不足感

海であることを忘れた波はマイノリティーを排除する

マイノリティーは多数波の餌食になる

集団的自我、自我は集団を作ってときにマウントを取ろうとします。自我そのものが不足感、欠乏感、飢餓感ですから他人との比較で少しでも優位に立とうとします。優位に立つことで少しでも自身が大きなった、豊かになったと勘違いしたいのです。それが集団としても機能するのが多数波の少数派への排除です。例えば関西へ行けば標準語は格好のネタにされますし、ヨーロッパに行けばアジア人は差別の対象になります。体育系の学校に行けばオタク系の学生はネタにされます。自我は人と自身を比較して少しでも優位に立つことで大きなったを実感し続けたいのです。

自分は本当は存在しないのでは?という恐れを常に抱いて生きている

海であることを忘れ波として生きる人間は、実は自身の存在が本当は存在していないのでは?という恐れを抱いています。実際に本当に存在していないのですから当然なのですがこの恐れは強烈にあります。海と波を区切る明確なラインはないにも関わらず人間は見た目が独立しているという理由で分離を表層的には疑っていないのですがとはいえこの心身の扱いに関しては誰もが手を焼いていることから何年経っても自分との関係をしっかりと気づくことができません。どんなに偉そうにしている大人も実は自分のことがよく分かっていないというのが真実です。だからこそ少しでも人よりも優位に立って一時でもいいから安心して生きていたいのです。

存在していないことを認めた方が楽

私はノンディアリティー、悟りについて学ぶにしたがって非常に楽になりました。自分の向上、自分の進化にほとほと疲れ果てていたこともあり、またこの先どこまで精神的満足、経済的満足を追い求めれば楽になるのかという終わりのない旅に不安を覚えていました。そんな自身にとって「自分はいない」という内容のメッセージは最後のウィーサルウェポン、核爆弾なみの破壊力とともに安心感を与えてくれるものだったのです。一生懸命自分と向き合い、努力し、諦めたら終わりを噛み締めながら生きてきた自分にとってこんな安心感は初めてのものでした。フルマラソンのゴールを教えてくれるようなものです。

海であることを忘れた波は常に忙しい

何もしていないと思考がグルグルと周りだす

思考とは波特有のエネルギーです。感情も波特有のエネルギーです。波が波であり続けるためには自分は海ではなく波だと勘違いし続ける必要がありますからこの思考と感情が常に頭の中でグルグル回ることになります。感情も思考も何も湧いてこなかったら自身を波だと勘違いし続けることができません。そのため思考は延々と湧いてきて思考する、ゆえに我ありと思い続けるのです。

その状態が苦しくなってくると人は何かをしたくなる

この思考がグルグル回っている状態が苦しいため、人は友人とのお喋りや、TV番組に耽ったり、読書、漫画、スポーツ、旅行とあらゆる娯楽に逃げるのです。娯楽に興じている時はこの思考のグルグルから逃げることができるからです。自身を波であると勘違いしている以上不足感、欠乏感が常に襲ってきますからいかにこの不足感、欠乏感から逃げるか、目を背けるかが重要になるのです。ですが思考を使って逃げ続けていても不足感、欠乏感の恐れから本当意味で逃げ切ることはできません。

波の欠乏感、不足感と向き合うことで無心になる

何かに集中すること、無心になることで海を思い出すことができる人は海の安堵、安心、歓喜を知っている人です。そのような人は波の欠乏感、不足感と向き合う準備ができています。波の欠乏感、不足感とは何かを見つけるためにこれと向き合う、そこと向き合うことに無心になることで波のカラクリ、波の誤解、波の錯覚を見抜くことができます。そこから生まれる安心感、安堵、歓喜を発見できます。書道、剣道、柔道など所作に入り込むことで無我に入れるならば次は欠乏感、孤独感、不足感と向き合うというチャレンジが楽しくなります。

海であることを忘れた波は心配性

広大無辺な海が自身を極小の波だと勘違いすれば将来は不安だらけ

将来不安がいつまでもどこまでも解消しない理由はそれは将来がそれだけ不安定だからではなく人間の構造的な欠陥から起こります。本来広大無辺な大海原である存在が自身を極小な波だと勘違いすることからこの波物語、人間物語はスタートします。安心、安堵、平和そのものである海という存在から、極小の波だと勘違いしている状態は安心、安堵、平和を無限に追い求めることになります。これが人間という存在の構造的メカニズムです。このメカニズムを理解しないと延々と将来不安に困り果てていくことになります。

では何も心配しないのが正解なのか?

そうなると人間から必ず出てくる質問があります。それはだったら心配をしないで生きるのが正解なのか?ということです。これはもう理論として破綻しています。心配は次から次から湧いてくるのであって人間がこれを止めることはできません。自身を全存在であることを忘れ極小のこの体と勘違いしている限り延々と不安が湧いてきますよと言っているのです。ですからこの勘違いを完璧に解消する以外に問題解決はないのです。私が推奨するのは、もしも不安が湧いてきたらそこから無心に入るということです。不安を解消するために無心になってそこに向き合いそこから無我、無心を体験してしまうということです。自身から我が抜け落ち全存在(無我)になったときにそこには安心感しかありません。安心、安全、安堵は条件が作り出すのではなく自身の状態によって決まることが理解できます。そこに勘違いした自分がいては不安は絶対に取り除くことはできません。大いなる勘違いこそが不安を湧き起こしているからです。不安をありのままに見てそしてその解決に向かって無心になれば突然安堵感に包まれます。それは自我が求める安堵が手に入るのではなく自身(全存在)が実は安堵そのものだったと気づくことです。

不安症は欠乏感、不足感が形を変えたもの

広大無辺な海が自身を極小の波と勘違いしたことからこのあなたの世界はスタートするわけですが、あなたの見ている世界は勘違いをベースに構成されていますからどこまで行っても真実は見つかりません。勘違いした波が真実を発見することはないのです。なぜならば自身の存在(波)こそがこの物語を作っているのですからその物語の中に真実は発見できないのです。私たちに用意されたここから抜け出す方法はこの物語から自分(波)を消滅させてしまうことぐらいです。日本では昔から書道、剣道、茶道、禅といった文化がありここでは結果ではなくまさに所作そのものから悟りを開くことを説いてきました。所作に無心になって取り組むことでそこから邪念、思考、自我を取り除きその場で無我、全存在、海になってしまうということです。座禅では目をつぶり視界を消して直接無我に入っていきます。書道、茶道では行為と一つになることで自身の体、思考をこの世から落としてしまいます。そこで感じる無我の世界、全存在の世界、仏性の世界が安堵、安心、平和そのものです。

海であることを忘れた波は嫉妬心が強い

波=嫉妬心である

自分は嫉妬心が少ないという人間が現れたらその人間は嘘つきと思ってまず間違いありません。なぜならば分離した人間=欠落感=嫉妬心だからです。自身を分離した人間であると錯覚した瞬間、強烈な不足感を味わいます。これは構造上仕方がないことです、そうなれば自身よりもより多く富を所有する人間に対しては嫉妬心を抱かずにはいられないのです。いやそんなことはない、今持っている家、お金、人気、家具、車で十分であるとその人間は宣うかもしれませんがそれは大嘘つき、そもそもが海であった存在が波に成り下がっている時点でどんんなに富を得ても満足するわけではないのです。もしも万が一今の状態で満足しているという人間が現れたならばそれはそこで満足しているのではなくより多くを求めても満足できないことを知って絶望している人間ということです。

お金なんかいらない、女なんていらない、名誉なんていらないは全て嘘

海であることを忘れた波は、常に不足感、欠乏感が湧いてきます。それはそのはず広大無辺な海がたった一個の波と自身を錯覚して欠乏感が湧かないはずがないのです。ですからお金、異性、名誉、地位、全てを求めるのが波、人間の本来の姿です。もしもそれを求めていないと心の底から言える人間はそれを手に入れても満たされないことを腹の底から知った一部の人間だけです。手に入れなければそのような境地に至るはずがないのです。それは人間=欠乏感だからです。

芸能人が常に羨望、非難の的になるのは当然

人間社会には芸能人、タレント、著名人といった人々が常に出現し常にニュースの話題になり続けます。芸能人が今年は一回もニュースになりませんでした、とは絶対にならないのはその存在が人々の羨望であり非難の的になり続けるからです。自我は常に比較対象の中で生きていますから自分よりも豊かな人間を尊敬する一方で嫉妬します。自分よりも貧しい人間に同情する一方で優越感に浸ります。こうして自我は関係性の中で自身の幸福度を決めるという行為を続けます。もしも関係性とは全く関係なく自身の幸福度を決めれる人間がいるとすればそれは自身の意思で無心、無我に入れる人間だけです。無心、無我に入れる人間は他人との比較を超越した部分で至福を感じることができます。人間ゲームの外に至福を感じることができます、その時は比較は意味を持ちません。

無心になって取り組んでいたら時間があっという間に経っていた

無心=全存在=時間はなくなる

無心になって物事に取り組んでいたらいつの間にか2時間以上経っていた、、これは何が起こったか?それは無心になることで自我が消えてなくなりその瞬間に全存在になっていた、結果時間がなくなったということです。無我夢中になっていると時間が経つことを忘れると言いますがこれは間違い、時間がなくなったのです。海、全存在には時間がありません、時間があるのは分離意識の世界、海ではなく波、全存在ではなく分離した人間の状態の時です。分離するとそこには空間、距離が生まれます、すると空間から空間まで移動するために時間が生まれます。ですがこれは海の世界、全存在の世界では空間、時間はありません。移動がないからです。

やりたくないことを嫌々やっていると時間が経つのが異常に長い

やりたくないことを嫌々やっている時、時間が経つのが異常に長く感じた経験はないでしょうか。これも当然のこと、思考全開、感情全開、自我全開の世界は無我、ワンネス、全存在であることを最も忘れている状態、、これは不足感、欠乏感、飢餓感全開の状態なのです。究極の時間、空間の世界が広がります。

何かを成し遂げた達人がエゴまみれ、自我まみれに陥るケース

有名ミュージシャンである小室哲哉さんが借金を重ね最終的には詐欺で捕まった事件がありました。あれだけでの音楽家ですから音楽の制作過程においては無心になって無我夢中になってつまり究極の至高状態で作品を制作し続けたはずです。何よりも音楽活動自体を楽しめ活動に専念すればするほどに無欲なっていくはずなのに彼の場合は結果逆の状態にお金を湯水のように使いさらに借金、詐欺と無限地獄に陥りました。これを自我・無我理論で説明すれば簡単、無我夢中、無心で作った音楽活動で得た成果を自我が悪用した結果になります。莫大な収入、地位、名誉を自我が不足感解消に使い続けたわけです、ですがこの自我の不足感が解消することは絶対にありません、つまりどこまでも使い切り最後は無限地獄に陥りました。彼は音楽活動以外の活動時は自我全開、不足感全開状態になってしまったということです。音楽活動で得たはずであろう無心の境地、無我の境地をその他の生活に応用できず、圧倒的に分離した人間活動に利用されてしまったことになります。

条件が揃ったら無心に入れるのではなく、無心に入ることで条件を揃えていく

目の前の問題の山を先ずは無視して無心、無我に入る

分離意識全開、自身を海ではなく波であると認識する波の前にはおそらくは問題点で満載です。自身を全体から分離した人間であると捉える人間の前には問題点が山のように転がっているはずです。そうなると多くの分離意識はこう考えます、先ずはこれらの問題の山が解消できたら無心、無我に入って行こうと。集中して仕事に取り掛かろうと。ですが問題はその問題と称される山々は自我、波が無理くり作り出したものだといくことです。不足感の塊である分離意識、自我は不足感を問題に置き換えていきますからこれは強制的に問題にすり替えられてしまった事象なのです。ですからこの問題点に焦点を合わせても解決しようがないのです。先ずはこの問題点を解決することに無心になる、もしくは問題点以外のことでもいいから無心になって取り組むようになると全存在が、即海に切り替わり問題点が消えてなくなります。問題が問題でなくなってしまうのです。

波、自我が錯覚ならば問題も錯覚

海ではなく分離した波である、全存在ではなく分離した人間であるという錯覚を持つ分離意識は不足感の塊です。この不足感が解消されますとそれまで問題と捉えていた事象が突然問題ではなくなってしまいます。波、自我=問題所有ですから、、海、全存在=問題所有できずです。海は問題を所有できないのです。ですから我々は全ての機会、掃除、洗濯、エクササイズ、仕事、子育てを無心で入り込みその場で海、全存在に切り替わってしまうことで問題を問題でなくしてしまうということができるのです。もちろんどうしても無心になれないこともありますからそれは横に置いておいて基本的にはそこから無心に入る、無我夢中に入る、、この癖をつけることが重要になります。

そこから悟りに入る、これは日本人の得意分野

茶道、書道、柔道、剣道にはこれが重要でこれは重要ではない、、という概念がありません。最初から最後まで全て重要、合理的、非合理的を超えたところにあります。つまりどの所作からでも悟りに入る、どの所作からでも無心、無我に入りなさいという教えです。無心になって邪念を払って無我に入り込むことを茶道、剣道、柔道では教えているのです。最も簡単に言えばどの所作からでも海、神、全存在になってしまいなさいということです。そしてこの動きを生活の全てに応用することが真の目的です。

自身が海であることを忘れた波は問題点を探す

自身のことを波と捉えれば世界は問題だらけになる

問題など全くない、悩みも何もない、課題も何もない、、という人間がいたら嘘つきと思ってください。もしくは自身の問題を見てみないふりをしている人です。自分が海であることを忘れた波(人間)は不足感にさらされているのが構造的に当たり前なのでこれを無視することはできません。自身を世界と分離している人間と認識している時点で基本構造として不足感が生まれてきます、この得体のしれない不足感を人は世界の問題点として置き換えるのです。例えば付き合っているパートナーの問題点、会社の問題点、結婚相手の問題点、住居の問題点、経済の問題点、収入の問題点として必ずそこから問題点を見つけてきます。そしてそれが解決したらまた必ず次の問題点を探し出すのです、それは自身が人間であるというこの錯覚、誤解が作り出す必然のメカニズムです。

自身のことを波と捉えれば職場は問題だらけになる

多くの方にとって会社はストレスの場所です。上司、部下、給料、勤務時間、残業、会社の将来性、、、全てが問題化します。自分を全存在から分離した人間であると認識した瞬間から不足感が生まれだしこの不足感は会社への不満へとシフトするのです。会社勤めは非常に楽しいと断言できる人がいればそれは仕事を無我夢中になれる道具に使えている人です。仕事を通じて、人間関係を通じて無我夢中に没入し自我を忘れることができる人です。どこに居てもどんな場所でもそこから悟りに入りなさい、と言うマスターがいますがまさにそうその行為に没入する、集中してしまうことで逆にそこから無我に入ることで自身を海、存在に変えてしまう以外に不足感を解除する方法はありません。

仕事の向き不向き、好き嫌いが実は全くどうでもいい理由

本当のことを言えば海であることを忘れてしまった波や、自身を全体から分離してしまった人間と捉えている人にとって仕事の向き不向き、好き嫌いは実はどうでもいい問題なのです。基本不足感の塊ですからその不足感はいついかなる場所でも不満に置き換わりその人を襲うのです。ですからこれからいかにそこに没入するか、無心になって取り組むかに焦点を絞ってみましょう。無心になって取り組めばその時は自我が引っ込みますから即無我、ワンネス、全存在になれます。そこは至高、安堵、歓喜です。勘違いしてはいけないのは波、人間が至高、安堵、歓喜を感じるのではなく分離した波、分離した人間が居なくなることで(無心)至高、安堵、歓喜そのものになるということです。無我、全存在、ワンネス=至高、安堵、歓喜であって、、、人間、波が至高、安堵、歓喜を味わうのではないということを重ねて伝えておきます。

海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。

海であることを忘れた波は孤独と欠乏感、不足感を抱えて生きていく

海であることを忘れてしまった波は疲労困憊になるまで波で居続ける

我々人間は生まれてきたときは海が波の形をとって生まれてきます、そしてそのときは海としてまだ生きています。ですがそこから7年間かけてあなたは波であって海ではないという教育、洗脳を受けていきます。この洗脳が完成するのが小学校二・三年生でしょうか。そこで圧倒的に自分は小さな存在でありここから必死に波として生きていかないことを教え込まれるわけです。あなたは小さな波なのだから努力し、仕事をし、周囲に気を使って生きていかければならないと教え込まれます。そうか自分はちっぽけな波なんだと覚悟を決めた波から受験勉強、就職競争、出世競争、結婚、子育てと、、逞しく波として戦っていくわけです。そしてどこまで戦っても、どこまで逞しく生きても一向に楽にならないこの波としての人生に徐々に疲れていくのです。

疲れ果てた波はもう逞しく生きることに興味がなくなる

逞しく生きてきた波はあるとき気づくわけです、、どんなに受験戦争で勝ち抜き、出世競争に勝ち抜き、子供のお受験に勝ち抜いてもいつまで経ってもこの孤独感、不足感、欠乏感はなくならないと。どこかで無くなると聞いていたこの渇望感はおそらくこのまま生きていてもなくなることはないだろうと。そこで急にこの波として人生に嫌気がさし死を意識する波まで現れるのです。もしくはたまたま悟り、ノンデュアリティーなどの情報に触れた波はそこに強烈な興味を抱きます。

波として至福になることができないのならば死を選ぶか目覚めしかない

リア充と呼ばれるような生活や、幸せと言われるような生活をしているにも関わらず満たされない感情を抱え続ける波は、死ぬか、覚醒するしか道がないことにどこかで気づきます。自分を波だと思っている限りは至福に至れないことを腹の底から理解した波は運が悪ければ死を選び至福(海)に帰るか、波の形を残しながらも海に戻る(覚醒)を目指します。我々が見ているこの世界は波という自覚を持つことで誕生した夢、幻想、現象界です。波物語という夢から覚めることを強烈に意識して生きていく、そのお手伝いをするのがこのブログです。

五感は夢を夢たらしむためにある

見える、聞こえる、匂う、触れる、、、これらは夢の世界に没入するツール

夢から覚めずに夢を見続けるためには夢にリアリティーがなくてはなりません、そのために生まれたのが視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚といった五感です。これらの感覚があるからこそこの夢にリアリティーが存在するわけです。この夢にどっぷり浸って入れるわけです、この苦しい現実から目覚めずにやっていけるわけです。ですがこの五感を駆使した夢の世界にほとほと疲れ果てなたならば逆にこの五感を使って夢から覚めることができるのです。行為に没入する、無我夢中になることで無我の境地を感じることができます。そこから悟りに入れます。

夢を楽しむためにある五感

人間の五感がなければこの夢を楽しむことはできません、夢にリアリティーがない、夢に没入できないわけです。この五感は夢に没入するための重要なツールになります。この五感が夢を継続するためにあるとすればもうこの五感に振り回される必要はありません、五感をそこまで信用しないことです。所詮はこの夢にリアリティーを与えるためにあるわけですから。むしろこの五感を使って、利用して無我に入るチャンスに使いましょう。そこから無我に入る、そこから無我夢中に入る、そこから自我を捨てて無我に入ります。

五感を使って欲を満たし続けても無限地獄が続く

自我の存続に五感は欠かせません。五感があるからこそ自我の存在を信じることができます。人間の体がそこに在るということに疑いを持たずに済みます。ですがこの五感を使って人間の欲求を満たし続けても満足ありません。不足感を解消し続けてもどこまで行ってもこの不足感が消えてなくなることはないのです。それはなぜか?人間の体があるというこの体こそが自分であるという五感をベースにした自覚は錯覚だからです。この錯覚を信じ続けている限りこれは事実とは違いますから違うという誤解が苦しみとなって生じ続けるわけです。そうです、苦しみとは誤解が生み出した感情でしかありません。