目覚め

思考を落とした先に至福があることを知っている

CD売り上げを気にするミュージシャンは実はこの感覚を分かっていない

ミュージシャンであれば売り上げは重要です。音楽が売れなければ、聞いてもらえないならば音楽活動を続けることはできないからです。そしてもしも売れることができたならばこの上ない幸福でしょう。ですがその幸福は一瞬の幸福です、CD売上、ダウンロードの結果が出たときだけの幸福です。一瞬です。だからこそこの幸福は儚いのです。ですが一生懸命に音楽を作り続けるその過程で制作に集中すること、楽器の練習に集中すること自体から至福、歓喜、安堵に至ることを悟るミュージシャンが現れます。そこに集中することで無心、無思考、無我になりその結果安堵が押し寄せるのです。最初は何が起きたか分かりません、必死になって制作をしていたら突然至福が押し寄せてくる、安堵が押し寄せてくる、平和が押し寄せてくる感覚です。本当は売れたら得るはずだった幸福、歓喜、安堵がなぜかその制作途中に現れる。予定していない事件が起こります。

茶道、花道、柔道の達人はこれを知っている

茶道、花道、柔道の達人が、、最優秀賞に選ばれた時だけ喜び、それまでは血の滲むような苦労だけを重ねているとしたらそんなものに何の価値があるのでしょうか。一瞬の歓喜以外は苦労しかないならば辞めてしまった方がいいのではないでしょうか。ですが花道、茶道、柔道の達人は練習、所作の中から無心、無我、無思考に入り込みその場で歓喜、安堵、平和をえます。この夢の中で彼らは目覚めているのです。この儚い夢の中で彼らは無思考の歓喜を発見します。無思考の歓喜とは自我脱却の歓喜です。自我脱却の歓喜とは夢から一瞬覚める歓喜です。

CD売り上げを達成したとき、何が起きているのか?

CD得る上げを達成したアーティストはなぜ一瞬幸福に包まれるか?このカラクリを分かってしまうとビックリします。CD売り上げ100万枚達成、ダウンロード100万、、、、この瞬間アーティストは思考が抜け落ちます、今まで必死に思考をフル回転してどうしたら売り上げを上げるか考えていたのがその瞬間思考がなくなります。思考する必要がないからです。達成した瞬間だけは思考する必要性が欠落するのです、その瞬間だけは自我(我こそは自分という思考)が抜け落ち至福が押し寄せるのです。達成した自分が居なくなることで幸福になっているのです。こんな悲惨なカラクリ発見できるわけがないのです。要は自分が居なくなればいつでも幸福が押し寄せてくるのです。ところが売り上げを達成したアーティストは、逆に俺様は凄い、俺は偉業を成し遂げた、俺様はモテなくてはおかしいと、、自我が強化されていきます。これで益々思考万歳、思考フルスロットル、思考最強になり、、無我から遠く離れていくのです。これが人間の苦労生産システムです。

この夢物語の中で目標が叶いにくい理由

ほとんどの目標がこの夢では叶わないわけ

簡単に目標が叶うならばそれはワンネスの不完全体験になりません。完全であるワンネスは完全であることは知っています。完全であるワンネスが知らないことは不完全であることです。だからこそこの夢では簡単に目標が叶うわけがないのです。というよりもほとんどの目標は結果叶わずに終わります。夢の中で自己啓発本はたくさん出版されているのは目標が叶わないからです。目標が叶わないことがデフォルトです。

必死になると目標が叶うわけ

ところがこの夢の中で、生死を左右するような絶対絶命の時には人は火事場のクソ力という力が湧き出ていとも簡単に目標が達成できてしまったりします。これはどういうことなんでしょうか?もしくは3億円という懸賞金がかかったりしたら多くの方はこの目標を達成することもできるでしょう。そしてその自信もあるはずです。絶対絶命の状態、三億円の懸賞金がなぜ人を本気にさせかつ結果を出させるのでしょうか。それはそれらの要因によって思考が抜け落ちるからです、無思考になります。自我が出る余地がなくなります。すると不思議中からパワーが湧いてきて通常の7倍近い力が湧いてくるのです。究極の味方だと思っていた思考が抜け落ちた時、人は圧倒的な力が湧きます。無思考、無我、=ワンネス、大いなる一つです。火事場の糞力は無心に入ることによって誰でも発揮できます。

無思考になることで目標が叶うとなると人は思考を信用しなくなる

これは夢です。この夢の中で目標を叶える方法は思考を手放すことです、無思考になることです。何度も反復を繰り返し思考の出る幕を無くした時に無心、無我、ワンネス状態になり目標が叶っていきます。この感覚を一度でも身につけることができるともう思考に頼ることを一切しなくなります。思考は最強の道具ではなくなり適材適所使うための非常用器具になります。無心、無我、ワンネス状態とはこの夢から一時的に覚めた状態です。一時的に分離しているというこの錯覚から目覚めることができます。ワンネスは一時的に夢から覚めて目標を易々とクリアします。こうして夢から覚めた状態を徐々に思い出していきます。書道、花道、茶道などは何度も反復作業を繰り返すことでこの感覚を思い出していきます。火事場の糞力が出る感覚、夢から覚めた感覚、歓喜、平和、安堵にシフトする感覚を思い出していきます。

これは夢だから主人公が死んでも実は何も問題はない

昨晩見た夢で自分が死んでも気にしないはず

これはワンネス、サムシンググレートが見る夢ですからそこでの主人公が何かしらの原因で例え死んだとしても問題はありません。死んだらこの夢、ゲームが終わりただ目覚めが起きるだけでしょう。ですが私の感覚から言えばこの夢では主人公は死なないのかもとも思ってしまいます。なぜならばこの夢の最終目標は夢から覚めることであり道半ばで死ぬなんてことをワンネス総指揮で果たしてやるのかという話です。主人公を道半ばで殺すようなヘマをやるとは思えないのです。こればっかりは死んでみないとわかりません。

少なくとも他人の死は夢の中の出来事

主人公である私は横において少なくとも他人の死は夢の中での出来事、夢の中で登場人物が死ぬことを問題視しないようにこれは通常のイベントです。夢の中で登場人物が死ぬことは主人公にとっては辛いことですがそれも所詮は夢です。夢の中では長生きする登場人物もいれば短命な登場人物も当然います。どちらが良いとかは一切なくそれはこの夢の制作総指揮であるワンネスが自動運転で決めていきます。

これが夢ならば覚めたくない、、

人は本当に良いことが起こった時には「これが夢ならば覚めたくない。。」という言葉を言います。事実はまさにこれは夢です。紛れもなくこれは夢です。これはワンネスが制作総指揮で制作した夢です。そしてその夢から覚めたくないのもワンネスでしす。ワンネスが夢から覚めたくないのならば夢から覚めるが起こるわけがないのです。つまりこの夢から覚めるという現象が起きるか起きないかはワンネスが決めます。そこに登場人物の裁量など一切ありません。そうなるとこのブログに意味はあるのか?となりますが意味などあろうはずがありません、なぜならばワンネスが私(登場人物)を使って情報発信しているに過ぎないからです。

海であることを忘れた波は徒党を組む

波にとって個人は非常に弱いので徒党を組んで強いと勘違いしたがる

海であることを忘れた波は、広大無辺な存在から波という極小サイズに縮こまれてしまったので常に心細くなります。当たり前ですが本来が広大無辺な存在ですから比較にならないほどに心細く感じます。心細い時に周囲に仲間の存在は重要になります、結果波は徒党を組んで生きていくのです。〇〇学校、〇〇中学、マルマル専門学校、〇〇部活、〇〇団体、〇〇会社などなど、、、とにかく波は集団にゾクしたがるのです。その最も大きな集団が〇〇国です。もしも国際条約が成立して国という組織を解体しましょうと各国で締結したら全世界の人間が反対するでしょう。急に心細くなるからです。

会社に行って、夕方から〇〇会に参加、夜は家族で食事

人間は一日中どこかの組織に属していたい動物です。朝は家族の中で目覚め、そこから会社に行き、帰ってきたら仲良しグループで遊び、そこからまた家族の元で眠る。これらは全て無意識に行われているわけですが自我はこれを作為的に行います。個人=弱いですから、いかに個人が寄り集まって弱さを忘れたい、弱いことを忘れていたいのです。個人が集団になった時に強くなるということではありません、弱さを感じないで済むということだけです。波が求める強さとは海の強さです。波がどんなに寄せ集まっても海の強さとは異質にものなので意味はありません、それゆえ個人は一旦徒党を組み始めると無尽蔵にその組織拡大を目指したりますがそれは海になるわけではないのでいずれ崩壊します。

無心に入れば徒党を組まなくなる

波がどこかのタイミングで無心に入るコツを掴んだり、無我夢中になってそこから強さを感じることができたならばもう徒党を組むことに興味を無くします。たった一人の状態から無我、無心、大いなる一つにシフトできたならばもう弱さを感じることはなくなり徒党への興味も同時に無くします。徒党を組むことが強さを感じることならば無我、無心、真我に入っても徒党にも興味を持ちますが質が全く異なるまで比較にすらならないのです。書道から無心に入る、掃除から無心に入る、仕事から悟りに入る、音楽を聞いて無我に入る、、、人間はどのような状態からでも実は無心、無我、海、強さに入ることができます。

この世界が夢だとして、ではこの夢を見ているのは誰か

主人公は海であることを忘れた波、そしてこの波物語を見ているのは海

波物語は夢です、時間も、空間も本当はなく、、それは夢の中だけで存在しています。夢の中では時間も空間も自由自在、ただし夢の登場していない場所、登場人物は夢に登場していない間は存在しません。ですから主人公である「自分」も寝ている間や何に没頭している間、目をつぶっている間は姿をなくしています。海はこの夢を常に見ていますがそれは傍観者として高みから見ているのではありません。海は主人公(波)の五感+感情+思考を使ってこの夢を体験しています。

全ては幻想だが夢での体験は確実にある

夢ですから幻想です、ですがその夢の中で恐怖心、歓喜、安堵、幸福、、、湧いてくる感情は間違いなくあります。経験も確実にあるのです、夢として。夢ですがこの夢は海が投影したもの、海自身の投影を土台にしています。海が監督をし、海が海を使って舞台を作り、海が海自身を使って登場人物を登壇させ、海が海自身を使って(波)主人公を作る。海が変幻自在に変化してトータルでネットフリックス波物語を制作しています。

この夢から覚めるのは波ではない、海

マトリックスという映画では主人公のネオがこの夢から覚めるためにエージェントと戦い続けていきますが、、実際に眠っているのは海であり、、起きるのはやはり海です。主人公のネオ(波)ではありません。ただし波も海ですから正確には波を通じて海が目覚めるのです。ネオを通じてマトリックス映画全体が目覚めます。人間を通じて見えている世界全体が目覚めます。

海であることを忘れた波は必ずいずれ海に戻る

波だと勘違いしようと何だろうと波の最終形態は海に戻るのみ

自身を広大な海ではなく極小の波だと勘違いすることからこの波物語はスタートするわけですが波の運命はすでに決まっていていずれは必ず海に戻ります。海に戻らない波はありません、なぜならば波とはいずれ消滅することが約束されているからです。太平洋のど真ん中で発生した波は何ヶ月もしないうちに必ず陸地にぶつかりそこで消滅します。この消滅を悟り、目覚め、覚醒と呼ぶのです。目が覚めるのは波ではなく勘違いしていた海が波が消滅することで我に帰るだけです。

どんなに苦しそうにしている人間がいても気にする必要はない

人生が最高にハッピーでいつまでも長生きしていたい、このような波として生きている人はいるでしょうしそれはそれで何の問題もありません。いずれは海に戻ります。一方で人生は悲惨で最悪でいち早くこの人生を終わりにしたいという波がいるかもしれません、ですがこれも全く問題ないのです。なぜならばそのような波はなるべき早く消滅し海に戻るだけだからです。最高にハッピーと宣っても、最悪にアンハッピーと宣う波も海の安心感、安堵感、歓喜に比べればどれも目糞鼻糞の世界、五十歩百歩の世界です。人間は所詮他人との比較でしか自分の幸福度を決めれないという稚拙な尺度しか持ち得ない生命体です。他人との比較で決め込んだ幸福度など海の幸福、安堵、平和とは次元が違うものです。つまり所詮は一時的な快楽でしかないのです。

真の幸福(海)は波の幸福度を超えたところにある

金メダリストや成功者のインタビューで結果を出せたときの喜びを聞きますが決して騙されてはいけません。波として何かを得てもそれは全て一時的な快楽、その快楽は一瞬で終わりを告げます。ですが何かを成し遂げたときにこみ上げてくるこの達成感と称される感情とは実は一瞬だけ海になったときの感覚なのです。だからこそ笑顔から安堵感や幸福感、至福が見えるのです。海を垣間見た人の表情を見せます。ところが自我(波)はすぐにその経験を自身の自我拡大に使ったりするから騙されてしまうのです。波が対象と一体になる瞬間だけ実は波が消え去り海に戻るわけですがこの海に戻った感覚こそが覚醒のヒント、海に戻るヒントです。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。

一番の興味の関心を解脱、解放、目覚めに向けれえるか

夢の中での損得に奔走される自我

多くの方はこの夢の中でいかに快適に、楽しく、できる限り苦労からは遠ざかり生きていくかに奔走しながら生きています。そしてその作戦は多くの場合良く働くこともあれば悪く働くこともありその間を行き来しながら生きていきます。人生楽あれば具ありを地でいくのです。そして人生のどこかでこの企みが不毛であると感じた人から夢から覚めるという常識から外れたチャレンジに興味を持ち始めるのです。

夢から覚めることに興味が湧くのはなぜか?

この夢から覚めたいのは誰なのか?自我に奔走されて毎日を慌ただしく生きほとほと疲れ果てた存在、意識がもう無意識では生きられないと諦めた時に夢から覚めることを心待ちにするようのなるのです。しかもそれがなんとなく夢から覚めたいではなく夢から覚める以外興味がないぐらいの覚悟に変わると後はただ変化が起きるのを待つだけになります。

これは観念の書き換えではない

観念の書き換えは、今後の人生戦略の変更です。思考を変える、哲学を変える、観念を変える方法は本屋に行けば山ほどのマニュアルがありますがこれは全て自我の書き換え方法です。より確実に自我が生存していくための創意工夫になります。ですがこのブログでお伝えしている内容は自我の生存戦略のためのノウハウではありません。これは自我の策略、自我の生存戦略を見抜き、夢から覚める方法をお伝えしています。

非二元ブームはなぜ起こったか

この現実がどこまで行っても苦しいことに大勢が気づき始めた

自我は先ず経済的満足を追求します。腹が減っては戦ができん、では無いですが自我は先ずは経済的満足を追求します。収入の良い仕事、将来性のある仕事、恋人、家、結婚などなど、、そして多くの満足を得たにも関わらず全く満足できない自分自身に驚愕します。得た直後は満足感はありますがその後にくる喪失感、退屈感の襲撃、この感覚にほとほと疲れ果てたのちに次に求めるのが精神的満足です。地位や名誉、プライドをみたし精神的満足を得ていきます、しかしここでもまた挫折が、、、どこまで行っても全く満たされない心、欲望の存在です。そこで次に登場するのがスピリチュアルと呼ばれる精神世界への探究です。ここではオーラ、チャクラ、ハイアーセルフとこの世界ならではのヒエラルキーが登場しそこを着実に登る山登りが始まります。この探究、この山登りこそが本当の幸福、至福に自分自身を目覚めさせてくれると。ところが、、このスピリチュアルの探究でもやっぱりダメ、どこまで登っても全く至福に至れないのです。ここまできて初めて人は非二元、悟り、というアイデアにたどり着くのです。そう、自我の探究、自我の山登り、自我の向上では至福にが至れないということを。自分を自分と思い込むこの自我こそが不幸、不足、枯渇、孤独を生み出してきた張本人であることに気づいてしまうのです。これが非二元、ノンデュアリティーです。

もう山登り、自分向上は辞めたい、、

あの人は素晴らしい、あの人は悟っている、あの人は何かが違う、、、この人を称賛する自我の動きは実は苦しみのメカニズムです。人を持ち上げるということは人を見下すことでもあるのです。つまり人間を階級で考えているのです。この考え方は世の中には人間という個別の存在がありそしてそこには称賛できる人もいれば逆に見下げるべき人もいるという山登りを証明します。自分よりも先に登っている人、自分よりも登れていない人がいるというこの強烈な錯覚こそが人を苦しめるのです。もうそろそろ気づかなくてはなりません、世の中に称賛すべき人も非難すべき個人も存在しません。全ては存在の顕れ、存在の現象化、存在の人間活動です。全て全く同じ粒子で構成されています。上下比較できる対象ではないのです。人を称賛すればそこに至っていない自分自身を見下すことになります、無価値観を強めます。人を見下せばその時は悦に入れますがそれも一時期、そのあとはただのプレッシャーに変わります。人間同士の比較も、人間という存在のカラクリも見破る時期が来ました。

夢の登場人物を比較する無意味さ

あなたは自分自身が毎晩見る夢の中での登場人物に優劣をつけることに意味を感じるでしょうか。自分自身で作っておいてそこに優劣をつける意味はありません。もちろんゲームとして優劣をつけることは自由ですがそこに何か価値はありません、ただの遊びです。これはこの現実社会も同じです、夢の登場人物に優劣をつけそこに自分自身も入れて比較しプレッシャーで苦しんでいるのが人間ゲームの苦しさの一つの原因です。どこまで山登りして自分自身を高めてもそこには答えがないことをそろそろ気づく時なのです。夢の登場人物として自身を高めていくことと至福とは何も関係がないことを悟る時が来ました、これがノンディアリティー非二元です。比較する対象は何もないということ、自分と他人も、自分と対象物も何もない、、ただそこには夢の登場人物がいるというだけです。