空即是色

ゼロエネルギーがこの世界を作っている

ゼロはどこまでいってもゼロ

この世界を構成しているエネルギーはゼロです。ゼロエネルギーでこの視界に広がる世界は構築されています。ゼロというエネルギーが様々な形状を作り出しさもこの現実があるかのように見えているのがこの世です。どこまで行ってもゼロはゼロですからこの世は虚像ということになります。ですがこのゼロエネルギーで構築された体が体以外と交わることで経験が生まれます。体を作り出すエネルギーもゼロエネルギー、そして体以外もゼロエネルギー、ということは経験もゼロということになります。どこまで行ってもゼロはゼロです。

色即是空

色即是空、空即是色という言葉があります。空とはゼロです、このゼロが色を生み出しました、色とはイロ(シキ)とと読みますが、、、空がゼロですから色も当然ゼロです。この世界は様々な形態を見せ多様な世界を構築しているように見えますがこれを構築しているエネルギーはゼロです。ということはこの目に見える世界に在るものは全てゼロエネルギーでできています。にも関わらず人間の体(ゼロ)が食べ物(ゼロ)を食べるときに感じる味覚は確実にあります、これは何なのか?ということです。これは大変重要なポイントでして経験は確実に在るのです、経験という形にならないもの(ゼロ)だけは確実に在る世界、これが色(ゼロ)の世界です。

空の世界はゼロ、色の世界は経験(ゼロ)

経験というのは形のない世界(ゼロ)です。これが色の世界の正体です。我々は間違いなく形状を持っています、ですがこの形状はゼロエネルギーでできています。この私の体は確実に在るように見えます(色)そしてこの体は確実にあらゆる経験を積むことができます、、、ですがこの経験とは証拠を出せないモノ(ゼロ)だということです。我々は経験を積んでいるからこそこの体の存在に疑いを持ちませんが、、、この体の存在証明を経験(ゼロ)に委ねているというところが面白いところです。

夢の中にどっぷりと浸かると視界全てから活気が無くなる

思考の世界にはまり込むと視界から活気がなくなっていく

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの世界は広がります。人間の視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚という五感を利用してこのバーチャルリアリティーゲーム、夢が広がります。人間としての人間活動において人間は形上経験を積み、それによって価値観が形成されていきます。この価値観が「これは夢だ」という真実から離れて行けば行くほどに活気がなくなっていきます。つまり地獄界に入っていきます。そこに出てくる登場人物は信用できない人ばかり、罵詈雑言、陰口、妬み嫉妬の世界です。夢であるという事実から離れれば離れるほどに生きていくのが苦しくなります。思考の世界、分離意識が進めば進むほどに頼れるのは自分だけという無限地獄に入ります。

本当は活気しかない

これは色の世界です、空即是色、空が色として出現する世界、生命が光の世界に変化します。これは生命です。夢は生命の多様性です。ライフの表現。神の表現、アートです。神のアートが濁って見えるのは勘違いが進んでいるからです。ある人を友人に紹介する時に「実はこの人は犯罪歴があって、、」と嘘をついて紹介すれば友人は歪んだ見方でその人を見るでしょう、そうすると本当に犯罪者のように見えてきます。つまり歪んだ見方で、価値観で真実を見ればこの神のアートはそう見えるのです。本当は活気しかないこの神のアートが濁って見えてきます。

生まれたばかりの子供たちは世界が光って見える

生まれてから3歳ぐらいまでの期間はこの世界は光って見えたはずです。なぜならばこれは神が見る夢であり、神のアートであり、生命の表現です。ところがあらゆる経験、知識を取り入れることによってこの夢を現実と誤解するようになり、誤解が進めば進むほどに歪んで見えてくる。真実とは遠く離れていくわけです。真実はこれは夢、以上です。大人は子供と違って見える世界が濁っています、この濁った世界で不足感が沸き続けそれをなんとか処理していく。このメカニズムを暴く時が今です。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

神はなぜこんな夢を作ったのか?

神のこの悪趣味はなぜ起きたのか?

これは夢です、神が見る夢です。色即是空、空即是色という言葉が般若心経というお経にありますが空が神、色が夢です。これは夢ですがなぜこんな夢を神が作ったのか?ということになります。結論から言えば完璧、安堵、平和そのものである神が違う形で完璧、安堵、平和を体験したかったということになります。いやいや、この夢において完璧、安堵、平和などどこにあるのか?どこを探しても不安、危機、戦争、争い、災害しかないではないか?ということになります。そんなことはありません。不安を解消できた時、危機を克服できた時、戦争を回避できた時、争いを解消できた時、、、その一瞬それが訪れます。そうです、この夢は神が一時的神を人間を使って体験するという機会なのです。

神は神ゆえに神を体験できない

神は神ゆえに神の偉大さを知りません。そこで神はこの夢を作り人間を創造しそれに成り切ることで縮小体験、極弱体験、弱小体験をしたわけです。全知全能の神が無知無能の人間になってこの夢物語を逞しく生きるという夢を設定しました。人間は神に比べて最弱であるがゆえに神は不足感の塊、フラストレーションの塊になります。人間とは基本ストレス塗れなのです、だからこそ幸福になりたい、成功したい、豊かでありたい、人気者でありたい、、、と無限の欲求が湧いてきます。そんな神は何かを達成した瞬間だけは神に戻れます、目標を達成した瞬間自身は人間であるという意識がなくなり神になります。こうして人間は目標を達成していきなりながら神という感覚を思い出していくのです。人間に扮した神は徐々に神にであることを思い出していきます。

神→人間→神

人間という独立した存在がこの夢には実在しません。夢の中に実在した存在は皆無です。ですから今見ている現実とは全てが幻想です、この体も全部幻想です。夢ですから。ただし神というものが人間こそを自分自身と勘違いしている、このことは事実です。これは錯覚ではありますが紛れもない事実です。神は人間になりきってこの夢物語を堪能しているのです。夢物語は夢ですから全ては幻想ですがこの体験は事実です、神はこの体験を経験することで再び神に戻るのです。

熟睡時は意識だけがある、熟睡とは意識だけの状態

熟睡時の記憶がないのは、、

熟睡時は記憶がありません。それはなぜか?脳が完全に休んでいるからです。記憶の機能をストップしています。ですが熟睡から覚めると人は安堵、平和の状態を少し覚えています。その時気づきの意識から夢に戻ったのです。熟睡時は気づきの意識のみ、そして起きると気づきの意識が人間活動を意識し始めます。そして人間自体が湧き上がる感情、思考を自分のものとして勘違いするという状態を気づきの意識が認識します。

気づきの意識は全部を気づいている

気づきの意識は熟睡時は人間活動を停止して気づきの意識そのままの状態になります。この時の記憶がないのは人間の記憶脳が停止しているからです。人間が夢を見ている時、人間の脳の記憶を使って気づきの意識は夢を見ます。この時に夢を見ているのも気づきの意識です。人間の脳をフィルターにして夢を創造しそれを観察します。人間が起きれば今度は人間の五感を使って夢物語を創造しそれも気づきの意識が全て認識します。認識するという言葉が実は的を得ていないのは認識するという主体客体の世界ではなく認識そのものです。ただこれ以上は言葉で説明することができません。認識するという言葉は人間が作った言葉であり人間は主体、客体の世界でしか存在できないのでこの言葉は誤解を生むのです。

空即是色

空即是色は素晴らしい言葉でこれはやはり分かっている人が書いたモノです。空はこれ即ち色である。本当にこれだけなのです。ここに動詞が入るということはありません。なぜならば動くという現象には動くための場所が必要になりこれは二元の世界の話なのです。ということで本当は空即ちこれ色だけです。色とはあらゆる現象でありそこに人間という独立した(勘違い)存在を湧き起こしこの色の世界を完成させました。

空即是色とは

空は常に色として現る

ブッダが2500年前に発見したこと、それは空即是色です。この世に見える世界は空が現象化した幻想でこれは空が見る夢です。この夢は空が作り出しその夢を人間という生命現象を通じて夢物語を体験させていきます。この夢物語を歩むのは人間ですが人間が体験する内容を認識し、意識するのは当然空です。空がこの夢を体験する以外に体験者はいません。体験者という者は実際にはないのですが体験者という幻想を使ってただ体験だけがあります。全部は夢ですから空が自身を変幻自在に現象化してただ体験があります。

なぜこの体験は基本苦しいのか

釈迦が発見したこと、それはこの世は苦であるという。これが最初いまいちわかりませんでした。なぜわざわざ空は苦しみを人間に味合わせるのか?それが分かりませんでした。今はわかります。実は苦しんでいる人間はこの世にはいません。なぜならばこれは全て夢だからです。全て夢ならば感情を味わっているのは夢を見ている張本人しかあり得ないのです。ではなぜ人は苦しいとか悲しい、とかいう感情を持っているように感じるのでしょうか。それは実は感じていません。感じているのは全て感じる存在、気づきの存在です。それを人間が感じていると常に勘違いしているのです。夢の中で苦しんでいるのはいつでも夢を見ている張本人で登場人物ではないですよね。ですからこの苦しみも実は勘違いです。信じられませんが人間はこの感情を自分のモノとしているだけで今まで全感情を味わっていたのは夢を作り出した全存在です。

エックハルトがいう思考の観察は今までも普通に気づきの意識がやっていた

これは夢ですから夢の創造主はいつもこの夢を見ています。今まで一度たりともこの夢をよそ見したことはりません。そして今もやはりこの夢を見ているのは気づきの意識です。思考を観察せよ、これがエックハルトの言葉ですが気づきの意識は常にこれをやってきました。全ての感情を観察し、全ての思考を観察してきたのは気づきの意識です。感情を認識し、思考をしてきたのは人間ではありません。人間も気づきの意識ですから人間が認識してきたと仮定してもそれも気づきの意識が人間として認識しただけです。要は同じことです。夢を毎晩見ている時に誰がどういう形で感情を抱こうとその感情を認識しているのは夢を見ている張本人しかいないのです。

夢の中に出てくるアジャシャンティーやエックハルトトールをどのように扱えばいいのか

なぜ夢の中にこれらの覚者と呼ばれるような存在が出てくるのか

アジャシャンティー、エックハルトトール、トニーパーソンズ、ラマナマハルシ、これらの覚者と呼ばれるような存在がもしもあなたの夢に出現したとしてそれをどう受け止めれば良いのでしょうか。夢の中に夢のカラクリを解説する登場人物が出現した、そう取るだけです。ですから彼らは登場人物であって人間ではありません。人間風覚者とでも呼べばいいのか、とにかく夢の中に出てきたキャラということになります。そして彼らを変に尊敬し、依存し、囲い込むというのもまた間違っています。尊敬しようと依存しようとそれは夢の中の登場人物でしかありませんし、彼らが話す内容も全て夢の創造主から湧いてくるだけです。ですからそれは時に真実を照らしているようにも見えれば見えない時もあるただそれだけです。

夢の登場人物の言葉を鵜呑みにしてもしょうがない

言葉とはこの夢物語の中でただ湧いてくるモノですからそれがラマナマハルシの言葉だろうが、エックハルトトールの言葉だろうが、トニーパーソンズの言葉だろうがそこに真実があるという保証は一切ありません。そもそも真実を正確に言い当てる言葉など証明のしようがないのです。ですからこの夢物語の中に真実らしきことを言っている登場人物がいる程度の認識でいいかもしれません。誰が何を叫んでいても説いていてもそれを認識している、意識してるのは全存在(真実)です。登場人物の全てが全存在の分離に見える現象、現象の全ては全存在が変容した表現です。

誰が本当のことを言っているのか

このは夢物語ですから誰が本当のことを言っているのかは永久にわかりませんし、分かるのは夢から覚めた時です。夢である以上その中の登場人物は変幻自在に変化する可能性すらあります。言葉ではこれが夢物語だと表現してもでは覚めた状態はこうだといい言える言葉はありません。言葉の限界はこの夢物語の中での表現を超えることができないことです。言葉とはこの夢物語の中でしか沸き起こらないモノです。言葉も勿論真実(真我)から湧いて出てきますが言葉が真実を証明することはできません。色即是色、空即是色、、、現象界は即ち全存在であり、全存在は即ち現象界です。