無常

現象に良し悪しはない

現象の良し悪し

我々は現象に良し悪しをつけますが、、我々はこの現象を生み出したエネルギーそのものですから良し悪しは本来ありません。現象に良し悪しをつけるという経験そのもののエネルギーです、、植物を構成するエネルギーに良し悪しは全くありません、、人間の体を構成するエネルギーに良し悪しもありません、、全ての現象はエネルギーで構成されていてそのエネルギーが我々の本質です。

この自分にとって

この自分にとってこの現象は良いことだ、、、という判断が下るという経験を作っているのが我々の本質です。この自分にとって今日の天気は最高だ、、という気分を作っているエネルギーが我々の本質なのです。どこまでいってもそこには自分しかいない、、全経験も自分です、、、全部が全部自分ならば何を焦って成し遂げることがあるのか?という話です。

たった一つのエネルギー

たった一つのエネルギーが万物を生み出し、経験を生み出しています、、、たった一つ、、そのたった一つのエネルギーこそ私です。。。このたった一つのエネルギーが変化していく様を諸行無常と言います、、森羅万象です、、あらゆる思考、衝動、感情が湧き出しますが、、このエネルギーもたった一つのエネルギーの様です。この中で個人は焦って何かを手に入れようとすることもできるし、全部自分ならば何を手に入れるのか?と気軽に考えることも自由です。

森羅万象

動きのみ

我々が生きているこの世界はただ動く世界です、、動きのないものは一切存在しない、、微妙にもしくは大胆に常に動き続ける世界に居ます、、万物は全て動いていますから固定した存在はありません、、例えばリンゴという固定した物体は存在せず、、一時的な状態を説明したものです。。リンゴというイメージに沿った状態にある万物の動きを説明したものです。

動きのみの中で

万物は常に動き続けます、この体も例外ではなく、、日々動き続けます、、、、思考も欲望も、衝動も、感情も常に動き続けています、、、その中でこの体の中に自分が居るという発想が起きました、、これが自我です、、これも万物の動きの一つです、、、そしてその自我が活動した記憶が起こり、、自我物語が誕生したのです。動きのある万物が分離しているように見える世界が誕生したのです。

再びしっかりと観察する

今目を閉じて現象、万物の動きを観察してみてください、、一時となく何かが起きるはずです、、冷蔵庫の音、鳥の声、目を閉じても差し込む光、、、隣の家の豚汁の香り、、何かが起きます、、、そうです、、我々は一時と静止しないこの万物の中に居るのです、、、思考も起こり、感情も起こり、、この体も動く、、、これが真実、事実です。。この森羅万象、諸行無常、、の中で安定、平和、幸福を手に入れようとする試みが不幸を作るのです。何一つ固定されない諸行無常、、、しかない、、この体も心も、視界の全てが移ろうだけ、、、終わり。

今に居るのに不幸になれない

今は静寂しかない

今年は大不況ですよ、今年の会社の売り上げはとんでもなく下がることに、、税金がまた来年上がるらしい、、このような情報が入ってくると思考はフル回転、、、どうしよう、どうしようと、、、エンドレスに回転を始めます、、、ですがこの回転こそが不幸への入り口、地獄への入り口です、、、、信じられないかもしれませんが我々は一生こうして思考に取り込まれ続けるのです。

状況は変わって当たり前

状況は毎秒毎秒変わります、、これが森羅万象の動き、諸行無常です、、、これが事実、真理です、、、、この変化に人間は名前をつけてニュースにします、、、そこにさらに大変だ、、まーまー大変だ、、ちょっと大変だと、、、解釈を加えていきます、、この状況の変化に対してこの体の動きも変化します、、、ただそれだけ、、、ここに思考の解釈が入ります(これも森羅万象の動き)、、、これで苦しくなります、、変化の中で自由意志を発揮する自分が登場します(森羅万象の動き)、、ここが苦しみの場所です、、

事実をただ淡々と受け入れる

状況の変化に意味は一切ありません、、それだけが森羅万象のルールだからです、、、この変化、、、そしてこの体も動く、、これも森羅万象の動き、、唯一のルールです、、、、これに対して本来は思考の解釈は必要ありません、、、思考の解釈がなくとも、、、、変化が起き続けるからです、、、さらに言えば思考の解釈がこの森羅万象の動きに影響を与えることもありません、、、もっといえば思考の動きも森羅万象の動きです、、、どこまでいっても森羅万象の動きしかない、、、ならば黙ってこれを観察するのが良いということになります。観察する場所こそが静寂、平和、安堵です。。。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

色の世界を生きる自我

自我は色の世界でもがく

自我にとって世界とは色です、そうです現象の世界です、、、物が溢れる世界、、名前がついた物だけが登場する世界に生きます。自我には空の存在は理解できません、、なぜならば空を理解してしまったら自我の存在がただの現象であることになってしまうからです、それは断じて受け入れがたいことなのです。自我にとって自我は盤石な存在、決して失われてはいけない存在、唯一無二の存在なのです。

自我は色の世界に居るということは、、、

色の世界に自我が居るとなれば、、、自我は現象です、色も現象です、、、色の中に自我も現象として現れています、、この現象は移り変わる世界、諸行無常の世界ですから、、、自我も同じままではいられません、、常に変化変化が起き続けます、、この体も一瞬一瞬同じままではいられない、、、これがこの色の世界の絶対的ルールです。同じがない、、ただ今ここで現れ続けるのみです。この色の世界で絶対に変わらない存在が居ます、、それはこの色の世界に気づき続ける存在、、空です。気づきの意識です。

気づいている、だから自分が居る

気づいている、、だから自分は居ます、、、違います、、ただ気づいているのです、、、この気づきはこの体の中で起こっているのではないのです。この気づきがこの体に気づいているのです、、この気づき(空)がこの経験に気づいているのです。自分など居なくても、、気づきの意識は常に気づき続けています、、自我に気づいていない時も常に気づき続けています、気づきの意識(空)が。

今までも完璧だった

取捨選択してきたつもりが違った

これまでの人生あらゆる選択ミスもしてきたけど、、まあまあそれなりの人生かな、、、、残念!!!事実は違います、取捨選択できる個人などこの世に存在していません、取捨選択がただ全体か起こり続けただけです。つまりこの人生はある意味完璧なのです、、、こんなに苦しいのに完璧なのです。今の人生で完璧ならばこれから先もこんなものなのか???分かりません、、全く分かりません、、、ただこれまでのこの自分の取捨選択に一切のミスが無かったことが分かった時至福感が湧いてきます、そして今後の私ストーリーに対しても全くの不安が無くなる、、なぜならばそこに自己判断は一切ないからです。

今日の俺の決断はどうだったんだろう???

結局のところ、、、起きた事実に対し自分自身が評価を下し、自分自身を批判の対象に晒してきたのです。だからこそ他人の決断に対しても厳しくなってしまう、、、これがただ淡々と起こり続けのてきました、、、ですがもうこれができない、、、、自分で取捨選択していない、、そして自分も居ない、、、、全体からの起こりだけがある、、、この状況で誰を批判できるでしょうか???

これから俺はまともな判断を下していけるだろうか???

全く問題ありません、なぜならば今までも一つたりとも決断を下していないのです、、、今まで決断を下したことがないのならばこれからも無いだけです。つまり諸行無常、神羅万象に委ねていくだけなのです。この体はこれからもあらゆる物に触れ、あらゆることを感じ、あらゆる音楽を聞いていくでしょう、、、ですが本当にただそれだけなのです、、、この事実を空いととるか、至福ととるかです、、、それも全体からただ起きます。

「我在り」の中で現れては消えていく、、色々

諸行無常とは、、

釈迦は悟りを開き、この世は諸行無常と表現しました。あらゆる現象が変化変遷を遂げていく世界、あらゆる物が現れては消えていきます。ただそれだけ。その中で絶対に消えない感覚「我在り」この感覚だけは絶対に消えません、私たちはこの体、この思考、この感情も絶対なモノだと思っています。ですがよく考えてみてください、この体、思考、感情は一日毎に日々変わっていきます。いやそんなことはない、、「私は在る」という思考は変わらない、、、その通りです。「我在り」これだけは変わらないのです、、、そしてそれは思考ではないのです。「我在り」の中でこの体、思考、感情こそが私だ、、、、この思考が湧き続けているだけです。錯覚という認識が消えないだけです。毎日変化する体、思考、感情を自分とする思考が消えないだけです。

「我在り」がある、だから「私」は居る

この間違いは当たり前に起きます、この「我在り」は絶対で在りこの感覚がなくなることは絶対にありません、いかに苦しい時もいかに楽しい時もこの感覚がなくなった時は絶対にないのです。だからこそ人は勘違いをします、この「我在り」が完璧永続ゆえにこの感覚がこの体に起きていると思うのです。「我あり」はこの体で起きているのだ、、、これで「自分」「私」という大いなる勘違いは絶対的なものになります。「我あり」の思考による乗っ取り、所有です。このトリックを見破れる人はいません。

それでも「我あり」は続く

思考がこの「我あり」を自分のモノにしようと何だろうと「我あり」は全く拒絶をしません、何も変化することなく在り続けます。そしてこれを思考は自分のモノにしていきます、我在りという絶対的感覚とこの体、思考が「自分」なのだと湧き続けます。これで自分劇場、私ストーリーは絶対的なモノになります。「我在り」という絶対的感覚、変わらないこの体、そして湧き続ける思考、感情、、、これぞ「自分」だ、、、です。

こちらの認識とは何も関係なく、、色は動く

分離の世界を生きていようといまいと、、

こちらの認識とはうっさい関係なく色は動き続けなす。修行無常の世界はただ動き続けます、変わり続けるアート作品のように、神が作ったクリエイティブ作品のように。私という視点がどのような分離の世界を見ていようとそこには何の関係もなく色の世界はただ動いていくわけです。そこに人間の脳は分別、解釈を加えていき一人一人違った世界を見せるだけです。ある人の解釈する世界ではそこには争いが絶えず、ある人の見る世界では罵詈雑言が飛び交っているかもしれません。

こちらの思考の解釈がただある

思考の解釈に優劣はありません、ただその「自分」というものが体験した積み重ねが記憶に構築されそこから価値観が生まれだします。その価値観に基づき分別が生まれ、この大アートを切り刻んでいきます。この切り刻み方が人によって全く違うということです。どこをどう切り刻むかによってこの分離の世界は姿を変え続けるということです。どのような分離の世界を生きるか、、これは全員が違いますが唯一同じことがあります。それは分離の世界はどこまで行っても苦しいということです。だからこそ分離の世界にお腹いっぱいになった順番で悟りを目指すようになります、分離した「自分」が。

宇宙のアートはただ動く、それぞれが自由に切り刻む

本当の本当はどう個人がこの宇宙アートを言葉で切り刻むかすらも決まっているのですが、、そこは横に置いておいて我々個人はこの神のクリエイティブ作品、宇宙アートを独自の言語、単語で切り刻んでいきます。「自分」を切り刻み、見える世界を八つ裂きに切り刻んでいくのです。切り刻み方によって見える世界は変化していきます。切り刻んで切り刻んで切り刻み尽くした時に分別のある大人が誕生しているかもしれません。ですがそこにはアートはすでに存在せずアートの残骸、背景に化した世界が広がっているかもしれません。

色と空に境目はない

色と空は一つ

ノンデュアリティーとは非二元ですから色と空が別だ、、と言ってしまったら矛盾します。色と空は二つで一つです。色とは動く空であり空とは静止した色です。おそらく人間という体を持った状態でこの事実を完璧に腹落ちさせることは不可能でしょう。少なくとも我々はこの動く空の中で個別意識を持ち分離体験絶賛行動中の身であることは間違いありません。分離全開、分離上等です。家庭教育、学校教育でモノの名前を丸暗記していくことでこの大宇宙をバリバリに引き裂き分離してみせその中を生きるという芸事をやっているのがこの人間です。この人間の視点から色と空の双対を否定し切るのは難しいものです。

一瞥体験者は色の世界を馬鹿にする

色から空の境地、、、絶対無を理解した一瞥体験者、覚醒体験者は、、移りゆく世界、移り動く世界、諸行無常の世界を意味のない世界、、そこで右往左往する我々人間の動きを嘲笑います。本当は絶対的無しかないのだから何を慌てて生きているのだ、、、ということです。何も達成しても無駄、何を成就しても無駄、、という結論に走るわけです。ですがこれはこの広大な宇宙アートを創造した意図を組めていません。我々はこの偉大な宇宙アートが人間という視点からこの宇宙アートを体感するという偉大なゲームをしているのです。このゲームに虚無感を感じのは幼稚な解釈です。

私を通じて見る世界を楽しむ

そもそもが壮大な宇宙アート、完璧な神のクリエイティブ作品であるこの世界に人間が個別意識、分離意識をもて降り立つことでバランバランに引き裂き生気、活気、芸術性を切り裂いて生きているのが我々に生活です。だからこそ人間はアートを再び求め、偉大な音楽に聞き惚れます。なぜならば本来は全部がそうだからです。このバラバラに切り裂かれた世界に再び神を再発見したいのです。ゴッホやピカソ、べートーベン、モーツアルトには見えていました、聞こえていました、神のアートが。だから彼らはそれを神や楽譜の上に表現したのです。

I AM がどこに意識を集中するか

私は在る

私は在る、、この感覚に疑いを持つ人はいないはずです。どんなに疲れていても目覚めでも、二日酔いでも、疲労困憊でも、酔っ払っていても私は在るというこの感覚は不変です。体が目の前にあるのだから当然、これは違います。目を閉じて体が一切見えず感じずの状態であってもこの感覚は不変なのです。私は在る、これが全体の意識、神、大いなる存在の意識なのです。この状態は実は無敵でこの状態を奪える者は誰もいません。その証拠に生まれてこの方この「私は在る」が欠落した瞬間はないでしょう。どんなハプニング時も、交通事故に巻き込まれても、八方塞がりの状態でもです。私が在るが無くなった時は皆無なはずです。

私は在るは無敵だが、私は〇〇で在るは最弱

私は在るは無敵です、いかなる状況であろうとこれが失われることはない、、むしろ万物はこの私は在るの中で起きています、諸行無常に。たまたまこの中心にこの体があるだけでそれも込みでひたすらに私は在るが永続するのです。ですがこの私が在るが湧き上がる思考と同一化するとどうなるか?私は〇〇太郎で在るに変わります。私は在るの対象への同一化です。この思考への同一化に成功しますと極端にエキサイティングな体験が起こり続けていきます。思考は過去未来に私は在るを連れていきます、違和感、孤独感、寂しさ、喪失感を感じるようになります。このような体験は「私は在る」の状態では絶対に体験できないことです。思考との同一化、「私は〇〇で在る」からこれはスタートしたのです。

「私は〇〇で在る」を完全に忘れた時「私は在る」に戻っている

私は在るは神の意識です。我々は元々神の意識そのものです。この私は在るの中で万物は現象化し揺れ動いています。ただ揺れ動く万物が在る状態が本来の姿です。ここから思考への同一化が始まり「私は00で在る」という錯覚、誤解、チャレンジが始まったのです。広大無辺な「私は在る」から極小、最弱な私は00で在るへの変化は間違いなく大きなチャレンジでそれゆえこのチャレンジ、遊びはエキサイティングかつ疲れるモノです。気分の浮き沈みも体調の浮き沈むみも半端なく不安定な波の上でサーフィンを続けるような体験です。「私は在る」の「私は00で在る」という体験は神のサーフィン体験のようなモノです。上手く乗りこなした時の感動は神が神のままでは絶対に味わえない経験です。