仕事

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

時間の中で結果をだすということ

この感覚こそが自分感覚

自分という存在は時間の中で結果を出そうとします、来週の試験のために今から準備をしよう、来年の入社に向けて今から就活をしよう、20代で結婚するために今から美容に力をいれよう、、などなど、、、これが自分という存在の通常行動です。ですが実際には時間はなく今を記憶したものに過ぎません、そしてこの自分という感覚も記憶に支えられて湧いて来た感覚であり実在では絶対にありません。だからこそ自分という感覚は将来目標を設定しそれに自分がなると思考し安心するわけです。

夢とは自分維持ツール

将来は何になりたいの???こんな質問を何回されてきたでしょう、、将来の夢は?将来つきたい仕事は???とですがこれらは全部自分という感覚を強める装置になります。この自分が居るという前提でこの質問はされます、この夢の中です。そしてそれによって将来の夢はあった方がいいのかと思考し何か夢を探すのです、時間の中です。夢を持ってそこに歩んでいる期間は確実に自分を維持できますから安心です。安心してこの喜怒哀楽の夢を自分が歩むことができるのです。

ある時気づく、この夢こそが夢に安住するための道具だったと

将来の夢は???その夢こそが自分をこの夢の中に安住させていました、なんとも皮肉なことです、夢というのは自分が歩む最終目標のことであり、、この夢こそが自分を夢の中に閉じ込めて来たのです。夢も思考、夢の中も根源の現象に名前がつけられた幻想の世界です。この幻想の中でさらなる夢を見るという大変面白いことをしていたのです、自分が。

ではどうするのか?

ではどうしたらいいのか???ほぼ全員からこの質問をもらうわけですがどうかできる自分という存在は感覚でしかなくその感覚も根源から起こっているだけです。どうかできるような自由意志がある自分など居ないのですからとにかく諦めるしかありません。もしも根源に触れるという衝動が起きるのならば自分から覚める根源の動きがこの体を通じて起こるのでしょう。

執着はなぜ苦しいのか

執着が苦しいのには理由がある

執着が苦しいのには理由があります。それは執着するには自分が必要だからです。自分の奥さんに執着するということは奥さんが人のものにならないように恐れているということです。奥さんがどこか遠くに行ってしまうのでは、奥さんが自分を捨ててどこかに行ってしまうのでは、、と自分の所有物という感覚があるのです。ですから執着が始まると非常に苦しい、自分という感覚と対象を同一視する行為です。

いくら奥さんに執着しても

事実だけをお伝えすればどれほどあなたが「奥さん」に執着しようと奥さんは根源そのものからの起こりであるということは変わりませんからあなたの執着とは何も関係なく動きが起こり続けます。もしかしたら他者に興味が湧くかもしれないし突然仕事に目覚め忙しくなるかもしれません、ということで執着が苦しいのは根源の起こりに対し「個人」は一切の関与ができないということになります。そんなことはない「家にずっと居ろ」と言ったら去年はしっかりと家に居てくれた、、それはそのような反応がたまたま根源から起こっただけです、根源からの起こりそのものをコントロールすることは不可能です。

ただし執着すらもあなたを通じて根源から起こっている

ですが執着すらも実は何も問題がないのはこの執着すらも根源からあなたを通じて起こっているということです。執着そのものが根源の起こりですからこれもあなたには一切に関与することができないのです。ですから奥さんへの執着が苦しいというのならばそれをとことん味わえばいいのです。あなたにはどうにもならないということです。サレンダー、降参とは上手い表現で本当に個人は根源からの起りに対し無力です。全ての起こりが根源から湧き出し、自分という感覚も根源から湧き出し、執着という感情も根源から湧き出ている、、ただそれだけです。

「名前」をあらゆる物に付けたのは良かったが

名前は便利だが、、

名前を付けるのは便利です、金属の塊にスプーンという名前を付けることで「スプーンをとって欲しい」と一言で指示できるようになりました。木の塊に「椅子」という名前を付けることで「椅子に座っていいですか』と聞くことができるようになりました。幼少期の子供にとって唯一の仕事がこの「名前」を覚えることではないでしょうか。ですがこの便利な名前、弱点があります、、名前が付けられた全現象は人間の都合など全く関係なく移り変わってしまうということです。木は枯れていきますし、風も動き続ける、体は衰え死に、景気は変動し、人口も変動、年金を解消され、、と「自分」の都合など全く関係なく動き回るのです。

「自分」のコントロールなど全く利かない

人生が苦しくなったのは名前を付けたあらゆる生命現象、森羅万象が「自分」の都合など全くおかまいなしに動き続けてしまうということです。「妻」が自分からいきなり離れていき、「社員」が突然会社を辞めてしまう、「政府」がいきなり増税をし、「海」が突然水域を上げてくる、、、こんなことが人生ストーリー中エンドレスに起こっていきます。それはそのはず「名前」を勝手に付けらた神羅万象はそんなことにお構いなく今までもそしてこれからも変動するのが常だからです。

そして「自分」も「自分」にお構いなしに動き続ける

なぜあんなことをしてしまったのか???最後の頼みでる「自分」すらも「自分」では全く関係なく動き続けます。それもそのはずこの自分は感覚であって実在ではないからです。動き続けるこの体に「自分」という名前を付けて実在しているという感覚を持っているだけなのです。最初から最後までこれをコントロールできる「自分」など存在しないのです。そうですこの世界は神羅万象の揺らぎしかありません。最初からこれしかなく最後はこのことに気付いて終わりです。

幻想の自分を逆に大切にする

幻想としての自分をしっかりと大切にしていく?

一番辛い状態、それは幻想の自分を完全な実在として思い込み、、自分を強く強く守ろうとすることです。強く強く幻想の世界に入り込んでいます。大人は現実を見ろと子供に言いますが大人こそ現実ではなく幻想をしっかりと見ています。子供はこの大人は何を言っているのか最初意味が分からないのです。この大人はなぜいつもイライラし焦っているのか???幻想の中にどっぷり浸かってしまった大人は何をしても分離感、孤独感、不足感が湧き続け苦しんでいるのです。先ずは自分という感覚を無自覚から自覚的になることからスタートするのも一つです。

自分という感覚を持っていることに自覚的になる

自分という感覚をしっかりと持っている、本当はただの肉の塊である生命現象の一部を「自分」という言葉を付けてそれが実在するように振る舞っている、本当は根源の現れの一部にも関わらずそこに名前を付けて実在しているように感じている、、朝起きて直ぐにこの体を自分だと再認識しストーリーを始めている。こうしてこの自分ストーリーに自覚的になっていきます。

全ての経験を「自分」が所有している

朝のコーヒーの味、仕事での成功、友人との楽しい食事、、、これらを「自分」が獲得したと信じているのです。自分というこの確かな感覚が全経験を所有しています。ですがこれはあくまで幻想なのです。ですからどこまでいっても分離感に襲われ続けるのです、この分離感が辛いからさらなる経験をしてこの分離感を埋めようとするわけですからそれを所有するのは結局「自分」という感覚ということになりこのラットレースは続くということです。こんな「自分」を愛するのです、こんな一生懸命な自分を愛してあげてください、ラットレースを走り続ける自分という感覚を微笑んでください。この自分という感覚が無ければこの幻想ゲームは成立しないのですから。

事実に詳しくなる

目の前の現実だけが事実

我々は多くのことを抱え込み苦しくなっています。自分を中心とした人間関係全ての悩みを抱え込んで重く重く生きているのです。ですが本当はこの世界に居る人は目の前のみ、、、今目の前に居る人以外はこの世には存在しません、ですから今目の前の人としっかりと向き合えばいいのです。この街を守らなくては、この日本を守らなくては、この世界を守らなくては、、、遊びとしてこれをするのは大いに結構ですが仕事になってしまったら大変です。

苦しいという感情を見たことがあるか

周囲の人々全員が苦しい苦しいと嘆いていても一切気にする必要はありません、なぜならば苦しいと嘆く姿は事実ですがその人に苦しさが湧いている事実は確認できません。苦しいという感情がその人の中を流れているという事実を見ることは絶対にできません。苦しそうな表情だけが確認できます、そうです、事実はそれしか起きていないのです。もしも苦しそうだから本当に苦しいが湧いていると思うのならばそれは思っているだけ、、事実ではありません。

周囲の人間100人が苦しんでいても

苦しそうというのは事実ですが苦しいは事実ではありません。空想です、ですから何も考えなくていい、、事実に向き合ってください。事実は苦しそうにしている人々が居る、これだけです。それが確認できる、これだけです。その事実とあなたの幸福とは一切関係ないのです。もちろん周囲を助けることが楽しいのであればやればいい、もしも楽しくないのならばやらなくていい。なぜならば事実としては周囲は苦しんでいないのですから。

働いているときに何が起こっているか

働く自分は当然居ない

職場で働くときに一体何が起きているのでしょうか、、、先ずは会社が実在するという思考の湧き上がり、これは絶対に必要になります。次に会社に勤める自分が居るという思考の湧き上がりこれも必要になります、そして上司Aが確実に実在するだろうという思考も必要になる、部下Bも実在するはずという思考も必要になります。全部が全部必要になります。

事実だけを説明すれば

会社という法人など実在しません、そこには建物があり、机があり、A会社という名前が在るという事実だけです。名前とは思考ですからそういった思考が湧き続けていることになります。上司Aの体の中にAが居るというのは想像でしかなくこれは事実ではありません。部下Bの体の中にBが居るはずというのも思考ですからこれも事実ではないのです。五感で感じる事実以外は事実ではありません。

会社勤めが疲れるのはファンタジーの世界にどっぷりと浸かるから

これはあなたの仕事、これはあなたの責任、これはあなたがミスをした、、会社に勤めれば「自分」という存在を徹底的に意識させられます。事実としては何も名前が付いていない上司、部下があなたに話しかけてくるというただこれだけなのですが、、、これによって「自分が居るはず」という思考は毎日湧き上がり続けることになるのです。野球選手がバッターボックスに立つと緊張するのは全員が「自分」を見ている、だから「自分は確実に居る」という思考が湧き上がるからです。本当は見ているファンの中に誰かは居ず、バッターボックスに立っている人間の中に自分という存在は居ないのです。これが事実です。あくまでも居るはずという思考が湧いているだけです。

京都に飛べば世界遺産が目の前に広がる

完璧とは「自分」にとって完璧なのではない

京都に今日旅行に行けば駅に降り立って直ぐに世界遺産が自分の前に広がります。ニューヨークに今日飛べば目の前に高層ビル群が広がります。もしもこれが映画だったら大変とんでもないお金を使って撮影場所を設置しなくてはなりません。この世界が凄いのは一瞬で目の前にパリ、ロンドン、世界遺産、大自然が広がることです。私にはパリに見えるが友人にはロンドンが写るということは絶対にありません。もしもこれが映画ならばこんな凄まじい映画はないのです。

自分にとっての完璧とは

自分にとっての完璧とは、、、一億円を広い、大好きな車を購入でき、大好きな彼女ができて、大好きなマンションに住み、大好きな仕事の恵まれ、大好きな友人に恵まれ、大好きな趣味に恵まれることでしょう。ですがこの完璧さは一瞬で飽きがきて完璧ではなくなってしまいます。もっともっとが一生続くのです。それはなぜか?自分という存在がこの世界に誕生してしまったが最後、思考の世界(空想)に入り込んでしまいそこは喜怒哀楽を味わえる完璧な世界、至福が存在しない場所なのです。至福(根源)とは私というラベルが剥げ落ち根源だけが広がる場所です。自分が居る(思考)を前提に生きれば思考の世界に迷い込みます。

自分が居なくたって完璧

これまでの人生とはこの「自分」を幸せにするための人生でした、ところがこの人生はどこまでいってもお腹が空く、幸福になれない、、、なぜならばこの「自分が居る」こそが空想だからです。事実はこの体の中には「自分」が居ません。居ない存在の自分を幸福にするなど不可能だからです。だから高級マンション、高級車を自分に与えても幸福にならないのです。これが答えです。自分なんて居なかった、、、これに気づいた時目の前に完璧な現実が横たわります。

水に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

自分に顔を埋めれば苦しいのは分かっている

幼少期のプール体験で人は誰でも水に顔を埋めれば苦しいのは分かっています。毎日顔を水に埋めるのが趣味である、、という人が少ないのは苦しいからです。これは人間も同じで自分がこの体の中に居る、この思考に埋まれば苦しさが湧いてきます。これは事実です。自分というアイデアが全く無ければ誰かに罵られても、馬鹿にされても、怒られても感情が湧いてきません、この人は何をどこに向かって叫んでいるのだろうと不思議な気持ちは湧いてくるかもしれませんが、、つまり自分が居るという思考があるから人間関係の苦しさが湧くのです。

誰も自分を評価してくれない

評価されない、もっと評価されたい、全員を振り向かせたい、、これもこの体の中に自分が居るから湧いてくる発想です。ですが事実はこの体には自分という存在は存在しないのです。むしろ本当は居ないからこそ相手をされないと不安が湧いてくるのです、誰にも相手にされないということは自分が居ないのでは?と湧いてきそうだからです。だから苦しいと分かっていても自分という思考に常に顔を埋めているのが事実です。女性が着飾るのも、男性が仕事を頑張るのもこの体の中の自分に注目してほしいからです。

その自分が悟りを開きたい

悟りを開く「自分」は最初から居ないわけですが自分を信じていれば苦しさが湧いてきますから悟りでも何でも開きたいわけです。ですがそれすらも自分が悟りを開くのだという思考を信じている間は悟りは開きません。この自分が記憶によって作られた思考であると見破らないと。見破ることが悟り、目覚め、覚醒です。目覚めるのは自分ではありません、この自分が記憶に依存した思考であると根源が気づくことが悟りです。主人公が私(思考)から根源(事実)にシフトすることがノンデュアリティーです。

ただやらされているだけ

なぜやらされているだけ、、が嫌いなのか?

やらされているだけ、、、これを伝えると多くの方は眉を潜め嫌悪感を出してきます。こんなに人生が苦し重いのになんぜ、、全部自分でやっていると信じたいのか???ここは最高に面白いところです、毎日やりたくない仕事、家庭の責任、老後の不安、子供の将来、、こんなに人生は苦しいのだから全部やらされているだけだと分かれば全部の責任から解放されて最高のはず。どうしてもこの「自分」という存在を手放せないのです。今まで苦労が多かったからこそ一緒に歩んできた「自分」が居なくなるなんて想像できないわけです。

いつ死んでも、、

結局のところ人が死ぬのが怖いのは、、、良い死に方ができなかったら嫌だ、、があるからです。孤独死、餓死、事故死、、、本望ではない死に方は絶対にしたくない、、そう思っているのです。ですが実際には全員死に方を選べずただなすがままに死んでいきます。死に方に優劣が一切ないのはそこに自由意志は全く働かないということです。大金持ちで死のうと、大貧民で死のうと一切誰にも責任がないのです、誰という存在がないのですから。

生きているだけで丸儲け

生きているだけで丸儲け、、という言葉がありますがこれは全くの嘘です。人が生きるという設定自体が地獄なわけです、その人には間違いなく自分が鎮座していますからこの自分が居る限り幸福などありえないのです。人が生きるではなく、、、ただ感じるがままにする、、主人公が抜け落ちた状態を続ける、、その時に湧いてくる幸福感こそが確かなものです。