仕事

自我の分裂

思考、感情、行動を起こしていない自我

実は自我は思考、感情、行動を起こしていなかった、、、この事実が理解できますと、、、、自我の存在は急激に小さくなります、、、絶対王政を敷いていたはずが、、、、突然、、、自我は、、ただの名前に成り下がってしまいました。絶対王政、、全部が全部この「私」がやっていたと信じていたのが、、、何もやっていない、、、窓際の係長と同じ、、何もしてない、、、、名前のみ、、、、、

名前のみなら、、自我ではない

名前のみ、、、これが自我です、、、すると自我というネーミングも堅苦しい、、、となります、、、これが自我の終焉です、、、ですが日常生活を送れば、、、さもこの「自我」ありきの反応がエンドレスに続きます、、、〇〇さん、、仕事を責任持ってやってください!と、、、、責任を持ってやるのは〇〇さんという自我の存在が絶対的にあるという前提の話ばかり、、、、、これでは辛い、、絶対に辛い、、

社会は自我ありきで周る

社会に出ると何が辛いのか???それは責任の全てがこの自我にかかってくるわけです、、、ただの名前でしかないこの自我に全ての権限が集まっているかのうような、、話の展開の数々、、、、で辛くなる、、しんどくなる、、、なぜならば、、、自我にはそのような力が存在しないのですから、、、統制できる力がないにも関わらず、、、できることになっていて社会が成立している、、、なんという悲劇でしょう。

マニュアル

本質を完全に忘れる

本質を完全に忘れてしまった状態、、この状態での自我反射システムは、、マニュアルを求めます、、パワー(本質)というものがこの体内に在るという認識は全くありませんからマニュアルに支配されて安心したいわけです、、マニュアルを完璧にこなすことに意識が向きます、、、ですからどの組織でもマニュアルが重宝され、、個人はマニュアルに安住するのです。

本質に気づき始めると

本質に気づき始めますと、、、本質とはパワーそのものですから自我反射システムに緩みが生まれます、、本質を信頼する自我反射システムが働きます、、、外の何かを求めなくても内側に大きなパワーがあることを意識した自我反射システムが働きます。。。自我はこの強力なパワーを発見した自分という役回りをします、、、そしてこのパワーをこの夢の世界の中で自我拡大に利用するのです。これは苦しい状態です。

本質のパワーの悪用

本質のパワーに気づきが起きたことで、、自我反射システムは、、、このパワーを利用した自我拡大を行なっていきます、、このパワーをこの体の維持に有効利用しようとします、、、疲れない私、仕事ができる私、判断力がある私、、などなど、、、自我が拡大します、、、自我反射システムが強化されていきます。ですがこの状態を続けても苦しみは解消しません。

このパワーって本当は何だ??

気づきの意識を強く意識していきますと、、、徐々に自我そのものを疑うという動きが起き始めます。この苦しみを生み出しているのはこの自我記憶システムではないか???本当はこのパワーはパワーそのものであって、、自我はそれを自分のモノという勘違いを起こしているのではないか???という気づきが起き始めます。そして突然、、実はこの自我はパワー、本質が生み出した、、体を守るための防御システムに過ぎないことに気づきます。

自我が存在しないと時間も存在しない

本当の理解が起きますと、、ここには時間が存在しないことが明白になります、、、自分も他人も確実に存在しないという理解は同時に時間も解消させます、、そして自分、他人が存在をしないが理解できますと、、空間すらも実はないという理解が起きます、、時間、空間、自分という実在しているはずだった存在が一瞬で消えます。ですがそれでも何も問題がなく生活が続きます。

ど根性

これが真実じゃないことは分かってる

覚者の書物を読めば、、、これが真実じゃない事は絶対にわかるのです、、、覚者は、、、皆、、同じような雰囲気のことは言っている、、、だから今目の前に広がる世界は実は違うんだと、、、、ここは分かる、、、、だけど、、、、分からない、、、、真実が見えない!!!!ア・ベ・シ

騙し絵みたいなもの

悟りに能力が関係があるか、、、全くない、、、悟りに人格が関係があるか???全くない、、、悟りに愛嬌が関係あるか、、全くない、、、全く何も関係がありません、、、、、在り得ないほどに何も関係がないのです、、、、根性だけです、、、騙し絵を見抜く、、根性だけ、、、、

偽りの世界に閉じ込められるなんて冗談じゃない、、、、これは私の本音でした、、、なぜ偽りの中で死を迎えなくてはならないのか、、、冗談じゃない、、、、仕事???どうでもいい、、、プライベート???どうでもいい、、、とにかくこの偽りの世界から出してくれ、、、、です。今は分かります、、、完璧なタイミングでその理解が自動的に起きたことを、、、、そして世界は完璧なタイミングしかないことも理解できます。焦って解決する問題など皆無です。

そんなんじゃない

個人の成長、霊格を高める????

全員を救ってあげなくては、、世界中の迷える人々に光を!!!!!!そんなんじゃないんです、、そう思えるはずがないのです、、、真実に気づいてしまうと、、、、そんな情熱が起こるわけがない、、、、誰もいない、、、という気づきが起きた後に、、、、全員を救わなくては!!!!はおかしい、、、完璧な生命現象が完璧な形で起きているのが分かるので、、、、何も問題がないのです。問題が起きようがないのです、、個人が居ないんですから。

個人が居なくてどうやって会話を?????

個人が居ないのにどうやって会話をするんですか?????不可能です、、、個人との会話は不可能です、、、ですが、、会話はできます、、、いとも簡単に、、、簡単すぎるほどに簡単にできます、、、、個人との会話は絶対にできません。会話を楽しむことはできます、、ですが個人と会話を楽しむことはできません。仕事もそうです、、仕事は簡単にできます、、、ですが個人と仕事はできません。。。

講演会は????

1万人を前に講演会をすることはできません、、ですが、、、1万人というイメージの前で講演会をするのは簡単です、、、講演会をする「私」は居ませんが。。。。講演会は簡単にできます。食事をすることは簡単にできます、、ですがもう個人が食事をすることはできません、、、その観念が抜け落ちるからです、、、個人が食事をするというのはイメージです、偽りです、虚像です、、、ですがそのイメージは完璧です、真実ではありませんが。

全感情を神が回収しているならば

個人が一瞬の楽しいを追求する価値ってあるのか??

全感情は神が回収します、、、すると、、、個人は何も回収していない、、個人は楽しい、嬉しい、を感じることができない、、、個人は思います、、、毎週楽しいを感じなきゃと、、、これは無意味、、、なぜならば楽しいは、、、神が回収しています、、、、個人は人生楽しまなきゃ、、と考えます、、、ですが個人は感じてません、、、そして感情を所有できない、、、、個人が楽しいを追いかけると辛くなるのは、、、一瞬だからです楽しいは、、、、、そしてその楽しいも、、、神が回収します。

なぜ楽しいは一瞬で消えるのか???

楽しいが一瞬で消える理由は、、、この体にとって不必要だからです、、、私とはこの体を安全維持するために作られたイメージであって、、この私はそのために存在しています、、、ゆえにこの私が楽しみ続ける価値が、、体にないのです。。。私はこの私を一生懸命大切にして、、、くれればいい、、、楽しみ過ぎて食べるのを忘れる、、、これは体にとってデメリットです、、、それはさせない、、、、「私」という存在がイメージとして鮮明にある限り、、、「私」は体のために利用され続けます。

体に利用されまくりの「私」

今回の旅行は楽しかったねーーーまた頑張って仕事して旅行に行こうねー、、、、完全に体に利用されています、、、次の楽しいのために頑張って働こう、、、体に利用されています、、、、楽しいを「私」が追い求めると体に利用されます。「私」を生きるとは、、脳が作り出した「私」というイメージに意識が意識を向けている状態です、、そして脳が言葉で分離の世界を作り出し、、、、神をイメージの世界に押し込んだ、、、だから至福そのものの神が、、、一瞬の楽しいしか回収できないのです。体が神を体の中に閉じ込めた状態です。

何者かになりたい

イメージがイメージに憧れる

小さい子供に自我が芽生えてくると、、、仮面ライダーになりたい、、という衝動が起こってきます、、これは自分はこの小さい非力な存在であるというイメージが子供の中に作られたからです、、、そこでもっと強い存在、もっと逞しい存在に憧れるという衝動が起きるのです。自分というイメージに意識が集中することで、、仮面ライダーというイメージに興味がでます。

敏腕社長になりたい

子供はやがて成長し社会人になると、、、今度は敏腕社長になりたい、、、カッコ良い仕事ができる先輩のようになりたいという衝動が湧きます、、、これも同じ、、、私という「自己意識」が出来上がることで、、不足感が同時に湧くようになり、、その不足感を埋めるために、、目標というイメージが必要になったのです。ですが実際に敏腕社長になれたところで、、、何も不足感は満たされない、、、一瞬の安堵以外は、、、

何者になっても無駄

結論から言えば個人意識は何者になっても無駄なのです、、なぜならば何者になったという個人というイメージは全く解消されないからです。この個人が居るというイメージこそが苦しみ、不足感、孤独感、分離感を生み出すのですから、、、、このイメージがただのイメージであることを見抜く以外に解決はないのです、、「わ・た・し」というのは言葉です、、この言葉がイメージを作り上げ、、さもこの経験の全てを所有する私が居るという壮大なストーリーが作られました。。自己意識、、、自分が居るという意識です、、、意識ですからこれは実在ではない、、、このとんでもなく簡単なトリックに人間は騙され続けているのです。

脳が進化し「私」を作り上げた

人間の脳は進化し、、この「私」というイメージを作りました、、この私はこの分離した世界を生きるというストーリーを作ったのです、、、脳はこの体を安全に維持するために、、このような仕掛けを作ったのです、、、事実人間は人口を増やし続けている、、、これは脳の大きな偉業です、、、ですが同時に人間はイメージの世界に閉じ込められて、、苦しみも味わうようになりました。。。これが人間の宿命です。

何かに依存せずには生きてはいけない

それがこのストーリー

お酒、お菓子、タバコ、料理、異性、仕事、趣味、、、なんだろうと、、、、この私が居て私物語があると信じている期間は絶対的に依存対象が必要になります、、、、なぜならばこの物語は苦しからです。苦しみを一瞬でも解消してくれる何かに人は夢中になるのです。この物語を物語、夢と見抜き、、「在る」に戻らない限り、、依存対象は絶対に必要です。

依存対象を否定する苦しさ

依存対象を見つけそれにどっぷり浸かるのは当然のこと、、、問題なのは、、そこを反省し落ち込むことです、、、この世界を夢と見抜くまでは、、、苦しいのが当たり前ですから、、、なんとか人は何かに依存しながら生きているのです。先ずはこの世界、この夢の世界は苦しいが当たり前であることを見抜く、、そしてその期間は何かにすがってでも生きる、、そして最後にこれが夢だという本当の気づきを得る、、、これしかありません。

自由意志がないことに気づくと

道ゆく人々への気持ちが変わる

この人はなぜこんなに疲れているのか??この人はなぜこんな格好をしているのか???この人はなぜこんなに急いでいるのか???これらの疑問が完全に無くなります、、なぜならば一人として自由意志がないから。。自由意志がないならばこればこれは真我からただ起こっただけ、、そこに意味は完全にない。。となるのです。。。意味を考えるのは無駄です、なぜならばそれは真我の現れ以上でもなく以下でもない、、

関わる人間関係

なぜこの人はこうしないのか??なぜこの人は働かないのか??なぜこの人はいつも怒っているのか???これらの疑問が完全に断たれます、、、なぜならば、、、、その全ては真我からの現れだからです。。個人は何も関わっていない、、以上、、、になります。なぜこの仕事を始めたのですか????その人に聞いても実は意味がない、、その動きが真我から起こっただけです。。。

これは究極の手放し

見かけ上の私の言動の全ても、、、見かけ上の他人の言動の全ても、、真我からの起こりです、、ここに自分も他人も何も関与できない、、すると、、、この世界の今の状況は完璧な真我のアート、大いなる一つのアートです、、、何を個人が判断することがあるのか???という話です、、、その個人の行動の全てが真我に依存しているというのに。

朝起きると個人ではもうない

ある日突然

これが夢であるという気づきが起きますと、、、朝目を覚ました時に、、、個人ではない自分が居るのに気づきます、、通常は目覚めと同時にこの体の中の個人であるという感覚が戻ってきます(湧く)、、ですが夢であることに腹落ちしますと、、朝個人ではない自分で居るのです。。。体との同化の終焉です、、、この体の中の住人としての私ではなく、、この夢の傍観者としての私の誕生です、、この状態は静寂に包まれ、、全く焦る今までの自分が居なくなります、、何かを成し遂げたり、何かを追ったり、、何かアクションを取らなくてはならない自分がもうそこには居ないのです。

焦らない自分

焦っているのが当たり前だった自分が、、焦らない自分に変わります、、もうこの体の中の自分ではありませんからただの傍観者としての自分がただこの体の衝動を感じるだけです、、勿論、シャワーを浴びる、食事をする、、仕事の準備をするなど、、、衝動は起きます、、ですがこれは焦りや責任ではもはやないのです、、、衝動に従うだけです。

焦りたくても焦れない

これが夢であると分かってしまって逆にどうしたら焦ることが出来るのでしょうか?これが映画だと分かってしまってどうやって深刻に観ることができるのか?という話です。最初はそうはいってもこの体を生かせていかなくてはならないのだから、、いざとなったら焦るのでは??と疑問が湧きましたが、どうやら違う、、そんな生優しいものじゃない。。。これが本当の理解、パラダイムシフトです。

右も左を地獄

自我を観察しなければ

自我というのが実は錯覚、勘違いであることを見抜けるようになるまでは右も地獄左も地獄です、、成功も地獄、失敗も地獄です、、、この地獄こそが実は自我の発見へのチャンスになります。成功した自我は次はこの成功がいつか突然無くなることを知っています、、、ですから不安で不安で仕方がない、、そして成功が崩れた時に、、人間関係から全てを無くすことも分かっている、、、成功は実は地獄なのです

安定も地獄

不安で不安で仕方がない自我は、、安定に執着し、、、堅実な旦那さんを手に入れます、、ですがこの安定が次の地獄を作ります、、、安定してしまったらもう何も行動できないのです、、自我は、、得にならないような行動が取れないため、、、もう仕事を一生懸命に頑張れない、、結果退屈な毎日が始まります。

幸福はそこにはない

幸福の場所は自我が居ない瞬間に現れます、、、何かを成し遂げたその瞬間、、、何かに集中しきっているその瞬間、、思考が現れ、行動が現れ、、感情が現れた時に、、それを観察している瞬間、、この場所が、、無我、気づきの意識、静寂、平和です。幸福とは、、自我不在の瞬間に現れるものなのです。。ですから自我が頑張って幸福を探している期間はただ苦しいのです。