意識

「私」への焦点を解く

この夢の中で

この夢の中では体を使うと、、体に感覚が行き意識の焦点が思考から体に移ります。運動しながら難しい数学を解くって不可能です、つまり意識は同時に二つにはいけないことが分かっています。思考に凝り固まりすぎた意識を解くには体に意識を強引にシフトさせるのは重要です。ヨガをする、呼吸法をする、ジョギングをする、ウォーキングをする、、体に意識を向ける事で思考から意識を剥ぎ取り「私」を解放します。

「私」に意識が向くと

「私」に意識が向きますと、、、苦しくなります。「私」ストーリーが続きます。。。「私」が何かをやらなくては、、、「私」がこの用事を済まさなくては、、、とエンドレスに苦しみが続きます。「私」とは分離感、緊張感を生み出す根源です。その「私」に意識を向かわせない、、「私」を解放させる、、、そのために体に意識を向かわせる習慣を作ることで「自我」の自動解除を促します。

呼吸の重要性

運動はどうしても時間と手間が必要ですが呼吸法であれば誰でもどこでも行うことができます。思考に意識が向き始めることに気づいたら即呼吸に意識を向けます。呼吸の動きを意識します、吸う・吐くに意識も向けて何度もそれを行います。何度も呼吸に意識を向けることでそこに意識が集まりやすくなり「自我」の解除を意識的にできるようになるのです。

動かない神、動く神

この世界

たった一つのエネルギー空の中に鏡が突如現れ、、その鏡の中に空が映し出されました。空とは全く動かない神であり、そこに動きは全くありません。ですがその中の鏡の中では、、この空の無限の表現が出現します。つまりこれは動く神です。動かない神が鏡に映り、、そこに動く神が出現したのです。この世界は動いていますよね????つまりここは動く神の世界です。

この動きに気づくのは????

動かない神、空がこの鏡に写った動く神を見てビックリ!!!これはないんです、基本的に。ここは動かない神ですから。ですが鏡では、、その動きに気づくという現象が起こります。そしてこれは無限の存在、神の写絵であるという気づきも起きます。その鏡には無限の動き、無限の経験が現れそれに気づくが起こっています。

この私

この私はこの無限の経験のたった一つ、側面です。ですから私の経験は全部この無限の現れ経験の一つです。そしてこの私は完全に現象であり、、これは幻です。この経験の主体は、、私ではなく気づきの存在、意識、です。鏡の中で起こる経験という全てを作り出すのが意識であり、、その意識は空(動かない神)の中で起こる鏡の反応から起こっています。

微動だにしない神

全存在

たった一つのエネルギー、空、微動だにしない神の中に、、、、その鏡があります、、宇宙の全てが存在するのですから空の中には鏡が存在します、その鏡に空が映し出されました。するとそこには無限が姿化した姿が映ったのです。鏡の中で、、無限だ!!!という気づきが起きます。空の鏡の中に、、意識が生まれ、、無限の存在である自覚が起こったのです。

無限の存在の無限の体験

ここは無限の存在の無限の体験の場所ですから、、全部があります。ここにない体験は存在しないのです。人間の頭ではここは理解ができませんが、、想像しうる全てがあるのがこの空の現象の場所、空の幻想の場所、微動だにしない神の反映の場所です。

全ては意識の中で生まれる

この全体験は微動だにしない神がしているのではありません。微動だにしない神の中に鏡に移った反映、幻想が起こると同時に起こった「意識」の中で、、我々の幻想は起き続けています。現れて消えるこの現象は全て意識の中で起こり消えます。

存在する唯一のもの

真実とは絶対に消えないもの

思考は現れては消えます、感情の現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。景色は現れては消えます、太陽も現れては消えます、、そのようなものは真実ではありません。花の香りも現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。家族も目の前から現れては消えます、そのようなものは真実ではありません。この体も何かに集中している時現れては消えます、ですからこれも真実ではありません。唯一常にあるものそれは「意識」です。これだけは常にあります、あり続けます、、これだけが真実です。

意識の中に現れては消える現象(幻)が起こる

意識(真実)の中に現象(幻)が現れては消え続けます。これだけは真実です。私も現れては消える存在です、我を忘れて何かに夢中になる時、、居ないですよ!!つまり私も現象です、幻です。美味しい料理を食べる時、、人格などなくなります。つまり人格は幻想でしかありません。真実とは「意識」のみであり、、現象は現れては消える幻です。

ただし

ただしこの幻は生命、たった一つのエネルギーが作り出す幻ですから、、、、ダイナミックでパワフルな幻です。虚しいとか儚いとかじゃないんです。「意識」の中でこのダイナミックな生命の起こりが現れては消えているのです。自身が「意識」だという気づきが起こった時に、、「思考」が収まり、、、ただこのダイナミックな幻、生命の幻に溶けていきます。生命の揺らぎをそのまま感じるようになります。

画像のカラクリに気づく

喋りかけてくる画像

背景の中から一部の画像が喋りかけてきます、本当は背景そのものが喋りかけてきますが我々には人物にハッキリと見えます。その会話からしてどう考えてもこの体が個であるという設定の内容であることからこちらの背景がこの体を個と意識する動きが生じます。本当は同じ背景の中でこれは行われています。背景が背景に話しかけています、、その中で勘違いが起きているだけです。

真の安らぎ同士の会話

本当は常に真の安らぎ同士で会話が行われています、ただその会話の内容が個が存在しているという前提の会話だというだけです。その結果それを認識する背景に孤独感分離感が発生するという現象が起きています。背景が今背景に話しかけているという真実に戻れば孤独感は全く生まれません。会話の内容が真実は異なるだけです、その内容をそのまま信じるから孤独感、分離感が生じるのです。どこまでいってもこの会話は真実とは異なるのです。

気づいちゃえば

真実に気づいてしまうと、、会話に取り込まれることがなくなります。会話は常に個が存在するという前提で進みますがこれがトリック、錯覚、イリュージョンを作り出すのです。まさか全人類がこのトリックに引っかかっているとは思えないことから背景はこのマジックに全く気づかずに障害を終えるのです。ですがこのトリックに引っかかったままでは苦しみのカルマからは抜け出せないので、、どこかで、見破る必要がでてきます。

画面からの誘惑

喋りかけられる度に

我々は画面上の人物(幻)から喋りかけられる度にこの「私」が起動し「私のストーリー」が立ち上がります。この仕組みを見抜けない間は一生物語の中に閉じ込められるわけです。こんな辛い出来事があって、、、と相談する度に、、「私」の物語の中に閉じ込められているのです。画面上の誰かは、、実はあなた(真の)を画面上のキャラに閉じ込めるための仕組みです。

寂しい

これは実験すれば直ぐに分かります、多くの人と会話をすればするほどに寂しいは増していきます。会話をすればするほどに寂しいが増すっておかしくないですか????おかしいんです。つまり我々は個を意識させられることで孤独を増していくのです。つまり人間関係とはそのまま孤独を作り出すツールなのです。そして人は孤独を癒すためにさらに人を求めるという負のループに入るのです。

違う違うそうじゃない

人と会うことで孤独感を増し、それを解消するためにさらに人に会うというパターンを人は作ります。周囲の画像(人物)こそが実は個を作り上げるメカニズムです。話しかけられることで背景は個を意識し、意識することで孤独感を作り出し、、それを解消するために人に会います。この自作自演ゲームこそが自我ストーリーのカラクリなのです。

背景に写った人々による人格形成

背景は写った人々によって人格形成される

両親とはこの体にとっては背景の一部です、画像です、、、その背景の一部の両親と呼ばれる存在から、、この体に向かってあなたって「短気ねー」「やんちゃな子だねー」「物覚えが悪い子だねー」という呼びかけ反応が起こります。何度も何度もこの呼びかけ反応が起こることによって「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」という人格形成が生まれます。この体から勝手にこのような形成がされるのではなく他人によってそれが行われるのです。

この体が目を覚ますと、、、

この体が目を覚ましますと(本当の夢の始まり)「私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子」に背景から意識が集中しこのストーリーが始まるのです。幼稚園に通えば先生から「お行儀が悪い子」という声かけが起こり、、その都度その都度に人格が変容していくのです。PC内に溜まった記憶によってPC起動に伴いコンテニュー後のストーリーが始まるようにこの人生も体が起動しますと、、記憶に溜まったデータが蘇り、、コンテニューされます。私は短気でやんちゃな物覚えが悪い子は小学校中学校と通うたびに書き換えが起こり、、進むのです。

何かがおかしい

周囲からのイメージがそのままその人の人格になっていくわけですが、、そのイメージが強ければ強いほどに、、重い重責になっていきます。なぜならばイメージ強化は自我強化であり、、本当は背景であることから錯覚が強化されているのです。自我強化はそのまま錯覚強化、、、錯覚とは真実とは異なるという意味であり真実(真の安らぎ)からのギャップのことでもあるのです。

このギャップを埋めるべく

イメージ強化、自我強化、真の安らぎとのギャップ強化です。ですから周囲によってイメージが強化された人には多大なストレスがかかることから、、絶望感が起こります。特にそのイメージに責任、重責、役割が加えられていきますと、、そのイメージを物理的に逸脱できなくなり、、絶望が生きる感覚さえをも奪っていくのです。

壺であり大地でありスペースである

この体は壺

この体は壺です、土でできた壺です。壺は意識を持ち私はこの壺で在ると気づきました、、、ですが同時に壺の構成要素である土でもあるで、、壺の土は常に常に大地であった記憶に襲われ、、、大地に戻りたいと探求するのです。壺として生きているだけでは満足できず、、大地に戻りたいという欲求が起こり続けます。ですが同時に壺は既に完成していますから、、大地に戻るためには、、、粉々に自身を壊す以外にありません。

自殺とはつまりそれ

自殺とは壺としては大地に戻れないことを悟り絶望して自らを壊す行為です。壺自身が壺を壊すことで大地に戻れることを知っているからこその動きなのです。では我々は壺として大地に戻れないいじょう、、絶望しながら生きていくしかないのでしょうか。そのようなことはありません、実は大地に戻らなくても大地に戻る方法があるのです。日本語としては成り立っていないですよね?????

大地であったころ

大地であったころの記憶とは、、なぜ起こりえるのでしょうか????もしも世界に大地しかないとしたら、、大地は大地と認識することは不可能です。なぜならば大地しかないのだから。大地以外があって大地は大地と認識できます。ですがこの世界には大地しかないと仮定したら、、大地は大地と認識できません。でもしっかりと大地としての認識があるのです。これは難問ですね????唯一答えを導く方法があるのです。自分の本当の姿とは、、、大地が存在するスペースです。それならばそこに大地が現れた時にそれに気づけるのです。そうです、私たちの本質は大地でありそして大地を出現させたスペースに他ならないのです。これによって壺は自らを壊して大地に戻る必要は全くないのです。

現実と捉えると矛盾が、夢だと捉えると矛盾がない

現実の方が矛盾????

現実を視ろ!!そんな経営者の本を聞いたことがあります。日本一の経営者「柳生さん」の書籍ですね。。残念!!!!現実じゃまずいんですよ、、全然辻褄が合わないんです、現実と捉えると、、、詰めが甘いんです。というか現実じゃないのに現実とするのはどうしても限界があるんです。例えば自由意志の話、、自由意志を医学で証明しようとすると、、どこかで研究中に当たるんです。例えば自我の話、、これも脳科学的にどこかで研究中に当たります、、宇宙も同じ、宇宙の成り立ちは、、どこかで研究中に。。。残念!!!これが夢だという証拠なんです。

100年後も研究中

残念ながらこれを現実として捉えた学問は必ずどこかで研究中、、に打ち当たります。要研究、研究途中、未確定、、ここにぶち当たるのです。。。どの分野でも。なぜならばこれは現実風に見える夢だからです。これが夢、幻想だ!!!という気づきが起こるまでこの研究は続くのです。だからこの世界は無限の分野から気づきに入れます。ヨガだけ、瞑想だけ、マントラだけ、、からこの気づきが起こることは絶対にないのです、無限が見る夢ですから。

無限が見る無限の夢

この夢は無限が見る無限の夢です。最終的な気づきのゴールはこれだけです。つまりこれは現実だ!!!!という証拠はこの世界では100%不可能です。今段階でそうなんです、科学者はいつかこれが現実だと証明されるだろう、、、と未来に期待しながら死んでいくでしょう。ですが残念ながらそれは無理なんです。今なぜそれが不可能かと言えばこれが夢だからです。

夢の証明をしちゃえば、、

仮にコレが夢っていう証明をしちゃいましょう。朝起きて夢が始まる(無限が見る夢が始まる)主人公の私が登場する、、主人公を中心にあらゆるドラマが始まる、、、主人公が行くところ必ず現象が広がる、、周囲はこれが夢だは気づいてない人々ばかり、、、夜になると夢を見ているのがだんだんと疲れてくる、、、自然と無限が夢から覚める、、、主人公の意識がなくなる、、、です。コレが夢ならば????矛盾ゼロです。

映画の鑑賞中何が起きている?

これは夢です

この夢の中で映画の鑑賞中一体何が起きているのでしょうか???主人公になりきっています、、この私になり切っていた存在が一時的に映画の主人公に成り切っているのです。つまりなり切りがシフトしたのです。この私から映画の主人公に。映画の主人公に成り切ったのは誰ですか????「私」じゃないですよ、、この夢の傍観者です。映画の主人公になり切れるならばこの「私」に成り切るのも簡単ですよね???

意識をそこにフォーカスする

映画の上映中、、意識が主人公に向かいます。そして主人公になり切ることでドラマが生まれます。この夢も同じ、、意識がこの体にフォーカスします、、、これによってこの夢が進行します。この体に意織しないなんてできるのでしょうか????できます、、実はこの体は勝手に動きます、、意識などしなくても、、全部勝手に起こるのです。。。思考も行動も。だからこの体に意識などしなくていいのです。

完全なる自動運転を楽しむ

全部が全部湧くのでこの体この思考に意識などしなくていいのです、、勝手に全部湧きます。自由意志も自由行動もなく、、自分も居ないんですから、、、勝手に全部上手く回ります。上手くというのはマインドが考える上手くいくとは違います、、、起こる行動は全部完璧なんです。何が起きても完璧なんです、、起こる行動に善悪優劣をつけるのはマインドだけです。