非二元が思考を追い出す

非二元に親しむと思考への親しみが終わる

頭で考えて非二元とはどうか?神とは何か?ワンネスとは何か??と思いを巡らせても、、、非二元も神もワンネスも大いなる一つも、無我の世界も全く馴染んていきません。国の名前を覚えるがその国に一度も行ったことがない人、ピカソの偉大さは映画で見ても彼の作品を観たことがない人、サーフィン映画にはハマるがサーフィンをしたことがない人、、、これと同じです。非二元の世界に興味があるならば先ずは日常からその世界に触れる方が早いのです。

ではどうしたら非二元に触れることができるか?

非二元がどこにあるか?非二元ってここからどのぐらいの場所にあるのか???非二元は今ここにしか存在しません。非二元は今ここ、目の前、そしてこの現象が浮き上がるその場所に存在します。つまり我々は非二元から離れたことなど一回もないのです。非二元から離れることができるとしたらどっぷり思考の世界に入り込むことだけです。そうです、我々は非二元を目の前にしながら思考の世界にどっぷりハマり妄想、幻想の世界の住人になっているのです。思考から抜ければいつでもそこは非二元です。

五感の世界に意識的に入る

人間の五感は今にしか感じることができません、今飲んでいるコーラの味を明日味わおう、、これは不可能です。そうです、五感とは「今この瞬間」に意識を連れ戻してくれるのです。ということでシンプルに五感を味わっていきます。今聞こえる音楽を聴く、今風を感じる、今食事を味わう、、そこから思考に逃げない、、そこに解釈を加えない、、そこから思考にどっぷり行かない、、これを継続していきます。思考がない世界を味わう、無思考の世界、無心の世界、、、そこが無我、非二元の世界です。目の前に非二元の世界はいつもあったのです。これをなんとかして隠し続けてきたのが思考です。

非二元が思考を追い出すまで

非二元に触れ続けていきますと思考の世界の重さが嫌になります。思考の世界に入ることがバカバカしくなります。なぜ目の前に平和、安堵、歓喜の世界があるにも関わらずわざわざ重い世界に入らなくてはならないのか??もう不思議でしかありません。そこまで非二元、無思考、無我に親しんでいきます。意識的に留まることができた時に今までの苦しみの人生のトリックに気づきます。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。

五感、五感、五感、、非二元

今、今、今、非二元

五感を最優先して生きていくとは、今を最優先させて生きていくことにあります。今を何よりも優先しているか?過去や未来です。今は酸素量が多く、過去や未来は酸素量が少ない世界です。ですから覚者は皆今に居ろといいます。過去や未来ばかりを考えていると酸欠状態が続き苦しくなります。なぜ酸素が薄くなるのか、、簡単です今が薄くなるからです。今とは酸素そのものです。五感を優先させて生きていきますと今にしかいれません、つまり酸素しかない世界ということです。この世界で苦しむのは逆に難しいのです。

思考はいつも意識を過去未来に連れていく

今しかないのに、、、思考は好きあらば意識を過去、未来に連れ去ろうとします。そして酸欠状態を作り出しておきながら、、この酸欠を解消するためには、、、これをした方がいい、あれをした方がいい、あれが反省ポイントだ、、これが改善ポイントだ、、とさらに思考の波に飲まれさせます。この思考の常套手段を見抜くことです。何か苦しい、、と思ったら確実に思考によって過去、未来に連れ込まれています。直ぐに今に戻ることです。五感の感覚だけを感じて思考を追い出します。体は今にしか存在できません。

歩く時は思考を入れない

歩く際には、足が地面を感じる感覚、肩が風を切る感覚、歩行者の話し声、見える看板、道端の花々、、、これらをただ感じていきます。そこに思考を挟まない、、思考の世界に入らない、、これを練習していきます。そして思考が湧いてきたらただ放置する、、これにより今から離れることがなくなります。すると今がより今になっていきます、今が益々今になります。今がこちらに寄せてきます、今とは非二元、大いなる一つ、神です。

自我すらない、、

ただこれだけがある、、、

ただこれだけがある世界に、、、思考が湧き出てこれに取り込まれます。これのよって初めて自分という存在が生まれます。それまでは自分などどこにいません、ですが思考が湧き出すことで自分も一緒に生まれるのです、これが自我のメカニズムです。そこから思考に取り込まれて続けているうちに自分はより確固たるものになっていきます、幻想上。目の前に友人がいます、本当はただこれだけがあります。そのただこれだけを見て思考が友人であると認識します、そこからその友人が生まれます、それだけです。全部この場所でただこれだけが思考によって切り刻まれ分離錯覚させているだけです。非二元は非二元でしか存在できません、これをその場で切り刻み分離錯覚世界にしているだけです。

そうしたら非二元に戻れるか

究極のギャグです、今も非二元の世界が先ずそこにあり、そこに思考の認識が始まり世界が切り刻まれているだけです。瞬間に人間の思考が解釈を加えます。そしてそこから思考が湧き上がりその思考にしがみつきます。自作自演のメカニズムです。この思考の自作自演に取り込まれている間は苦しみの世界が続きます。非二元は平和、歓喜、安堵ですが、、そこから分離の世界、幻想の世界に入り込むことで非二元が薄くなっていきます、神が薄くなっていきます、ワンネスが薄くなっていきます。ただそれだけです。

思考の自作自演を見抜く

ですが我々は思考を暗記してしまったので、解釈なしの世の中に戻するのはできません。何もない世界に戻すことはできません。だから先ずは五感の感覚にだけ戻していきます、五感は今にしか感じることができません。先ずは今にある習慣を掴んでいきます、そこから思考に流れていきません。今にあることを習慣化していきます。完全に分離して見えてはいますがその世界の中で今にある習慣化をしていきます。

この世はたった一つのエネルギーでできている=大いなる一つ

目の前に大いなる一つはあった

大いなる一つ、神、ワンネス、、、こんな壮大なネームがこの非二元業界にはたくさんありますがこれらは一体どこにあるのか???遠いどこかにあるのか???もしも遠いどこかにあるのならばここはどこだ??ということですが大いなる一つは今ここにあります。我々の目の前の世界こそが大いなる一つでありワンネスであり神です。ですが我々はその素晴らしさを全然把握できていない、感じていない、、、なぜならばひたすらに思考の世界に取り込まれているからです。目の前にあるこの存在を無視して思考の世界に飛び出てしまっているから分からなくなっています。

思考を無視し続けて、、、

目の前のある大いなる一つを感じるためには日々感じていかなくてはなりません、そのためには思考を放置するこちです、思考に取り込まれる癖を見抜きそこに入っていかないことです。そうすればいつでも大いなる一つは目の前にある、、目の前の食事、鳥の声、雨の音、風の感触、空気の味、、、この全部が大いなる一つそのものです。この素晴らしさに気づくないのは、、、ただ思考に取り込まれているからです。思考が湧くとその思考に取り込まれ戻って来れなくなってしまう、、、ただそれだけです。

ただ事実だけを感じていく

お茶を飲んだら味だけを感じて、景色を見たら景色を感じる、鳥の声をただ感じる、、音楽を聞いたらただ聞き入る、、、そこから思考の世界に入らない、、、、思考の世界の入って行くと目の前の大いなる一つが薄くなっていきます。波動が荒くなっていきます。苦しくなっていきます。苦しくなりとさらにより思考することに入って行く、、この連続で人生は苦しみの渦中に。

五感以外に事実はない

事実と思考を完全に引き離す

A地点からB地点までは二キロの距離がある、、これは事実ではありません。私がA地点からB地点まで歩いて行くとします、A地点から歩いて行く間に目に入る景色、足が感じるアスファルトの感触、会話をしている歩行者の声、これは事実です。確実に私の五感が感じています。そして最後にB地点に到着しました、これも事実です。ですがその距離が二キロあったというのは事実ではありません。これは我々の思考です。非二元では空間はないというのはこのことからです、空間を感じることができない、感じることができないのは事実ではないということです。事実はこの体が感じたという事実だけです。

時間もない

時間もありません。瞬間瞬間我々は今を感じています、この瞬間を確実に感じています。ですが時間を感じることはしていません。時計を見たら五分経っていたというのは時計を見たからそう思っているだけです、自身が五感で時間を感じていません。過去の写真を見たから時間の経過を信じているだけです、これは思考です。冬になってきたら寒くなった、、、これは時間ではないです、ただ寒いを感じているだけです。時間もこの五感が感じていないから事実ではないのです。

事実はいつも非二元で思考はいつも二元

事実はいつでも非二元です、神です、ワンネスです、、要は重くないのです。そして事実から思考に移るとそこは二元、自分、自我、幻想、、この世界は重いのです。我々人間は直ぐに思考をつかたがります、なぜならば思考=自分だからです。何かアクションを起こすと同時に思考が湧き出してきて思考の世界に取り込まれます。そして重い世界に身を置きます。思考の世界は常に自分と一緒に入れます。一方事実の世界は自分が居ません、非二元がただあります。ここは軽い世界です。

事実(非二元)以外は思考(二元)するのを辞める

事実(非二元)だけ見ていく

これからの将来、、、こんな事態になる可能性があるから今からこんな準備をしていかなくては、、、これは思考が考えだす不安から来る思考です。これは事実とは全く関係がありません。事実がこうなっているから将来こうなるのでは????これ事実から湧き出た思考です。この思考に我々は取り込まれていきます。事実は非二元です、ですが事実から湧き出る思考は二元です。この思考に取り込まれていくから二元に取り込まれます。そして二元の世界は苦しみの世界です、酸素が薄い世界です。

事実(非二元)だけを見ていけば本来は全く重くならない

例えば今ロシア、ウクライナが戦争を起こしています。これは事実(非二元)です。ですがこの事実に基づいて我々は重く重く考えていきます。第三次世界大戦になったら、核戦争になったら、、こうやって思考、自分、二元の世界に取り込まれていきます。ここは苦しい世界です。ですが事実だけで言えばロシア、ウクライナ戦争の影響はほぼ生活には支障がないです。仕事があぶれた、会社が倒産した、ウクライナ人難民が街に溢れた、、これはないですね、、つまり事実は何も起きていないのです。何も起きていないならば事実は軽いままです。これが非二元です。

事実(神)は重くない

神が居る世界は重くないです、神が薄れた世界、、思考の世界は重いです。神が居る世界、思考以外の世界では事実は淡々と起きていきますが実は大したことはないです。なぜならば神の世界だからです。では事実として東京直下型地震が起きたらどうなんだ?という話をしましょう。もしも事実として起きてそこに入れなくなったら移動するだけです。会社も失い家も失い全部失ったらそれは重いだろうと、、それは違います、会社を失い家を失った時に、、、これからの人生をどうしたらいいのかと思考が湧き出して思考(二元)に取り込まれるのが分かっているから苦しいのです。事実は何も苦しくないのです。事実とは神が居る場所です。そこから離れて思考、自分、幻想の世界に行ってしまうから苦しいのです。

思考が無我を自我に引き戻す

思考=自我

思考が湧いてきても放置していいのは、、、この思考こそが無我から自我を引き出してきます、思考に取り込まれますと自我、自分が湧き出てきます。自分の世界は、幻想の世界、二元の世界に、、、引き戻されます。非常に空気が薄い世界です、苦しい世界です。自分の世界、二元の世界、自我の世界に居続けていますと酸欠になっていきます、そして寝ることで回復します。寝れば無我、無心、非二元、悟りの世界に入ります。

考えてはいけないのか??

考えてはいけないのか???そんなことはありません。ただ考える、思考すれば自分、自我、二元の世界に入り込んでいることを自覚してください。ここは空気が薄い世界、神が薄い世界、非二元が薄い世界です。酸欠状態になります。水の中に潜った状態です。苦しいのです。自分から思考、感情、二元の世界に入り込むと、、苦しいです。

思考してもいいんです

思考してもいいんです、ですが思考すればそのまま自分、自我、二元、幻想、時空間に入り込むことを自覚ください。そこは神が薄い世界です、空気が薄い世界です。その覚悟を持って思考するのは問題ないです。苦しくなったら無心、無思考、無我に入ればいいのですから。重要なことはそこに自覚的であることです。コーヒーを飲む、食事をする、会話をするのがなぜ非二元なのか?そこに自分が居ないからです、自分が居ないならば無我しかいません。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

ギャンブルしている時だけは思考が落ちる

ギャンブル狂は思考から逃げたいだけ

ギャンブル中毒、、、今話題のYOUTUBERガーシーは自身をギャンブル中毒と認めています。あれだけ頭の回転が良い人がなぜギャンブル中毒になってしまうのか???ギャンブルをすればお金が無くなる、、、これは中学生でも理解できる。あれだけ頭が良い人がなぜギャンブル中毒になるのかという話です。結論から言えば思考の回転が速いからギャンブル中毒になったということです。彼の会話のテンポから誰でも分かると思いますが思考の回転が異常に早い、、、もしも日常生活であれほどまでに思考に取り込まれてしまっていたらどうなるか???死にたくなるほど苦しいはずです。思考に取り込まれた状態は今から離れます、今とは全体、ワンネス、大いなる存在の場所、、、ここから徹底的に離れます、、、、そこは非常に居心地の悪い場所です。それを回避してくれる救いの神こそがギャンブルです。ギャンブルは頭を使います、五感をフル回転にします。空気を読みます、、、、これらは実は今に居ることを可能にします。その瞬間思考のループが外れます。居心地の悪さが解消されます。

カイジで読み解く

ギャンブル漫画のカイジ、、、カイジは絶対絶命のピンチの際に、、ギャンブル相手の顔色、雰囲気、空気、言葉、、に全集中していきます。五感をフルスロットルさせていきます。体をフル回転しています。この瞬間今にあるのです、、、思考からの乗っ取りを回避しています。体に全集中している状態は、、、思考の乗っ取りが消え失せていて安堵、歓喜、平和に襲われているのです。五感をフル回転にさせなくてはならないスポーツ、ギャンブル、仕事、恋愛、、、全てはこのパターンです。

思考を放置せよ

ガーシーはあれだけ思考の回転数が早い人、あの状態を日常生活でやれば恐らく死にたくなるほど居心地が悪いはずです。解決方法はギャンブルではないのです、思考を放置する、これだけです。思考が湧いてきても気にしない、放置のみ。そこから思考のループに入らなければいいのです。頭の回転に自信がある人は思考を信用しています、思考を無視できない、、、結果思考に飲み込まれて、、、苦しみの世界に入り込んでいきます。