執着

右も左を地獄

自我を観察しなければ

自我というのが実は錯覚、勘違いであることを見抜けるようになるまでは右も地獄左も地獄です、、成功も地獄、失敗も地獄です、、、この地獄こそが実は自我の発見へのチャンスになります。成功した自我は次はこの成功がいつか突然無くなることを知っています、、、ですから不安で不安で仕方がない、、そして成功が崩れた時に、、人間関係から全てを無くすことも分かっている、、、成功は実は地獄なのです

安定も地獄

不安で不安で仕方がない自我は、、安定に執着し、、、堅実な旦那さんを手に入れます、、ですがこの安定が次の地獄を作ります、、、安定してしまったらもう何も行動できないのです、、自我は、、得にならないような行動が取れないため、、、もう仕事を一生懸命に頑張れない、、結果退屈な毎日が始まります。

幸福はそこにはない

幸福の場所は自我が居ない瞬間に現れます、、、何かを成し遂げたその瞬間、、、何かに集中しきっているその瞬間、、思考が現れ、行動が現れ、、感情が現れた時に、、それを観察している瞬間、、この場所が、、無我、気づきの意識、静寂、平和です。幸福とは、、自我不在の瞬間に現れるものなのです。。ですから自我が頑張って幸福を探している期間はただ苦しいのです。

自我同士の会話に興味がなくなる

赤の他人の会話に入れない

赤の他人同士が楽しくおしゃべりをしている、、、、自我同士の会話とは損得の会話がほとんど、、、そこへの興味が減っていきます、、、機能としての自分ではなく、、、主人公同士の会話、、、、これは苦しい、、、ですがここでも機能としての自分が何か役立てればそこで役目を果たし、、役目がなければ参加しなければいいのです。

機能としての自分で社会に参加する

この自分は実は居なく、、、機能としての自分しか存在していない、、、これが腹落ちしますと、、、機能として社会にどのように関わるかしか興味がなくなります。。。自分の損得で周囲と関わることはもはや不可能です、、なぜならば損得では幸福になれないことを完璧に理解しているからです。そこからの人生は機能としての自分がいかに社会に役に立てるかしか興味が湧かないでしょう、、先ず見える人間全てが同価値に見えますから、、特定の誰かのみを大切にしたいという執着がないのです。

ただしその行動も自由意志は働かない

とはいえこの自分には自由意志は完璧にありませんから神羅万象の動きにこの機能上の自分は身を委ねるしかありません。これしか選択肢が用意されていないのです。ただこの事実こそ多くの方は全く理解できないでしょう、、これは理解ではなく体感で感じていくものです。何かに集中し無我に入る、自由意志がないと思って生活してみるなど、、、です。。これが理解ではなく体感に切り替わった時、、安堵が湧いてきます、、平和が訪れます。

普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。

スピと悟りの関係

スピは自我を緩める

物質史上主義の人にとってスピは自我を緩めてくれる大きなメリットがあります、、目に見える世界が全てという価値観の人にとって目に見えない世界を見せてくれるスピの世界は重要です。私は江原さんのスピ系の書籍を読むことで現世に対する執着が確実に緩和しました、、現世において絶対に失敗したくないという執着が減ったのです、これによって今世は今世として徹底的に楽しもうという感覚にリセットできました。

自我が緩めば、、

自我が緩みますと、、逆に今世を徹底的に楽しんでやろうという思いが募っていきました、、結果願望実現系のメセージに傾倒しそこに逆に執着していきました、、、今世を安全に生きることに興味がないん分、徹底的に成功することに執着が起こったのです、、ですがそうは問屋が卸さない、、成功が約束された道などないのです。

成功を諦めた次に

成功というのは自身の興味と事業の方向が一致しなくては難しい、ですがこればかりは自身ではどうにもならない、、なぜならばそれを決めることができる自分が存在しないからです。運任せ風任せなのです、、、事業成功に興味が薄れた自分は悟りへの興味を募っていきました、、スピによって自我が緩み、、悟りへの階段を確実に進んで行ったのです。

反省も、、、執着

いつも反省ばかりしている、、、

いつも反省ばかりしていて、、、人生が苦しい、、、なかなか自分の思い通りに行動できなくて、、、それで反省ばかりしている、、、、ここには大きな勘違いがあります、、、「自分で決めて動くことなど全体にできない」ということです、、我々は全部全体からの起こりをこの体を通じて表現しているだけです、見かけ上。反省するということはハッキリと「自由意思」があると信じ切っています、ですがありません「自由意思」は、、そしてこの体の中に居るはずの「自分」も居ません、本当は。ですから「自分の言動を反省する」というのは不可能なのです。

自我は反省すらも自我存続の道具にする

反省は自我の延命戦略です、、、反省のするのは誰か『自分』です。。自分を強烈に意識する行為「反省」です、、、大いなる意識が「自分」を意識するのです、、反省によって、、、すると自分は延命されます、、、、毎日毎日反省して、、大いなる意識に「自分」を意識させるのです。これが反省できなくなるとどうでしょう、、大いなる意識は「自分」を意識できません、、、自分が途端に居なくなってしまいます。

こんなことしちゃって、、あんなことしちゃって、、、

相談では無い、、、友人に「私こんなことしちゃって、、、あんなことしちゃって、、、困っている」これぞ相談風自我存続メソッドです、、、こんなことをしたのは誰、、あんなことをしたのは誰、、、、「自分」です、、、他人を使って自分を強烈に意識できます、、大いなる意識が、、、この自分を意識します、、、、はい、自分延命完了です、、、、いや「あなたは居ないよ」こんな回答を受けようものならば、、、怒り出して「私」は帰るでしょう。ここに色々な真実が隠れています。

活躍したい、、、これも自我延命システム

活躍したくて何が悪い???

将来はサッカー選手になって活躍したいです!!これは微笑ましい子供の言葉です、、、ですが実はこれも自我の延命システムが働いています、、、なぜ活躍したいのか???なぜ???今が苦しいからです、、、なぜ国公立大学に入りたいのか???今が苦しいからです。。。そうです、、活躍したいも執着、、これは苦しみを解消してくれる可能性を秘めたことなのです。

反省します、、、

今日の自分の不甲斐ない働きを反省する、、今日食べすぎて反省している、、、この反省も自我の延命システムです、、、反省するという一見謙虚な姿勢こそがこの罠を見え辛くしています。反省するのはいつも自分、この自分の自由意志があり、この自由意志を良い方向に使えなかったことに対し反省しているのです。残念!!!!自由意志はありません、、全部全体からの起こりです。反省するためにはこの事実を無視するしかないのです。

個人はいつも延命装置に乗っかる

個人の延命装置は人によって様々、、、目標を持って延命するか、、反省して自分を作り上げるか、、将来を悩むことで、自分を保持するか、、、、思考は全てこの「個人」ありきの活動をしますから、、、個人と思考は大変相性が良いのです。個人ありきのこの思考をスパッと辞めてみるとどうなるか、、、突然至福に包まれます。何もしなくても至福に包まれます、個人が包まれるのではありません、、至福の漂いを至福が感じるのです。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。

最大の執着は最大の感情回収ポイント

執着とは個人から感情を回収する最強ツール

例えば見かけ上の私は「活躍したい」という執着が強い人間でした、ですから願望実現系の書籍を漁るように読みまくりましたが全然思うような結果に恵まれませんでした。この執着のために20年以上の歳月を傾けたのではないでしょうか、、この執着は究極的のこの見かけ上の自分からあらゆる感情を回収できます。「悔しい、苦しい、もう少し、妬み嫉み、」この感情こそが全体が回収したい感情集です。この見かけ上の私だからこそ回収できる感情なのです。

願望実現は見かけ上の「私」を苦しませた

別に活躍なんかしなくても気にしない、、そのような上っ面の我慢をしても「目指したい存在」「羨ましい存在」」が見かけ上次々に登場し「見かけ上の私」を煽ってきます。その結果やっぱり活躍して周りから評価されたいが込み上げてくるのです。そこ感情をコツコツ全体が回収していきます、アザーすといった感じで。この執着感情収集システムは気づきが起きるまでエンドレスに続くのです。そしてようやくそこから抜けるポイントになったのがノンデュアリティスピーカーと呼ばれるこの見かけ上の人々のメッセージでした。

どうやら答えはこれだぞ

これらの人々のメッセージを聞いても全く理解できないのですが「これが答えなんだな」という思考は見かけ上の私から湧いてきました。だからそこからは滝に打たれるようにこれらの人々のメッセージを聞き続けたのです、見かけ上。そして徐々に徐々にこの見かけ上の私にこれらのメッセージが染み渡り今このブログを書いています、見かけ上。全体が今この見かけ上の私が全体に気づくという経験をさせていると感じています、実際には全体からこの私の中に閉じ込めらているという錯覚が起こり次にこれが錯覚だったという気づきが起こり始めています。見かけ上の私など最初から居なくこれはただの3D映像であったという気づきです。

執着はなぜ苦しいのか

執着が苦しいのには理由がある

執着が苦しいのには理由があります。それは執着するには自分が必要だからです。自分の奥さんに執着するということは奥さんが人のものにならないように恐れているということです。奥さんがどこか遠くに行ってしまうのでは、奥さんが自分を捨ててどこかに行ってしまうのでは、、と自分の所有物という感覚があるのです。ですから執着が始まると非常に苦しい、自分という感覚と対象を同一視する行為です。

いくら奥さんに執着しても

事実だけをお伝えすればどれほどあなたが「奥さん」に執着しようと奥さんは根源そのものからの起こりであるということは変わりませんからあなたの執着とは何も関係なく動きが起こり続けます。もしかしたら他者に興味が湧くかもしれないし突然仕事に目覚め忙しくなるかもしれません、ということで執着が苦しいのは根源の起こりに対し「個人」は一切の関与ができないということになります。そんなことはない「家にずっと居ろ」と言ったら去年はしっかりと家に居てくれた、、それはそのような反応がたまたま根源から起こっただけです、根源からの起こりそのものをコントロールすることは不可能です。

ただし執着すらもあなたを通じて根源から起こっている

ですが執着すらも実は何も問題がないのはこの執着すらも根源からあなたを通じて起こっているということです。執着そのものが根源の起こりですからこれもあなたには一切に関与することができないのです。ですから奥さんへの執着が苦しいというのならばそれをとことん味わえばいいのです。あなたにはどうにもならないということです。サレンダー、降参とは上手い表現で本当に個人は根源からの起りに対し無力です。全ての起こりが根源から湧き出し、自分という感覚も根源から湧き出し、執着という感情も根源から湧き出ている、、ただそれだけです。

若さに執着する自我のメカニズム

見た目に執着する自我

見た目に自身がある人は見た目に執着します、見た目に自身のアイデンティティーを重ねることで自我が見た目に同一化するのです。本来であれなただの生命現象、ただの存在の顕れでしかない人間の体に自我ががっつり同一化、しがみ付きを行うことでそこに執着します。分離など全くない世界にがっつりした分離が起こるのです。問題がこの人間の見た目はやがて衰えるということです、しがみ付いた先のこの体は時間と共に衰えていくのでそれはそのままその方、その自我の苦しみになるのです。

化粧品がこれだけ高く売れるのは必然

化粧品がこれだけ高く売れる理由は見た目にしがみつく自我にとっては当然のこと、お金で見た目を買えるのならばお安いことです。健康美容商品や、健康美容医療、医療商品がこの世から決してなくならない、むしろ増え続けるのはこのような理由です。若くて勢いがあったときの自身の見た目、容姿にしがみつきそれをアイデンティティーにする自我のメカニズムは多発します。

見た目、健康美を維持するために無我に入る

見た目、健康美を目指すことが悪いことでは全くありません。生涯健康で美しあることは素晴らしいことです。ですからそこに執着するのではなくそこを目指すことで無我に入ればいいのです。健康のためにトレーニングをする、美味しい食事を作る、マッサージをする、、、その行為を通じて無我に入っていきます。そこに集中することで至福に至ります、そこに無心で入り込むことで悟りに入るのです。そうすればもうその先にある健康、美容、容姿に執着することがなくなります。もうそこには渇望や意固地、苦悩はなくなります、なぜならばそこを目指すことで既に至福に至っているからです。