思考

相対から絶対へ

分離しているように見える夢

分離しているように見える夢が今目の前にあります。風が吹き、花が咲き、鳥が鳴き、と分離したモノが動いているように見える世界があります。ですがこれらを経験する自分が居るように思えるだけで実際は経験しかありません。風が吹いていると感じる経験、花が咲いていることを見る経験、鳥の声を聞くという経験だけがあります。それ以外はありません。相対の世界はどこまで行っても経験以外の事実はなく経験(絶対)の現れです。絶対の違った形です。

寝ている時は絶対

熟睡している時は絶対だけがあります。何もありません、熟睡しているという事実以外は。起きている時はあらゆる物が視界に入り、聞こえ、匂い、触れますが経験だけを観察すれば、一つの経験だけが連続してあります。食事を食べ、お風呂に入り、会話をして、音楽を聞き、その経験の認識が連なっていくだけです。これ以外の事実は何もありません。絶対が形を変えているだけです。

経験をどんなに重ねても永遠にはならない

分離の世界でいかに経験を重ねても不足感がなくならないのはどの経験も一瞬でありそれが永遠になることはありません。一瞬の経験が連続していくだけです、それが永遠に至ることはありません。その状態が苦しくて苦しくて人は苦しみを忘れさせてくれる何かを求めていきます。経験を連続させているだけでは永遠(至福)には至れません。経験から無我に入る、経験から無心に入る、経験から無思考に入ることで夢から出れます。絶対に入れます。経験は絶対への入り口です。全ての経験を無我への入り口に使っていきます。書道家は書から無我に入ります、剣道術師は剣術から無我に入ります。花道家は花から無心に入ります。経験から無我(絶対)に入っていきます。

最高のサービスを受けると最低のサービスも生まれる、これが夢の世界

夢の中で最高の友人ができると最低の友人が誕生する

これは神の見る夢であり神が見る夢の中では至福に至れません。この夢では最高の何かを得ると最低の何かが誕生します。例えば最高の友人を得てしまったらそこに至らない友人は最低の友人になってしまいます。最高のサービスを受けてしまうと最低のサービスが誕生します。夢の中での自分は比較で幸福度を測りますから最高を知ることで最低を知ってしまうのです。自身がイマイチなサービスを受けると蔑まれているような錯覚を得ます。これがこの夢のどこまで行っても苦しい原因の一つです。

最高の車に乗れば最低の車が誕生する

外国人からすると日本はサービス天国のようです。どこへ行ってもサービスが行き届いている、ですが日本人にとってはそれが当たり前ですからそこに過度な幸福感は得れません。むしろちょっとした不親切に対し怒りさえ覚えるはずです。これがこの夢の双対の原理です。プラスマイナスゼロの原理です。正負の法則です。釈迦が言った言葉、解脱以外にこの苦しみから脱却する方法はない、というのはこのことです。最高の状況でこの偽りの自分で固めてもそれが苦しみからの脱却にならないのです。

夢の中での双対の原理から抜け出す

夢の中はどこまで行っても至福がありません。双対のバランスの中です。対象を得て幸福を得ようとしてもこの双対の原理で相殺されます。そうではなく対象をヒントにしてそこに向かう中で無心、無思考、無我に入っていきます。ここは双対の原理から外れた場所にあります、超えた場所にあります。この双対の世界、夢の中で幸福を手に入れようとするのではなくそこから抜け出た場所に至福を求めます。夢からいかに醒めるか、そこを拠り所にしていきます。

偽りの自分は名声に飢える

著名人に憧れるのはそこが桃源郷に見えるから

偽りの自分は常に何かに飢えています。偽りの自分は不足感製造機です。それゆえ偽りの自分は他人から称賛されることを望みます、他人から称賛されたら何かを得ることができるのでは?もしかしたらこの不足感を満たすことができるのでは?そう考えます。そして名声をすでに得ている著名人などはこの不足感を超越しているはずだ、この不足感を解決しているはずだと都合よく思い込みそこに憧れます。ですが自分の存在こそが不足感製造機なのですからその自分が何を手に入れようと不足感の製造とは何も関係がありません。

不足感の製造を止めろ!

偽りの自分が一番気づかなくてはならないことは「不足感の製造を止める」これに尽きます。不足感の製造を止めることなく名声、収入、安定を得ても何も解決にはなりません。何を得ようと次から次へと湧いてくるこの不足感が止まらないならば無限地獄は永続します。答えを言えば偽りの自分が本当の自分に戻らなければこの不足感解消ゲームが終わることはないのです。

偽りの自分がこれが偽りだと気づくには

偽りの自分が、、この偽りに気づくにはどうしたらいいのでしょうか?これが偽りであると気づくためにはこの偽りの自分を消してしまうことが一番です。自分を消す?意味不明に聞こえるかもしれませんが実は簡単です。無我夢中でゲームにのめり込む子供は自分を忘れています。実際にこのとき自分がいません、自分とは思考ですから。要は何かしらの作業、タスクに無心になって取り組むときこの偽るの自分を消せます。損得勘定、要領、利害を一旦忘れてその行為に入り込むことに意識を向けます。全ての行為を書道の達人のように入り込んでいきます、すると1日の中で無我の時間が増えていきます。偽りの自分がいなくなる時間が増えます、これを積極的に行うのです。損得を優先すればこれはできません、無心になる、無思考になる、、これを最優先することで皮肉にも自身が得そのもになります。利害を考えて一所懸命になるかどうかを考えるのではなく一所懸命に最初になってしまう、そうすることで利そのものなれます。

偽りの自分同士が争い合うこの世界

争いには参加しない

人の争いに参加する必要はありません。争いとは偽りの自分同士が不足感を埋め合うために行っているものです。自身から湧いてくるこの無限の不足感をいかに埋めるか、その解消のために争っています。ですからこの争いは無駄です。一時的には何かしらの不足感を解消できるかもしれませんがそれは何の根本的解決にも至らずまた次の争いに進みます。地球上で戦争が終わらない理由はここにあります。

争いを発見したら思い出す

争いとは自身から生まれる不足感を他人を使って埋めようとする行為です。本人は相手の非難すべきポイントを上げへつらいだから争うのだとそれを正当化しますが実はその目的は自身から湧いてくる不足感をそこで埋めようとしているのです。不足感を生み出しているのはこの偽りの自分を本当の自分だと勘違いしていることにあります。ですから争いに入るのではなくそこから本当の自分を見つけることに入ります。人の争いを見るときはそのような視点で眺めればそこから悟りに入れます。

偽りの自分を維持するのは大変

この心身こそは自分である、この体の中に自分がいる、、この発想を維持するのは大変です。なぜならばそれは偽り、錯覚だからです。この思考、プログラムを維持するのは大変だからこそ人は争うのです。争うことでこのメカニズム、プログラムを維持するのです。これは神の夢であり、神はこの夢の中で人間に扮しています。役にのめり込んでいます。ですが所詮は役ですからこれは危ういことでもあります。この体があるという錯覚はリアリティーがあり勘違いするには最高のアイテムです、五感という疑いようのない感覚がこれをよりリアルにします。ですがこの心身こそが自分であるという発想はどこまで行っても予想の範疇を超えることができずだからこそ人は争いを通じてその疑念を隠します。

思考は「この心身」を永続させるために発達した

この心身は神の化身

この心身は神の化身です。神がこの夢を謳歌するためにこの心身こそを自分だと究極の縮小バージョンの自分を作りました。作っただけではこれを自分だと勘違いすることができないのでこれに思考を与え「この心身こそ自分である」と勘違いできる状態にしました。これが自我です。ということで思考とはこの大いなる勘違い、至上最高のジョークを永続するためにあります。

人間は思考が大好き

人間は思考が大好きです。なぜならば思考がなければ自分を永続できないからです。この勘違いを成立できないからです。野生動物に自他の区別がないのは思考がないからです。人間だけが思考を所有することで自分と、自分以外という世界を作り上げることができます。これは同時に強烈な孤独感、欠落感、不足感を生み出します。まさかこの思考がこの世の苦しみを生み出しているとは気づかずせっせと思考を強化しているのが現代人です。

情報化社会は苦しい

過去の歴史においてこれほどまでに情報が溢れた時代はありません。これはもう狂っているとしか言えないほどの情報が飛び交います。人間はこれらの情報を大いに取り入れて思考を強化していきます、自我が永続されていくのです。ですがこれは同時に分離感、孤独感、欠乏感も増やしていきますから大変苦しいとも言えます。大変苦しいと同時に悟り・ノンデュアリティーなど人間の苦しみメカニズムを解明する情報も手に入れることができるという面白い時代とも言えます。

パワーはどこから湧いてくるのか?

無心、無我、無思考、完全燃焼の状態はパワー全開

アーティストや達人と呼ばれるような人々はわかっています。パワーとは無心、無我、無思考になった時に中から湧いてくると、というよりもパワーそのものになると。自我、思考全開状態は神が人間になり切っている状態、この状態は無知無能の状態です。この状態で良いパフォーマンスを上げるの不可能です。神がわざわざ無知無能状態を作り出しているのですからそこで頑張るのはおかしい、直ぐに疲れ果てます。物事に集中し無心になって取り組むことで自我が抜け落ち神(パワー)そのものになります。

ではどうしたらその状態に入れるのか?

準備を重ねてから事に当たる、要領よくことに当たる、期限を決めて事に当たる、、これらの作業は、、事に当たるまえに思考の介入を許しています。一つ一つの行動に思考が入り込んでいます。これでは無心、無我に入れません。そうではなく何度も反復で物事に当たるのです。一気にやり切るのではなく生活の一部として何度も入り込んでいきます。例えば食事、1日に三回するとして食事をするのに思考を使いません。要領よく食べるとかしません。食べきらなくてはもありません。このように反復行為に持ち込むことで思考の介入を許さないようにしてしまうのです。

思考とは夢にどっぷり浸かる道具

思考を多くの方は自分自身の一部と捉えています。ですから考えれば考えるほどに自分を強く意識しますし、思考とはこの自分にいかに得をさせるかの道具ですから思考を使えば自分を強化します。思考フル回転=自分フル回転です。ということで思考の介入を避けていかに物事を達成するかに集中していきます。全てを書道のようにしていく、考えながら書いている書道の達人はいません。書に向き合ったら思考を捨てて完全に向き合うことでパワーそのものになります。このパワーこそが目覚めへの誘いです。

他人を強烈に意識する自我は褒められて安心する

他人の評価しか信用しない

自我は他人からの評価を強烈に意識します。自我は他人から評価されたくて仕方ないのです、そして自身に低評価する人間を腹の底から憎みます。高評価する人間を愛し、低評価する人間を憎んで生きていくのです。これが自我です。これは夢です、神が見る夢です、この夢の中で神は人間になり切って生きています。成り切るためのメカニズムが自我です。つまり自我とは後付け、、存在しないのです。ということで自我は他人からの評価で自身が実在していると保証したいのです、そして自身を低評価する人間を恨むのはその先にある自分の嘘を見破られることへの恐れです。自分は本当に居るんだ、という強烈な打ち出しは実は居ないからこそ起こります。

自分の中に神を発見した人はもう他人の評価はどうでもよくなる

神が人間に扮している、人間になり切っているのがこの夢ですから、、本当は神です。自我はそこを隠すメカニズムです。自我はそういう意味ではこのプログラム存続に必死です。逆に言えばそれしか興味がありません、もしも神が実は神だったことを思い出した瞬間自我プログラムは消滅しますからそこだけは避けたいのです。だからこそ自身を評価する人間、自身の存在を全肯定してくれる存在を重宝します。会社の社長がYESMANを集めたがるのはこれです。もしも自分の存在を思い出してしまった人はもう他人の評価が気にならなくなります。むしろ他人は自身を人間としてしか見れませんからその時点で低評価をしているのです。どんなに人間として高評価しようとそれは低評価です。

無心、無我、無思考に積極的に入り込むことで神になる

自身が人間ではなく実は神であることを思い出すためには、無心、無我、無思考に積極的に入り込むことです。何かに夢中になる、無心になるという作業に意図的に入ります。ルーティンを行動に取り入れて思考の入る隙間を排していきます。自分から人間ではなく神に戻る方法を覚えてしまうと他人の評価は無駄になります。自分が一番の高評価査定をします。自分が神だと気づいている人間が他人からの評価を気にするのは滑稽なことです。

損得を超える

損得はこの心身に対する絶対的確信から生まれる

このちっぽけで極小で、無知無能な人間という姿が自分である、、、この感覚に対し圧倒的な確信をしますと、、人はこの最低最悪な状況でいかにこの人生をマシに生きていくかを考えるようになります。損を最小限に抑え、得を最大限に得るかに一点集中します。それが損得勘定です。大人であればあるほどに損得感情ができるようになってしまうのは皮肉にもこれが自分であるという誤解が完成しているからです。これは神の夢です、神が見る夢です、神が人間になり切って見る夢です。本当は神ですから人間役をこなすことは地獄です。地獄ですから損得勘定が強化されていくのです。

無我に入ることを積極的にできるようになると

無我、無心、無思考に積極的に入れるようになると夢を見ながらも神に戻ることができます。思考が介在していない時、神は神に戻っています。この状態を積極的に作っていきます。そうすると損得勘定でいかに得をするかが生きる目的だったのが神に戻ることが生きる目的になります。人生の目的が全く変わってしまうのです。自我ベースで生きているとき生きる目的は損得です。ですが無心、無我、無思考に入ることを覚えると生きる目的は神に戻ることになります。

無我で解決する

多くの方は頭脳で問題を解決しようとします。多くの方は思考で問題を解決しようとします。そうではなく無我、無心、無思考で問題を解決します。問題を解決している最中に神に戻ります。問題を解決している途中で歓喜、安堵、平和が訪れます。剣道で言えば試合中に思考を使えば負けます、思考を使わないように練習を重ねていきます。この感覚をいかに日常生活に取り入れていくかです。思考の出る幕を極限まで排していく、そこにだけは知恵を使います。損得勘定が消え失せていきます。

老人になると穏やかになるのは自我が弱まるから

老人は基本穏やか

老人になると丸くなる、あの人も歳を重ねて丸くなった、、、丸くなるという言葉は言い得て妙、自我が削れていくことをイメージで表現しています。老人になると思考のパワーが落ちてきます。思考に力がなくなっていくのです。するとこの心身こそが自分自身であるという自我が弱まり結果神に近くなります。これは神が見る夢です、神が人間扮する自分になり切ってこの夢物語を活動します。人間に成り切る錯覚力こそが自我力です。この錯覚する力が落ちていくことでまさかの神に戻っていくのです。自我が弱まった老人とは生きる神です。あの穏やかさ、落ち着き、安堵感は神の境地です。

若くてもそれを手に入れるには

若いということはパワーがあります。思考にもパワーがあります。そうなれば必然的に自我が強くなっていきます。この心身こそは自分自身である、、自分というのを異常に意識します。神が完璧に人間になり切っている状態です。分離全開状態です、この状態は不足感全開、欠乏感全開、喉の乾き全開です。この乾きをいかに癒すか、それは何かに無心になってしまうことです、何かに完全燃焼することです、何かに無我夢中になることで神に戻ります。パワーを陽転させていきます。もしくは全作業をルーティン化して思考の出る幕を無くしていきます。イチローのようにルーティンの鬼になって思考の出る幕を削ぎ落としていきます。

穏やかさとは無心さ

無心というものにいかに入るか、ここが重要になります。無思考にいかに入るか、完全燃焼にいかに入るかです。無心という状態に対し意識的である時、神に意識的に戻ることと同じ意味になります。毎日をいかに無心に持っていくか、ここに注力します。そして無心の状態を感覚的にはっきりと認識することは神の感覚を取り戻していくことになります。無心、無我、無思考への積極的行動とは神への積極的帰還です。神を日常にいかに取り入れるかがわかるともう対象への渇望はなくなります。

人間関係のコツ、無我になる

人間関係とは自我と自我の交流

人間関係とは自我と自我の交流です、これが一般的です。自我と自我の交流、これを釈迦は地獄界、餓鬼界、畜生界、、などと説いて人間とは苦と説明しました。自我とは不足感、孤独感、欠乏感製造機です。この自我同士が交流すればどうなるか?交流を通じてお互いの不足感を補おうとします。つまりそこには利害がベースになるのです。人間関係は疲れる、これは当たり前のことです。自身の不足感を補うための人間関係ですからそこは苦しみの世界です。

その場で無我になれる人は人間関係が楽になる

無心、無我、無思考、完全燃焼、、、、行動でその状態になれる人は、、人間関係を使って不足感を埋めるという欲望が減ります。無心になって何かに取り組める人は、人間に頼る必要がなくなっていきます。そこには損得が発生しないのです。あえて言えばいかに無心に入るか、完全燃焼できるかの情報交流だけが楽しみになります。自我と自我の交流とは利用しあい、損得、孤独感の埋めあい、これがどこまで行っても土台になります。

年齢を重ねるほどに無心、完全燃焼に入る感覚を掴む

自我を大きくしていけば人間関係は地獄界、餓鬼畜生界のままです。自我を小さくしていく方法を学んでいけば人間関係は悟り仲間になります。いかに無心、無我、完全燃焼(自我)になれるかをコミュニケーションの基本にしていきます。自我の影響とは孤独感全開です。無我を知れば孤独感も減っていきますから人間に対する渇望も減っていきます。