朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

目覚める誰かもいない

目覚めも誰かも幻想

目覚めるためには目覚めるための誰かが必要になるのですがこの誰かは真実の中では存在しません。真実の中では誰も何も存在しえないのです。そして我々は真実そのものですから真実の中では誰かは存在できないのです。よって誰かが目覚めるというのは幻想、ストーリーであって真実ではありません。目覚める誰も存在していなかったという気づきだけが起きるのです。目覚めた後には何も残らないのです。騙し絵で老女だと思っていたら若い女性だったという気づきが起きた時には老女は消えています。真実に気づく個人は存在しえないわけです。

本質とは目覚める誰かが消えた時

本質、真実に気づく個人は存在しえないのです。その個人が存在していなかったという気づきが起きた時に本質があります。その気づきは個人の中で起きえることはなく個人というのが幻想であったという気づきです。個人が目覚めるのではなく本質の中には個人は居なかったという気づきです。これが悟り、覚醒、ノンデュアリティです。

非二元とは

悟りという言葉がこの世から消えていきノンデュアリティ、非二元と呼ばれるようになったのは、、、悟りという言葉には個人が悟るという意味が強く現れてしまうからです。実際には個人が幻想であったというのが悟りですから悟りの主語は個人、自分、自我ではないのです。ノンデュアリティ、非二元とは、、主体客体の世界の終焉のことであり、、この世は私が居て、見える世界があるという二元ではないよという意味です。ですから個人が悟るという二元の表現はそもそも間違っているのです。騙し絵の中の老女が若い女性を見つけるのではありません、老女の存在は消えた時に若い女性が現れるのです。老女が悟って若い女性に気づくのではないのです。個人が悟るのではなく、、個人の存在が幻想であったという気づきが悟りです。気づくのは誰か??誰でもなく気づきがただ起きるのです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

死んだらどうなる??

死ぬ自分が存在しない

死んでしまったらこの「私」はどうなってしまうのか???これは永遠のテーマ、みんなが不安に思っていることです。ですがこの議題の前に大きな誤解があります、それはこの「私」は存在しないのです。。。。そもそも存在しないのだから死んだ後どうなるか???という疑問は成立しないのです。「私」という存在が実在するという思いは100%存在します、ですが「私」は実在しません。例えばこの「私」とは自由意志を所有しあらゆる行動を決めている「私」のことですよね???残念ながら自由意志はないのです。全て自動反応で起きているだけです。

そもそも存在しないのに

実際のところ、、この「私」を体内から出して発見した人は皆無です、体内から抽出して写真に収めたという事実は存在しないのです。これこそが「私」が実在しない100パーセントの証拠です。ですから死んだ後もこの「私」は存在しないというのが事実なのです、真実です。だから死んだ後のことは何にも心配しなくていい、肉体の死が起きればそれはただそれだけです。

だからこそ嫌われる

「私が居ない」なんてメッセージは「私」を救いません、、「私」が居ない世界など想像などしたことないしいつもこの体と一緒に頑張ってきた唯一無二の存在を否定などできるわけがない、、、これが事実です。ですからこれらのメッセージは嫌われるわけです、徹底的に。ですが本質はこのことを分かっていますからだからこそ拒絶反応が起きるわけです。どうでもいいメッセージならば拒絶反応は起きない、、反応が起きるということはそれが真実だからです。

AMAZON以外に、、

日本の出版界においてAMAZONが進出できたのは外資だったからです、アメリカ企業だったから進出できました。これが日本の企業であったならば恐らく潰されていたでしょう、既得権益に。なぜ既得権益から拒絶反応が起きるのか???それは分かっているからです、AMAZONのような会社が進出してきたら出版界が激変してしまうことが、、、これこそが悟りのメッセージです、、、悟りのメッセージが徹底的に嫌われるのはそのメッセージの内容が自我にとって壊滅的なメッセージでありそして真実だからこそ拒絶反応が起きるのです。

優劣が消える

どちらが優れているかは自由意志があってこそ

人は無意識に人と人との間に優劣をつけます、あの人は私よりも上だ、あの人は私よりも優れている、、勝手な物差しで人を天秤にかけ優劣をつけていきます。この優劣が生まれるのは、、人には自由意志があり自分が起こす行動には自分が責任を取るという大前提があります。ですが実際には自由意思はありませんから人に優劣をつけることはできないのです。すると自我は困ります、優劣をつけてくれないと頑張れないではないか、、と。優劣がつくから一生懸命努力してきたのに優劣がつかないならば頑張ってもしょうがないと。

それでいい

そうです、優劣をつけるために頑張るのは無駄なのです。そしてそのことを実は本質レベルでは誰でも分かっています。だからこそこのカラクリから目覚めるのが怖いのです、自我は。優劣の世界において自由意思で頑張る必要がある、そのためには自由意志を扱う自我の存在が決めてになると、その流れです。しかしながら真実では自由意志は存在しません、この世界には。だから競争による優劣を感じるのは無駄なのです。

いつも比較している

人間は常に比較して生きています、表には出さなくても間違いなく人間は常に比較して生きているのです。だから人は努力し頑張る、、ですが自由意思も間違いなく存在せず、それを操る自我も存在しない、、そのことは本質では分かっている、、だから疲れるのです。つまりもう競争の勝ち負けで、比較の勝ち負けで優劣を感じなくていいのです。優劣のために頑張る競争から抜けてしまっていいのです。自由意志が存在しない以上、勝った自由意志は存在せず負けた自由意志も存在しないのです。世界は常に自動反応でただ思考、言動が起こっているだけです。

世界は私の中にある

これまで一度も世界の外になど居たことがない

この五感が掴んだ世界にしか我々は居たことがありません、、五感で感じた世界は、、、我々の世界であり、、この五感が感じていない世界は、、存在していないのと同じです。。事実我々は、、、、この五感が感じた世界に生まれ、、、今までこの五感で感じていない世界には住んだことがないのです。世界は我々の五感の中にあり、、そこ以外に存在しえないのです。

固定した世界は存在しない

固定した世界が先ずはあって、、、そこを我々の体が感じるのではなく、、、我々の感じたもの、、、=世界です。、、、世界は全くの幻想であり、、、固定した世界は存在しません。我々の五感=世界です。。。つまり五感を開いていけば、、世界はいくらでも変化します、、、我々の五感が全てです、、、、この事実をしっかりと捕まえて、、生きていきますと、、、世界は本当に素晴らしい、、この世界は無限の可能性に満ちているということが分かります。

幼児はそのことを分かっている

幼児が遊びに夢中になるのは、、全部が自分であることを確信しているからです、、、自分の中で蝶が起こり、自分の中でセミが鳴き、、、、自分の中で宇宙が広がります、、、この事実が分かってしまって、、、一体何をこれ以上求めるのでしょうか????この求めるという衝動自体が大勘違いから起きているのです。

体を開く

体を開きます、、ヨガ、ストレッチ、マッサージ、瞑想、鍼灸、、、、あらゆるメソッドを使い体を開きます、、、体を開くとは体の感覚、、効くという感覚に徹底的に寄りそうのです、、、、徹底的に効くに拘ります、、、すると徐々に体が開いてくる、、、、デトックスが進み、、体の流れが解放され、、、各経絡、各チャクラが、、整ってくる、、、、この時五感が鋭敏になり、、、世界が変わるのです、、、世界から退屈が抜け落ち、、鮮明になります、、、明晰になります、、、静寂、平和が訪れます。

「私は明日死にます」という相談

死ぬ個人が居ない

例え友人にこのように相談されても、、、死ぬ個人が居ないのです、、、全自動システムでその言葉が起きたのです、、、、便宜上、、勿論必死に止めるでしょう、、、ですが、、、実はその個人は実在していない、、、実在していない個人が死ぬのは不可能です、、、体が朽ち果てても、、、それを所有する個人は実在しません、、、ただその体を通じて起きる全自動システムが終わることになるだけです。

生きる個人も居ない

死ぬ個人が居ないのですか、、生きる個人も当然居ません、、、、ハッピーな個人、憂鬱な個人、ラッキーな個人全部嘘です、、、そのような個人が居るという思考が起きているだけです、、大自然で、、、ですから誰も心配しなくていいのです、、心配すべき個人は存在していませんから、、、大自然にただそれが起きています、、、ですが相手は大自然ですから何も問題がない、、、大自然がそれを許容しているのですからそれは大自然に丸投げでいい。

これは「私」には見えない

「私」が居ると見えなくなる

本当の世界、真実の世界は「私」が居ると見えなくなります、、、、この「私」という存在体の中の存在を信じていると見えなくなるのです。真実を見ることができないのではなく、、「私」が居ることで、、そこに私の観念が反映した世界がベールとして広がり真実を隠すのです。色眼鏡がかかった景色に急変化します。

「私」という存在を嘘と見破る

私という存在を嘘と見破ることができますと、、、景色を景色のままで感じるが起きます、、、、それを見る私が消えます、、景色が景色のままにそこに在るのです、、、そしてこの体も景色に変わります、、、この体を含めた景色を景色が感じます。。。

悟りのメッセージを使い倒す

悟りのメッセージは個人の嘘を暴く内容です、、、個人という存在の嘘を徹底的に暴いていきます。これを個人は嫌います、、個人が嫌うというのも嘘で、、嫌うという感情が勝手に湧きます、、、個人が居ると言うストーリーをイメージしていると、、ですから悟りとは個人の存在を追い詰めることなのです、、個人をこの世界からはぎ取る、、個人をこの世界から抹殺する行為です。

私たちは「いつ」と比べて今が苦しいと感じているのか???

なぜ探求するか???

この世界に居る人々は全員が探求者です、、みんなもっと幸せになりたいと思っています。。。ではなぜもっと幸せを目指すのでしょうか????ゴールを経験した事がないのですから、、なぜゴールに向かうことができるのでしょうか????簡単です、、ゴールを知っているからです、、この表現は間違い見かけ上の「私」はゴールを知りません。本質はゴールそのものであり、、この探求が本質の中で起こっているので、、ゴールに気づくことができるのです。ゴール(本質)はゴール(本質)のままではゴール(本質)に気づきません、、ゴールから離れることでゴール(本質)とのギャップが生まれ、、、そのギャップこそが苦しみを生み出しているのです。逆を言えば、、、ギャップを生み出す根本こそが、、ゴール(本質)です。

ゴールを離れることでゴールを知る

今苦しんでいる「人」は間違いなくゴールから離れているのです、そしてそのことを明確に感じている、、だからこそ苦しいのです、、、苦しいとはゴールの存在を知っている絶対的な証拠になります。。。早くゴールを達成したい人とはゴールを感じまくっている人なのです。今まさに。ゴールを達成していないのに、、、今ゴールを感じてから、、今苦しいが湧いています。このギャップを今生み出しているゴールを直視してください。ゴールは遠いどこかにあるのではなく目の前に常に鎮座しています。

苦しみを生み出す力こそがゴール

ゴールとは場所ではない、、ゴールとは今この苦しみを生み出す力そのものです、、この視点を作り出すこの力そのもの、、私が確実に居るという思考を生み出す力そのもの、、、今目の前に広がる世界を作り出す力そのものです。苦しいから苦しくない場所があるのではなく、、、この苦しみを作り出すパワーそのものがゴールです、、つまりこの全現象、全思考、全感情、全行動、全経験を作り出すパワーそのものがゴールであり、、ゆえに本当の「私」とはこのパワーのことです。。

この認識が起きると「凄い」という気づきが生まれる

見かけ上の「私」なんていうちっぽけな存在ではなく、、、この経験の全てを作り出すパワーそのものであるという認識はそれを感じさせてくれる経験を起こし始めます、、、自分がそのパワーそのものであるという経験が起きるのです。。それでも周囲はこの見かけ上の「私」を渡しといて接点を持つでしょう、、、ですがそこで認識を戻さない、、、、そこで認識を戻せばまたもとの生活に戻ります。学び倒して認識を変える必要があります。ですがそれが起きるか否かはその動き(本当の自分)にも分かりません。