自分

この体の中の自分は諸行無常と関係がない???

大いにある

もしもこの体の中に自分という実在が居て、、この自分に自由意志があるとすれば、、、、毎日同じ思考をする、、ということが出来る人間が現れてもおかしくありません。ですがそのようなことが起きたら、、、諸行無常が、、、この私には当てはまらないということになります。。世界は諸行無常、、変わらない物はない、、、変わらない現象はない、、これがこの宇宙のルールです、、、、自由意志はこの絶対的ルールと完全に矛盾するのです。

自由意志と諸行無常は完全にぶつかる

自由意志とは思考、行動をコントロールすること、、、、これと諸行無常は理屈が合いません、、ではどちらが本当のルールなのか????諸行無常です、、、全現象は常に動き続けています、、、原子レベルでは確実に全部動いています、、、この事実と自由意志は真っ向からぶつかります。

全思考、全感情、全行動が諸行無常

真実はこれです、、全思考、全感情、全行動が諸行無常です、、、誰一人、、、これをコントロールしている個人は存在しません、、、コントロールしているという勘違いは起きます、、ですが、、、実在しないのです、、、自由意志も私も、、、これはイメージ、概念です。

自分へ帰る

最後の帰省場所

私たちは最終的にどこに向かっているのでしょうか???輪廻転生があるのだとしたら、、最終的には何になるのでしょうか????霊格を高め続けて、、最後は、、、、結論は、、、自分に帰ります。。。自分に帰る????本当の自分です、、今の自分が自分だと「思っている」自分ではなく、、、今の私が「考えている」私ではなく、、、今の俺が「想像している」俺ではなく、、、本当の自分です。我々が知ってる私は思っている、考えている、想像している私です。

私をここに出してください、、、

今ここで私を出してください、、、でませんよね、、、なぜ???だって、、脳が作った存在が私ですから、、、脳が作った???脳がどうやって作ったのですか???脳の思考、創造を司る部位が作り出したモノですから出せません。。。つまり脳が無ければ私は居ないわけですよね、、、脳が現在進行形で作らないと無くなっちゃう存在、、それが私です、、、脳が今作らないと消えちゃう存在、、が私です。

脳が作り出し瞬間だけ登場する「私」

私たちが想像する「私」はまさかの脳に完全に依存しています、、、脳が私を思い出してくれないと「私」は存在できないのです、、そんな柔な存在、しょぼい存在が「私」です、、、、本当でしょうか???この私とは全く関係なく明晰に「在る」という感覚があり続けます。。。脳が完全に「私」を忘れている時も確実にある「在る」という感覚、、、これが私の本性です、、、、脳が作り出した想像物「私」をこの「在る」が気付いた時に、、、「私」は在るというストーリーに入ります。

本当の「私は在る」

本当の私は在るは、、、、脳が作った「私」ではなく、、「在る」この本質の存在のことです、、これが「私が在る」なのです、、、多くの人は脳が作り出した「私」が「在る」と信じています、、、、違います、、、「在る」という感覚こそが私なのです、、、「在る」というゆるぎない感覚が最初にあり、、、そこに脳が作り出した「私」が後付けされました、、、急に「在る」が強烈に小さくなったのです。。。本当は「在る」という感覚の中で脳が作った「私」も、、、全ての登場人物もただ起こっています。

「自分」とはスポーツ選手のユニフォーム

ユニフォームは何もしていない

スポーツ選手はユニフォームを着てそこに番号を付けます。見かけ上の自分という存在はこのユニフォームです。自分は何もしていないのです、、走るのか、蹴るのか、歩くのか、、、これを決断しているのは体であってユニフォームは何もしていない、、、にも関わらず、、ユニフォームがしているという勘違いだけが起きます、、相手のユニフォームをみて、、なぜあのユニフォームはあんなプレイをしたのかと非難します、、なぜあそこで蹴ったのか??あのユニフォームは、、としかしユニフォームは何もしていない、、、これが見かけ上の人間の苦しみです。

最近のあの人(ユニフォーム五番)は頑張っている

最近あの選手(ユニフォーム5)頑張っているよね、、、違います、、ユニフォームは何もしていないのです、、、それでもそれを伝えます、、、いやー最近の君(ユニフォーム5)は凄い頑張っているね!素晴らしいよ!、、、ありがとうございます(ユニフォーム5)、、、なんか色々反省してみてやる気が湧いているんですよ(ユニフォーム5)、、、、、今度他の選手(ユニフォーム)にもハッパをかけてみます、、、

大いなる勘違い

全員(ユニフォーム)が何を考え何を行動すかにおいてユニフォームは全くもって無関与です、、にも関わらず全員でユニフォームが全部を全部決めているという夢を見ているのです、、ユニフォームはただ体(真我)の動きに従うだけ、、、ユニフォームはその動きに付いていっているだけです、、、外から見て、、ユニフォームが全部決めているように見えても全く関係ありません。

あの選手(ユニフォーム10)は何をやっているんだ!!

監督(ユニフォーム)が怒ります、、、今日の10番(ユニフォーム)は何をしていんるんだ、、全く動きが悪いではないか、、、違います、、ユニフォームは何もしていないんです、、、あとでしっかりと注意しなくては、、、ユニフォームは何もしていない、、、見かけ上の人間にはそう見えているんです、、、この事実がはっきると分かると人間関係(ユニフォーム関係)はまるで違ったものになります。

全く動かない仲間(ユニフォーム)にはどう伝える????

何を伝えてもいいんです、、もっと動いて、、もっと歩いて、、もっと守って、、、でもそれを決断する力がユニフォームにはないんです、、、では体(真我)にその力があるのか???実は体(真我)にも自由意志はありません、、体は勝手に動いています、、、つまり、、、、それを決めることができる存在は存在しないということです。

自分の辞書に敗北はない

あの人の辞書には敗北という言葉はないのでは???

この言葉は非常に意味深いです、、、あるサッカー名将監督を評して、、、あの人の辞書には敗北はないのかもしれない、、、と表現します。。。その通り、、、その人の辞書に収まっている現象以外がこの世界には登場できないのです。。言葉を覚えそのイメージを形成しなければ、、例えその現象が目の前で起こっても気づかない、、つまり存在しないことと一緒。キムタクという言葉を知り、キムタクをイメージできていない人はキムタクが目の前で飲んでいても全く気づかない。。。つまりその人の世界にはキムタクは全く存在していない、、これがこの現実のカラクリです。これがこの世界が夢だと言われる理由です。

多くの感情はこのラベル張りで起きている

キムタクを知りイメージができる人は東京でキムタクに気づいたら感動するでしょう、、、自然発生的に感動が起きます、、、ですがキムタクの名前すら知らない人は、、目の前にいても何も感じない。。。これがこの夢の特徴です、、言葉を知り、イメージ化ができ、、感情が生まれる、、、人間に喜怒哀楽はこのように形成されます、、とするならば、、、この仕組みを理解すれば、、、もう悲しむなど感じなくていい。。。

親友が死んだ

全部はイメージ、、、親友の存在もイメージ、、、そのイメージが死んだ、、、すると、、悲しむという感情の湧き方が変わる、、、親友という存在を出現させていた真我は一滴も何も失っておらず、、、これは移りゆく現象に過ぎない、、、この絶対的理解が、、、感情を変えるのです、、、、友人からの裏切り、、これも友人というイメージに、、、それが起きた、、、どうしても憎めない、、、、となります。夢の世界への没入が薄れていきます。

自分を許す、、の本当の意味

本当はこうやるべきだけ、、、まいっか、、ではない

自分を許す、、、というのは、、、「本当はこうやるべきで、、、だけどできない自分を許します」というのではありません、、、、この見かけ上の自分には一つたりとも自由意志はなく自由行動もなく、自由責任もないということを認めることが本当の許すです。この究極の許しが起きた時に、、他人を攻撃したいという衝動が完璧に終わります。自分を攻撃しまくっているから他人を攻撃したいのであって、、これが完全に終わります。自分を一切責めれず、、他人を責めれない、、、

今回だけは自分のことを褒めてあげたい

今回はよく頑張った、、今回の自分だけは褒めてあげたいです、、違います、、、全部全自動、、頑張っていない時も頑張っている時も、、、全部全自動なので、、、全部褒めていいのです、、、、朝から晩まで飲み歩いている日々も、、全部全自動です。。。神が行う経験、神が感じる経験に優劣があるならば神は神ではなくなってしまいます。。

全ての行動は神から起きる

見かけ上の私という体を通じて起こる全思考、全感情、全行動は神から直接起こります、、この全言動に対して判断を下せる存在は誰でしょうか???神です、、、神が自分で全言動を作り上げ、、それを自分で判断するとう動きが起きているのです、、、ですがこのメカニズムに気づいてしまったらもう判断は意味がない、、、だって判断したって、、どうしようもない。。判断を下しているつもりのこの私は神が作り出したイメージです。

自分とは誰だ?

自分とは誰か決着をつけよう

自分とは誰ですか????この体の中に居る存在ですよ、、、社会人をしっかりやって、、全ての決断を下している、、この私です、、、、名前もあるし、、友人からは〇〇とあだ名で呼ばれています、、、人によって若干キャラは変えますが、、、本当の自分はこんな性格だと思っています、、、、では答えを言いましょう、、、それはあなたの特性を伝えているだけ、、、その体に起こる特性です、、、その体に起こる、、、感情、思考の特性を伝えているだけです、、、、名前とはその体につけたラベルです、、、

でもしっかりと意識はありますよ

この私が居るという意識は確実にあります、、、私というよりも、、、存在しているという絶対的感覚は起きている期間は確実にありますよ、、、、そうです、、、その感覚こそが、、というよりもその感覚だけが、、、在ります、、、、それだけです、、、、事実はその確実に「在る」という感覚だけなんです、、、そして「私」というのはアイデアです、概念です、、、、名前も概念です、、、、「在る」という感覚以外は、、その瞬間瞬間に湧き上がっているのです。

私とは「在る」という感覚

ですからこの「在る」という感覚に集中してみてください、、、「在る」は集中すれば必ずそこにあります、、ない場合が絶対にないのです、、、、、、「在る」が私という思考、私が居るという思考、、怒り、妬み、嫉み、恨み、喜び、、、という全ての感情に気づき、、、思考に気づき、、人の動きに気づき、、、言葉に気づき、、意味を生み出し、、、ただそれが連続して起きています。。。私とは「在る」だったんです。

自分史上最大の壁

何かを手に入れても幸福にはならないという絶望

何かを手に入れても、、幸福にはならない、、この絶望をいかに早い段階で気づくか、、、ここが最重要になります、、、地位、名誉、安定、家庭、愛妻、職業、人気、子供、、どの全てを手に入れても幸福にはなれないという絶望的な気づきこそが悟りへの最重要要素になります、、、そしてなぜなのか???という自分への問い、、この孤独な作業に向き合えるのか???ここも重要でしょう、、

この自分、この私は学んで覚えたこと

学んで覚えたことが本当であるわけがありません、、もしも学ばなかったら、、、一体人間はどうやって自分を理解するのでしょうか???居ないんですね、、本当は、、、もしも無人島に一人で生きてきた人が居れば自分なんていう発想が全くない、、全くないのに普通に生きている、、、つまり自分なて全くいらないもの、、もしくは無くても困らない、、名前も自分も、、全部無くても大丈夫、、無くても大丈夫なものを「在る」と信じて生きているのが我々現代人です、、「自分がこの体に在る」というは完璧な思考ですね、、ここをもう一度再認識するのです。

自分が幸せになる、、、はアイデア

自分が幸せになるというのは「自分がこの体に在る」という思考の延長線上にある発想です、、、自分という存在がこの体の中に居るというのは間違いのない思考ですから、、その思考の流れでこの私が幸福になると、、目標を立てたのです、、、これはなかなか難しいことが起きました、、無いにも関わらずその存在を幸福にするとはどういうことでしょうか???不可能です。。。

いや、、この私はたまには幸福ですよ

いやこの私は、、、美味しい物を食べている瞬間、幸福ですけど、、、違います、、食べている瞬間この「自分が居る」という発想が飛んだのです、消えたのです、、そもそも居ないこの体の中の「私」が消えることはできません、、その発想が消えたのです。。だから私は一瞬幸福感を味わったという勘違いが起きたのです。。究極の勘違いです、、

全体と自分のどんでん返し

周りが自分でこれが自分以外

究極の騙し絵、、これがこの世界の真実です、、、究極の騙し絵、、どういう騙し絵なのか???それはこの体が自分以外で、周囲が自分だったという気づきです、、、真逆、、そうです、、このコントロールできる体こそが自分以外で、、全くコントロールが利かない周囲が自分です。全くコントロールできないのに、、自分ってどういうこと????コントロールが利かない、、のが普通なのです、、これが真理なのです、、真理とは何もコントロールできる存在は居ないという気づきです。つまりコントロールできない存在こそが自分自身、見える世界の全ては自由意志ではコントロールできませんから自分です。

だとしたらこの体は何だ???

周囲は全部コントロールできない、、だから自分、、、では、、コントロールできてしまうこの体、、この体は誰のものだ????心臓の動きはコントロールできない、、自分、、、、腎臓の動きも、爪も、肌の育成も髪の成長も、、、分泌物の生成も、、全部コントロールできない、、つまり自分、、、、唯一コントロールできる存在思考、行動のみ、、、、これは誰のものだ????この究極の例外は誰だ???

コントロールできているという思考がただコントロール無しに湧いている

「唯一コントロールできているこの思考と行動は私がコントロールしている」という思考がコントロール無しにただ湧いています、、、これでコントロールできている存在が完璧になくなりました、、全部が全部コントロールされていない、、、全部が全部真我の動き、つまり自分です。。。最後の難関、、、思考と行動、、、これはコントロールできている思い込む思考が湧いている、、、コントロール無しに。

「私が居る」の中で何もコントロールなく起こり続ける

真実はこうです、「私が在る」この絶対的感覚の中で、、、何一つコントロールなく、、、あらゆる現象が起き続けています、、この体も含め、、全部が全部コントロールなく事が起こり続けています、、この体を通じた経験の全てはコントロールなく起こり続けます、、、この起こる動きのエネルギーが自分、真我、無我、ワンネスです。

例外を自分と信じた世界

この体のごく一部が例外

この体の極々一部、、、これだけが「自分」がコントロールできていると思っている箇所です、、筋肉の一部の動き、、思考の一部の動き、、これだけ、、、これだけがコントロールが利いていると思っている部分です、、、これ以外の全ては全くコントロールが利きません、、、全くです、、、、結論から言えば、、、この全くコントロールが効いていない部分が自分です、、、コントロールが利かない全部が全部自分です、、、そして例外の部分、、コントロールが利くと思っている箇所、、、これが自分以外です、、、騙し絵です、、究極の騙し絵です、、、まんまとこの騙し絵に引っかかりました、、、誰が、、、自分(真我)が、、

例外に迫る

では例外の部分に迫ってみます、、、、コントロールが利く部分、、、一部の筋肉運動、、と一部の思考、、、、「スタバに行こう」という思考を作り、、「スタバに行く」という行動を起こす、、これは例外ですよね、、、コントロールが利いています。。。本当でしょうか???スタバに行こうという思考をどうやって作ったんですか????エンルギーとして確実に作り出した証拠を出してください、、出ませんよね、、、だから嘘なんです。。。分かった、、じゃあスタバに行ったという事実はどうだ、これは完全に私がコントロールできなければできないじゃないか、、、、違います、、「スタバに行くことが決まったから、、スタバに行こうという思考が起きたのです」、、、逆なんです、、スタバに行くことが事故的に起きることが決まったのです、、その後にスタバに行こうという思考が湧きました、、、これが事実です、、、この事実が確定しますと、、、一部の筋肉運動、一部の思考活動も、、、コントロールが利いていない、、、全部が全部コントロールが効いていない世界、、、全部自分が立証されます、、真我しかない、自分しかない、神しかいない、、、

全ての動きに自分を感じる

風が動く、、

風が動く、、この動きが自分です、、風を感じる、、この感覚を起こす力が自分です、衝動を感じる、、この動きこそが自分です、、森羅万象全ての動きを動かす存在こそが自分です、、どこまでいっても自分しか居ない、、、ただこの自分は最大限偉大な存在、この自分以上に偉大な存在は居ない、、そして自分以外も居ない、、全動きを起こす全存在が自分だということを意識して生活します、、、すると、、人間関係が変わる、生活の全てが変わる、、全現象に気づきが起きます。

自分がやっているという絶対感覚

子供は川で魚を見ると興奮します、、、なぜならば魚を動かしているのは自分であることを知っているからです、、魚を魚たらしめているのも自分、川を川たらしめているのも自分、魚を見るという行為も自分が作り出しています、、、だから興奮する、、、それが大人になると何も感じない、、ただ魚が居るだけ、、終わり、、自分が完全に魚と分離している、、だから興味も湧かない、、、

本当は魚であり、魚を動かしている、、、

本当の本当は魚を魚として動かしている張本人こそが自分自身です、、この感覚を子供は覚えている、、だから興奮してしまう、、、自分がこんなすごいことをやっているという喜び、、、はっきりと感じる万能感は嘘ではない、、俺が雲を作りその雲を動かしているという絶対感、、、そう今も全部を自分が作り出しています。