思考

感情とは思考の確認ツール

思考が体に反応し感情になる

人生を豊かにするために「この体この思考が自分」という思考を脱洗脳しないといけない理由はこの思考が一日中ある感情を生み出すのです、それが寂しいです。思考は体に反応して感情を作り出します。ですからこの大元の思考をどうにかしなければ何をやっても結局はさみしい、孤独が解消されないのです。この感情を味わわないように、、人間はあらゆり行動を起こしてこれを感じないようにするわけですが結局はこの感情の処理に人生を費やし続けることになります。

孤独、不足感、寂しい

思考が作り出す感情を感じたくないがために人はあらゆる行動を通じてこれを解消しようとします。お酒、ギャンブル、買い物、暴飲暴食、高級品、地位、名誉、、などなど、、、、埋めてくれるかもしれない何かに向かってさらに思考を巡らせ、行動を巡らせていきます。ですが思考と言っても「この体、この思考が自分」が主語ですからこれを前提にした思考は全て孤独感、分離感、虚無感を起こすという負のスパイラルに入ります。ですがそんなことは知るはずもなく、、思考活動をフルスロットルさせるのです。

苦しみを終わりにしよう

ネガティブな感情は思考が作り出す、、そして今ネガティブな感情が湧くならば今その思考を終わりにする必要があります。根本解決から逃げて、、逃げて逃げ続けてもエンドレスにこの感情は追いかけてきます。TVの中に仮面ライダーが居ないことを冷静に認識した小学生が二度と居るとは信じないように、、「この体、この思考が自分」という思考が間違いであることを理解すればいいのです。すると二度とその思考は湧いてきませんから二度と孤独感、分離感を味わう必要がなくなります。

スポーツしたあと気分が良い理由

体は今(至福)にしか存在できない

スポーツ選手って爽やかなイメージがありますよね?????なぜでしょうか???簡単です、体を動かすって今(至福)でしかできないんです、思考は昨日に戻ったり、一年後のことを考えたりと、、時間という概念の中で行ったり来たりするんですが体は今(至福)ここしか居られないんです。だからそれだけで大満足なんです。だから思考で捏ねくり回して、、、こうなったら将来幸せみたいな技を使わなくていいんです。

思考は未来に向かってこうなったら(条件)幸せになれる気がする、、を使う

思考は、、こういう条件の人と結婚したら、、こういう家に住めたら、、こういう旦那さんだったら、、、って未来に未来に幸福を目標設定しそのために何をしなきゃ、こうしなきゃって宿題を出してくるんです。幸福というのを将来に設定するんですね!!!ところがそれは思考が考え出したイメージですから、、そこにたどり着いてもイメージしかないんです。イメージがその人を幸せにしてくれるってないんです。

スポーツは今しかできない

体を動かすって今しかできません、、、物理学上、、ここでしか体って持ち運べないのです。そうすると今(至福)に感覚を作ることになります、今という場所にチューニングをします。その時に雑念って邪魔なんで思考が湧かないようになります。意識が過去や未来ではなく今に集中するんです。すると今は至福なんで、、至福に触れるのです。体を動かす時に、、思考を使って先ずは左、次は右ってやらないんです、、、全部自動反応ですよね!!!

毎日運動して今にチューニングする癖を作る

運動をルーティン化しますと、、、今にチューニングする習慣ができます。今(至福)に触れる癖がつくんです。本当の自分は「この体、この思考」ではないんですが、、、その思考が抜け落ちるんです。そして至福に浸れます。毎日毎日至福に浸る癖が付きますと、、、、思考でこねくり回すて幸福になるという作戦が起きにくいんです。だって今ここで至福に浸れるんですから。

私を中心とした思考が無くなる

夢から覚めると

この夢から覚めるが起きますと、、、この体の中に私が居るという概念が湧いてこなくなります。すると私を中心とした思考のあれこれが湧いてこない、、、「あの発言は私に対してどういう意味だったのか?」「あれは私のことを馬鹿にした行為なんだろうか???」などなど、、、ストーリーにならなくなっていきます。夢の中の現象がただ起きるという夢の展開だけが起きるのです。現実がこうだから、、私はこいうしようという現実に対しる作戦が起きないのです。

夢とはそういうもの

夢というのは、その現象自体がファンタジー、幻想であって、、それが分かった状態でこの現象をどうにかしてやろうという意欲が湧きません。思考はそれでも湧きますが、、、この現実ってこういうことだよね!という推測が起きえないのです。安倍派の裏金問題というニュースが起きても、、その裏事情を推測するという思考が湧かないのです、、、夢ですから。

あの時こう言われたけど、、何か私がやったのだろうか???

挨拶をされなかったけれど、、何か私が失礼をしたのだろうか?????気づきがない状況では何も起きていないのです。裏事情を推測するという思考が湧いてこなくなります。夢は今起きていること以外には何も起きていない、、この体が無い場所では、、、何も起きていないのです。見かけ上のこの体、この意識が存在しない場所ではパーティーが何も行われていません。

思考では解決はない

人類の歴史が証明している

こう考えれば、、、人生が楽になる、、、という正解があるならば、、、学校の教科書にそれは載るでしょう、、国連の第一条にそれが載るはずです、、、、ですがそんなものはない、、、ノーベル賞受賞者という視座の高さをもってしても、、、、幸福になる方法を人類は発見できていないのです。。。。なぜか?????思考そのものが、、、、虚しさを作り出す真犯人だからです。

言葉を強制的に覚えさせられた、、、

人類を発展させた立役者、、言葉、、、この言葉こそが、、、、人類を同時に虚しい世界に閉じ込めたのです、、、先進国とは、、、言葉で文化を発展させた国ですから、、、虚しいのです、、、、どこまでも虚しいのです、、、、言葉は想像、、虚構の世界を作り出すのです、、、、ここは虚しい世界なのです、、、

体の感度を高める

体の感度を高めますと、、、体験というこの世界唯一の現実、真実を感じることができます、、幻のこの世界で唯一の真実、、それが「感じる」です、、、これ以外は全嘘です、、、この感じるが増えていきます、、感じる密度が上がります、、、感じるが思考を超えます、、、感じる時間が増えます、、、、すると虚ではなく実が増えます、、実(真実)が増えていきます、、、充実が増えます、、、、最後は充実そのものになります。

思考はドラッグ

思考とはドラッグだった

思考について多くの方は甘く考えています、、、思考とは「こ・と・ば」で出来ています。。。これは音の組み合わせ、、発音の組み合わせを用いて、、、何をイメージさせる道具です、、、、「り・ん・ご」という音の組み合わせ、発音の違いを利用した、、、イメージ化ツールなのです、、、、この言葉を7歳ぐらいまでに覚えた子供はこの言葉を利用して、、、、イメージ化に成功します、、、、独り言を言ったりします、、、これは呪文です、、思考でファンタジーを作り出し、、、ファンタジーの世界に住むのです、、これはある種刺激的であるがゆえ人はこれにどっぷりハマるのです。。。

もしもあの子と付き合えたら。。。

小学生高学年ぐらいになれば、、、人間はしっかりと言葉を使ったイメージ化に成功し、、気になるあの子のことを想像するというファンタジー制作に勤しむことになるのです。これが大変刺激的であるがゆえに、、ハマりにハマるのです。。。。ですがこれは完全にファンタジーの世界への没入ですから「満足感」が抜けています、、ただ刺激的なだけです、、、「虚しい」のです、、、ファンタジーですから。

満足とは、、、

満足とは何でしょうか?????満足とはこの世界での真実に触れることです、、、真実に触れることしか、、「満足」は絶対にありません。。。。。では真実に触れる唯一の方法はなんでしょうか????幻想を経験することです、、、幻想にしっかりと経験を起こすことです、、、、この幻想の世界(現実)で体験、経験、五感を作るのです、、、これだけが真実です、、、それ以外は幻想です、、、、

思考しないで体験だけしていれば、、、、大満足????

え?????てことは、、、全く思考せずに、、、体験だけを積んでいけば、、、大満足の人生なのか?????そうです、、、、本当です、、、、ですが、、、、自我OSシステムは絶対にそれをやらせないでしょう。。。。。これは得か損か?????この行為はコスパが良いか????あの時あんなことをしなければ、、、、と大連発で起こり続けることでしょう、、、、

だから覚者は、、、、

だから覚者は、、、、思考を観察せよ!!!と連呼するのです、、、、思考の創造主ではなく観察者であれ!!!と、、、、思考の湧き上がりに注意せよ!!!!と、、、、自分が思考しているということに気づけば、、、自分が思考というドラッグに手を出していることに気づけば、、それで半分終わりです、、、、あ、、、また思考してたな、、、、は、、、、あ、、、またドラッグに手を出していたな、、、と同じです。

思考と戯れる

いつでも思考していたい

思考とは妄想です、、思考とはファンタジーです、、、多くの方は目の前の現実(これも幻想)を使って体験ゲームをするよりも、、、思考というファンタジーに逃げ込み、、思考と遊びます、、、妄想のなかでさらに妄想をするという遊びをします。。。。。ディズニーランドに行ってスマホゲームに戯れています、、、山に遊びに行ってスマホゲームをしています、、、、今目の前に完璧な幻想が広がっているにも関わらず、、その中で思考というスマホにハマっているのです。

体の感覚を研ぎ澄ましていく

ストッレッチ、ヨガなどで体の感覚を研ぎ澄ませていきますと、、、現実(幻想)を感じる力が増えていきます、、思考しているよりも、、、体験が面白くなっていきます、、、思考に溺れるよりも、、体験自体に面白さが増していきます、、、ただ歩くだけで面白い、、、が湧いてきます、、、、感じるという本当のゲームが、、、楽しいということを思い出すのです。

思考、感情のトリック

思考、感情と戯れるのは面白ものです!!!なぜならば、、、自分で作っていないから、、、自分で作っていないからこそ、、、何が湧いてくるか分からない、、、、だから面白いのです、、、、ですが、、、これは何度もお伝えしますが、、、妄想、幻想という現実の中で、、、さらなるファンタジーを作り上げているのです、、それが思考の力です。。。

思考というドラッグ

ドラッグとは、、夢の世界に居るような錯覚をさせてくれる毒です、、、思考とはドラッグのようなもの、、、思考に意識を向けるとファンタジーを作れるドラッグです、、、このドラッグに溺れると、、、思考というファンタジーから抜けれなくなるのです、、、、思考、感情がどれほど辛いものでも、、そこは「渡る世間は鬼ばかり」同様楽しいのです。自分を主人公にした「渡る世間は鬼ばかり」を上映しているのです。

現実(幻想)を楽しむ

この現実こそがディズニーランドです、、、ネバーランドです、、、この現実を遊びつくためには思考というドラッグを一旦横に置いて、、、、思考を相手にしないことをお勧めします、、、勝手に湧いてくる思考、感情を無視していますと、、、ファンタジーが消えます、、、そして、、今目の前に広がる本当のファンタジーを楽しむ力がついてきます、、、、

思考は直ぐにストーリーに持ち込む

全ての現象を

思考は何でもストーリーに持ち込みます、、、例えば雨が降る、、、という情報が起きたときに、、、では明日は傘を持って行こうか、、辞めとこうか、、そういえば明日は残業が、、、などなど、、、全部の現象の私のストーリーに持ち込み、、善悪、良否、損得の判断でもってこれを迎えます。本人はそのことで本人の得るメリットが向上すると思っているのですが、、そのストーリーの中こそが苦しいのです。重要なことはこの場所はストーリーの場ではないという気づきです、、、その時その時何が起きるか全く分からない超現実、、それが真実です、、、超現実に住むと、、そこは静寂、平和が漂います。

現実という幻想に住まない

多くの方が思っている現実は幻想です、、この幻想の中に、、私というやはり幻想を作り出し、、、私(幻想)が存在する場所(幻想)を作り上げました、、、その中でなんとかこの私は安全に楽しくそれなりに生きていこうと、、頑張っています、、、、だから全ての現象は私ごとに捉えられ、、、進んでいきます。。。これが苦しみの歩みになります。本当はこれを幻想と完全に見抜き、ゆえにこの体も幻想であり、、ゆえに私と呼ばれるこの存在も完全な幻想であることを見抜きます。この幻想の世界に、経験と呼ばれる感覚だけが真実としてあり、、、その経験がただ毎瞬毎瞬起こっている、、、この経験を全部集めた存在は真実、神、大いなる一つと呼ばれます。

真実が観念思考プログラムを削除する

真実に触れる

観念思考プログラムを、、、思考のみで壊すのは不可能です、、、体験、経験という真実に触れることが、、、この観念思考プログラムを壊します、、、、、観念とはこの世界はこうなっているはずだ!!!という思考の集積です、、、あらゆる経験を積んだ記憶が、、、この観念を作り上げ、、、、その観念がこの世界に映し出します、、、現象を。そしてそれを直に経験することで観念通りの世界を体感するのです、、、その中でこれが真実であるという体験をしますと、、、この流れを断ち切ることができます、、、真実を真実のままに経験したら、、観念を通した世界が崩れていきます。

真実とは

真実に触れるとは、、、、経験そのものです、、、、経験は真実です、、、経験は絶対に嘘はない、、、、その経験に対して湧く思考は真実ではなく、、、観念です、、、、湧いてくる思考が観念の自動反射であることを見破ると、、思考を真実とは思わなくなります、、、思考、感情は観念が生み出した自動反応です、、、真実は経験だけです、、、、、経験だけですから、、意味はないのです。

経験に決まった意味があるのならば

経験に決まった意味があるとしたら、、、それは無限の現れでは無くなってしまいます、、経験には何も意味はないのです。。。あらゆる意味を付加することはできます。無限の意味をつけることができます。。ただそれだけ、、、真実は経験だけ、、、です。

経験を経験のまま感じ始めると

経験を経験のままに味わうことは真実を真実のまま味わうことです、、、真実に触れる機会が増えていきますと、、、、静寂、平和を味わえるようになります、、、思考、観念という世界に触れずに、、、そのまま経験という真実に触れるトレーニングをしていきます、、、、そこに意味をつけるという思考、観念の世界に入り込まない、、、そこは苦しいを感じる場所です。

思考の戯言

私が居て、自由意志があって、、、

私が居て、、自由意志があって、、、を前提にした全会話は無駄です、、、なぜならば、、、根底が真実と異なるからです、、、根底が間違っているにも関わらず、、、その上に理論を重ねても、、、いずれは崩壊します、、、、ですからその会話に興味が無くなるのは良いことでしょう、、、そしてそれが分かってしまうと、、そういったコミュニケーションが減るでしょう、、自然と。

だからといって

だからと言って、、、、そのコミュニケーションは、、全部全自動で起きていますから、、、、誰にも責任はありません、、、、責任をとるべき個人は全く居ないのです、、これは自然現象です、、、勘違いをベースにした自然現象が起きました、、、、猫が鏡に写った自分の姿を敵と勘違いする、、、、というような勘違いが起きたのです。

分かるとコミュニケーションが変わるだけ

鏡に写った姿を敵と勘違いしていた猫が、、、それに気づけば、、、もうその行動はしません、、、、これと全く同じ、、、それに気づけば、、、もう勘違いを前提にしたコミュニケーションに興味が無くなるのです。次のステップに移ります、、、完全なる全自動をベースにした人生のスタートです、、、この人生はお気楽、ワクワク、、おっかなびっくりの世界です。非コントーロールを受けいれてしまったのですから。

起きる現象は観念、湧く思考は自動

身も蓋もない話

これはもう本当にジョークです、、完全なジョーク、、、起きる現象はこの私が積んできた経験から生まれた観念が映し出し、、、それに反応する「私」の思考は、、、勝手に湧く、、、、何これ????意味がない、、、全く意味がない、、、、「私」など完全に無力、、、操り人形どころじゃない、、、鳥籠、、しかもその鳥の反応は勝手に起こる、、鳥には自由意志もない、、、鳥籠の様子はガンガン変わっていく、、鳥の観念が変わるたびに、、、まさに無間地獄、、、

見抜く!!!

見かけ上の私には確信がありました、、、この世界は絶対に存在しないと、、だから情報を集めまくった、、、集めていくと観念が変わっていく、、あれやっぱりないかも、、、あれやっぱりないかも、、が経験として起こる、、、なぜならば観念が書き換わっていくから、、、だからよりこの世界は絶対にない、、は確かになっていく、、、このサイクルに入ったら止まらない、、なぜならば毎日その感覚が増していくから、、、この感覚が観念を書き換えていく。

信じれば経験できる

「この世界は絶対に存在しない」この確信を得たら、、、もう何も考える必要はない、、他のことは後回し、、だって絶対にこの世界は存在しないのですから、、、あとは情報集め、、、その裏付け情報、、、覚者の言葉の数々、、、すると体験が起きる、、、分かってくる、、、あれ???本当かも、、、が起きる、、起き続ける、、、そのプロセスは完全に無限、、、無限こそがこの世界、、、そしてどこかで全部が繋がる、、、全部の整合性が取れる、、、、なるほど!!!の連発、、、