悟り

どうせこれで満足できないことは分かっている

どうしても欲しかった車に出会う

成功者は知っています「どうせこれで満足できないことは分かっている」新しい車、新しい異性。新しいマンション、新しい別荘、新しいクライアント、、、、どうせこれで満足できないことは知っている、、です。でも止めることもできない、、だってお腹は減るから。無限地獄、餓鬼畜生、、、、仏教ではこの状態をこう表現します。

与える方が満腹度は高いが、、、

多くの人を救いたい、多くの人を幸福にしたい、、多くの、、多くの、、、この方がお腹は満腹になる、、、なんか貪る感じがしない、、、です。ですがですが、、、これもこれでは満足できないことは知っています。世の中に画期的なサービスを連発で送り出す人がいます、、、その人は分かっています「どうせこれで満足できないことは分かっている」です。菩薩界、、、仏教ではこう表現します。

仏界

菩薩界の次にあるのが仏界、、、ここは仏が住む場所、、、仏、、、、仏とは何だ????つまり悟りです、悟りの場所です。。。。ここが悟りの場所になる。。。。。つまりそこには「偽りの自我」「この体この思考である自分」がもう居ないんです。もう自我がそこには存在していない、、、自我とは「自分とは〇〇である」という思考のこと。自分=何かしら、、、という方程式、、、これがない。つまり見える全てが私(仏)全てを起こすスペース(仏)全てに気づく存在(仏)です。全経験も仏。です。

疑問が消えるその瞬間まで

疑問が一つ残らず終わるその瞬間

子供が迷子になり必死に探す母親、、、母親の中には様々な疑問が起こり続けます。「あそこにいるかな???」「あれ、、もしかしたらエレベーターに乗ったのかも???」「もしかしたら勝手に帰っちゃった????」そして30分後、、駅員に発見されて再開。。その瞬間思考が止まる、、よかった、、安堵。。。。疑問とは答えに遭遇すると止まるんです。疑問が起きようがないんです。

私って本当は誰だ?????

人類全員に起こっている疑問「本当の私って誰????」です。この疑問が実は常に湧き上がっているんです、、、そしてこれに答えてくれる人もいないんです。だから常に憤りを感じているんです、、実は感じているんです、、この憤りを。「この体と思考があなたよ!!!!」これを一万回聞かされても憤りが晴れないんです。

では答えましょう

本当の私とは、、この憤り、この疑問を湧き起こす存在です、そしてその疑問そのもの、その感情すのものです。全ての現象を起こすスペース、スクリーン、空間であり、、、同時にその現象の全てに気づく存在です。さらにその現象そのものです。ここ以外では何も起きていなくここが全てです。起きる現象の全て、それに気づ口全てです。その中に「この体この思考が私」という思考がやはりこの「本当の私」から起こり、、それに気づくがおきました。「この体この思考が私」という思考が湧く度に起こる「本当の私は誰???」が憤りという感情を起こしその解決のためにさらなる「私はどうしようか???」が起こるのです、、これが偽りに自分劇場です。

そして疑問が消える

「この体この思考が私」がもう湧いてこなくなりますと、、「本当は誰???」も湧いてこないため、、それを解消するための「私は何をしたらいいの????」も湧いてこなくなります。疑問の連鎖が終わるのです。疑問がもう湧いてこない、、、これが悟りです、覚醒です、解放です。夢から覚めた後に、、、夢から覚めただろうか????は湧いてこないんです!!!

本当は何も起きていない

解釈の世界の住民たち

悟りが起きるとビックリします「本当は何も起きていない」のです。朝起きて目を覚ました。景色が視界に入ってきます、、、ただあるだけがあります。外で鳥の声が聞こえます、、、本当は、、ただ何かが起きただけです。お腹が空いてパンを食べます、、、本当はただ何かが起きただけです。我々は直ぐに主語述語の世界に入りますが、、本当は何も起きていないのです。主語述語の世界を勝手に意味づけして作っているのです。

朝コーヒ豆を擦って火を入れコーヒーを出す

これは大人にとってはこの事実は起きています。ですが犬がこれを見た時には、、何かが起きただけ、、起きたすらも言葉ですから、、犬にはそうも映っていない。人間は真実としてそれが起きたと本気で信じている。ですが本当は何も起きていないのです。

何を言いたいのか????

我々があらゆる物に名前を付けて名前を呼び合って生活するようになったのは何のためですか????それはその方が便利だったからです、、それだけですよね!!!!幸せになるためにじゃないですか????違うんです!!!!最初は至福しかなかったんです、人間には。だから幸福になるために名前なんて付けてないんです。たまたま便利だったからなんです。つまり言葉は便利になるためのもの、終わりです。

不幸は言葉が作り出した

私って全然最近ツイテなくて、、不幸な感じ。。。違うんです、、これは言葉で持ってドラマを作り出し不幸を感じているんです。言葉を真に取りすぎています。本当は何も起きていないんですから至福でしかないんです、本質は至福ですから、、そこに言葉で毎日毎日ドラマを作り出し、、みんなで不幸病になっているんです。最近の政治はこうでああで今後相当景気が冷え込むみたい、、、、、というドラマを言葉で作り出す心配を味わうというドラマです。

見なければいい

そういう不安ドラマ、不幸ドラマ、孤独ドラマに飽きたならば見なくていいんです。周囲であらゆる言葉が飛び交いますが、、無視してください。ドラマの話ですよね????で終わりです。そのドラマが好きならば聞いてください。好きなドラマじゃないのならば聞かなくていいんです。本当は至福しかなくて、たまたま便利だからと言葉が発達し、、その言葉が一人歩きをして、、本当にドラマ(主語述語の世界)が実在するかのうように思い込み始め、、、不安症、孤独症に陥らないでください。

私とは本当は誰だ????という憤り

中学生ぐらいになると

中学生ぐらいになると、、、どうやら大人になると、、社会人にならないといけないようだ、、、どうやらどこかに勤めていかないといけないようだ、、とこの自分を社会にぶち込んで社会に順応させ生きていかなくてはならないことを悟ります。ですが同時にこの「自分」とやらが本当に自分なのか????という奥深くに憤りを感じています・両親から周囲の大人から「この体この思考が自分」と学びはしたが、、、なんかしっくりこないモヤモヤが残るのです。

憤る

このモヤモヤに対し正しく教えてくれそうな大人皆無であり、お坊さんはなにやら死生観について語ってそうではあるが近付き難い、、、新興宗教も近寄り難い、、とこのモヤモヤを抑えて生きていくことになるのです。このモヤモヤは憤りになり、、、、あらゆる感情にシフトしていきます。学生時代から暴力映画、暴力漫画、攻撃的な音楽などに興味を持つのは根本にこの憤りがあるのは間違いないでしょう。

従順にならざるをえない

とはいえ大人に順応していかんければどうやら生きていくのは難しそうだと、、、悟り、、憤りをなんとか誤魔化しながら生きていくことになります。ですがエックハルトトールのようにその感情はどんどん増えていき、増殖しコントロール不能な状態にまでなることもあるのです。それが鬱や体調不良、アレルギー症状、アルコール中毒、、、などなどでしょう。

私とはこの体、この思考ではない

表面上、社会でこの体この思考を生き伸ばせるようになったのならば、、、もう「この体この思考が自分」という思考を信じるということを辞めてしまっていいのです。本当の自分は誰だ???に真剣に向き合う時です。「この体、この思考が自分」ではないのならば「今在る」という感覚は一体何なんだ????となります。答えを言ってしまえばまさにその「今在る」という感覚こそが自分自身であり、、それがこの体、この思考に気づいているのです。そして周囲の現象の全てにこの「今在る」は気づき続けます。つまりはこの現象の全てに気づく存在こそが自分であり、、この現象の全ても自分です。「この体この思考が自分」は間違いであり、、全部含めて自分なのです。

TVの中に仮面ライダーは居ない

子供にそれって教えますか????

子供は2、3歳ぐらいになりますと、、、TVの仮面ライダーが好きになります、、格好良い、強い!!!と男の子は憧れるんです。ですがその際に、、、仮面ライダーはTVの箱の中に居ると思っているんです。その子供に実はここには居ないと何回説明しようと伝わるはずがない。。。です。ですが小学校に通う頃には勝手に解ってる、、、この中には居ないって。

この体、この思考が自分

我々はこの体、この思考が自分って、、、小学校に通うまでに教わるんです。そして学校に行くとしっかりと自分の名前を描けるようになります。ですがこれが嘘なんです、便宜上教わった方便なんです。。。でもこの方便を覚えないと社会生活を送れないんです。だからしっかりと覚える必要があるんです、この方便を。社会で生きていくには重要な方便「この体、この思考は自分」ですが、、、これって実は苦しいんです、、本当じゃないから。この方便って真剣に信じれば信じるほど実は苦しいんです。

その方便を卒業する

ある年齢まではTVの中に仮面ライダーが居るって信じてていいんです、ですがある年齢になると信じなくてよくなる。むしろ信じていない方が生き易いんです。それと同じ「この体、この思考こそ自分」って方便はある程度までは信じていた方が良いんです。ですがある程度大人になったら実は嘘、方便だって思い出した方が良い。これが悟り、解放、目覚めって言います。

この体、この思考が自分じゃないって分かっても、、、

マセガキで、、、4歳にはこのTVの中に仮面ライダーは居ない!!って分かったって困らないんです、、周囲の友達とは最初は揉めるかもしれませんが、、だからってやっぱりTVの中に仮面ライダーは居るんだ!!!とはならないんです。気づいちゃった!!!ってそんなもんなんです。人間も同じ、、「この体この思考が自分」って嘘じゃん!!!が起きていいんです、全然普通に生きていけますから。

エックハルトトールに起こったこと

「この体こそ思考こそが自分」という概念が崩れ落ちた

エックハルトトール、トップオブマスターと呼ばれ、、多くの方の悟りに世界で一番影響を与えたと呼ばれる方です。この方のエピソードは非常に面白く私は何十回と読み返しました。彼は苦悩した日々で「この私と付き合っていくのはもう十分だ」という思考が起こります、誰かがもうこんな自分は結構だと!!!その時に思いました。誰がこの自分は十分だと言っているのか????その瞬間に自分と思っていた思考が崩れ落ちました。次のダイアモンドのような光で目を覚まし悟りに至ったのです。

概念が崩れ落ちることはたまにある

田舎ってみんな温かくて優しいよね!!!東京から引っ越した当初はそのように感じる人は多いはず。ところが3ヶ月もしないうちに実は閉鎖的で仲間になかな入れてもらえないという現実に向き合うようになる、、そして半年後には「田舎ってべつに温かくて優しいわけじゃない」といままでの概念が崩れ落ちるのです。過度なストレスで思い込みが外れたのです。エックハルトはまさにそれが起きたのです、過度なストレスで「この体、この思考こそが自分」という概念が落ちたのです。

落ちるということは真実じゃない

つまりこういうことです、思い込みは過度なストレスで落ちるんです。エックハルトに起こったこと「この体この思考が自分」という思い込みが過度なストレスで落ちた、です。つまり「この体この思考は自分」というのは真実ではなく思い込み、観念です。つまりこの体この思考は自分じゃないのです。じゃあ誰だ????この在るという感覚、経験を所有しているのは誰なんだ?????

この体この思考は自分じゃない?????

いやでも一体全体、、、自分って何なんだ????という話です。では答えを言いましょう、、それはこの体、この思考、見える全てです。そして見える全てに気づく存在です。空即是色って聞いたことありますよね????空から色が現象化し色は空でもある、、、です。これが自分です。。。これ全部で自分です。ある時、、、この体この思考が自分だ!!!!という強固な思考が起こり、、その思考を土台にさらなる土台が起こり続けるという現象が起きたのです。ただそれだけ。

そしてある時ストレスが過度に起こり、、その思い込みという現象が落ちた

TVゲームをやっている時に、、、記憶データがパンパンになり途中でゲームが落ちるってあるんです。そして改めてゲームをリスタートしようとすると、、、記憶が飛び初期設定に!!!!!アベシ、ヒデブ、、、、です。エックハルトに起こったことは「この体、この思考は自分」という観念、思い込み、概念だけが落ちた、、、そして他の記憶はそのまま。。。。です。

今までの自分が居なくなると、、、

とにかく楽、なんだか楽、、軽い、、、主人公だと思っていたこの私がこの体、この思考じゃ無かった、、、でも普通に生活は送れる。。。。。そして孤独感、分離感、虚無感が全く湧いてこない、、、だから何かを手に入れなきゃ、、評価されなきゃ、、まともに思われないと、、、が出てこない。子どもの時の感覚、、背負っていると思っていたものが完全に抜け落ちた、、、です。

イメージが起きなければ

そのまま至福に入る

「この体、この思考が自分だ」この思考が湧き上がりますと、、それは全体に回収され即イメージ化されます。そして「この体、この思考は自分である」というイメージ、幻想、イリュージョンがこの世界に起き上がるのです。自分という言葉は、、世界に完全独立した、完全分離した別個の存在という意味ですから、、それがそのままイメージ化されるのです。この言葉は大変力強い影響を与えます。そしてこれが同時に孤独感を起こすのです。ですが本当はあるがままの世界、たった一つのエネルギーだけの世界が真実です、真実は至福、無分離、非孤独です。言葉が湧き上がる前、、至福でしかなかったのです。

言葉以前の世界

我々は生まれた時、、たった一つの世界に居ました、、、たった一つの世界の住人ではなく、、、たった一つそのものだった、、つまり至福そのものだったのです。。。それが言葉を覚え始め、、、分離したイメージを勝手に築きあげることで、、この至福の世界に、、、孤独という「感情」を作り上げたのです。「今この瞬間に悟れます」というのは真実でそれは至福の上に孤独、虚しさ、悲しさを作り上げているだけだからです。イメージが崩れればそのまま悟り(至福)に入るのです。

「この体この思考が自分」の崩壊

突然自分がなくなり至福に襲われた、、、エックハルトトールはこのような表現で自身の悟りを表現していますがまさにその通りです。「この体この思考こそが自分である」という強いと強い思い込みが、崩壊し、、、このイメージがこの世界に起こらなくなった時、、、そこには至福だけが広がっているのです、いつでも。彼は絵rーとで多くの多くの知識を所有する私というイメージを持っていたに違いなく、、、そのイメージが大きくなり過ぎて、、その重さに耐えられなくなった時、、そのイメージが崩壊しました。。。結果奈落の底に落ちたつもりが至福というセーフティーマットが敷かれていたということでしょう。

「この体この思考は自分」というのは真実ではない

この認識、気づきが、、、本当の私、全体から起こることで、、、強烈なイメージが緩和されます。世界にたった一人、、この体、この思考を所有し立っているというイメージが起きなくなります。これだけで「苦しい」が湧いてこなくなるのです。思考は即座にイメージ化されますからその内容が真実と乖離すればするほどに苦しいのです。本質を学ぶとはまさに強烈な分離からの統合へのプロセスです。

全体の中で「マリオがあなたよ」という声かけが1万回起きた

鏡を見て「これが〇〇ちゃんよ」という声かけが1万回起きた

幼少期に、、この体に向かって、、「〇〇ちゃん」という呼びかけが1万回起きました、全体の中で。その声かけを聞いたのはこの体ではないんです、、、全体がその声に気づき続けたのです。全体から「〇〇ちゃん」という声かけが見かけ上の両親から起こり、、全体がそれに気づき続けるという現象が起きたのです。やがて見かけ上のこの体から「〇〇ちゃん」という発生が起こり始め、、「〇〇ちゃん」が定着したのです。やがて「この体が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が私」になっていきます。これが全体の中で起きたのです。

それを起こしたのは全体

これは全体で在るスクリーン上でただ現象として起きました。気づけば「この体この思考は私」という思考が毎日起こり続け、、この私が〇〇する、、、という思考が起き続けます。「この体でありこの思考である私が〇〇する」という思考は孤独感を起こし続けますからこれはそのまま苦しみになるのです。この苦しみを解消するために「この体でありこの思考である私は〇〇する」が続くことになり、、、何も解決しないまま人生が過ぎていくのです。

この体でありこの思考である私が〇〇してこの「苦しみ」を解消するでは、、

この体でありこの思考で在る私が〇〇してこの苦しみを解消しようでは何も解決しないと気づきが起きた人だけが、、、何かを成し遂げるではなく、、、悟り、解脱、解放以外には解決しないのでは????と根本解決に乗り出すのです。全体が勘違いをしていたことに気づく、真実が勘違いしていたと真実に気づく、、が起きるまでこれは続きます。

思い込みが崩れる=小さな悟り

俺が世界一のボクサー

血気盛んな若者は俺が絶対に世界一喧嘩が強いと思い込み道場破りの感覚でボクシングジムの門を叩くわけです。ところが初日に先輩ボクサーにコテンパンにされて、、、目が覚める、思い込み、観念が瞬時に崩壊します。間違いなく自分が一番強いように見えていたにもか関わらず、、実態はそうじゃなかった、、、です。観念(イメージ)が真実の前で崩壊したのです。

思い込み(観念)って間違ってんじゃん

そうです、思い込み(観念)って間違ってるんです。若い時はイケメンになれたら、美女になれたら、高収入になれたら、大富豪と結婚できたら、、広い家に住めたら、、、、幸福になれると、、、そう見えていたんです(思い込み)思い込むからそう見えるんです。。ところが実際にはそう見えていただけ、、、この世界はそう見えているからと言ってそれを目指してはみたものの、、、全部が思い込みだった、、、ばかりなのです。そうです、、この世界は思い込んだように見えるようになっているんです。そして実際にそうなってみると、、全然違う、、です。

何度も思い込みに裏切られ、、

悟りとは何度も思い込み(観念)に裏切られ裏切られ続け、、、もう思い込み(観念)は十分だ!!!!!となった時に目指すものです。全ての思い込み(観念)を疑い、思い込み(観念)自体を恨み、、思い込み(観念)を自ら崩壊させる、、、これが悟りです。全ての思い込み(観念)が崩れ落ちた時に残るもの、、、それがたった一つのエネルギー、あるがまま、、本当の自分(至福)です。

観念の崩壊

例えば会社

多くの方は学生から社会人になる時に、、イメージで会社を選ぶわけです、、、大きい会社は良いはずだ、、IT企業は格好良いはずだ、公務員は仕事が楽なはずだ、商社はモテるはずだ、、給料の良い会社はモチベーションが上がるはずだ、、、このような各自イメージ、観念、価値観に沿って会社を選びます。ところが実際に働いて見るとイメージ(観念)と実態が異なるという事件が起きるわけです。一瞬にしてイメージが崩れ落ちてくれれば良いのですが二十年近くかけて築いたイメージですからそう簡単に崩れないのです、、やはりそう見えるわけです。そして徐々に徐々にイメージが変わってき、、最終的にそのイメージ(観念)が崩れおちるのです。そのタイミングで転職します。

例えば恋愛

恋愛も同じ、、最初はイメージでお互いが付き合うわけです。このような見た目の子は性格がこんな感じだろうな、こんな結婚観だろうな、こんな優しさだろうな、こんな面倒見だろうな、、、ところが付き合うに従いイメージと実態が乖離していくわけです。そして最終的にイメージ(観念)が崩れ落ちて別れることになります。

例えば悟り

悟りとは、、、まさかの、、、この体に自分が居るという観念(イメージ)が崩れ落ちるのです。あまりに人生が苦しすぎて環境に対する観念(イメージ)が崩れ落ちる前に、、、この体の中に自分が居るという観念(イメージ)が崩れ落ちたのです。観念、イメージの崩壊の、、最終形態です。この体の中の自分が生きるという観念、イメージが実態(日々の生活)と乖離しすぎて、、、、観念(この体に自分が居る)が崩れたのです。