自我

現象(色)は空(絶対)の無限の表現

我々は毎日現象(色)と空(絶対)を行き来する

起きているとき我々は空の絶対表現、色(現象)の世界の中に住んでいる気分にさせられます。寝ている時空に戻ります、意識すらない状態。夢を見ている時、夢という現象(色)の世界に居ます。というよりも現象(色)が立ち上がると気づきが(意織)が起きるのです、ただそれだけ。現実と呼ばれる現象が起きても気づきが起き続け夢(夜間)が起きようとも気づきが起き続けるのです。

現実も夜間の夢も同じ

なぜ夜間見る夢でも、、、景色が広がり、食事を味わえ、痛みも感じることができ、、コーヒーの香りも感じることができるのか???それは現実も夢も全く同じ、、空から立ち上がった色(現象)であることに変わりがないからです。だから気づきが起き続ける、熟睡時以外は。そしてこのあらゆる気づきをこの体の中に「わたし」が気づいているという思考が立ち上がり、、自我が完成するのです。これは思考、想像であって真実ではありません。真実はただ空から色(現象)が立ち上がり気づきが起きているだけです。

空(絶対)に気づきはない

空は絶対完璧ですから進化も退化も全くありません、つまり何も起き得ないのです。では今この気づきはなぜ起きているのか???それは色が立ち上がることで自動的に気づきが起き続けているのです、色の中で。色の中は無限の現象界ですから何でも無限に起きるのです、あらゆる現象、あらゆる経験、あらゆる気づきが無限の起こるのです。だからといって空が進化するのではなくその無限の活動全てが空が無限である証明作業でしかありません。

気づく私、気づかれる私

色と空は一つ

気づく私とは空です、気づかれる私とは色です。この世界で言えば、、、全現象が色です、、、そして全現象に気づくのが空です。色と空は一つです、、どちらも「私」色即是空、空即是色、、、全現象は全てこの仕組みで起こっています。これだけ。体の中の私が、、現象に気づく????そのようにはこの世界はできていないんです。

この体がしっかりと音を聞いてますよ!!

聞いていません、、、体という現象が他の現象に気づくというのは不可能なんです、、色とは現象のこと、、蜃気楼のようなものです、、蜃気楼が他の蜃気楼に気づくなどあり得ないのです。ということで体が気づいてきたのは嘘で、、本当は空が色に気づいているのです、、、しかしこの表現も実は嘘で、、、、本当は色として現象化すると、、、気づくが起きるのです、、、空と色の間で、、、これは化学反応のようなものです。空には気づくという動きすらありません、なぜならば空とはそのままで完全完璧、進化も退化もしない、不動の存在だからです。

気づくは色の中で起こる

空の中で何かが起きることは絶対に絶対にありません、、空とは絶対、完全、完璧、不動です。ですから気づきはあくまでもこの現象界の中(色)で起こるのです、つまり気づきが起きるのも現象の一つです。その気づきという現象を、、、自我は取り込み、、私(自我)が気づいている、、、という大嘘を作り出したのです。これによって私が主導権を握って人生を切り開くという「私」ストーリーが始まったのです。全気づきはこの体の機能によって起こり、、それを踏まえて自由意志で人生を切り盛りするという話です。ですがそれは真実ではありません、嘘です。

勘違い波野郎の暴走

勘違い波野郎は常に苦しい

勘違い波野郎は常に苦しみます、勘違いしてますからその存在自体が無理があるのです、無理があるのはストレスになります。波が起き上がり波が海面を動いている時に他の波から様々な声かけを受けることでこの波は海とは異なり独立していてこの波の中には自分が居るという勘違いが起きたのです。これはどこまでいっても勘違いですから苦しいのです、なぜ苦しいのか???この波の動きは海の動きに左右されており、、波独自の自由意志など全く関係なく動くからです。にも関わらず波は独立していると勘違いしていますから自由意志で自由に動けると思い続けるということです。

俳優がロックスターを演じ続ける苦しさ

ある俳優がロックスターを演じます、、演じるにはパワーが必要です、なぜならば本当は違うからです。これは海も同じ、本当は海だから波を演じると疲れるのです。だから人間には睡眠が必要になるのです。眠りに落ちるのはなぜか???それは人間としての個人を生きるのに疲れるからです。本当は人間でもないし個人でもないのです。

それでも勘違いは続く

周囲の波の影響で新しく生まれた波は自我を芽生えさせていきます、つまり周囲の影響が自我育成の大きな要因なのです。ですからこの自我は嘘なのでは??と気づき始めても周囲は自我全開で活動していますからこの嘘を完全に見破るのは大変なのです。ですが逆手にとって自我の存在の傾向を研究していきます、どのように自我が働きその人を操っているかを見定めていくのです。

波が努力して海になるということはない

波が海になるために努力は必要か?

波が実は海だったという気づきを得るのに波としての努力は必要でしょうか???もしも努力が必要だとしたら波ではないという事実を理解することだけです。波が海になるために進化向上が必要だとしたらそれはなんでしょうか???もしもあるとすれば波ではないことを理解するための素地を作ることかもしれません。もしくは波を維持するための強固なエネルギーの壁を柔軟にすることぐらいでしょうか。

頑張って頑張って海になる???

波として精進しいつか海になりたいと思います、この表現は滑稽です、、そもそもが海そのもので勘違いで波活動をしているのですからその勘違いを明晰にすれば良いだけです。波活動が勘違いであることを証明するためには湧いてくる思考のこと、自由意志のこと、自我の仕組み、これらを理解していく必要があります。勘違いというのは真実を知ることで解決するのです。真実を知ればなぜ誤解が解けるのか???それは誤解を解くのが真実そのものだからです。

自分(波)は真実なんて勘弁してほしい

自分(波)は真実なんて勘弁してほしいのです、なぜならば自分(波)が消えてなくなってしまうことを知っているからです。自分(波)を消すために活動するなどこれはもう自殺行為ですから積極的にやるわけがないのです。つまり自分(波)にとっては暴挙、テロ行為、自傷行為のようなものです。ですが散々波活動を通じてそれでは救われないことに気付いていれば海であるという実感が蘇ってきているのでそれらの活動が阻止されない可能性があるのです。

波が実は海だったという気づきは経験なのか?

最後の気づきは経験ではない

波としての人間活動が続きあらゆる経験を積んでいきます、最初は経済的欲求を求めていく、次に精神的欲求を求めていく、、、それでも全く満たされない。なぜならば自分を波だと思っているから、そしてこの波の中に自分という存在が居ると勘違いをしているから。この勘違いが苦しみを生み出しているのですから波としての波活動は全く報われないわけです。ですがその本質が分かり本当は自分は波ではないんではないか???そしてこの波の中に居ることになっている自分はフェイクなんではないか???という疑問が起き始めます、なぜ起きるのか??それは本質は海だからです、当然なのです。そうだ海だ、、は波の状態での気づきです、波が海そのものになるときにそれを経験する自我がもういない、、自我こそが波を維持してきたわけですから。この経験、波から海へのシフトは経験とはいえません。

主語が変わってしまう

波だと思っていたら実は海だった、、波を取り巻く環境の全てが自分だった、、、これは経験とは呼べないような経験でしょう。この経験とは呼べない経験が波の最終目標です、波の最終地点です。波は自由意志で動き回っていたと思っていたら実はその自由意志と呼ばれるような思考は海としてのものだった、だから時に全く上手くいかず時には上手くいくというシステム。思考は海からガンガン起こり、この波が自分だという思考もやはり起きる。そして同時に常に閉塞感、違和感、孤独感が起き上がります、海から。

孤独感が起きるのがおかしいのだ

簡単にお伝えすれば波として完全分離しているならば孤独感が起きるっておかしいのです。完全分離したらその状態がパーフェクトなのだから「足りない」という感情、「寂しい」という感情が起きるわけはないのです。つまり孤独感こそがこの波が自分という思い込みが真実ではないことを教えてくれているのです。私は波として完全独立しているという思い込みこそが孤独感を生み出す最大原因なのです。

不快感が生まれることがおかしいのだ

もっとこういう生活がしたい、できればお金が欲しい、できれば高級車が欲しい、できれば別荘が欲しい、できれば有名人になりたい、できればインフルエンサーになりたい、できれば人気者になりたい、、、全部全部波だからこその願いです。波が波として完全独立したらこの世界は完璧の鏡ですから欲求不満なんど起きえないのです。波という状態、そして波が独立しているという思考が真実は異なっているからブザーが鳴り続けているのです。それが不快感です。

あらゆるノンデュアリティスピーカーが必要な理由

エゴは最短距離では解体されない

エゴ、自我は、、、最短距離では解体されません。そんなに甘くはない、、何年もかけて育てあげた自我が簡単に消え去ってしまうほど甘くはないのです。そこで大切になるのが各スピーカーの方々です。あらゆる角度から真実を説いてくれます。経験しかないですよね!!と担当直入に説明する方、、ストーリーの方向から自我に完全に寄り添って説明してくれる人、、スピリチュアルな分野から、、悟りに導く方、自我の特性を詳細に描き自我を俯瞰していく方、エネルギーワークから解放に導く方、、、あげればキリがありません。なぜか???それはこの世界があるがまま、無限の存在の表現の場所だからです。

真実ほど面白いことはない

私は真実がどうなっているのかを探求するのが大好きです。真実ってどんな映画、アニメ、SFよりも面白いのです。人間はこの真実を知らずに自分たちが信じていることに振り回されて生きています、勘違いしながら生きているんです、これって最高に面白いコントです。勘違いは時に生命を落とすほどの悲劇まで作るのですから作り物の映画よりはるかに面白い、リアリティーショーです。

このリアル映画を解明したい

釈迦が伝えるメッセージを本屋で立ち読みした時に私はようやく辿り着いたと確信をえました、幼少期からなんとなく疑問に思っていたことが氷解したのです、、これだ!!!と確信しました。私ではない何かがこれだ!!と叫んだのです。そこから既に20年の歳月が流れています。今も私は私というストーリーを毎日歩んでいますがその当時のような重いストーリーでは全くなくなっている、この事実が真実への探求を起こし続けます。

エックハルトトールの功績

スピの部分を一切排した

エックハルトトールは悟りブーム、非二元のブームの火付け役です。彼は専門用語を一切排してエゴの特徴だけを説明していきます。自我、エゴの特性を説いていくだけでなぜ人は悟りに至るのか???それは我々がいかにエゴ、自我の動きに無頓着で無警戒で無意織かということです。つまりその存在を認識さえしていないぐらいに当たり前になってしまっているのです。

そうか、エゴってあるよね???

人間の苦しみは間違いなくこのエゴが大きく大きく関わっています。例えば恥をかいてしまい死にたくなるぐらいに悩む、、、としましょう。。。恥をかく、プライドを傷つけられた、、当たり前ぐらいの感情ですが、、ここに大きくエゴが関わっているのです。もしもエゴが肥え太っていないならば、、死にたくなるようなことにはならないでしょう。つまりエゴの大きさによって全く気にならない、と死にたくなる、、ぐらいの差がでるのです。 

人生の苦しみって結局エゴ次第

これだけ文明が進化したにも関わらず人類はストレスを手放すことができたのでしょうか???答えはNOです。ストレスは増大傾向にあるのです。つまり物質的豊かさは人類を救ってはいないのです。では精神的豊かさは今後人類をストレスから解放するのか???しません。YOUTUBEが発達し今子供は朝から晩までYOUTUBEを観て過ごすことができます、ストレスないですよね????そうじゃないんです、飽きるんです、YOUTUBEによってエゴが刺激されて新しい衝動が起きます。

豊かさを追いかける足算ではなく本質を理解する時代へ

物質的豊かさを追いかける時代が終わり精神的豊かさを追いかける時代に、、それでも幸福にはなれない人類は次に構造を理解する時代に入ります。構造とは実は自分など存在せず、自由意志など存在せず、見えるこの世界ただ一つしかないことを知る時代です。真実に近づく時代に入ったのです。

桜木花道の中には自我が確実にある

人気漫画の登場人物には自我が存在する

なぜ人気漫画は泣けるのか?なぜ人気漫画は興奮するのか???それはキャラクターの中にしっかりと自我を認識できるからです、、こんな時桜木花道だったらこんなこと言うよね!!です。これが確立しないアニメは全く人気がでないのです、、、キャラがブレブレで、、全く信憑性がない、、、そもそも漫画のキャラに自我など存在しえないわけですから言動で自我があるかのようにやってくれないと困るのです。

自我があるかのように無意識に行動していく

矢沢永吉は矢沢だったらこんな時どうするか???と考えて矢沢を確立していきます、、本当は居ないのです、、、ですが世間が求める矢沢を一生懸命演じるのです、、、まるでスター矢沢永吉が実在するかのように。これをみんなやっているのです、、親が求める自我を育てていくのです、両親が期待する、仲間が期待する自我を育て上げていくのです。これを人間はやっていくのです。

仕事場では仕事場の、仲間内では仲間内用の自我を作る

両親が期待する自我と就職した職場が求める自我が全く異なる時、、苦しいが際立ちます。そんな自我用意していないんですけど、、です。ですが家に居ても家用の自我は100%存在しますから結局は苦しいのです。自我は本当は無いのですから、生き延びるために方便として成長させてきたこの自我をどこかで見抜かなくてはならないのです。

矢沢永吉を辞めた矢沢永吉は楽になる

矢沢永吉が矢沢永吉を辞めると楽になるんです、だって本当は存在しないんですから。そして自我が自我を辞めると楽になるんです、だって自我って本当は無いんですから、思考の産物ですから。このことが分かってくると人生ってシンプルになるんです、だって死ねば自我は消えます、最終的には全員が至福に帰るんです。どうせ死んだら至福に戻れるならば、、今ここで至福に帰ってもいいんです、自我って100%存在しないよね!!が分かれば至福です。

素晴らしい人生?

人生がなかった!?

私の人生は良い人生だった、、誰でもそう感じて寿命を迎えたいものです、ですが実際には人生ってないんです。人生が存在するためには人生を歩む自我が必要になるんですがそれは実際にはありません、空想、妄想、幻想としては100%存在します。思考としては100パーセント存在するのが自我です。ですが真実においてはないのです、そんなエネルギーは存在しないんです、なぜならば世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

コーヒーカップも、時計も、自我も存在しない

コーヒカップという独立分離した存在は本当はないことを皆知ってますよね、、だって元々は陶器であり陶器の原料は土です、そして土の原料は火山灰だったりします。ですから無いんです、本当はそんなもの。時計も金属の集合体、金属は元々岩の中の材料でしかない、、だから時計なんてものは存在しません。つまりこの世界に独立した何かなどないんです。自我とはこの体の中にあるとされる想像物です、ないんです本当は。

だから人生はない

コーヒカップの人生、、、これはディズニー映画の話です。時計の人生、、これもアニメーションの話です。この体の人生、これもアニメーションの話なのです。コーヒカップの中に間違いなく思考を操る存在が居るはんずだ、、、となってもコーヒーカップ自体が本当は土の塊でしかないのでそれはファンタジーです。人間の体という本来は全く独立していない存在の中に思考が湧き出しこの中に自由意志が居るはずだというファンタジーを作り出したのです。

人生がないとして

人生がないなんてなんて空いんだ、、だとしたら何のために生きるのか????違うんです、、人生がないことが分かってしまったらこのような質問は出るはずがないのです。究極の至福からこのような質問は出てこないのです。空しさを作り出している自我が、、この質問を投げることで生存を図っているのです。我々は何も考えず真実に触れていけばいいのです、するとどこかで真実が思考のファンタジーを再吸収します。

なんであの人はあんな人生を歩むのか??

実は勝手に起こっている

毎日疲れ果てはスーツを着て顔が死んでいる人が居ます、その人に私は毎日通勤途中に会うとしましょう。その時に感じること、なんであの人はこんな人生を受け入れているんだろうか???です。なぜあの人の自由意志はそれを受け入れているのだろうか????となりますが残念ながらその疑問は真実を取り間違えています、真実はその行動が勝手に起こっているのです、もしもその人になぜそんな生き方を受容しているのか??と問えば日本の経済事情を考えて受け入れていると、、答えるかもしれません、、だとしてもそのまさに思考が勝手に湧いているのです。

だとすると、、、

だとすると、、そうです、、他人の心配は全くする必要がない、、です。なぜそのような行動をとるのか???それは勝手にその行動が湧いているだけだからです。思考も行動も全自動で湧いているのですから、、深刻に捉えるべき現象はこの世界には皆無なのです。絶対に絶対に潰れる立地にラーメン屋を出す人がいる、、、ですがなぜ???は愚問なのです、、その人にも全くわからない、、さらにその人も実在はしないのです。

世界はただ回っている

地球はなぜ回るのか????そこに意図はないんです、それと同じように人間の行動にも一切の意図がないのです、、あるのは後付けの思考です、、その思考も勝手に起きるのです。こじつけの思考が起きます、しかも自分という存在ありきの思考が勝手に起こるだけです。なぜ地球一周旅行したの????それは子供の頃からの私の夢なんです!という後付けの答えが勝手に勝手に湧いたのです、、、真実、事実は、、ただその衝動が起きたのです。

ピカソすらも

なぜピカソは絵を描き続けたのか????それが勝手に起きたのです。なぜゴッホと違ってしっかりと売れるようなプロセスを踏めたのか???それが勝手に起きたのです。でもピカソはインタビューで言うかもしれません「絵をどうしても売りたかった、しっかりと歴史に残る画家になりたかったんだと」だとしたらその思考が勝手に湧いたのです、、、そしてそれをそう仕向ける自我など全く存在しないのが真実です。