世界的遺品などは無我になって制作されたもの

人間が人間のままで作ったものではない

世界的有名作品、ゴッホやピカソ、モーツァルトやベートーベン、彼らの作品が100年以上経っても評価が下がらない理由、それは人間が人間のままで作った作品ではないからです。ここは夢です。この夢の中で人間という形で作られた人間作品は思考、自我が作ったものです。私は人間であるという思考に支えられた作品は人間の制作物です。ですが多くの人に感動を起こす作品とは人間が作ったものではない、つまり自我ではなく無我が作ったもの。思考が抜け落ち自我も抜け落ち無思考の状態、無我の状態で作られたものはそのまま神の表現です。リアルな神、ワンネスの表現になります。そこに人間が介在していません。

人間とはこの心身こそが自分と思い込む思考のこと

これは夢です。ワンネスが見る夢です、この夢の中に独立した人間は存在しません。あんたが見る夢の中に独立した存在がいないように全てはそう見えるだけの表現です。この夢の中でもこれは同じで人間という独立した存在はいないのです、ですがこの心身こそは私という人間だという思考は存在します。つまり人間とは思考のことなのです。この思考がフルマックス、前回の時、この夢の中では人間が活動をしています。ですが火事場の糞力ではないですが思考が抜け落ちた時などは人間はそこには存在せず神、ワンネスの表現だけになります。

人間がいなくなるのではない、元々いなかった

夢の中に人間という特別な存在などいるはずがありません。元々いなかったのです、そこにこの心身こそが自分だ(自我)という思考が出現しました。この出現により初めて独立した人間(私)が誕生したのです。元々居ないのですからこれを無くすのは簡単、思考(自我)が抜け落ちる状況を作ればいいのです。例えば火事場、例えば事故現場、ポジティブには作業への集中、所作の集中、仕事への集中、などです。ピカソ、ゴッホ、モーツァルトなど偉人と呼ばれる人々はこれに気づき実践した者達です。ですから彼らは実際には人間ではありません。人間という後付けを削ぎ落としたワンネス、大いなる一つです。

ここは儚い(はかない)世界

人が夢の中にいると書いて「儚い」

これは夢です。これはワンネス、大いなる一つ、認識する私が見る夢です。その中で主人公としてこの人間(私)が存在します。人間とは独立した体、思考を所有すると錯覚する存在です。夢の中にこの主人公が居ることを人偏に夢と書いてはかない(儚い)と読みます。この感じを誰が考えたか分かりませんがこの感じは真実を照らしています。人間が夢の中にいる状態を儚いと表現するのは大変面白いことです。人間としてこの夢に存在すると常に不足感、欠乏感が湧き出てきます、あらゆる欲の形をとって常に常に不足感を欲が代替されて現れます。そしてこの欲はどんなに満たして直ぐにまたお腹が空く、食事のように満腹に至っても6時間後には腹が空くのです。どこまで行っても満たされないこの夢(人間の現実)はまさに儚いものです。

旅行しても儚い感覚を覚えたらもうけもの

旅行とは非日常に行くことで楽しむものです。非日常に行くと思考がストップします、お店、空気、気温、花々、どれもが新鮮でその瞬間に思考がストップするのです。だからこそ人は旅行にたまに行きたくなるのです。ですがこの儚さを知っている人はもう旅行にそれほど魅力を感じなくなります。なぜならば家に帰ればまた元の日常が待っているのを知っているからです。この瞬間だけの歓喜、無思考に興味を抱けなくなるのです。一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵に興味を持てなくなってきたらもう儚さの意味を知るマスターです。

儚さからの脱却

長生きなんてしたくない、、生きていても楽しいことは一瞬であとは退屈な日々、このような境地に至ったらこの夢物語は大成功。夢の中の人間活動をしっかりと全うしている証拠です。人間活動とはそのようなものなのです、ほとんどの時間は退屈、苦痛で、たまに一瞬だけ歓喜らしきものがある。思考が止まったその瞬間だけが幸福、歓喜、安堵が押し寄せてきてそに波は直ぐに引いてしまうのです。ではどうしたらこの儚い夢の中で歓喜、幸福、安堵を積極的に得ることができるのか?それが無我に入る、無心に入る、無思考に入ることです。このブログでも再三お伝えしていますが反復、ルーティンで物事を達成していくということです。茶道、花道、書道的に人生を歩んでいきます。

思考を落とした先に至福があることを知っている

CD売り上げを気にするミュージシャンは実はこの感覚を分かっていない

ミュージシャンであれば売り上げは重要です。音楽が売れなければ、聞いてもらえないならば音楽活動を続けることはできないからです。そしてもしも売れることができたならばこの上ない幸福でしょう。ですがその幸福は一瞬の幸福です、CD売上、ダウンロードの結果が出たときだけの幸福です。一瞬です。だからこそこの幸福は儚いのです。ですが一生懸命に音楽を作り続けるその過程で制作に集中すること、楽器の練習に集中すること自体から至福、歓喜、安堵に至ることを悟るミュージシャンが現れます。そこに集中することで無心、無思考、無我になりその結果安堵が押し寄せるのです。最初は何が起きたか分かりません、必死になって制作をしていたら突然至福が押し寄せてくる、安堵が押し寄せてくる、平和が押し寄せてくる感覚です。本当は売れたら得るはずだった幸福、歓喜、安堵がなぜかその制作途中に現れる。予定していない事件が起こります。

茶道、花道、柔道の達人はこれを知っている

茶道、花道、柔道の達人が、、最優秀賞に選ばれた時だけ喜び、それまでは血の滲むような苦労だけを重ねているとしたらそんなものに何の価値があるのでしょうか。一瞬の歓喜以外は苦労しかないならば辞めてしまった方がいいのではないでしょうか。ですが花道、茶道、柔道の達人は練習、所作の中から無心、無我、無思考に入り込みその場で歓喜、安堵、平和をえます。この夢の中で彼らは目覚めているのです。この儚い夢の中で彼らは無思考の歓喜を発見します。無思考の歓喜とは自我脱却の歓喜です。自我脱却の歓喜とは夢から一瞬覚める歓喜です。

CD売り上げを達成したとき、何が起きているのか?

CD得る上げを達成したアーティストはなぜ一瞬幸福に包まれるか?このカラクリを分かってしまうとビックリします。CD売り上げ100万枚達成、ダウンロード100万、、、、この瞬間アーティストは思考が抜け落ちます、今まで必死に思考をフル回転してどうしたら売り上げを上げるか考えていたのがその瞬間思考がなくなります。思考する必要がないからです。達成した瞬間だけは思考する必要性が欠落するのです、その瞬間だけは自我(我こそは自分という思考)が抜け落ち至福が押し寄せるのです。達成した自分が居なくなることで幸福になっているのです。こんな悲惨なカラクリ発見できるわけがないのです。要は自分が居なくなればいつでも幸福が押し寄せてくるのです。ところが売り上げを達成したアーティストは、逆に俺様は凄い、俺は偉業を成し遂げた、俺様はモテなくてはおかしいと、、自我が強化されていきます。これで益々思考万歳、思考フルスロットル、思考最強になり、、無我から遠く離れていくのです。これが人間の苦労生産システムです。

武道館を満席にしても、死を選ぶアーティスト

ミュージシャンの聖地、武道館

私は音楽のことはあまりよく分かりませんが、ミュージシャンならば武道館を満席にするのは大きな目標の一つのようです。日本でも武道館でコンサートをやることを目標にするミュージシャンは今でもたくさんいます。そんな武道館で単独ライブをやった後に謎の死を遂げたミュージシャンがいます。X JAPANのHIDEさん、彼は武道館を満席にするような偉業を成し遂げた後ホテルで死を遂げました。これを悟りの観点から紐解きたいと思います。

人生最大の目標を達成してなぜ死を選ぶのか?

スポーツ選手ならばオリンピック金メダル、メジャーリーガーならばMVP、ミュージシャンならば武道館、俳優ならアカデミーショーあらゆる分野ではその道のトップと称される舞台があります。この舞台でトップになることを目標に日々研鑽していきます。もしもそれを成し遂げられたならば人生史上最高の幸福がそこにはあるはずだと信じて。ところがこの夢の構成上そうはならないのです。金メダルも、MVPも武道館も一時の達成感のみ、至福感のみ、安堵感のみです。心には毎日のように穴が空いていきます、幸福がそこから抜け落ちていきます。人間というこの夢の登場人物には至福という永遠の幸福を手に入れることはできないのです。人間は時間という枠の中でしか生きることができずそこには至福(時間の影響を受けない)はないのです。あるのは全て時間限定の幸福です。

夢の中で至福を信じる人間

これは夢です。ワンネスが見る夢です。この夢の中で登場人物が至福を得ることはできません。なぜならば至福とはワンネスのことでありワンネスが見る夢(分離現象)の中ではそれはないのです。独立した個人(登場人物)の存在こそが至福を遠ざける存在でありその存在が一生懸命努力を重ねても手に入れることができるのは夢の中での代替品に過ぎません。それらは全て時間の影響を受けやがて消え去ります。これは絶望ではありません、この夢は至福(ワンネス)が至福以外を体験するために作られたディズニーランドなのです。だからそこで至福を対象から手に入れようとする努力は尽く壊されます。

スーパースターになれない、、夢の中での挫折

子供の頃は全員がスーパースターになれると思っていた

子供の頃は全員が何かしらのスターになれると信じています。男の子ならばスポーツ選手、歌手、アーティスト、、女の子ならばアイドルや、お姫様、、などですが小学校5・6年生ぐらいになると徐々にわかってきます。どうやらそれは難しいと。言語が理解できてきて世の中のことを認識できるようになるともうそのような夢を語る子供がいなくなってきます。現実?的になってくるのです。

実はこの夢そのものだった

子供の頃は大きな目標も持つと、「そんな夢みたいなこと言って」周りから揶揄されるようになるのですが実はこの現実そのものが夢です。この現実こそがワンネスが見る夢です。夢の中で少年は自身(ワンネス)を思い出しそこに戻りたいと語っていただけなのです。何という逆転現象、子供は自分がワンネス(全て、完璧)だったことを覚えていてこの夢の中で事実(ワンネス)を語っていたのです。夢を見ているのは分別があるとされる大人(ワンネスを忘れ去った)の方です。

夢の中での挫折は違う形になっていつか叶う

大人になってからスーパースターになりたいと思う人は稀でしょう。もうそんな欲求はとうに打ちのめされて忘れているはずです。ですが大人になってからの夢はもっと壮大で現実的です。それはこれが夢だと分かることだからです。これが夢だとしたらそれを見ている張本人こそが自分だという気づき、スターではなく創造主だったということ、スターでははなく神だったという気づきです。錦野旦にはなれなくてもワンネス、大いなる一つに戻れます。

「神との対話」の衝撃

あの本で全てが変わった

私が30歳の時に初めて「神との対話」に出会いました。この本は神と、作者の対話から構成されているわけですが作者が抱くあらゆる疑問を神が明快に答えていきます。その答えはこれまで欲しかった全ての答えでした。自身の奥深くが追い求めていた答え、思い出す感覚、発見ではなくあくまで思い出す感覚に感動したのを覚えています。人間の最終ゴールはどこにあるのか?それまで自己研鑽し人間の進化向上に答えがあると信じてきた自身にとって自身が実は創造主であったという答えは力が抜ける思いでした。

「神との対話」も夢の中で現れた

神との対話に真実が全てあるとは思っていません。「神との対話」という本がこの夢の中で現れました。そこに出てくる「神」は私の夢の中で「神」というキャラで現れたわけです。ワンネスがワンネスが作った夢の中で「神」という登場人物を作ってこの夢にスパイスを与えたわけです。ではなぜ夢でワンネスがわざわざ夢の種明かしをするのか?それは夢から覚めること以上の感動はないからです。夢から覚めることこそがこの夢最大の歓喜です。

本屋では隅の隅に置かれている

精神世界の書籍は本屋の最も奥の奥、目立たないところに置かれています。特に悟り系の本は最も奥、目立たないところです。悟り系の本が店の入り口に平積みになることはないでしょう。それほどまでに人気がない本、それが悟り系です。それはそのはず生まれてすぐにこれらの本に興味を持ってしまったら生まれてきた意味がありません。学校の授業でこれは夢だから。。と講義があっては真剣にその他の授業を聞けるわけがないのです。何一つ真剣にことに当たれません。受験勉強も部活動も、就活も婚活も、、真剣にできなくなってしまいます。悟り系の本は真剣に人生を生きこの先に至福がないことを悟った人が行き着く場所です。

それでも生命(ワンネス)は完璧に夢を表現している

夢(生命)に優劣はない

あなたが昨日見た夢と一昨日見た夢、どちらが優れていると言えるでしょうか?恐らく言えないはずです。もちろんどちらが楽しかったか、愉快だったか、と比較することはできます。ですが優劣の判断はできないはずです。これはこの夢、ワンネスが見る夢でも同じこと、起きる状況に優劣はありません。ただ生命(ワンネス)が完璧に起こしています、この夢を。例えばコロナや戦争、これも生命の完璧な現れです、そこに優劣はないのです。コロナや戦争を危惧するなということではありません、それを完璧な生命の現れと理解することでそこから余裕が生まれます。深刻さが薄れてきます。

ニュースに右往左往するのは夢に没入すること

TVをつければあらゆる悲惨なニュースが流れていますがこれも生命(ワンネス)の完璧な現れです。ワンネスが見る夢です。そこに理由や根拠、今後時代がこうなるのでは?という危惧を加える必要はありません。ただそのようなことが起きた、夢の中で、それだけです。ワンネスがなぜそのような悲惨な事件を起こしたのか?ということをあえて深掘りすればワンネスはワンネスのままでは完璧、平和、安堵そのものでありそれ以外を経験できません。そこで夢(現象界)を作り不安、危機、困惑、孤独、不足、怒りを経験したかったのです。これは真反対の経験を積むことで完璧、平和、安堵の偉大さを知るという壮大なゲームです。

完璧を体験するには不完全を体験するしかない

完璧であるワンネスが完璧を経験することはできません。そこでワンネスは夢の中で不完全(人間)を作り不完全を経験することでそこから完璧を思い出すというゲームを思いついたのです。自身が不完全であれば完全を思い出すことができる。マリオをスーパーマリオ(夢)で操ることで人間の偉大さを思い出すようなものです。マリオは思考することも、寝ることも、起こることも、笑顔を作ることもできません。そんなマリオを操ることで人間って実は凄いと再確認できます。ワンネスも人間になりきることで再びワンネスの偉大さを思い出します。

夢の中での主人公の行動に因果は働くのか

働くが起きれば働く、働かないが起きれば働かない

これは夢です、ワンネス(一元性)が見る夢です。夢ですから主人公(私)の行動が夢に影響を与えると言えば与える、与えないと言えば与えないということになります。毎晩あなたが見る夢を思い出してみてください、そこで活動する主人公の行動は夢に影響を与えているでしょうか、与えるを許可するかしないかではないでしょうか?許可を与えているのは誰か?夢を見ている張本人です。

夢の中ではワンネスの許可なく独立して動く者はいない

これは夢です、ワンネスが見る夢です。夢の中でワンネスの許可なく独立して動く存在は絶対にいません。あり得ないことです。ですからあなたの行動も、友人の行動も、周囲全ての行動も全てワンネスの許可のもと行われています。主人公(あなた)がいかに自由闊達に意見を述べようと全部それはワンネスの許可のもと行われているのです。ですからそういう意味では自由意志はないのです。

夢の中ではワンネスが全てを決めている

あなたの見る夢はあなたが全部を決めているように、ワンネスが見る夢ではワンネスが全てを決めています。だから何も悩まなくていいのです、もしもあなた(主人公)が投獄され、倒産し、闘病になってもそれもワンネスが決めています。あなた(主人公)には何も責任がありません。責任のとりようがないのです。あなた(主人公)が犯罪を犯し重刑に処されても実はあなたにはそれしか選択肢がなかったのです。もちろんその時にはあなたに選択肢があるような錯覚はあります。確実に自分で決めてそれを行っているはずです。ですがそれでも選択肢がないのです、これはワンネスが見ている夢ですから。

この苦しみを終わらせることができるのは思考だと言い張る思考

今のこの苦しみ解決は思考に任せろと主張する

これは夢です、ワンネス、大いなる一つが見ている夢です。この夢の中に自身がいるという錯覚からこの夢物語はスタートしますがこの夢物語、ここに居るだけで基本苦しみが湧いてきます。湧くように設定されているのです。そしてこの苦しみをいかに解消するか?そこで出しゃばるのが思考です。我こそがこの問題を解決できるぜよ!と主張し問題解決に手を挙げて立候補します。結果思考が主導権を握り表面上は問題が解決されていきます。ところがです、また不足感、欠乏感、孤独感が湧いてきて次なる問題が発生するのです。そこでまた手をあげるのが思考です。前回は我こそが問題を解決した、今回も我に任せよ、そう主張して前回の実績を掲げながらさらに前倒しで主張してきます。結果この思考が大活躍してまたしても問題解決を図るのです。ところがです、またしても欠乏感、欠落感、孤独感が湧いてきて次なる問題が、、、、こうして人間の苦悩は延々と続くのです。

思考に問題解決を委ね続ける限り苦しみのループからは抜けれない

思考に問題解決を委ね続ける限りなぜ苦しみが解決しないかと言えば問題の本質を完全に見失っているからです。不足感、欠乏感が湧き出るメカニズムこそに思考がガッツリ絡んでいるのです。我こそがこの心身なりという思考、この思考こそが苦しみを沸き続けさせる根源です。この根源である思考が問題解決のためにフル回転する限り根元のメカニズムが解体するわけがないのです。問題が起きた時に思考に頼らない、むしろ一切の思考を使用しないで解決する方法を考えます。それが同じ動作のルーティンです。同じ動作、作業を繰り返すことで問題を解決させていきます。思考の出る幕を最初から遮ってしまうのです。

例えばダイエットであれば、、、

例えば体型にコンプレックスを抱く方は、、一日中ネットサーフィンをして自分を解決してくれる情報を漁ります。来る日も来る日も自分の問題を完璧に解決してくれるだろう情報を探し回るのです。思考フルスロットル、思考全開でこれらの情報に触れ続けていきます。結果そのような問題解決に至ってもまた新しい問題が湧き出てくるわけです。そうではなく1日30回ストレッチをすると決めて思いついたらやるを繰り返していきます。気づいたらストレッチ、気づいたらストレッチです。こうすることで一切の思考に頼らずに無心に入っていけます。どんなルーティンで今回の問題を解決するか?これを基本に問題解決を図るのです。思考を問題解決に最初から参加させない、これがポイントです。無思考な状態(至幸)で問題解決を図れば途中段階も至幸になれるということです。

夢の中で本当に目指しているのは戻ること

あらゆる欲望、目標は全てこの代替品に過ぎない

双対の世界に「私」は誕生しそこからこの私は色々と動き回っています。なぜかじっとしていられない、、、中から衝動が溢れてくるのです。退屈、暇、刺激が欲しい、安定が欲しい、認められたい、、何処かに属したい、、好きなことをしたい、、目立ちたい、認められたい、、、このような欲、目標が泉のように湧いてくるのです。どこまで行ってもこの欲がなくなることがなくこれを釈迦は「苦」と表現しました。この表現は人類で初めて真実を突き止めた人と称されるのは理解できます。ただし釈迦、ゴーダマシッダルータも夢の登場人物に過ぎないので人間ではありません。大いなる一つが人間錯覚ゲームをしているのですから不足感が湧くのは当然のことです。

自分がなぜここまで欲望につき動かされ続けるか分からない

希望の大学にさえ受かれば楽しくなるはず、希望の会社に就職が決まれば楽にらるはず、結婚相手が見つかればこの孤独感はなくなるはず、、人間はあらゆる目標を設定しそれが成し遂げられた暁には今の問題は消えてなくなると信じます。ところがそれが成し遂げられても一瞬で次の苦しみが襲ってくるから面白いものです。人間とはこのようにラットレースに乗せられ続ける存在なのです。それは私をこの体(人間)思考であると錯覚することからスタートします。

先ずは欲望に騙されない、、ここから深刻人生から脱却する

これは夢です、そしてその夢の中にいる時苦しみが湧いてきます。夢の中に自身はいるんだと勘違いし続けている間だけこの苦しみが湧いてきます。そしてその苦しみを解消するためにあらゆる欲望が湧いてくるのです。大いなる一つに戻る代わりにあらゆる欲望が湧いているのです。この事実から逃げなければもう欲望がそれを叶えてくれるとは信じないはずです。湧いてくる欲望に振り回されるのではなく欲望を通じて無心に入る、無思考に入る、もしくはこの事実を直視するという次元に入ります。