目覚め

五感という充実

充実=五感

漢字とは非常に面白い、、、充実という言葉は、、、、、実が充ちた状態と書きます、、、なんという気づき、なんという答え、、、、、実とは何か???????実とは、、、真実、、、です、、、、虚の反対語、、、、、では虚とは何か?????虚とは、、、、、、真実ではないこと、、、真実ではないこと、、、この世界で真実とはたった一つしかありません、、、それは、、、、体の感覚だけです、、、もっといえば感覚だけです、、、これだけが真実です、、、残りは全て、、、虚です、、、、、、感覚=実、、、、五感=五実、、、となります、、、充実とは、、、、実が充ちることですから、、、、五感が充ちることです、、、、五感を使った経験を増やすと、、、充実します、、、、これが減ると、、、、虚しくなります、、、

なぜこんなことを言われたのか?????

なぜこんなことを言われてしまったのか????考えるのは時間の無駄です、、、虚の世界に入り込みます、、、擬似体験の世界です、、、五感で感じれない世界です、、、、時間の無駄、、、虚しくなります、、、あなたが言われた言葉は、、、その人から勝手にでてきた言葉です、、、それについておれこれ考えるのは時間お無駄、、虚に入ります、、、、ですがもっと俯瞰すれば、、、虚に入ること擬似体験をして楽しんでうるのですからそれも悪いことではない、、、、ですが本当は、、、より五感の世界に入った方が良い、、、体を健康にすると、、、五感を使った活動をし始めます、、、体は全部知っていますから。

健康になるだけで、、、

体が健康になりますと、、、五感を使った活動を勝手に体が起こします、、、五感を使った方が充実することは体は完璧に分かっています、、、ですから、、、ただ体を健康にするように導けばいいのです、、、悟りとは五感です、、究極の体感です、、、、ですから、、、、体を健康にして五感を完璧にし、、、、真実に多く触れ続け、、、本当の真実をありのままに感じることができた時に、、、目覚めます、、、、ありのままの真実を五感が感じることが悟りです。

真実を最初に知ってしまう

悟り本のメリットは真実を最初に言葉で知ってしまうということです、、、、真実はこうなっている、、、、それが分かれば、、、、あとはひたすらにこの現実でそれを発見していきます、、確認していきます、、、すると、、、思考、感情、行動に振り回されないことに気づきます、、、、健康になります、、悩めなくなります、、、五感を使った活動時間が増えていきます、、、この延長線上に本当の悟りがあります、、、真実を五感で感じるが起きるのです。

意識が記憶と言葉にフォーカスする

記憶に意識が意識すると

記憶に意識が意識しますと、、途端に「私」というストーリがー流れはじめます、、、朝起きて目覚めると、、意識は「私」という記憶にフォーカスします、、すると私ストーリーが上映され、、自動反応で思考、感情、行動が起き始めるのです、、、、この思考、感情、行動を「私」が決めたという思考も起こりますから、、エンドレスにこれは続くのです。ファンタジーの世界にもう一つファンタジーが重なりました。

さらに思考に意識が意識すると

そのファンタジーである私物語の上映中に、、、湧いてくる思考にふけるとどうなるか????ファンタジーの中でさらなるファンタイジーに意識が意識するようになるのです。。最初にファンアジーがあり、そこで私物語というファンタジーが上映され、、、その中でさらに思考というファンタジーが現れるのです。ファンタジーの三重奏です、、、ですがそこでも擬似体験は起き、、それを全体は回収します。

真実に向かう

考えるよりも先ずは行動、実践、、、、これは最初の楽になるメソッドです、、、私物語の実践あるのみです、、、私が私を私する、、、実践、、、ファンタジーではありますが、、、そこにはリアルな体験が優先されます、、、体験は真実ですから、、、真実の濃度が上がっていきます、、、そして次は無我になっての体験、、、没我の状態で行為に集中します、、、そこには体験しかありません、、、この状態が気持ちがいい、静寂、平和、、、、そして最後に、、、思考と感情、行動が全自動システムであることを見破り、、、全ての観察者になる、、、無我の状態で全てを観察する、、、、思考へのフォーカスが終わる、、感情へのフォーカスも終わる、、行動へのフォーカスも終わる、、意識が意識に意識する状態へシフトします。。。意識が意識に再吸収されます。

無限の鏡

この世界には無限しか存在しない

この世界は無限の鏡です、、無限の等身大の姿、、、これが色、現象界です、、、ということはこの世界には全てのジャンルで無限の成功法則が存在します、、無限のジャンルが存在し無限の成功法則、失敗法則が存在します、、それを行う行為者も無限に存在し無限の経験を得るのです。なぜならばこの鏡は無限を映し出す鏡だからです。

悟り方も無限にある

悟る、真実に気づく、、、この方法も無限に存在します、、、なぜならばこの世界は無限が映し出す鏡の映像だからです。この無限の映像の世界では無限の体験ができる、無限の悟り方がある、、、となります。ですからやり方に固執する必要は全くありません。

感じ方は無限

悟りを得る感覚、目覚める感覚は無限大にあります、、これが悟りという感覚は実在しないのです、、、これだ!!が決まっていれば、、、もうここは無限ではない、、無限の遊び場ではなくなってしまいます。ただし真実は一つです、、それはここが無限という存在の鏡だということ、、無限が無限であることを知る場所です。無限が鏡を見て「無限だ!!」と感じる場所です。

これをしなくちゃ

劇の中で

朝起きて「これをしなくちゃ」が一番に湧いてきたら、、まだ劇の中にどっぷりです。劇の中で自分という主人公の役にはまっています。朝起きてただ衝動に従った生の動きだけがある時、、それは劇から目覚めています。もう成し遂げる何かは存在せず、そこには生の動きだけがあります。この動きが動きに気づきます。

大人とは騙された人々

子供は朝起きても義務感や、ノルマは湧きてきません、、全くもって自由です、、これが悟った状態、、大人は朝から晩まで目的、義務、ノルマに踊らされ続けるのみ、、、劇の中にどっぷり浸かっています、、そして周囲と同じことをなんとかこなして生きていく。外に見える対象には救ってくれる何かは何もないことを本質では知りながら。

繋がる

この体の中に何かパワーのようなものが湧く場所があることを知ると大人の関心は内側に向いていきます。この内側に何か偉大なパワーがあるのでは???本当はこの体の内側なのではなく、、この3D映像そのものの奥にあるのですが、、そこにある何から直接パワーを貰う感覚が起こりますと、、、大人の関心は目に見える何かではなく、、その真相に行くのです。これが悟りの一歩です。

繋がりを利用する主人公

なんか繋がったぞ、、この感覚を主人公は周囲に見せびらかせ、罵り、またこの劇にのめり込んでいきます。。。繋がった「自分」を生きるのです。これが悟りの副作用です、、、繋がった「自分」は凡夫ではない、、これです。才能がある天才の悲劇の99%はこれでしょう。

主人公は居なかった

次の段階、最終段階、、、主人公は疲れ果て恥をかきまくり、、、もう何もかもを手放そうが起きた時に、、、悟りのメッセージが入ってきます、、、、もう何もないやるべきことは!!!の境地になると、、、入ってくる、、、、悟りのメッセージ、、、、「自分は居ない」「あの人も居ない」「全員がただの幻想」これが入ってくる!!!言葉がこの自分をぶっ壊す、焼き尽くす、完全燃焼。

助けたいという思いと

結果を気にしない軽やかさ

目覚めが起きますと、、起こる現象の全ては、、、自分の中で起きていることを実感します、、すると目の前で誰かが困っていれば自然と助けてあげたいが湧く、、、これは自尊心を高めたいとか、見返りが欲しいとか、、そんなんじゃなく、、ただ単純に助けたいが湧く、、、、ですがこれは結果にこだわるということもない、、なぜならば大前提として、、この世界には困った「個人」は存在しないからです。ですからただ自然に助けるが起こり、、ただそれだけ、、助けることが出来なくても、、、深刻さはそこにはない、、となります。

見返りを求めているのか???と疑われる

ですが相手の個人は、、こちらの行動を深読みする、、、何か期待をしているのではないか???となります。そこで相手は、、余計にこちらを警戒したり、疑ったり、という流れにもなるのです。個人を信じる者には全く理解がされない行動なのです、、目覚めた行動は、、、、誤解を生み続けます。

地球人としての偏見

地方出身者

我々はその土地特有の偏見を持って生きています。関西人は関西人独特の偏見があり、京都人は京都人独特の偏見があります。この偏見がなぜ存在するかと言えば、、本当にそう見えているからです。。え???見えているならば偏見じゃないじゃないですか???違います、、、偏見という見方が、、そう見せるのです。マジックとはまさにそれで人間の見え方を利用したショウです。騙し絵もそう、、人はこうだと信じるものを見ているのです。

日本人としての偏見

日本人には日本人の偏見があります、アメリカ人にはアメリカ人の偏見がある、、、これはこの土地土地で有効な偏見です、、、日本人は海産物は美味しいという偏見を持ち、アメリカ人はタコは悪魔のような偏見を持っています、、全ては体を保持するためにもっとも有効な偏見なんです。偏見とは視点のことであり日本人としての視点です、、、世界で活躍する人は、、日本人としての偏見を捨て、国際人としての偏見を持つことです。

抽象度を上げ続ける

偏見は体のためにありますから、、今この場で偏見を捨てるのは不可能です、、今の偏見を捨てるには新しい偏見、しかも体に有効な偏見を手に入れる必要があります。悟りとは新しい偏見の獲得です、、、地球人としての偏見として、、、「自由意志がある」「私」が居るという偏見を持っています。。これを新しい偏見に切り替えます。この体には「私」は存在せず、、「自由意志もない」だが、、これで十分、、生きていけるし、、しかも幸福になる、、、この視点で生きてみます。。すると本当にそうだからビックリします。

タコは美味しい

アメリカ人にタコは美味しいよ、、、と話をしても無理でしょう、、ですが毎日毎日タコは美味しいと話し続ければ、、一年後には大好物になっている可能性がある。これと同じ「自由意志はなく私も居ない」が板につく可能性がある、、、なぜならばそれが真実だからです。タコが美味しいは真実であり、、自由意志がない、私も居ない、、は真実です。。この真実に目覚めますと、、、もう苦しみが人生から吹き飛びます。

ストーリーの中で頑張って生きる人々

このイメージの世界に居ることに気づかない

このイメージの世界、言葉が作り出したイメージの中に閉じ込められていることに気づいていない人々は、、この世界の中でなんとか生き延びようと必死です、もしくは享楽的にただこの苦しみから逃げようとする、この苦しみを直視することなく、、周囲の人々に合わせまあこんなもんだよと、、迎合する。。ですが本質に目覚めれば分かります、、これはただの苦しみの延命措置です。

苦しいからこそ打算的に生きる

このイメージの世界、ストーリーの世界は基本は苦しい、、ですから多くの方は打算的に生き、、少しでも苦しみの少ない人生を送ろうとします、、絶対的幸福はこの世界には存在せずだからこそ、、苦しさがより少ない人生を歩もうとするのです、、、ですがどんなに苦しみを解消しようとしても、、このストーリー、イメージの中に居るのが苦しいのであって何一つ根本解決にはならないのです。

本質に気づき本質に生きる

本質とはこの現象界そのものです、現象を作り出す存在、、それが我々の本性です、、この体はその一部でしかなく、、この体の中には私はいません、、、全ては本質から一時的に現れた現象でしかなく、、この体は便宜上、、名前が付けられた機能でしかない、、この体、、体以外に便宜上名前がつけられ、、便宜上の私と私以外の世界が誕生しました、、ですがこれは便宜上の話であって、、イメージです。ところがこのイメージの世界にどっぷり浸かりますと、、イメージであることを忘れてしまい、、苦しみの渦に自ら飲み込まれていきます。

本質でしかない

これが言葉によって作り上げられたイメージであることを見抜きますと、、もうこの体を幸福にしなくては、この体をなんとしても安全に生き伸ばさなくては、、常識に従って生きなくては、、の柵が抜け落ちます、、それよりも本質であることを思い出すことに関心が移ります。。この体を安全運行するよりも、、究極の本質であることを思い出すことに関心が移るのです。

ベクトルが横から縦に移る

我々が現実と呼ぶこの人間が生きるストーリーの世界は横軸の世界、、そして本質の世界は縦軸の世界、、この夢はこの本質によって支えられています、、本質から全てが生み出され、、人間というイメージが想像され、、その人間が経験する全てを本質が回収し、、この体が全てを経験しているというストーリーが生み出されました、、想像として。個別活動があるというストーリーは、、個を生き伸ばすには成功しましたが、、苦しみが伴います、、この苦しみを終わらせる活動こそが悟りです。

明晰なNO

被害者にはならない

人間関係とは自我関係ですから、、相手の自我の動きに影響されることになります、、、、例えば恋愛関係ともなれば、、相手の自我は少しでも得をしようと試みるわけです、、、収入、容姿、地位、名誉、家柄、、、自我にとって得であると判断が起き続けます、、、そして損であるという判断が起きれば、、、当然ギクシャクが起きるわけです、、、、その時にこちらは、、その自我の動きに対しどうすればいいのか???ただこれが起こったと全部を受け入れればいいのか????違います、、、明晰にNOでいいのです。

自我の動きの専門家になる

この体の中に自分が居ると勘違いしている相手の自我は、、、損をするのが耐えられない存在、、、人間関係でこの動きは当然でてきます、、、、例えばクラスでこの私が全員から仲間外れをされることになった、、、そのん時に今まで一番の親友だと思っていたA君は、、、、損をしたくないから、、、距離を置いてきた、、、などです。。。この動き、、この自我の動きを冷静に理解し、、、それを受け入れるか否かを決めます、、、

本当の優しさとは

相手の自我の動きに付き合うことが優しさではありません、、相手の自我の動きの全てを容認することが優しさではありません、、、、自我の動きを理解して、、、、自我として対応しないことが優しさです、、、、相手の自我の動きを冷静に観察する無我、真我として対応します。静寂として、平和として、、その在り方によって相手の自我は、、、安心感を覚え、、、、その安心感に相手の無我、真我が開く、、、真我に目覚めるよう促すのです。

個人としての経験が観念を作る

勘違いが強化されていく

個人としての経験の全ては記憶されて、、その人の観念、価値観に強化されていきます、、、例えば、、、人から何回もスリにあった人は、、、人は信用できないという価値観が強化されていきます、、、この価値観は人生が長く長くなっていけばいくほどに、、、強固になり、、、その価値観がこの個人という存在を絶対的にしていきます。。すると何をしても苦しい、何を達成しても苦しい、、と無間地獄に入っていくのです。状況が苦しいのではありません、、この個人としての価値観の強化が苦しみを圧倒的に作るのです。

個人が圧倒的になっていく

個人が居るというのは完璧な勘違いですがその勘違いを元にした経験の全てがデータとして蓄積されることで、、、価値観になり、信念になり、、、その価値観を照らし出した経験をさらにしていくことになるのです。個別の体験が自動的に作り出されていきます、、、、人は必ず裏切ると信じている人は、、、、裏切りそうな人に視点がフォーカスされそのような出会いを続けていきます、、、どのような価値観をその人が形成しようと、、この個人を強化することには変わりはなく、、これが苦しみを生み出すのです、、、価値観の差異はここではどうでもいいのです。

全ては「苦しい」に向かっていく

人が歳を重ねると悟りや仏教、禅などに興味がでてくるのは価値観の形成、価値観の強化に伴い、、個人が居るという価値観が圧倒的に強くなっていき苦しさが押し寄せてくるからです。中年のうつ病などはまさにそれで、、苦しいから逃れられない心の叫びを、、禅や仏教に求めるのです。個人といての経験の全てが苦しみを生み出します。。私の価値観は非常にポジティブだ、、、関係ありません、、、価値観の強化こそが大勘違いを強化するのです、、、全ては目覚めに向かっています、、、全員がテトリスのブロックを積み上げ、、必ずゲームオーバー、、究極の諦めに到達するようにできています。

朝起きると個人ではもうない

ある日突然

これが夢であるという気づきが起きますと、、、朝目を覚ました時に、、、個人ではない自分が居るのに気づきます、、通常は目覚めと同時にこの体の中の個人であるという感覚が戻ってきます(湧く)、、ですが夢であることに腹落ちしますと、、朝個人ではない自分で居るのです。。。体との同化の終焉です、、、この体の中の住人としての私ではなく、、この夢の傍観者としての私の誕生です、、この状態は静寂に包まれ、、全く焦る今までの自分が居なくなります、、何かを成し遂げたり、何かを追ったり、、何かアクションを取らなくてはならない自分がもうそこには居ないのです。

焦らない自分

焦っているのが当たり前だった自分が、、焦らない自分に変わります、、もうこの体の中の自分ではありませんからただの傍観者としての自分がただこの体の衝動を感じるだけです、、勿論、シャワーを浴びる、食事をする、、仕事の準備をするなど、、、衝動は起きます、、ですがこれは焦りや責任ではもはやないのです、、、衝動に従うだけです。

焦りたくても焦れない

これが夢であると分かってしまって逆にどうしたら焦ることが出来るのでしょうか?これが映画だと分かってしまってどうやって深刻に観ることができるのか?という話です。最初はそうはいってもこの体を生かせていかなくてはならないのだから、、いざとなったら焦るのでは??と疑問が湧きましたが、どうやら違う、、そんな生優しいものじゃない。。。これが本当の理解、パラダイムシフトです。