なぜ大海原である海が自身をちっぽけな波だと勘違いする珍現象が生まれたのか

大海原は波としての冒険をやってみたかった

大海原は大海原ゆえに何もそこには起きません。津波が起きようと、海底火山が起きようと、、、何が起きてもそれは自身が姿を変容させただけのこと。そこに何の感情も起きなければ感動も退屈もない、、何もないのです。そこで大海原は自身を波と勘違いすることで再び波物語というドラマを作り出したのです。自身を小さな波であると勘違いすることができれば大きな波との出会い、小さな波との出会い、さらに格闘、和解、取引、平和、争い、、、あらゆる事件をそこに起こすことができるのです。

波での人生はエキサイティングだが苦しい

波としての人生は大変エキサイティングです。何しろ自身以外に広大な世界が広がりそこには別個の波が広がっています。穏やかな波も、激しい波も、喧嘩っ早い波も、愛情豊かな波もいて毎日が新鮮、刺激的でしかありません。そして最も大きな刺激、それは自身が実は波ではなく大海原であったという気づきです。こんな大どんでん返し、こんな結末、こんなドッキリ企画の種明かし聞いたことがない。

海はあらゆる場面で独立した波が実は海であると気づくようなヒントを与えている

海は波に対し実はあらゆるヒントを与えていました。本当はあなたは波ではなく海の一部だよと。例えばゲームに熱中する時に訪れる安心感、安堵感、幸福感、歓喜、、これらはゲームに無我夢中になったときに訪れます。ゲーム自体にそのような仕掛けがあるのではありません、ゲームに夢中になれたときに自分自身を忘れています。この時波は自身が波であるというこの勘違いを忘れることができるのですがその時に訪れる安堵感、安心感、歓喜こそが自身が海であることの感覚です。自分を忘れればそこには海しかありません。このように波は何かに夢中になった時、無我夢中になった時に押し寄せてくる安堵感を生活の中で実感していたのです。この安堵感はなんだ?この歓喜はなんだ?なぜか懐かしいこの感覚は一体どこからきたのか?それは遠い場所から来たのではなく自身(波)の存在を忘れることで海(本当の自分)が押し寄せてくる感覚だったのです。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。

一番の興味の関心を解脱、解放、目覚めに向けれえるか

夢の中での損得に奔走される自我

多くの方はこの夢の中でいかに快適に、楽しく、できる限り苦労からは遠ざかり生きていくかに奔走しながら生きています。そしてその作戦は多くの場合良く働くこともあれば悪く働くこともありその間を行き来しながら生きていきます。人生楽あれば具ありを地でいくのです。そして人生のどこかでこの企みが不毛であると感じた人から夢から覚めるという常識から外れたチャレンジに興味を持ち始めるのです。

夢から覚めることに興味が湧くのはなぜか?

この夢から覚めたいのは誰なのか?自我に奔走されて毎日を慌ただしく生きほとほと疲れ果てた存在、意識がもう無意識では生きられないと諦めた時に夢から覚めることを心待ちにするようのなるのです。しかもそれがなんとなく夢から覚めたいではなく夢から覚める以外興味がないぐらいの覚悟に変わると後はただ変化が起きるのを待つだけになります。

これは観念の書き換えではない

観念の書き換えは、今後の人生戦略の変更です。思考を変える、哲学を変える、観念を変える方法は本屋に行けば山ほどのマニュアルがありますがこれは全て自我の書き換え方法です。より確実に自我が生存していくための創意工夫になります。ですがこのブログでお伝えしている内容は自我の生存戦略のためのノウハウではありません。これは自我の策略、自我の生存戦略を見抜き、夢から覚める方法をお伝えしています。

何を希望に人は生きているのか

人間に希望などない

夢も希望もない話をすれば人間に希望などありません、いつか幸福になれるという幻想を抱き続ける人間に希望などない、これが真実です。極限を言ってしまえば人間=絶望です。なぜならば人間という初期設定が錯覚だからです。もちろんこの心身こそ自分という思い込むメカニズムも存在のなせる技です。ですから神が自分に技をかけている状態、その技とは必殺不足地獄です。一度この技を仕掛けれたら最後、この技を解けるのは人間である自分ではありません、それはこの技をかけている張本人、そう神、存在、大いなる一つだけです。

神よ、この技を速やかに解いてくれ

とはいえ人間にも全く光がないわけではありません。例えば眠りに落ちる際にこれをテクニックとして説明できる人はいないはずです。よし今から寝ようと覚悟を決めて寝ることはできませんが眠りに落ちる感覚がなんとなく把握しているはずです。これはこの必殺不足地獄も同じ、人は何かに没入することで無我夢中になることでこの必殺不足地獄から一時的に抜けれることを知っています。自我がない状態、無我に入る状態をどこかのタイミングで知ります。故にサーフィンやロッククライミング、レースなど極限状態に自身を追い込むことでこの状態に入る輩もいます。そうではなく掃除や仕事、子育てや、友人との会話、これら全て人間行為の中でこの無我に入る感覚を掴む人もいます、これを達人と世の人々は呼ぶわけです。

茶道や剣道、柔道など道がつく人間行為はこれを説いていた

日本に昔からある茶道や剣道、柔道などの世界は実はこれを説いていました。道を極めるというこの動作の中でそのまま悟りに入る、無我に入る、存在と共にあることを説いていました。感覚でそこを掴むことを道と説いたのです。道の先に神がいるのではなく道を歩むその道こそが神、存在、大いなる一つであるということです。仕事から悟りに入る、食事から悟りに入る、掃除から悟りに入る、、全て行為から悟りに入る、これしか人間が苦痛、絶望から解放される方法はありません。最後は悟りが人間を見つけ、自由が人間を見つけ、至福が人間を見つけます。

目標を達成してもしなくても地獄

不足感を解消してもしなくても地獄

人間は不足感を抱き続ける動物です。人間が私は人間であるという自覚を持った瞬間に不足感が生まれます。全存在、いや存在しかないこの世界に個人という錯覚、幻想を抱いた瞬間に個人以外の他が生まれます。極小の自分の誕生と同時に壮大な他の世界が誕生します。ですがこれは自身に対する無価値観も同時に生み出すのです。それはそうです、見える世界全てからこの体だけが自分に縮小化された存在は息苦しくて仕方ないのです。そしてこの自分と称する存在に浮かび上がる思考は自分では到底コントロールできないという始末、無価値にも関わらずさらに思考する全くコントロールできないという無限地獄に苛まされるのがこの人間ゲーム、自我ゲームの真相です。これで人生最高、幸福、ハッピーしかないと宣っている人間がいたらそれは大嘘つきということになります。

苦しくて当たり前、苦しくないとしたら頭がおかしい

全存在がこの人間という体、思考のみを自分自身と勘違いすることからこの人間ゲームはスタートするわけですから人間のデフォルトは苦痛、不足、欠乏です。苦しいのがデフォルトであって幸福がデフォルトでは決してありません。ですから人間は普通に生きていれば苦しさだけがあります、この事実を先ずは認めなくてはなりません。その上でいかにこの苦しみから解放されるかが唯一の目標、夢になります。なぜ人間はお金持ちと結婚したら、良い会社に就職できたら、良いパートナーに巡り合えたら、、、いつか幸福になれると幻想を抱き続けるのはこの苦しみから逃れる方法があると思い込んでいるからです。ですが実際はそのような不足感を埋めてくれるような対象などあるわけがないのです。なぜならばそもそも対象と苦痛とは何も関係がないからです。

対象と苦痛とは何も関係がないにも関わらず

対象と苦痛が何も関係がないにも関わらず人間はなぜ埋めてくれるだろう対象を探し続けるのか。それはそれにしか希望が持てないからです。目に見える何かしか私の欠乏を埋めることができないと信じるぐらいしか希望がないのです。故に人間は愛人、お金、地位や名誉、安定という対象を求め続ける人生を歩むのです。ではもしもこれらの対象が人間の不足感を埋めることができないとしたらどうしたら良いのでしょうか。そうです、不足感を対象で埋めるのではなく苦しみの根源である自我を追いやるしかありません。行為に没入することで無我の状態に入り徐々に無我の状態にシフトしていく。今ここで無我に入ることで自我を追いやる、これしかありません。夢から覚めた感覚、至福の感覚を今感じることで至福に見つけてもらうことしかありません。無我に入り込むことで無我に見つけてもらうしかないのです。

病気にしがみつく自我

病気は便利なアイデンティティー

病気に好きでなる人はいない、病気を手放そうとしない人もいない、これが世間の一般常識です。自ら好き好んで病気になるなどあるわけがないのです。ですが実際には違います、病気は自我にとっては大好物、病気になれば病気の私という強烈なアイデンティティーを築けるのです。そんなわけがない、、、多くの病気に苦しむ方は困惑するでしょう、ですが自我は病気の時の自分を強烈に意識できるのです。これが自我が病気を手放さないメカニズムです。調子の悪い私、体調不良の私は、、だからこそ大切に扱ってほしい、だからこそ慎重に扱ってもらえる、、、といった生存戦略が効果的なのを熟知しています。こうして自我は病気を利用して生存を継続していくのです。

体調が悪い=特別視してもらえる

自我は熟知しています、病人は特別視してもらえる、病人は大切に扱ってもらえる、病人は高待遇をえられると。ですから自我は病気をなかなか手放そうとしないのです。自営業者では有名な話ですが自営業になると風邪をひかない、、これはなぜかと言えば風邪を引けば売り上げが少なくなって損しかないからです。風邪をひいたお店のオーナーの店に好き好んで行く人はいないのです。自我は基本損得しかありませんから風邪を引くメリットがなければ絶対に風邪をひかないのです。

体調に悩む人は体調不良を利用する自我に気づくチャンス

体調不良は自我の大好物であることを先ずは気づくことが重要です、そして体調不良を直したいならば運動や食事を義務としてやるのではなくそこに無我夢中になることでそこから悟りに入ることが最重要です。運動や食事に集中することでそこから悟りに入るのです。そこから無我の境地、至福の境地に至ります。

高級品にしがみつく自我

高級品を多く持っていればいるほど安心する自我

高級品に目がない自我は存在します。高級時計、高級車、高級バッグ、、、、自身の身の回りを高級品で揃えそれを誇示する自我の存在、自我はそもそも存在していないので周囲から羨望を集める=自我の存在を再確認することに安心感を覚えるのです。少なくとも周囲が自身を羨望の的に思っている関心を持っているということは自身(自我)が確実に存在すると思い込めるのです。高級品収集の問題点は、この自我の満足を満たし続けていくと全財産をなくして追いつかないということです。最後は借金をしてでも高級品を集めてまでも自我を満足させていきますがどんなに無理をして手に入れても至福には至りません。さらに今度はこれら高級品を失った場合自我は急激に小さくなったと錯覚し苦しむのです。高級品の量=自我の保障ですから、高級品の現象=自我の存続危機です。

かつて豪邸に住み、高級品に囲まれていた人生からの転落劇

高級品に同一化した自我は、高級品を増やしていくことで自我を確固たるものにしようとします。そのためここは多少無理をしても継続して収集していくわけです。ですがそれを維持していくためには体力、労力などかなりのパワーを必要とします。このパワーが枯渇しない間は維持できますがいずれ人間の体は衰えていきますからここにおいても無理が生じるのです。その時にこのメカニズムが崩壊し始めます。高級品を維持していくのが難しくなります、すると自我そのものが毎日のように縮小していく錯覚に苛まされることになるのです。

高級品を持つことを目標にして無我に入る

高級品が悪いわけでは決してありません、高級品は職人さんや企業努力の賜物でできたものであり素晴らしいものです。ですがそこに自我を同一化するとこの高級品が別の意味を持つことになるのです。素晴らしい高級品を持つことを目標に無我に入りましょう。仕事に無我夢中になることでそこで至福に至るのです。ビジネスや栄養管理に無我夢中になることでそこから至福に至ります。高級品を持つことを目標に技術をつけることに無我夢中になりそこから至福に至るのです。本当の幸福は高級品を持つことではなくそこへの道そのものにあることに気付いてしまうのです。高級品を所有するころには高級品への関心はなくなり無我に入り込めた事実に関心は向きます。そこに至福があったことに気づくのです。

人間にはなぜ目標や夢が必要なのか?

小学校に入ったら次は中学校、次は高校、次は就職、、結婚

人間には目標が必要とされています。小学校入学、中学校入学、高校入学、大学、就職、結婚、子育て、、、と延々に人間には次にやるべき目標がある程度決まっているように見えます。そして多くの方はこのメインストリームに沿って生きています。私は小学校にも、中学校にも、就職、結婚、子育てにも興味がありません。ということを言えば何か外れた、後ろめたさ、苦々しさ、を感じずにはいられません。これはなぜなのでしょうか。目標がいらないという人間は排除されていく傾向があります。

自我には目標が必要、

では答えをお伝えします。要は自我には目標や課題、夢が絶対的に必要なのです。自我というのは本来存在していません。本来は存在しかありません、目に見えるせかい存在そのもの、存在以外何もないにも関わらずそこに個人という存在を無理くり作り上げました、これが自我です。ですのでこの自我は大変不安定な存在です、何にも関わらずあると思い続けなくてならないのです。この自我が自我として確固たる地位を気付き上げるためにはそう、目標や夢、課題が必要なのです。私は中学生にならなくてはならない、私は就職しなくてはならない、私は結婚しなくてはならない、、課題や夢、目標を達成しなくてはならないのは「自分」だと。だか自分が次の自分になるのだと。これこそが自我の最強戦略です。目標を達成するのは常に自分『自我』です。ゆえに自我は次の目標、夢、課題を常に常に常に探し続けるのです。

金メダリストのインタビューで聞かれる質問に注目

オリンピックの大舞台、このステージで優勝、金メダルを手に入れた選手に聞かれる質問の中で最も多いのは「次は何を目標にしますか?次のオリンピックも期待しています。今後の展望は?」です。オリンピックで金メダルを獲った直後ですらこの質問がされることの異様さに誰も気付きません。人間とは自我とは、この目標をなくされてしまう恐怖を実感し直ぐに次の目標を決めさせます。これでまたしばらくは「私はこの体、思考である」というカラクリを延命できます。

自我の目標作戦に疲れ果てたら

自我の目標作戦に疲れ果てなならば、、自我の夢達成製造機に疲れ果てたならば、自我の課題探しロボットに疲れ果てたならばもうこの作戦に乗るのは辞めましょう。自我が次の目標、課題、夢を探してきたならばその目標、課題、夢を通じて行為に没頭しましょう。行為そのものになってしまうのです。勉強に入り込むことで無我を体感しましょう、仕事に入り込むことで無我を体感します、スポーツに入り込むことで無我に入ります、子育てに入り込むことで無我に入ります、自我(思考)がかき集めてくる課題を餌にしてそこから無我に入り込んでしまえばいいのです。その時自我は無我の良いパートナーになります。自我はもう無我から主導権を奪うことなく主導権を無我に明け渡すのです。