわけがないのです。不幸の中でどのぐらい不幸かの基準を作っているだけなのです。自分自身が海であることを忘れ波だと勘違いしている時点で常に不足感、欠乏感が湧いてきますから基本は不幸です。このメカニズムを理解しないと不幸同士でランキングをしてお互いを縛りあっているという地獄絵図が始まります。

インスタグラムで周囲から高評価をどれだけ受けれるかを気にする

インスタグラムなどSNSにハマっている人は周囲からどのような評価を受けるかを気にします。周囲からいいね!がたくさんつけばどうやら自分は充実しているらしいと判断し、いいね!が少なければ最近の自分は充実していないなと判断します。海であることを忘れた波は欠乏感、不足感が常に溢れてきますから海であった時の満足感、安心、安堵の代替品として周囲から評価を餌にしようとするのです。ですがこれらの餌は一瞬で消えてなくなりますからまた次の日も人の評価を取りに行くのです。海の安心、安堵、歓喜の代替品を延々と求め続けるのが波の誤解、間違い、原罪(的を外す)です。

SNSを楽しむべきではないのか

ではSNS流行るべきないのか?そうではありません。SNSも遊びの一つですから嫌悪するべきではありません。ですがなぜ人がSNSにハマるのかというメカニズムを理解してその上でやるならば問題はないです。SNS、友人付き合いにおいて人の評価を得ようとするメカニズムを理解せずに延々とそれに興じても常に虚しさが残るのはそれらが海(全存在)の代替品であること、そしてこの代替品は代替品ゆえに海(全存在)の穴埋めにはなっていないことを理解することです。ですが周囲から評価された時に一瞬の満足感、周囲から称賛された時の一瞬の安堵感、、、これらは本物です。目的(対象)を手にした時(波)に一瞬自我が消えてなくなります。この瞬間の安堵は本物です。自我が消え一瞬海(全存在)に戻ります。ですがこの一瞬をひたすらに追いかけても虚しいし疲れます。この一瞬で得た海(全存在)の安堵、歓喜、至福を延々とするための理解が重要になります。

体は今にしか存在できない、だから無我に入るには体が有効

過去を振り返る思考はあっても、体を過去に連れていくことはできない

思考は未来を憂い、過去を悔やむことができます。時間の世界にどっぷり浸かることができますが身体は未来にも過去にも連れていくことができません。身体は今にしかいないということになります。今というのは実は時間軸から離れることを意味します。過去と未来の間にあるのが現在だと多くの方は考えますが現在は同じ軸にはありません。今は時間の中から脱した状態なのです。身体は今にしかいられませんから体の感覚に入り込むとは時空を脱すること、ワンネス、全存在、海になることなのです。

体の感覚に集中している間今にあり続ける、つまり時間から離れ続ける

体の感覚に集中している時、未来、過去にいることはできません。今にしか存在できないのが体ですから今に居ることができます。この今は時間ではありません、時間とは脳が記憶した今の記憶です。今は脳の記憶ではなく今です。時間から脱出できるのです、時間から脱出できれば空間からも脱出できます。時間と空間から脱出した状態、それが海、全存在、ワンネスです。体の感覚に意識を向けるとそのまま海、全存在、ワンネスになります。それは至福、完璧、安堵です。

達人レベルの職人さんが神々しく見えるのは必然

感覚を研ぎ澄まして作品を制作し続ける職人さんの動きが神々しく見えるのは必要です。感覚を研ぎ澄ましている時に自我が入り込む余地がありません。思考が停止しているからです。この時人は人の形をした全存在に変わります。人間の形をしたワンネス、神、大いなる一つに変わります。大いなる一つが人間活動をしている状態になります。自分が今物を作っているという感覚が抜け落ちます。この時職人さんは至福そのものであり、愛そのものであり、平和そのものになります。至福、平和、愛を所有する人間がそこにはいません。

身体で感じると思考は共存できない

書道や茶道は究極のワンネス体験

人間が体全身を使って何かを感じる時、思考はそこに入り込むことはできません。お茶を飲む、食事をする、筆を走らせる、、スポーツをする、、、身体で感じきている時思考は外にいます。思考が存在していないということは「自分はこの心身である」という自我も欠落しています。この時人は無我になっています。無我だけがあります。至高、完璧、平和だけがあります。膝が壊れても走ることを辞められない、、これは走ることで無我を体験している証拠です。

思考ではなく感じることを優先してみる

サバイバルするために人は思考をやたらと使いたがりますが、思考を使えば使うほどに自我が強化されて不足感、欠乏感はより湧き出してきます。そうではなく感じることを優先する、身体で感じることを優先していきますとそのまま無我に入れます。究極の至福、安心、安堵、歓喜が現れます。スポーツをするとストレス発散になるのは体が感じることを意図的に行うことで思考を排除し無我に入っている証拠です。この感覚を日常生活に応用させていきます。

所作に入り込む時自分は存在できない

書道や茶道など所作に入り込む時、思考は完全に停止していますから同時にこの心身は自分だという自我の動きも停止しています。するとその所作を行なっているのは人間ではなく全存在ということになります。体で感じて所作を行い始めた瞬間、そこに自我はいませんから全体がそれを行なっているのです。思考を使わずに感覚でこれを行うということは全体を引き起こすテクニックです。波が書道に入り込む時に自分を波と思い込む自我ありません。周囲から見れば波が書道を行なっているように見えているだけで波に見える海が書道を行なっています。

大人の思考は子供の思考よりも優れているのか

波であるという分離意識の究極が大人

人間社会での大人とは自分の心身をしっかりと認め、この心身を自分自身で面倒見れる者を言います。他人に頼らず、親を頼らずに生きていける状態を指します。独立した人間同士のルールをしっかりと覚え自分の面倒をみれる状態です。自分と他人の境界線をはっきりとさせ周囲に迷惑をかけずに自身が生きていくための金銭を取得していきます。自我が確立した状態とも言えます。この状態は子供に比べ生存能力に優れていますから生存能力という意味では大人の思考は子供の思考よりも優れていると言えるでしょう。ですがこれは同時に分離意識が究極の状態でもあります、つまり自分が海であることを完全に忘れた波の状態です。欠乏感、不足感も最大値になります。

子供は大人よりも生存能力は劣るが分離意識が低い分不足感、欠乏感も低い

子供は大人に比べて知識が少ない分生存能力は低くなります。狩の方法、栽培の方法を多く知っているのは大人です。ですが知識が多い分大人ははっきりと自身を他者とは別個の存在であることと錯覚しています。思考がなければ自他の分離は理解できません。子供は思考が少ない分、分離意識も低いため生存能力は低いがその代わり欠乏感、不足感も低いということになります。子供時代から宗教やスピに興味を持つ子供が少ないのは不足感、欠乏感が低いからです。大人になると分離意識が進み、根拠のない不安、渇望、欠乏を感じます。この苦しみをいかに解消すればいいか分からずスピ、宗教に傾倒するのです。

大人は不足感、欠乏感を知識、思考を使って埋め続けようとする

大人は不足感、欠乏感を知識、思考をフル活用してなんとか埋めようとします。家を買ったり、家族を増やしたり、買い物をしたり、町内会の会長をしたり、旅行に頻繁に行ったりです。ですがこのほとんどが表層の解決にしか至らずそのため次から次へとタスクが増えてくるのです。そしてもうこれ以上タスクを増やすことはできないと諦めたときに、実は何もしなくてもそれほど欠乏感は変わらないことに気づきます。タスクをこなし続けている時だけは一時的に欠乏感を忘れていただけなのです。

心の状態を良くしようは無駄

思考や心をコントロールしようとする無意味さ

思考やマインドを鎮めて平和に過ごしたい、思考を今よりも正しいものにして充実な人生を歩みたい。マインドリセットして穏やかに過ごしたい。これらは自己啓発系のセミナーで教わるメソッドですがこれらは上手くいきません。心やマインドを正しく扱うなど基本できません。心やマインド、思考は湧いてくるものであってもこれをコントロールしようとすればたださらに思考が感情が忙しくなるだけです。我々人間が唯一できることがあるとすれば何かに集中することで無心に入るか、思考、感情を一切コントロールしようとしないと諦めてしまうことです。思考、マインドがうるさければその様子を放っておいて静まるのを待ちだけです。何か思考やマインドをコントロールできるものと勘違いすれば問題をややこしくするだけです。私は所作に入り込むことで思考を捨ててしまいます。それによって無我、無心に入り込み歓喜を味わいます。

感情を無視することもない、それをコントロールしようとしない

感情は湧いてくるものであってこれをコントロールするのは不可能ですし、それをコントロールしようとすればさらなる感情の渦に飲み込まれてしまいます。まず感情はコントロールできるものではないことを悟り、その上でその感情をそのまま感じます。今の自身の行動が対象に縛られているか、結果に貪っているかなど波としての対象との向き合い方が感情を通じて分かります。そうしたらその結果を踏まえてそのまま所作に入る、無心に入りたいという欲求が湧き起こってきます。もしくは自我のメカニズムを理解して全存在、海と人間の関係、波の関係を理解しようとする欲求が起こります。

思考や感情をコントロールしようとする=無限地獄に入る

海であることを忘れた波は、思考、感情が常に湧いてきます。それは不足感、欠乏感がなくなるまで続きます。波であると勘違いしている間は海であったこととの比較で欠乏感、不足感がただひたすらと湧いてきます。この欠乏感、不足感を思考、感情が違う欲求に変換したものが正体です。ですからこれを押さえつけるなど不可能、ただしこれに執着しても解決もしません。抑えてもいけない執着してもいけない、ただ淡々とこのメカニズムを理解し全存在へのシフト、海へのシフトを期待し行動します。

海であることを忘れた波は死ぬ前に「もっと色々やっておけば良かった」と言う

波は全知全能、完璧に憧れるが、、、海は無知無能、不完全に憧れてこの世を作った

全知全能、完璧な存在である海がなぜ海であることを忘れた波を作り出した(自我)かと言えば無知無能、不完全を体験するために決まっています。全知全能の海がなぜ波としても全知全能を体験するのか、この波は無知無能を体験するための道具であり、ゆえのこの道具は全知全能を憧れはするが絶対にそうなれません。海が作ったこの世界、現象界は無知無能な波体験をするためのステージです。だからこそ上手くいかないのが当たり前、最初から全て上手くいくならこの現象界の価値はありません。

大失敗最高、不安、飢餓最高、、、これが海の本音

全知全能の海がわざわざ無知無能体験を積むために波を作り出したのですから波体験は失敗続き、七転八倒続き、苦多くして楽なし、、これが基本です。そのような失敗続きの中で波が無心になって物事に取り組めるようになった時に結果はともかくとして集中できること、無心に慣れるその状態こそが至福であることにある時気づきます。大失敗したにも関わらず心が完璧に晴れた状態、無垢の状態があることに気づくのです。無心になって真剣に取り組んでおる時に思考が抜け落ち神を味わいます。この時人間はこの見えるだけの存在ではないことに本質が気づきます。と言うよりも本質になり切ることで本質に戻ります。これが小さな悟りです。

物事の結果に拘っても波は常に飽きる、そうではなく結果に執着することで波が海になればいい

波を波たらしめているのはこれが自分だという思考です。この思考が抜け落ちたちきそこには波と海の境界線はありませんから海しかありません。海=至福、完璧、安泰、歓喜です。人間は思考が抜け落ちればいつでも全存在、ワンネス、神になるのです。ではどうやって思考を抜け落とすのか?それは真剣に物事に打ち込めばいいのです。全てにおいて無心になってことに当たればいいのです。結果に拘ろうと、結果に拘らなくても無心になることに集中すればいいのです。その瞬間思考が抜け落ち、これが自分という思考も抜け落ち、波は海になり、人間は全存在、神、ワンネスになります。

我ありは海のこと

全ての現象を認識しているのは全て海

波が波としてどのような経験を積み、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識しているのは海です。波は波として活動しますが波の動きを認識し観察する存在は海です。もちろん波の本質は海であり波は実はありませんからそれは当然ということになります。波が海の存在を忘れようが波が海であることは間違いなく結果全ての認識は海が行なっています。人間もこれと同じ、人間がどのような行動をし、どのような感情を抱き、どのような思考を巡らせようとそれを認識し観察するのは全存在です。そもそも独立した人間は存在していませんからその認識は人間を包括した全存在が行なっています。

認識を全存在が行うがそれすらも人間は自我が行なったと勘違いし続ける

人間の全ての行為を認識し、観察するのは全存在です。ですがこのことを自我は絶対に認めません、それをしているのは自我であると錯覚します。全存在が行う認識が全て自我に奪い去られ自我の勘違いはまた継続されていきます。ですが本当は自我は錯覚ですから認識し観察できる自我はいません。全ては観察する海、全存在、気づきの存在がいます。究極をいえば自我の成分は全存在です。

波を自分と思い込むエネルギー(自我)は全存在(海)でできている

人間の体、思考を自分のものと思い込むエネルギー=自我は全存在が作り出したエネルギーです。ですから自我は全存在でできています。自我は錯覚だろうと全存在であることに間違いはありません。波は海の一部であり、さらに波を自分自身と思い込むエネルギーも海です。海以外の存在はいないのです。だからこそ波が崩壊した時にそこにあるのは海だけです。結局海しか存在しないのですからこの世は海が創作した海物語です。海と海物語の違いは海物語には不安や、恐れ、不足感という感情が存在します。これは海には存在しないものです。海物語には確実に存在します。ですから不安や恐れ、不足感も突き詰めれば海です。

海であることを忘れた波は何者かになりたがる

自我は何者かになりたがる

海であることを忘れた波は何者かになりたがります。波は自身を不完全なものであると感じますから自身よりも完璧に見える何かになりたがるのです。例えばサッカーをする少年はメッシになりたがります。もしもその少年がそのままで完璧だと感じていればメッシを目指すことはないでしょうが自分を分離した独立した人間であると錯覚すればそこには不足感、分離感、不完全感が湧いてきて何者かになろうとします。

完璧に見える何者かは実は完璧ではない

海であることを忘れた波が生きている世界において完璧な存在は一つもありません。それはその世界自体が幻想の世界、ストーリーの世界、分離の世界だからです。その世界の中に完璧性を見つけるのは不可能なのです。ですから何者かになろうとする努力は全て無駄に終わります。仮に何者かになれたと感じても虚無感、不足感、飢餓感が抜けることは絶対にありません。ですがその何者かを目指す道中において無心に入り、無我に入ることができるのならばそこで安堵、安心、平和そのものになることができます。何者かになる前に広大無辺の海、全存在、ワンネスになることができます。そこに準備、プロセスは不要です。

波物語、現象界は完璧に入るための舞台

このストーリー、波物語で完璧(海)になることはできません。これは幻想の世界、分離の世界、夢です。これが夢であることを見抜くことでしか実は完璧(海)になることはできないのです。ですが何かに没入する、無心になることで完璧を一瞥することはできます。自分が波であることを忘れるぐらいに何かに無心(海)になることで完璧に触れることができます。完璧はどこか遠くにあるものではなく今この瞬間にそこに至れることを知れます。そしてこの感覚を一度でも知った波はそこから後退することはありません。