明晰夢

偽りの自分は世間体を気にする

神が世間体を気にするわけがない

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神が人間に扮して夢物語を歩んでいきます。人間になりきった神、偽りの自分が世間体を気にします。それは世間の顔色を伺わないと生きていけないと思うほどにこの人間は弱いからです。周囲にとことん嫌われてでも生き抜いていけるほどにこの人間は強くはありません。だからこそこの偽りの自分は世間に迎合します。偽りの自分は無知無能でありそれがデフォルトです。神は全知全能です。このギャップがどれほどの影響力を持つかということです。神は世間体を気にしません。人間扮する神は世間体を気にします。

世間体を気にしない人は自分が神であることを思い出してきている

世間体を気にしない人が稀にいます。これは自分の存在が人間という限定された存在ではなくそれ以上のものであることを思い出してきているのです。あらゆる困難に向き合ってきた中で瞬間瞬間に神の存在に触れていきますと周囲に迎合する意味が分からなくなります。神は周囲に迎合しません、強いからです。本当の強さとは腕力でもなく頭脳でもなく神であった記憶を取り戻した者です。絶対絶命になった時に自我が抜け落ち無我の存在に触れたか、日々の生活の中で無心に入る、完全燃焼に入る状態を知った者は自身の存在が実は神であることを思い出しています。

偽りの自分が本当の自分を見つける?

偽りの自分が本当の自分を見つけることはできません。本当の自分が偽りをしていたことに気づくしかありません。本当の自分はこの偽り体験(人間体験)を通じて弱さ、惨めさ、孤独、不足、欠落を経験したかったのです。本当の自分は偉大すぎてこれらを経験できません。あえてこのような状態、経験を味わい尽くすことで新しい感動体験を積んでいます。

相手を攻撃したい欲求が湧くのは、、、

攻撃することで偽の自分を確認する

「この心身こそが自分だ」これは偽りの自分です。この偽りの自分は時に他人を攻撃することで自分を確認するという手段をとります。他人を攻撃しますとその他人はこの偽の自分に対して反応をします。「何をいうんだ?」「なんて酷いことを、、」と何かしらの反応をしてくれます。こうして偽りの自分は自分の存在を証明して安心するのです。自分が偽りであると分かっているからこそこの偽りの自分は他人を利用して安否を確認します。世の中から今後も犯罪がなくならないのは、自我の延命処置のために他人を攻撃するというやり方ゆえです。

攻撃しても反応してくれない他人は用無し

偽りの自分は誰かれ構わず攻撃することはしません。ちゃんと攻撃に対して反応してくれる他人に絡みます。反応をしてくれない他人は自分の証明にならないからです、反応をしてくれるからこそ自分が居ることを証明できます、偽りですが。もしも自分の存在に絶対的な自信があるのならばわざわざ絡むなどのことをしなくていいでしょう。その存在が偽りだからこそ他人に絡んで安心したいのです、一瞬でも。

自分の存在が偽りであることは神(本当の自分)が一番よく知っている

これは神の夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間(主人公)を作りこれを自分であると勘違いすることでこの夢を永続させます。神がわざわざ人間に扮しているのですからこの存在が偽り、仮の姿であることは誰よりもよく理解しています。だからこそこの勘違いを永続させるために他人を利用するのです。人間としての自分に絡んでくれ、反応してくれ、過剰なまでに反応して欲しい、、、これが他人を攻撃したい欲求になります。

他人を強烈に意識する自我は褒められて安心する

他人の評価しか信用しない

自我は他人からの評価を強烈に意識します。自我は他人から評価されたくて仕方ないのです、そして自身に低評価する人間を腹の底から憎みます。高評価する人間を愛し、低評価する人間を憎んで生きていくのです。これが自我です。これは夢です、神が見る夢です、この夢の中で神は人間になり切って生きています。成り切るためのメカニズムが自我です。つまり自我とは後付け、、存在しないのです。ということで自我は他人からの評価で自身が実在していると保証したいのです、そして自身を低評価する人間を恨むのはその先にある自分の嘘を見破られることへの恐れです。自分は本当に居るんだ、という強烈な打ち出しは実は居ないからこそ起こります。

自分の中に神を発見した人はもう他人の評価はどうでもよくなる

神が人間に扮している、人間になり切っているのがこの夢ですから、、本当は神です。自我はそこを隠すメカニズムです。自我はそういう意味ではこのプログラム存続に必死です。逆に言えばそれしか興味がありません、もしも神が実は神だったことを思い出した瞬間自我プログラムは消滅しますからそこだけは避けたいのです。だからこそ自身を評価する人間、自身の存在を全肯定してくれる存在を重宝します。会社の社長がYESMANを集めたがるのはこれです。もしも自分の存在を思い出してしまった人はもう他人の評価が気にならなくなります。むしろ他人は自身を人間としてしか見れませんからその時点で低評価をしているのです。どんなに人間として高評価しようとそれは低評価です。

無心、無我、無思考に積極的に入り込むことで神になる

自身が人間ではなく実は神であることを思い出すためには、無心、無我、無思考に積極的に入り込むことです。何かに夢中になる、無心になるという作業に意図的に入ります。ルーティンを行動に取り入れて思考の入る隙間を排していきます。自分から人間ではなく神に戻る方法を覚えてしまうと他人の評価は無駄になります。自分が一番の高評価査定をします。自分が神だと気づいている人間が他人からの評価を気にするのは滑稽なことです。

損得を超える

損得はこの心身に対する絶対的確信から生まれる

このちっぽけで極小で、無知無能な人間という姿が自分である、、、この感覚に対し圧倒的な確信をしますと、、人はこの最低最悪な状況でいかにこの人生をマシに生きていくかを考えるようになります。損を最小限に抑え、得を最大限に得るかに一点集中します。それが損得勘定です。大人であればあるほどに損得感情ができるようになってしまうのは皮肉にもこれが自分であるという誤解が完成しているからです。これは神の夢です、神が見る夢です、神が人間になり切って見る夢です。本当は神ですから人間役をこなすことは地獄です。地獄ですから損得勘定が強化されていくのです。

無我に入ることを積極的にできるようになると

無我、無心、無思考に積極的に入れるようになると夢を見ながらも神に戻ることができます。思考が介在していない時、神は神に戻っています。この状態を積極的に作っていきます。そうすると損得勘定でいかに得をするかが生きる目的だったのが神に戻ることが生きる目的になります。人生の目的が全く変わってしまうのです。自我ベースで生きているとき生きる目的は損得です。ですが無心、無我、無思考に入ることを覚えると生きる目的は神に戻ることになります。

無我で解決する

多くの方は頭脳で問題を解決しようとします。多くの方は思考で問題を解決しようとします。そうではなく無我、無心、無思考で問題を解決します。問題を解決している最中に神に戻ります。問題を解決している途中で歓喜、安堵、平和が訪れます。剣道で言えば試合中に思考を使えば負けます、思考を使わないように練習を重ねていきます。この感覚をいかに日常生活に取り入れていくかです。思考の出る幕を極限まで排していく、そこにだけは知恵を使います。損得勘定が消え失せていきます。

夢というのはリアリティーがあればあるほど醒めない

退屈な夢は醒めやすい、刺激的な夢は醒めにくい

毎晩人間が見る夢は刺激的な夢のう方が長く見ていられる気がします。退屈極まりない夢だったら途中で覚めるかもしくは怖すぎても起きるかもしれません。今我々が居るこの現象界は夢です、そしてこの現象界をストーリ化しているのは自身の観念。どんな夢を見るかは自身の観念が決めています。要は思考ということになります。どのような思考を信じているかでこの夢の内容は変わってくるということです。思考が積み重なり何十層にもなっていけばいくほどにこの夢、ストーリーは複雑怪奇になっていき緻密な夢になります。故に誰もこれを夢とは見破れなくなるのです。

自身の思考でこの夢を複雑にし、複雑故に疲れ果てていく

思考を重ね複雑に考えれば考えるほどにこの夢物語、海物語は複雑さを極めていきます。複雑であればあるほどに誰もこの夢を夢だと見破ることはできなくなります。こんな複雑で緻密な夢があるわけがないと信じ込むようになるのです、というよりも疑わなくなります。生き抜くためにあらゆる思考を手に入れて逆に生き辛くなった人間はこの苦しみから逃れるためにこの世の真実を探すという旅に出かけます。どうやら思考を積み重ねていってもこの現実は楽にはならないと諦めていくわけです。こうして人間を主人公にしたこの全存在の夢は覚めるための夢物語にシフトしていきます。この夢物語の中から覚めるためのヒントを探していくようになるのです。

先ずはこれが夢なのだと自覚することからスタートする

これが夢だということ、この事実を先ずは受け入れることからスタートします。そして明晰夢の状態でこの夢を生きていきます。これが夢だと覚めるために人生を費やしていきます。ですがこの発見のために過剰な努力をしたりムキになったり、思考を重ねてもそれは無駄に終わります。なぜならばその個人の囚われこそがこの夢を永続するシステムだからです。この個人がいないということ、これが夢だということの発見のために個人が頑張れば本末転倒です。なぜこの夢は苦しいのか、なぜこの夢には平和がないのか、なぜこの夢には本当の愛がないのか、、このように夢を観察する、、そして無我に入るとなぜその時だけは平和が訪れるのか、なぜ無心になるとその時だけ歓喜が訪れるのか、、このように夢の傍観者として生きていくことがスタートです。

明晰夢とは

夢の途中でこれが夢であると気づくこと

明晰夢という言葉があります。これは夢を見ている最中にこれが夢だと気づくことです。この感覚をこの人間ゲームの最中に気づくこと。これが悟り、目覚め、一瞥体験です。そしてそれに気づくのは誰か、それはこの夢の主人公ではありません、夢を創造している存在、つまり本当の自分、我あり、です。

無我夢中の時、それでも意識があるのはなぜ?

無我夢中の状態、ゲームに没頭する、仕事に没頭する、映画に没頭する、、、このような状態にいる時意識はなくなっているでしょうか、無くなっているわけがありません。むしろ明晰、むしろ鋭敏な状態。決して朦朧ではなく意識そのものです。無我夢中なのに意識があるのはなぜでしょうか、無我なのだから自分はいないのになぜ意識はあるのか?それは自我こそが後付け、自我こそが錯覚、無意識状態だからです。自我がなくなればそこには意識だけが残るのです。この意識そのものの感覚を思い出すことこそが神、ワンネス、大いなる一つの状態です。至福の状態です。この感覚を思い出したならばこの意識で日々を送ることです、これがワンネスがこの夢を夢と理解した状態での生活、つまり明晰夢です。

何かに集中できる人はその瞬間神になっている

マイケルジョーダンが試合中に神になったとよく形容されますがこれは実は本当です。神がかったプレーと称されるその瞬間、実はそこには自我が消えていて無我だけが残ります。自我の勘違いが抜け落ちそこにが無我、神が残っています。神が意識が直接人間を動かしているのです。自我が払い退けられて状態、この状態を人はゾーンに入ると言いますがそのゾーンは意識の状態です。無意識ではなく意識しかない状態、自我が自分でプレーしているという勘違いをしていない状態です。この瞬間に意識的に入れる人は達人、仙人、悟り人、マスターと呼ばれます。神が人間ゲームを遊んでいる状態です。