森羅万象

あるがまま

本当のあるがまま

本当のあるがままとは、、、この個人としての私、イメージとしての私、、が私らしくあることではありません、、イメージの私らしいって意味不明です。。イメージの私は変幻自在にイメージを変えているだけです。。本当のあるがままとは真我の生命現象の全て、森羅万象の動きの全てを許容するということです、、そこにはこの思考、この感情、この行動も勿論含みます。

起こる現象を判断しない

起こる現象の全ては森羅万象の動きのみです、、、どんなに性格が悪い友人の嫌味も、、森羅万象の動きでしかなく、、そこに関与できるような森羅万象の動きを変えれる存在は居ません。「私は私の意思で嫌味を言ってやった」と宣っても、、その宣言こそが森羅万象の動きです、、、その性格が悪い友人の姿形は、、実は見かけ上の私の観念が作り上げています、、、人間という言葉を学び、男という言葉を学び、友人という言葉を学ばなければ、そして嫌味という言葉を学ばなければ、、その存在の言動を理解できないのです、、、つまりそのなのストーリーを作り上げたのはこの私の観念です。だからこそそこの判断を下せば、、そのストーリーをただ延長させることになるのです。

ただ起きた

嫌味を言う友人も、批判をしてくる友人も、妬んでくる友人もただただ森羅万象の動きとして起きました、、この圧倒的理解、絶対的理解をした上で、、その現象をただ見つめます、、、するとほとんどの場合は反応をしなくていいはずです、、、言い返す必要がないケースがほとんどです。。。嫌味を超えて暴力を振るってきたら扉を閉めてしまうか、警察に連絡するだけです、、、これを癖付しますと驚くほどに平和な毎日がやってきます。本当のあるがままとはこの見かけ上の私、イメージの私のことではなく、、全部が森羅万象の動きであることを悟りただその動きと共にあることです、そしてそこから現象そのものであるという気づきが起きます。最後はその気づきも起きない、、現象そのもの、、、そして現象そのものを支える空の存在に気づき、、最後はこの気づきもなくなる、、空と色は一つ、ノンデュアリティ。

お水

このお水はなぜお水の状態を維持できるのか???

目の前にグラスがありその中にお水が入っています、、、このお水はなぜ、、この状態を維持できているのでしょうか??化学記号でいえばH2O、、、この化学記号の原子がなぜ収束した状態を維持できるのか???この力こそが真我の力です、、物質をその状態に維持する力こそが真我なのです、、、、とはいえこのお水もいずれは蒸発して気体になります、、この変化を引き起こす力が真我です。

気体が液体に、液体が個体に、、

気体、液体、個体、、、万物は常に変化を繰り返していきます、、、この動きを起こす力が真我です、、森羅万象、諸行無常、、、常に変化が起こるのですが、、この変化を起こす力こそが真我、大我、本当の自分です、、、つまり今この瞬間も我々は本当の自分の変化の中に居ます、、、そこから逃れられない、、本当の自分から一歩も逃げることができない。。。

諸行無常

諸行無常は分かった、、、では誰がこの諸行無常を起こしているのか???本当の自分です、、この体の中に居ると思っていた小さな自分がこの変化を作り出していたのです、、、大きな自分だったのです、小さな自分は。この大転換、シフトチェンジこそが悟りと呼ばれるものです、、パラダイムシフトです。

全ての動きに自分を感じる

風が動く、、

風が動く、、この動きが自分です、、風を感じる、、この感覚を起こす力が自分です、衝動を感じる、、この動きこそが自分です、、森羅万象全ての動きを動かす存在こそが自分です、、どこまでいっても自分しか居ない、、、ただこの自分は最大限偉大な存在、この自分以上に偉大な存在は居ない、、そして自分以外も居ない、、全動きを起こす全存在が自分だということを意識して生活します、、、すると、、人間関係が変わる、生活の全てが変わる、、全現象に気づきが起きます。

自分がやっているという絶対感覚

子供は川で魚を見ると興奮します、、、なぜならば魚を動かしているのは自分であることを知っているからです、、魚を魚たらしめているのも自分、川を川たらしめているのも自分、魚を見るという行為も自分が作り出しています、、、だから興奮する、、、それが大人になると何も感じない、、ただ魚が居るだけ、、終わり、、自分が完全に魚と分離している、、だから興味も湧かない、、、

本当は魚であり、魚を動かしている、、、

本当の本当は魚を魚として動かしている張本人こそが自分自身です、、この感覚を子供は覚えている、、だから興奮してしまう、、、自分がこんなすごいことをやっているという喜び、、、はっきりと感じる万能感は嘘ではない、、俺が雲を作りその雲を動かしているという絶対感、、、そう今も全部を自分が作り出しています。

なぜ自分は幸福を求めるのか??

自分は不幸だから

幸福を求めていない人はいないでしょう、、ではなぜ幸福を求めるのか??不幸だからです。。。普段酸素を求めている人はいません、、ですが水中に潜ると、、、酸素を求めますね、、、水中には酸素がないからです。つまり幸福を求めるのは基本不幸だからです、、、ですから不幸を背負った状態で、、幸福を求めても無駄なのです、、、水中(不幸)から出なければなんの意味もないのです。

水中から出るには、、、

水中から出る、不幸からでるには、、、今が不幸であることを完全に認めることです。。。今が不幸だから幸福に興味があるのです、、、基本はここです、、、そしてなぜ不幸なのか???個人であるという状態は絶対的に不幸なのです、、、ここが重要です、、、人間のこの体を自分として生きるのは絶対的に不幸なのです、、全員が、、、では自分とは何なのか????自分とはこの体ではなく、、この体、、森羅万象の全てです。

森羅万象が自分であるという実感が湧かないが、、、

森羅万象全てが自分自身であるという実感が湧かないのですが、、、それはそうです、、、何年間もかけて、、、この体が自分であるという学習をしてしまったのですから、、その思い込みを作るには莫大な労力がかかっているのです、、、ということでこの思い込みを外すには莫大な労力がかかります、、ですがこの試みはどこかで必ず成功します、、、なぜならば、、、それが真実だからです、、、真実の前に概念は崩れます、、

現象に良し悪しはない

現象の良し悪し

我々は現象に良し悪しをつけますが、、我々はこの現象を生み出したエネルギーそのものですから良し悪しは本来ありません。現象に良し悪しをつけるという経験そのもののエネルギーです、、植物を構成するエネルギーに良し悪しは全くありません、、人間の体を構成するエネルギーに良し悪しもありません、、全ての現象はエネルギーで構成されていてそのエネルギーが我々の本質です。

この自分にとって

この自分にとってこの現象は良いことだ、、、という判断が下るという経験を作っているのが我々の本質です。この自分にとって今日の天気は最高だ、、という気分を作っているエネルギーが我々の本質なのです。どこまでいってもそこには自分しかいない、、全経験も自分です、、、全部が全部自分ならば何を焦って成し遂げることがあるのか?という話です。

たった一つのエネルギー

たった一つのエネルギーが万物を生み出し、経験を生み出しています、、、たった一つ、、そのたった一つのエネルギーこそ私です。。。このたった一つのエネルギーが変化していく様を諸行無常と言います、、森羅万象です、、あらゆる思考、衝動、感情が湧き出しますが、、このエネルギーもたった一つのエネルギーの様です。この中で個人は焦って何かを手に入れようとすることもできるし、全部自分ならば何を手に入れるのか?と気軽に考えることも自由です。

人間のトラブルの全ては、、、

人間関係のトラブルの全て

人間関係のトラブルの全ては、、、そこに自己が存在しているという大勘違いこれだけです。。。Aさんという体の中には、、Aさんの言動全てを決めている自己が存在しているという大勘違い、、これがトラブルの原因なのです、、、Aさんはあんな酷いことを言うとはなんという残虐な人だ、、、、違うんです、、、Aさんという体の中には、、それを決めるAさんは存在しておらず、、ただ勝手に森羅万象の動きが起こるだけなのです、、、この大勘違いのみが人類のトラブル全てです。

お店で注文が間違えられたら、、

お店で注文間違いが起こった、、、ビールを頼んだらウーロン茶が出てきた、、、、この時やるべきことは????ただこの事実を受けいれ店員さんに替えてもらうだけ、、、ここに感情が湧き上がることがおかしいのです、、、そのような森羅万象の動きがあっただけでなのです。注文を間違えることができる店員さんの自己は存在しないのです。

私は意図的にそれをやりました、、、

店員さんに注文を改めて言ってみたら、、、「意図的にわざとやったんです」と回答があった、、、これはどういうことでしょうか????店員さんの悪意でしかないじゃないですか、、、違います、、、店員さんが意図的にやったのだという勘違いが起きたのです、、、店員さんの中に自己が存在し、、その自己が意図的にやったのだという思考が起きたのです、、、事実はこうなっています。これでも感情が湧きますか???

雲は動く

雲の中に個人は居ない

雲の中に鳥のような形が生まれます、、この鳥はいつの間にか生まれいずれ無くなるでしょう、、形の崩壊です、、、、この鳥の誕生と消滅には意味があるでしょうか??ありません、、、この雲の動きには狙いがあるでしょうか?ありません、、、雲の動きは森羅万象の動きでしかない、、そこに鳥が生まれ、人間が生まれ、、ドラマが生まれる、、、これも森羅万象の動きでしかありません、、、ドラマに没入するのも自由、ドラマと見抜いて没入から離れるのも自由、、没入は疲れる、、非没入は疲れない、、、ただそれだけ。

今目の前にも、、、

今目の前にも、、、ドラマが起きてますよね、、、完全な森羅万象の動きに、、、勝手にラベルを貼り付け、、、共有した意味を持たせ、、、ドラマを共同で作っていますよね、、そこに没入すれば疲れ、、没入から離れれば疲れない、、、、ドラマに埋没すれば楽しい時もある、、、ただ疲れる、、、ラベルを剥がしてしまえば、、森羅万象の動きに戻ります、、、意味を持たせるにはラベルを貼ってドラマにするだけ、、

この現象は雲よりも動きが遅いだけ

我々が見ている世界は雲よりも動きが遅い現象です、森羅万象の動きです、、、雲の動きに後悔や心配は起きないのは、、雲だと見抜いているからです。。。。我々の動き、、、もただの森羅万象の動き、、時計もコップも、、実はゆっくりと動いている、、、心も動く、、、我々の活動、我々を取り巻く環境も雲のように動くのみ、、何を心配し、何を後悔するのか???何一つこの動きをコントロールなどできないのに、、、

この体の中を観察する

心臓も肺も

この体の中において何が起きているのか???心臓が動き血液が動き、血管が収縮し、、肺が動く、、勝手に自然に動き続ける、、、思考も同じ、、勝手に湧き上がり、勝手に無くなる、、、感情も同じ、、勝手に起こり、勝手に静まる、、、全部が全部全自動、森羅万象の動きでしかない、、、

だから何?

それが何の意味があるのか???ないのです、、、私と言われる体の中が完全に森羅万象の動きでしかないというこれが事実です、、これだけ、、、だから私の人生には価値があるとか、、嘘です、、だってただの森羅万象の動きでしかない、、、しかし森羅万象の動きに価値はないのか????価値も何もそれしかないのです、、、神の動きです、、、神の動きに意味を見出すのは不可能、、、

心配も後悔も滑稽

心配するも後悔するも意味がない、、、なぜならばこれが森羅万象の動きとして起こったのだから、、、森羅万象の動きを後悔する???誰が???ギャグです。森羅万象の動きを後悔できるのは森羅万象をコントロールできる存在です、、、誰????居ません、、、空から生まれた色(森羅万象)はただ動くののです、、目的もなく意味もなく、、、動くから動かない存在に気付けるだけ、、色即是空です。

森羅万象

動きのみ

我々が生きているこの世界はただ動く世界です、、動きのないものは一切存在しない、、微妙にもしくは大胆に常に動き続ける世界に居ます、、万物は全て動いていますから固定した存在はありません、、例えばリンゴという固定した物体は存在せず、、一時的な状態を説明したものです。。リンゴというイメージに沿った状態にある万物の動きを説明したものです。

動きのみの中で

万物は常に動き続けます、この体も例外ではなく、、日々動き続けます、、、、思考も欲望も、衝動も、感情も常に動き続けています、、、その中でこの体の中に自分が居るという発想が起きました、、これが自我です、、これも万物の動きの一つです、、、そしてその自我が活動した記憶が起こり、、自我物語が誕生したのです。動きのある万物が分離しているように見える世界が誕生したのです。

再びしっかりと観察する

今目を閉じて現象、万物の動きを観察してみてください、、一時となく何かが起きるはずです、、冷蔵庫の音、鳥の声、目を閉じても差し込む光、、、隣の家の豚汁の香り、、何かが起きます、、、そうです、、我々は一時と静止しないこの万物の中に居るのです、、、思考も起こり、感情も起こり、、この体も動く、、、これが真実、事実です。。この森羅万象、諸行無常、、の中で安定、平和、幸福を手に入れようとする試みが不幸を作るのです。何一つ固定されない諸行無常、、、しかない、、この体も心も、視界の全てが移ろうだけ、、、終わり。

私の居場所

私はどこに居る?

私の居場所はどこでしょうか?この体の中???違います、、、この体の中に自分は居ません、、では一体どこに居るのでしょうか???今ここに居ます、全体としてここに居ます、、、変化が起こるこの場所そのものが私です、、、そして変化が起こることに気づくためには変化がない場所でもある必要がある、、絶対的存在そのものでもあります。

変化すらしない場所

変化する存在が居て、それに気づく存在「アイアム」がいます、、変化はアイアムの中で繰り広げられるわけですがこのアイアムを生み出す場所こそが絶対の場所、空です。空の場所から色(森羅万象)が生まれ、、、それに気づく存在(アイアム)が生まれます、、

アイアムも空の投影

アイアム、、私が居るという絶対的感覚、、、この感覚は空の投影です、、何もない場所から鏡のようにこの存在が現れました、、、しかしこの存在には実態がなく、、、変化に気づくことで、、、気づきの意識としてそこに居ることを実感します。そしてアイアムが居ることでこれを生み出す場、空が再発見されるわけです。