自我

自由意志の大大プレッシャー

自由意志はいつもプレッシャー

自由意志があるという大前提で生きていますと、、負けても買っても失敗しても成功しても常に常にプレッシャーが偽りの自身にかかってきます。というよりも負の感情が湧き上がります。憤りが起きます。本当は自由意志がないにも関わらずこれをあると信じることで、、体から反応が起こりストレスとして生じるのです。周囲は自由意志大前提で生きていますから、、いつの間にかその流れに流されているのです。

幸福も不幸もプレッシャー

自由意志において幸福を得ても不幸を得ても苦しみです、なぜならばその幸福は一瞬のものであり、、それを維持するためにはさらなる自由意志が必要になるのです。さらにこの苦しみの根源は「この体この思考が自分」という思考が生み出したものですから解決しようがないのです。自由意志を信じてしまった時点で我々人間は苦しみからは解放されないようになっているのです。

いつやるの???いまでしょ!!!

そんな難しいこと言わないでくださいよ!!!まーもしかしたらそうかもしれないけど、、、そういう内容は来るべき時が来たらいずれ分かるでしょ!!!!違うんです、、それこそが自我の延命作用なんです、、自我が発見されるのを先延ばしにしているんです。つまりこの真実に気づき始めたら、、悟っちゃった方が良いんです!!!ところがそれも自由意志ではなく勝手に起こることですからこの表現は矛盾しています。

自由意志があると思うから人を判断の対象にする

あの人はこういう人間だ

「この体この思考この感情が自分」説を信じていますと、、当然人のこともこのように見ます、すると相手から出てくる発言を自由意思から来るものと捉えるのです。その結果「発言の内容=その人のレベル」と判断します。ですが実際にはその発言はその人を通じて勝手にでたもの、湧いたものであってその人の自由意志ではないのです。私の観念がこの夢で投影し見かけ上のその人からそれが出たのです。

湧き上がる思考、感情

例えばこういうことです、幼少期に両親が子供に自我を芽生えさせるよう働くのは、、勝手に起きたものです。幼稚園、小学校、中学校の周囲の反応は全部勝手に起きたものです、、彼らの自由意志など全く働いていないのです。就職するしないも勝手に起きたもの、そこに自由意志は働きません。結婚もそう子育てもそう、、そこには一切の自由意志は存在しないのです。この現象において人を判断するということに意味はあるのでしょうか???全くないのです。

自由意志がないとハッキリ分かると

本当に面白いことに自由意志がないとハッキリ理解できますと、、自身を責めるという自責の念が消え去ります。するとその瞬間に平和が訪れます、、、その瞬間に安堵が訪れます、、その瞬間に歓喜が訪れるのです。そしてもう他人のことも責めなくていい、、、という安堵、平和、歓喜も同時に訪れるのです。「この体この思考この感情が自分」という洗脳が落ちることで、、本来の感覚が戻ってきます。

頭の中に天使がいて、、、

病気????

「最近私の中に天使が居て、、、」友人が突然そのようなことを言い始めたらあなたならどう思うか????「病気では?????」です。真実ではないことを本気で信じている人のことを「病人」と呼びます。では「この体この思考こそが私」これが真実ではなかったらどうなるでしょうか???????全人類、自我が芽生えている人類の全ては病人となります。病人って基本苦しいんです、、あれ????本当にそうだ、、みんな苦しんでいる。

釈迦は悟り気づいた「世の中は苦である」と

人間は老いるから苦しい、人間は病気になるから苦しい、人間は貧しくなるから苦しい、、、違うんです。。人間という設定、、、人間という初期設定が苦しいんです、、、初期設定が苦しいから何かをやろうと思うんです。人間に何かが起きるから苦しいんではないんです。人間という存在そのものが苦しいんです。厳密に言えば「この体この思考が自分」という思考が湧くと苦しくなるんです。湧くも何も真実じゃないですか?????違います、、真実じゃないから苦しんでいるんです。

嘘やろ????

この自由に動く自由に起こせる思考、、これが自分じゃないなんてあるわけないやろ!!!逆に言えばこれしか自分のものはないんです。。。。。残念!!!!「この体この思考こそが自分」という洗脳を受けたんです両親、周囲の大人から。その洗脳を受けなかったら自分なんていう発想ないんです、つまり自分って概念なんです。

「この体この思考が自分」じゃないとしても生きていかないといけない

もしかしてそうかもしれない「この体この思考は自分」は洗脳かもしれない、、、でもそうだろうとこの体を食べさせていくには「この体この思考が自分」って思って生きていかないと無理ですよね?????その通りです、、それが真実ではなく、、それは方便で、、、そう便宜上思って生きていけばいいのです。本当の自分はそうじゃない、、この体、この思考じゃない、、、、在るというこの疑いようのない感覚は、、この体この思考のものじゃない、、、この体が「在る」を感じているんじゃない、、、「在る」がこの体、この思考に気づきているんだ。。。。です。

真実で全てを説明できる

仮面ライダーはTVの中には居ないんです、、、これを冷静に理解できたあとでも、、、仮面ライダーをTVで楽しむことはできます。「この体、この思考こそ自分」これが真実ではないことが分かっても、、生きていけるんです。周囲はそう信じている、、それに合わせて便宜上生きていけばいい、、です。そうすると「本当の私は誰だ???」という憤りを感じないで生きていけます。苦しくない、、、病人脱出。

どうせこれで満足できないことは分かっている

どうしても欲しかった車に出会う

成功者は知っています「どうせこれで満足できないことは分かっている」新しい車、新しい異性。新しいマンション、新しい別荘、新しいクライアント、、、、どうせこれで満足できないことは知っている、、です。でも止めることもできない、、だってお腹は減るから。無限地獄、餓鬼畜生、、、、仏教ではこの状態をこう表現します。

与える方が満腹度は高いが、、、

多くの人を救いたい、多くの人を幸福にしたい、、多くの、、多くの、、、この方がお腹は満腹になる、、、なんか貪る感じがしない、、、です。ですがですが、、、これもこれでは満足できないことは知っています。世の中に画期的なサービスを連発で送り出す人がいます、、、その人は分かっています「どうせこれで満足できないことは分かっている」です。菩薩界、、、仏教ではこう表現します。

仏界

菩薩界の次にあるのが仏界、、、ここは仏が住む場所、、、仏、、、、仏とは何だ????つまり悟りです、悟りの場所です。。。。ここが悟りの場所になる。。。。。つまりそこには「偽りの自我」「この体この思考である自分」がもう居ないんです。もう自我がそこには存在していない、、、自我とは「自分とは〇〇である」という思考のこと。自分=何かしら、、、という方程式、、、これがない。つまり見える全てが私(仏)全てを起こすスペース(仏)全てに気づく存在(仏)です。全経験も仏。です。

真実を知るだけで思考が湧かなくなる

分からないから思考の連打が始まる

なぜ????苦しいんだ??なぜストレスが溜まるのか????考えても考えて思考が止まらないのは?????本質は至福を求めてうるからです。至福生まれ至福育ちの本質は、、そこをしっかりと覚えています。幼少期の至福に包まれた感覚これをしっかりと覚えています本質が。その本質の中にこの私(体と思考)が突如誕生し、、急に雲行きが怪しくなってきました。なんだか知らないがストレスが溜まる????

イヤだイヤだ病

おもちゃをあげても直ぐに捨ててしまう、、全部イヤだイヤだ、、、が始まる。。子供のこんな光景みたことありますよね????お母さんもどうしていいか分からない。。。。至福しかしらない本質に自我が芽生えていくことで、、同時に憤りを感じるようになるのです。自我とは思考です「この体この思考は自分」という思考です。この思考が湧き上がるたびに、、それは体に反応し「憤り」を感じるようになっているのです。星飛雄馬の強制ギブス、、これが自我です。

本当は誰だ????

このドラマ、この映画をみているのは本当の私なんです。本当の私が今このドラマを見ているんですから、、「本当は誰なんだ????」という疑問は常に実は起き続けています。ですがそれが深い深い場所で起きているから気づかない、、だから憤りだけが起こり続け、、その憤りがあらゆる感情に変容しているのです。幼児のイヤだイヤだ病、中学生の反抗期、高校時代の酒、タバコ、大学時代のギャンブル中毒、、などなど。

「この体この思考が私」という偽情報を信じる本当の私

世界80億人が「この体この思考が私」という思考を信じていようと、、この夢を見ているのは本当の私ですから、、、「本当の私は誰だ???」は常に常に起こるのです。本当の私は「この体この思考が私」になる前の感覚をしっかり覚えていますから、これがフェイクなのは分かっているんです。だから思考が湧き出し湧き出し次のアクションを求めるのです。

本当の私とは???

本当の私とは「この体、この思考が私」という偽情報が起こるスペース、スクリーンです。そしてその偽情報に気づく存在です。そしてこの体、この思考を起こす場所です。そしてこの体、この思考以外の現象の全てを起こす場所です、そしてそれに気づく存在です。この大いなる存在の中で私劇場が起きているだけなのです。「この事実を理解する」が起きた時に、、思考の荒波が止まります。「憤り」が消えるのです。

偏見の塊=観念

夢を夢たらしめるもの

これは夢です、完全に夢です。我々が幼かった頃、、一日という概念すらありませんでした、、起きて目に映る何かと戯れ、気づけば寝ていて気づけば起きていて、、寝ようという動機もなく、、自分という存在すら居ない、、、時間という概念もない、、、ただ「在る」をやっていたわけです。ところが言葉を覚え始めた頃から全ての目に映る何かに「これは何???」を連発するようになるのです。そして目に映るすべてに名前を付けていき、、徐々に徐々にただ「在る」の世界から夢の世界、ドラマの世界が浮かび上がっていくのです。

自我は比べるのが大好き

あらゆる何かに名前を付け終わると、、、今度はどっちが強い、どっちが好きか???とそれらを比べることを覚えていきます。「私」と「妹」どっちが好き????「アンパンマン」と「バイキンマン」どっちが強い???と分離した確固を比べるということを始めていきます。こうやって強弱、優劣、短長をそれぞれに付けながら関係性を築いていくわけです。この延長線上で我々は人間に対しても優劣、強弱、老若と比較していきます。本当はたった一つのエネルギーに無理くり名前を付けさらに比較するということをやります。

この偏見がそのまま観念になる

この偏見の寄せ集めが観念になり、、その観念を通して我々はこのたった一つのエネルギーを完全に分離比較して見るというドラマを生きることになるのです。その結果あらゆる思考、感情が湧き上がりそれを「私」が回収していきます、見かけ上。幼児を除けば人類全員が偏見を寄せ集めた観念を所有しそれを通じてたった一つのエネルギーである世界を独自の世界(夢)に置き換えて見ているのです。

そう見えているだけだ

この事実が理解できてきますと、、見えている物に対し、、、それをそのまま信じるのではなく、、、今はそう見えているんだな、、、という俯瞰した感覚が芽生えてきます。例えばある人に対し嫌悪感を抱いても、、今はそう見えているんだな、、、と一呼吸置けるのです。そう見えているのは私の観念がそうさせているという感覚を持てるのです。私を取り巻く環境がこう見えているということは私がそういう観念を持っているからだ、、、という真実に照らした生き方ができるようになるのです。そして我々は真実そのものですから真実にやがて吸収されていくのです。

砂でできたお城

それを自分と思い込む思考

多くの悟り本で例えられる話、、砂でできたお城を自分であるという思い込み、、そして我々の本質は城ではなく砂そのものである。砂でできたお城は自我意識が芽生えることでこのお城を維持しようと努めるわけですがどんなにしっかりとこのお城を維持しても不足感が消えないわけです。それはそのはず本来は見渡す限りの砂そのものですから。ところが自身をお城と勘違いした自我は隣のお城を屈服したり、、周囲のお城から評価されることを望んだりと全く見当違いのことをするのです。それが人間です。

砂でありながらお城を守ることは可能なのか????

お城は自身をお城であると思い込むことでお城の維持に成功したわけですから、、、いまさら自身をこの広大な砂そのものであると思い出すことで、、、二つを両立することは出来るのでしょうか????できます、なぜならば砂でなかった時など一時もなかったからです。砂でありながらお城をやっていただけで砂であったことには何も変わりはないのです。お城であるために砂ではなくなっていたのならば再び砂にシフトすることで城ではなくなってしまいます。ですがそうではないのです。

城をやるのは演じていただけ

砂として城を演じる、、、これをやるのです。本当は膨大に広がる砂だけど、、便宜上、、城をやるのです。本当は西田敏行ですが便宜上ハマちゃんをやるのです。ハマちゃんと呼ばれすぎて西田敏行であったことを忘れていただけ、、、西田敏行が再び自覚的にハマちゃんをやればいいのです。その時西田敏行は釣りバカ日誌の映画の中で苦悩することはできなくなります。我々人間もこの夢の世界で苦悩することができなくなります。

ワンネスに意図はない

意図があるならば、、、

コレは夢です、完全に夢です。この世界はワンネスがみる夢ですが、、なぜワンネスは自我を作り、そして解放に至るのか???そこに意図はあるのか???という話です。結論から言えば全てにおいて意図はないんです、なぜかと言えば、、もしもワンネスに意図があるならば、、、例えば解放を味わいたいという意図があるならばさっさと解放が連発するでしょう。個人という幻想を作りだしさっさと解放に至らせるでしょう。ですが実際にはそのようにはなっていない。

意図がないとなると、、

意図がないとなればではなんのためにこの幻想、夢が起きたのでしょうか????残念ながら、、、これはこの二元の世界、夢の世界の質問なんです。意図を持つという表現事態が夢の中でしかできないですよね、時間という幻想ありきの質問なんです。自分という幻想は意図を持って何かをする、、、という表現が可能ですが、、これがまさに夢の中でのことなのです。夢の中の状況で、、ワンネスの意図があるか???という質問が矛盾しているのです。

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり

空、ワンネス、絶対から現象が起き上がり、、、それによって気づきが起き上がり、、ただ無限の現象があるという気づきが起きました。その気づきの中で私という思考が起き上がることで、、私が何かをしたいが起き上がり、、この無限の現象を体験するという現象が起きました。私が居るという思考が起き上がることで同時に孤独、違和感という思考も起き上がり、、それを無くしたいという思考も起き上がったのです。そして今まさにそれを無くそういう動きが起きているのです。全体が退屈だったとか、神が退屈だったとか、神が無限を体験したいとかいう思考は、、、全て空、絶対、ワンネスの外で起きている現象です。

なぜ私だけが、、の罠

なぜ私だけが悟りに向かうのか?の罠

これは夢です、完全に夢です、、この夢の中で、、、、友人はほとんど悟りに興味がないし、仕事仲間も、家族も悟りに興味がない、、、なぜ私だけが特別に????私は特別な人間なのか??という疑問が湧いてきます。。ですがそれこそが罠です、、、それこそが自我の延命措置です。悟りという崇高な分野に興味を持つ俺って凄い、悟ったら俺はとんでもな有名人になるのでは????この思いこそが自我を延命させます。

夢が覚めるだけ

これは夢です、完全に夢です、、、この夢では、、、誰も本当は存在しないのです、、、だからこの私が、、、悟りに興味を持って、、、と言っても、、、それが自然現象なのです。本当にたまたまいまそれが起きているのです。ただしそのたまたまが起きるためには、、、観念として悟りに関心が起こり、、情報が集まり、、その分野の知り合いが増えて、、、という夢現象が起きるのです。だから私は特別なんだ感が生まれやすい、、私は釈迦以来の人材なのでは???が起きやすい。違うんです、コレは夢なんです、夢の中では何でも起きるんです。

特別だと思えなくなる

先ず周囲の人々に対し推測が起きなくなります。なぜあの人は裕福そうなのか??なぜあの人は怒っているのか???なぜあの人はしんどそうなのか?????だってコレは夢です、、原因なんてあるわけないじゃないですか。あるとすればそれは私の観念がそうなっていて、、、それが反映されているんです。投影されるんです。夢の登場人物に囲まれた私は、、特別であるわけがない。だって夢ですか所詮は。勿論この体が無ければこの夢は成立せず、、ゆえにこの見かけ上の体はこの夢の王です。でも夢の王って????しかも恐らく全員がその人の夢の王なんです。

夢の王として楽しんじゃえば???

この私がこの見かけ上の私がこの夢の王、それは間違いなく事実でしょう。だってこの夢の中からこの体が消えたことはないでしょう、、周囲はしょっちゅう消えますが、、。ということでこの夢は完全に見かけ上の私のものなのです。そしてこの見かけ上の私の観念が投影された夢です。だからこの夢を思い切り楽しんじゃっていいんです、自分だけ????当たり前です、自分の夢ですから。自分だけ働かず悠々自適に???当然です。ただ一つだけ注意点この夢では幸福が続かないんです、幸福は一瞬です、、変幻自在がこの夢の特徴だから。幸福というエネルギーも一瞬で消えます。

悟る方法も無限大

この夢は、、、あなた独自の夢ですから、、悟り方も千差万別、、、決まった方法があるならば、、これは無限が創造主の夢ではない。見かけ上のあなたは、、、無限である創造主が今回作った配役、主役です。この主役がどう悟るのかは全く分からない。。。勿論目を覚ますのはあなたではない、、これが夢だったという気づきだけが起きます。ですがその夢の中心には間違いなくあなたがいるのです。本当はあなたという思考が中心にいるんです。

夢だと思うと全部が凄い

この夢の創造主

私はいったい誰ですか????この私は?????これは夢です、完全に夢です。夢の中の私は誰なんでしょうか?????私とはこの体の中に居るとされている私なんではなく、、、この夢の創造主です。この夢の総合演出、総合美術、総合舞台そのものです。この夢の中の経験は全部この私そのものです。ではこの体の中の私は????それも私の一部です、その思考も私です。

この夢はどうやって成り立っているのか????

目に見える全部の景色を作り出しているのが私?????凄くないですか????そうです凄いんです、、ですが目の前の物自体を作り出してはいません、、景色、映像を作り出したのです。それは私です。目の前のラーメンの映像、そして香るという経験、美味しいという経験、、その経験を作り出したのは間違いなく私です。ですがラーメンという物質、実在は作り出していません、ないので。ラーメンという幻想を作り出したのは私です。香りという幻想も。

旅行に行けば

旅行に行けば、、、全ての景色、全ての食事、全ての施設は私が作ったものです。そしてその際に湧いてくる感情の全て、思考の全ては私が作ったものです。ただし実物は全くありません、その経験の全てを私が作ったのです。旅行に満足したという私の思いも全て私が作りました。私とはこの夢の創造主、神です。そしてその私の中に自我という小さな私も誕生しました。当然それも私が作ったものです。