私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

私は体、思考、感情でもない

移りゆくものが自分であるはずがない

我々はこの体、思考、感情を「私」と決めつけて生きています。決めつけるためには確固たる保証が必要です。何かしらの決定だがなければ本当はそれはできないことです。これが自分であるという決定的保証、これを求めます。それが「我在り」です。間違いなく存在しているというこの感覚、この感覚を「自分」が居るという決定打にしているのです。ですがこれは間違いです、在るという感覚は間違いなく在りますが、、「自分」という感覚は嘘です。全部思考です。

「自分は嘘」だから疲れる

冷静に考えてみれば、、自分自身でただ居るだけならば疲れないはずです、、、そのままだから。でも会社に行っても学校に行っても夜になれば疲れを感じ寝ます、もしくは会社に居る間も疲れを感じています。なぜ疲れるのでしょうか??それは自分という存在が錯覚、嘘だからです。自分という存在は思考が考え出したアイデアです、自分という収縮した思考パワーです。

自分が溶ければいつでも全体

自分という存在は本来ないのでこの全体の中に溶けてしまえば自分は終わります、これが悟り、解放、解脱です。ではどうしたら自分は溶けてなくなるのか???それはこの自分という存在がなぜ今まで存在していたかを見抜くことです。自分を維持するメカニズムに気づくことです。自分を維持するために思考はこの自分が確実であるという思考を絶えず湧かせ続けています。本当を言えばただその思考が湧き続けています。

「私は在る」の上で全生命活動は行われている

全生命活動は「私は在る」の上で起こる

全生命活動共通の感覚「私は在る」この感覚の上で我々の生命活動は行われています。この感覚がない場所は一切ありません、この「私が在る」が全生命活動の基盤です、、、この基盤から離れれば苦しくなり、この基盤と近ければ平和、歓喜、安堵です。人間はこの「私は在る」の基盤の上で思考活動に入り、、「私は在る」から離れていきます、完全に離れることはできませんが、、そうなると苦しいが湧いてきます。動植物はこの「私は在る」から離れることができません、ですから常に平和の中にいるのです。

「私は在る」の上で思考活動が続く

覚者は悩める迷い人に「何もするな」と提案します。なぜならば何もしなければ「私は在る」しかないからです。ですがこれを多くの人はすることができません、思考し、行動し、、、、どこか満たしてくれる場所を目指すのです。ですがそんな場所は存在しません、「私は在る」が既に土台に在るからです。にも関わらずどこか遠くに満たしてくれる場所、桃源郷が在ると夢見るから我々は夢の中に居ると言われます。覚者はそこを指摘します「今ここに全部ある」と。

「私は在る」はどこにも行かない

我々は最初から最後まで「私は在る」以外の場所に行くことができません、ここがホームです。これ以外の場所で活動は絶対にできないのです。一度たりとも平和、歓喜、安堵というホームから離れたことがないのです。ですがその中で思考は思考します、、これを達成すればこれが叶えばこれさえ手に入れれば、、私は幸せになれる、、と、、そして思考が湧き続け行動が湧き続け慌ただしい生活を続きます。足元には常にホームがあるにも関わらずです。ですがこの人間活動こそを「私は在る」が経験したかったことでもあります。

「私は在る」は思考???

「私は在る」は思考ではない

「私は在る」という感覚、これは生まれてきてから今まで一切途切れることはありません、こも感覚、、この世界に間違いなく「在る」というこの感覚こそが我々をhuman ではなくhuman beingにしている根拠です。何をしていても何を考えていても、、この「在る」という感覚だけは不変です。不変のものが思考であるはずがなく、、「ある」とは神の意識です。そうです、我々はいかに人間活動をやっていても神の「ある」という感覚の中でそれが行われているだけなのです。

「私の在る」と「他人の在る」は同じ

「私は在る」と友人が感じている「私は在る」は別人の在るなんでしょうか、、、、違います同じ人の在るです。そうです神の在るです。世界中80億人の「私は在る」は全部同じ存在が感じているのです。それを神、ワンネス、大いなる一つ、、と呼称します。個人は皆この「私は在る」の存在を深層心理では認識していますからここに戻りたいのです。恐ろしく楽しい時も恐ろしく辛い時もここに戻りたいのです。そして戻ることを「目が覚める」と表現します。

「熟睡時」の感覚は楽しい夢よりも偉大

夜、夢を見る際には皆わかっています、、、楽しい、楽しい、エキサイティングな夢を見るよりも熟睡後の恍惚感の方が間違いなく上であると、、、大金持ちになり、大有名人になり、全てを手に入れた男の夢を見るよりも、、熟睡後の幸福感が上であることを。。これは全員が気付いています。そうです、、この人間人生でいかに楽しく最高で快適な生活をしようとも、、「私はある」の感覚の場所に戻ることの方が偉大であることを皆知っています。だから多くの方が太古の昔から宗教を求め神を求め続けてきたのです。

「これが私だ」は強烈なプログラム

7年間近い歳月のインストール

PCの中に生まれたアプリAには「これが自分だ」という認識はありません、なぜならばそのようなプログラムがされていないからです。アプリはただ普通に起動し疲れたら休止します。ただこれだけです、自動でアプリが立ち上がそしてアプリAの機能を果たします。ただこれだけが延々に続きます、、、ある時に他のアプリBからそのアプリAに対してあなたは「Aちゃん」「Aちゃん』と呼ばれるようになります。最初はアプリAは何が起きているか全く分からないのですがこれを数万回継続されることで、、、アプリAは、、、「このアプリは私だ」という認識がインストールされます。アプリAは私はアプリAというこのPCとは全く関係なく独立した自由な存在であると認識するようになります。ですが実際にはアプリAを動かしているのはPCですからアプリに自由意志は一切ありません、アプリの機能にそのような機能は組み込まれていないのです。画面上のアプリに操作機能は一切ない。PCがアプリを常に機能化させているだけです。ですがアプリAは動くこと全てを自分がやっていると勘違いする機能がインストールされています。

もう自由意志を疑わない

思考、動きの全てを「自分がやっている」という錯覚機能がこのアプリにはインストールされていますからこのトリックを疑うアプリは存在しません。ですがアプリは常にPCによって操作されています。そしてアプリ自身も元々は「これが私だ」という認識はなくこの認識は後付けされたインストールによってです。アプリにはこのPC画面内を動く機能が(歩行)がインストールされたために画面内を自由に歩くことができるようになりました。歩くと行っても画面内で動くのは画面の背景であり、、アプリは常に画面の定位置に存在します。そしてアプリから眺める視界はインストールされる言語によって日々変わっていきます。新しい言語を覚えることでアプリからの視界は徐々に変わっていくだけでなくアプリがあらゆる経験を積むことで経験が価値観になりそれがプログラム化されていきます。

無くならない居心地の悪さ

アプリを作り出しているのは全部プログラム言語です。これによってPCが「私はアプリだ」を体験できています。ですがPCはPCでありそれ以外には本来なれません。ということでこのアプリ体験は疲れるのです。PCがアプリになり切るのはどんな感じかを味わうためにこのプログラムをPC自体が構築したはいいが、、非常に骨が折れる経験になってしまいます。ということでアプリ体験をするPCは徐々にこの居心地の悪さを根本的に解消したいと動き出します。そして、、どうやら「これが私だ」というプログラムのインストールこそがこの苦しさの原因ではないか??という気づきにまで届きます。しかしそこに気付いてもこのプログラムは自動反応のように起き続けるのでこれを止めることができません。

「これが私だ」が立ち上がっても無視することでこの機能が落ちていく

「これが私だ」の自動反応は、、、あらゆる思考(言語)と一緒に立ち上がることが分かってきました。そこであらゆる思考が立ち上がってもそれを気にしないという方法を覚えていきます、思考(言語)の無視です。この思考の立ち上がりに意識を向けると、、これが私だも同時に起き上がっていき苦しくなる、、、思考(言語)の起き上がりに囚われると延々にアプリの活動が続いてしまいます。

私たちが使っている言語はプログラム言語

脳がOSで言語がプログラム、見ている世界が画面

人間は言語を何の気なしに使いこなしていますがこれは実はプログラム言語です。覚えた言語によって実は見える世界が完全に書き換えられていきます。なぜならば我々が見ている世界は脳内で見ていますから言語の介入なしに見ることは絶対にできないのです。価値観というのは実はプログラム言語の集積のことであり見える世界を完璧に書き換えます。そして我々が脳が作りだした視界の中を立体映像として動き回るのです。それによって距離が生まれ、時間も誕生しますが、、、脳内の映像の中を動いているのですから本当は距離などあるはずがないのです。ということは時間もありません。

カラクリが見えてきた

我々が見ている世界は脳内の画像です、そしてその画像は思考、価値観がプログラム化されて完全に書き換えられていきます。本当の事実を我々は見ているのではなく脳内でプログラム言語が構築した世界を見ています。だからこそ新しい経験をすると全く違う世界が広がるのです。臨死体験をすると生に対する認識が変わります、大病をすると体に対する認識が変わります。大金を失うとお金に対する認識が変わります。認識が変わるということは見える世界が書き換えられているのです。

私が居るというプログラム言語が「自分」を作り出した

生まれてきてから7年近くの歳月をかけて「名前」を呼ばれ続け先ずはこの自分が居るというプログラムが構築されました。これによって「自分」と「自分以外」がこの世界を構築します。次々に名前を覚えていくことで名前がつけられた生命現象が分離化していきます。これによって「自分」が見る世界に特定の物や特定の人がたくさん登場するようになるのです。人生ドラマがスタートします。

「私は在る」は空からの反映

我々は空の影の世界を生きる

ゼロ、無、空、絶対、、、この究極の存在の影が色の世界です。色の世界は「私が在る」という絶対的な感覚があります。我々も人間活動をやっていますがその大前提にこの「私は在る」が確実にあります。この揺るぎない感覚こそがゼロ、無、空、絶対の影である色、神、大いなる一つの感覚です。その中にさらに人間が在るという感覚が芽生え我々は人間活動をしているのです。

指の動きが人間

腕全体を神としましょう、すると人間とは指の動きぐらいの感覚です。指が独自に意識を持ち「私は自分」という感覚を所有しました。これが自我です。思考です。本当は指の動きですから全くもって自由意志はありません、腕の先としてコントロールされているだけです、ですが指は「自分」で動かしていると錯覚を起こします。で絶対的な自由意識はどこから来ているのか???厳密に言えば自由意志はどこにもないでしょう。神すらも絶対の影ですから影に意志は作りようがないのです。究極的にはただ動き、思考が起こっているだけということになります。それが影の宿命です。

集団意識、オーバーソウル

人間が指だとしたら手のひら全体は何になるのか??これが集団意識、オーバーソウルと呼称されるような存在です、ですがここにも自由意志は存在しません、これも腕の一部でしかないからです。ただしこの手のひら全体の起こりは在るでしょう。日本人の特製、民族の特製、有色人種の特製、、、などです。

神、ビッグバン、大いなる一つ

宇宙が発生した際にビッグバンが弾けたということになりますがここに個別意識はあるでしょうか。。恐らくないはずです、、、ただ爆発があった、、、これが神の本質です、大いなる一つの本質です。これが絶対、空の影、反映です。ですから実はどこにも自由意志はない、、ただ空からの反映、、そしてそこからの起こりがある、ということになります。我々はそんな中で腕(神)の中の指としてそこに自覚をもって、錯覚を持って生きています。

指から腕を見ている

人間が見る世界は指に目がついて腕(全体)を見ている感覚です。指は思考に支配されていますからありのままを見ることができません、思考というフィルターを通じて腕(全体)を眺めます。そして指がこの腕の中を動き回ることで空間と時間が発生しました、これが時空間幻想です。本当は腕の動きがあるだけでありそこには時間も空間もありません。指に自我が芽生えたので指が動き回るために時間、空間が生まれました。指の動きとは何も関係なく、指の意志とは何も関係なく腕は動き続いけますから指にとって都合の良い世界(腕)など作られるはずがないのです。もしもあるならば指の存在、指の動きは実は腕の一部であったという気づき、諦めしかありません。そして指が思考というフィルターを通さずにこの腕を見ることで全体の一部に戻ります、これが悟りです。

事実に対して「私」がでしゃばり場を壊す

美味しい料理の食事中に

友人との楽しいディナー、、、美味しい料理を食べていると、、この料理はなんとか産で、あと1ヶ月早い時期が旬だな、、中目黒にもっと美味しい店があって、、私はこれを毎週のように食べている、、などといらない情報を友人から言われたります。するとどうでしょう、、、料理の味が美味しくなくなっていく、、、、、料理を食べながら自慢話を聞かされてもこっちはモヤモヤと思考がフル回転してしまいます。思考がフル回転すればもう終わりどっと重くなっていきます。

美味しい料理と思考は合わない

美味しい料理(事実)と思考(自分)は相性が悪いのです。美味しい料理は思考など全く必要なく美味しいのです、そこに思考が湧いてくると全く美味しくない、、、重くて重くて味などしません。これが現実の全てです、、、体の五感が感じるだけならば全部新鮮、美味しい、楽しい、軽い、、、、そこに思考(自分)が湧き出してきて場を重くします。料理が美味しければ美味しいほどに無我になり、、それにたいし自我(思考)は脅威を覚えます。自分が忘れ去られていると、、、そこで自我は思考を湧き出させこちら側に引っ張りあげようとするわけです。

思考が湧いたらさようなら

思考が湧いてきたら、、それは放置です。何かに熱中しよう、何かを楽しもう、何かを生きがいにしよう、、、そこに思考が邪魔をしてきます。。。思考は無我に入らせないように湧いてきます、、そしてたら放置、、、邪魔をさせない、、、そして我々は体の感覚、五感が感じる世界に没頭していけばいいのです。その世界は無我、無心、無思考であり、非二元の世界です。そこは平和安堵、歓喜が横たわっています。その世界に慣れていきますと思考の世界は重くて重くて二度と興味がなくなります。

残念な社長(私)同士の世の中

実は全部部下が決めている

残念な社長って世の中にいます。実は部下が全部決めているのですが表向きは社長が絶対的に決めていると装っている社長、、、部下言いなりになっているが表では自分がしっかりと決めていると言い張る社長、、これが人間の姿です。この私(自分)が全部決めていると思い込んでいますが本当は何も決めていない、、、神(潜在意識)が決めたことを私が決めていると錯覚させられているだけ。これが私です。

本当は全く決めてないのにいがみ合う社長同士

なぜあなたの会社はこんな決断をしたんだ???私がこんな決断をしてしまい本当に申し訳ありません、、、こんな茶番が日々繰り返されています。本当は全く誰も自分では決めていないのに。大喜利、コント、落語の世界の話です。誰も何も決めていないにも関わらず決めているという大前提で人間同士、残念な社長同士が罵り合うという悲劇がこの現実です。

誰も何も決めていないのだから、、、

誰も何も決めていないのだから、、、いがみ合うのは無意味です。かと言って何も相手に責任を求めないのもおかしい、、相手を残念な社長だと理解すれば、、、(本当はあなたが決めていないのは知ってるけれど、、、)このようにお願いします、、、と大人の対応ができるようになります。残念な社長を相手するように全てを対応していけば万事平和にことは進みます。

顕在意識(私)は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたと錯覚を起こす

顕在意識はただひたすらに錯覚を起こす

顕在意識とは私のことです、この私は潜在意識(神)が決めたことを私が決めたとひたすらに錯覚を起こし続けます。本当は全部潜在意識が決めているにも関わらずただ健在意識はそれを私が決めたと錯覚を起こします。全部が全部このパターンで行われています。だからこそ無自覚であっても料理、掃除、食事、トイレなどの日常生活の行為は勝手に遂行されます。今私はタイピングしていますが自分が打っているという自覚は後付けでしかありません。

顕在意識が私が決めたと錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めている

ということは顕在意識がこの錯覚を起こすことすらも潜在意識が決めているということになります。大変面白い事実です。結局のところ「覚者は全て自作自演であると言う」のはこの事実からです。潜在意識から昇ってきたきた衝動を顕在意識が自分が決めたと錯覚を起こし続けるメカニズムが人間(私)です。

何も決めていないならば何も反省できない

このメカニズムを知ると、、顕在意識(私)に決定権は何もなく、、、決定権が何もないにも関わらず慢心したり、反省したりするのは無茶苦茶な行為です。人間(顕在意識)に決定権が何一つないならばこの世界で行われている責任の擦り付けに何か意味はあるのでしょうか。ただしこの責任の擦りつけすらも潜在意識が決めてそれを顕在意識が錯覚を起こしているだけですのでそれすらも顕在意識には関与できません。この世は神の遊び場というのはどこまで行っても本当のようです。