ノンデュアリティ

色と空に境目はない

色と空は一つ

ノンデュアリティーとは非二元ですから色と空が別だ、、と言ってしまったら矛盾します。色と空は二つで一つです。色とは動く空であり空とは静止した色です。おそらく人間という体を持った状態でこの事実を完璧に腹落ちさせることは不可能でしょう。少なくとも我々はこの動く空の中で個別意識を持ち分離体験絶賛行動中の身であることは間違いありません。分離全開、分離上等です。家庭教育、学校教育でモノの名前を丸暗記していくことでこの大宇宙をバリバリに引き裂き分離してみせその中を生きるという芸事をやっているのがこの人間です。この人間の視点から色と空の双対を否定し切るのは難しいものです。

一瞥体験者は色の世界を馬鹿にする

色から空の境地、、、絶対無を理解した一瞥体験者、覚醒体験者は、、移りゆく世界、移り動く世界、諸行無常の世界を意味のない世界、、そこで右往左往する我々人間の動きを嘲笑います。本当は絶対的無しかないのだから何を慌てて生きているのだ、、、ということです。何も達成しても無駄、何を成就しても無駄、、という結論に走るわけです。ですがこれはこの広大な宇宙アートを創造した意図を組めていません。我々はこの偉大な宇宙アートが人間という視点からこの宇宙アートを体感するという偉大なゲームをしているのです。このゲームに虚無感を感じのは幼稚な解釈です。

私を通じて見る世界を楽しむ

そもそもが壮大な宇宙アート、完璧な神のクリエイティブ作品であるこの世界に人間が個別意識、分離意識をもて降り立つことでバランバランに引き裂き生気、活気、芸術性を切り裂いて生きているのが我々に生活です。だからこそ人間はアートを再び求め、偉大な音楽に聞き惚れます。なぜならば本来は全部がそうだからです。このバラバラに切り裂かれた世界に再び神を再発見したいのです。ゴッホやピカソ、べートーベン、モーツアルトには見えていました、聞こえていました、神のアートが。だから彼らはそれを神や楽譜の上に表現したのです。

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

双対から絶対へ

双対とは「自分」が居る世界

双対とは「自分」が存在する世界のことです。自分がいて自分以外がいるという世界です。全体から「自分」がくり抜かれそれ以外が同時に生まれました。これによって自分が自分以外を見る、触る、嗅ぐ、味わう、という体験が生まれるのです。ですがこれは思考が発達しこの自分が居るという認識が生まれることで起こりました。体、思考、感情を自分であると認識することができるようになり、結果それ以外を認識するという体験が生まれたのです。双対の世界では基本「自分」は外に対し関心を強く持ちます。五感もそのようにできています。

絶対とは「自分」が消えた世界

絶対とは「自分」が消えた世界です。自分が消えるとはどういう意味か?そもそも自分が後付けて形成されたものですからそこを理解したら自分は消えてなくなります。人間はいつしかこの思考を自分であると勘違いしうるようになりこの宇宙空間から自分を切り抜きました。ですがこれは思考が大きく関わっておりこの思考がなければそのような認識を作ることはできません。このメカニズムを理解することで「自分」をアンインストールすることができるのです。「自分」をアンインストールするとそこには全体しかなくなりそこが絶対の世界です。

変化する絶対(色)と変化しない絶対(空)

この世界は変化する絶対である色と変化しない絶対である空で形成されています。空がなければ色は生まれず、色がなければ空は存在できない。この二つは一つです。色と空は一つです。これがノンデュアリティー、悟りです。我々が通常使う個人とはこの色の世界の中に個別意識、分離意識を作り色の世界を彷徨う体験をしていることになります。

人の人生を否定する度に苦しくなってくる仕組み

人もその人の人生も存在していない

我々の自我は人の人生を否定することで自分の人生を上にあげるという芸当を行います。自我にとって真の幸福は一切ないので偽りの幸福であもって幸福感を味わうしかありません。そのため人との比較の中で自我はそのば限りの幸福を手に入れようとするのです。結果人の人生を否定して、、あんな人生の何が面白いのか?という意見を言うようになるのです。これで確かに一時的な快楽を得ることはできますが実はこれは自身をさらに苦しめることになります。何かを否定するということはこのたった一個のエネルギーが織りなすタペストリー芸術に対して否定と肯定という分裂を作り出すことを意味するのです。こういう生き方は良くてこういう生き方は良くない、、、真っ二つにこの宇宙現象を割ってみせているのです。その瞬間に宇宙現象は真っ二つに破られますから生気を失うのです、活気を失うのです。みている世界が。目の前で宇宙が分離して見せてくれるわけです。幻想として。

ということで否定は苦しい

とはいえこの分離ゲームを楽しんでいる人にとっては自身の生き方の否定は他人の生き方の否定でもありますからこれはデフォルトで行われていきます。無制限に。こういう生き方を目指そうと決めればこういう生き方は目指したくないが生まれます。このようにこの分離大前提の人生とはどこまで行っても苦しみの罠から抜けることであるができません。犯罪者の事件をまな板の上に載せて人間性を切り裂いてみればその瞬間に我々がみている世界は切り裂かれているのです。生気を失っていきます。ご意見番と言われTV 番組で全ニュースを切り裂いているタレントさんは切り裂けば切り裂くほどに人生が苦しくなっていくというおまけがつきます。

本来はたった一つのエネルギーが渦巻いてアートを作っているだけ

本来我々の前にあるのはたった一つのエネルギーが織りなすアートです。このアートに名称をあちこち付けていくことでこのアートを細切れに引き裂きました、そして自分という存在も当然切り抜きます。これで先ず生気を失わせた状態でさらに否定否定の連続を繰り返していくと見える世界、アートはもうアートではない、、、殺風景な景色に成り下がっていきます。たった一つのエネルギーが織りなすアートに否定も肯定もない、、それがノンデュアリティーです。

ノンデュアリティーには何も起きない

何かが起きるためには名前が必要

この世界では実は何も起こっていません、、、何かが起きるには名前というのが必要になりますが名前とは人間が後付けで決めたことでありそれがもしも無かったら何も起きようがないのです。そうですこの非二元の世界には何も起きていないのです。何も起きていない世界に何かが起きたということにしたのが人間です、あらゆる生命現象に名前をつけていくことで何かが起きたということにしたのです。

誰もいない

本当はこの世界には誰もいません、生命現象の一部に名前をつけて人間と称し、さらにその人間に個別の名前をつけました。これにより誰それなにがしがこの世に誕生したのです、、、本当は何も誰もいなかったのです。か覚者はこれに気づいてしまった人達です。誰も何もない世界が本来であり全部は後付けで名前をつけてそのような出来事、自分が居るということに無理くりしているのです。そしてあらゆることに名前を付けまくることで宇宙の生命現象を分断化し分裂かし、支離滅裂化し、、、居心地の悪い世界を作り上げたのです。全部は無理くりの話です。

誰も何もないならば何が問題なのか?

世の中に問題がるなんていうのは、、人間が勝手にあらゆる物、ことに名前を付けてそういう問題というものが起こったとしているだけです、本当は常に何も起きていません。何かが起こるには名前が必要ですがその名前は全部後付けですからその出来ごとに意味などあるわけがないのです。意味があるためには名前が必要になるのです、どうしても。ということでこの私のブログにも意味など何もないということになります。これが本当の事実です。

負の感情が湧いたらそこから不幸な自分を演じる自我

自我の作戦は常に稚拙

悲しい、苦しい、辛い、、、このような負の感情が湧いた時に自我、思考はどうするか?甘えることに慣れている思考は「不幸な自分」「大変な自分」「落ち込む自分」を演じます。なぜこれをするか?これをすれば周囲の大人が動いてくれることを学習しているからです。周囲の大人、特に両親が自分のために行動してくれることを自我は学習します。これによって自我は悲しい、苦しいなどの負の感情が湧いた時は塞ぎ込んで見せてこの感情解決を図るのです。ですがこの作戦には大きな落とし穴があります。それは感情の解消に思考(自我)を使ったということ、これによって自我は肥大化しさらに負の感情を生み出しやすくなるのです。

大人はこのような稚拙な行動を見抜かなくてはならない

大人が取るべき行動はこのような稚拙な行動を子供が取ったならば直ぐにそこを見抜き改善を図ることです。もしもこれを見抜かずにその作戦に乗ってしまえばその子供の自我はこの作戦を何度も使い続けることになるのです。何か落ち込めば落ち込んで見せるという演技に拍車がかかるどころか、、、無意識(常に)に感情と行動がセット化していきます。結果自我の肥大化は一途を辿り負の感情が毎日湧くような体質にシフトしていきます。

大人とは、、頭脳、IQとは何も関係がない

頭脳レベル、IQがその人の成熟度とダイレクトに関係するならば東大生は皆大人ということになりますがそうではありません。むしろ思考が発達していると負の感情の解決方法を思考に委ねる結果になり負の感情湧き出しからの思考フル回転が定番化します。思考が考えだす作戦は常に過去のデータから湧き出されそれは自我をさらに強化する結果になるのです。自我の肥大化はそのまま負の感情(ペインボディー)の肥大化に繋がり苦しみのメカニズムは完成します。

それでも苦しみは目覚めのためにある

負の感情とそれを解決する思考のメカニズムは勿論苦しみのメカニズムです。ですがそうは言ってもこのメカニズムは悪なのか?といえばそうではなくこのメカニズムは最終的には目覚めを経験させるための苦行のようなものです。宇宙には一切無駄なものはありませんからこのメカニズムは人間を目覚めに誘う荒療治のようなものです。私自身悟り、ノンデュアリティーの学びを始め、、、このエゴ、自我のメカニズムを学んできましたがこの核心にあってはなかなか理解が深まらない、、つまり自我の抵抗に相当に合いました。それだけ人を目覚めに渇望させる大きなポイントなのだと思います。

エックハルトトールの偉大さ

人間が書いた本ではない

悟り、ノンデュアリティー、エンライトメントこれらの世界に興味がある人の多くは彼の書籍を読んだことはあるでしょう。彼の本は人間が書いたモノではなく間違いなく無我、無心、真我が自我を介在しないで書いています。彼の本を読んでいると不思議にも思考がクリアー、感情もクリアーになっていきます。クリアーというと何もないという印象を与えるかもしれませんが熟睡した次の日のような感覚を一日中味わえるのです。思考がジャックしていない状態、感情がジャックしていない状態とは熟睡時の感覚であることが肌で感じることができます。

何かをするから楽しいは全部嘘

今日はこんな予定があるから楽しい、昨日はこんな用事があったから楽しかった、、これらは嘘の充実感です。本当の充実感はそのようなモノではなく静かな平和に襲われた感覚です、静かな安堵、静かな愛に襲われた感覚、これが二極、二元、正負を越えた感情による充実感です。何も予定がなくても静かに幸福、、この感覚とは思考、感情にジャックされていない無我、無心、真我の状態です。エックハルトトールはこの状態に意識的に入り書籍を書き上げたことが読んでいて感じます。

彼は思考、感情との同一化からの脱却に終始する

彼の書籍には非二元本特有の非二元ベースの書き方がありません。あくまでも人間という存在をベースに本が書き上げられています。私は当初これではせっかくの内容が最終的に自我に活用されてしまうのでは?と懐疑的に思う部分もありました。ですがこの書籍を何度も反復して読み返していくうちに、、自我のメカニズムを理解するだけで思考、感情のジャックが収まることを体感しました。一番重要なことは自我の乗っ取りから外れた世界の説明ではなくいかに自我がこのメカニズムを維持しているかに精通した方がより確実に無我に入れることだという理解に落ちました。自我は大変巧妙でどのような素晴らしい体験、気づきすらも知らぬ間に自我の手柄にしてしまいます。おかしい、いつの間にか苦しい感情が湧いている、、、このパターンです。エックハルトはこの点どこまでも自我のメカニズム、思考の乗っ取り、感情との同一化とそれだけの説明に終始することで自我のカラクリを壊滅的なまでに見抜いていきます。

人間ができる前は全体だった

全体の起こりがただある世界

この世に人間ができる前の世界はただ全体の起こり、生命現象がある世界が広がっていました。全体から何かしらの生命現象が起こりそれをただ全体が認識する世界です。花が生まれ、鳥が羽ばたき、虫が動く、、ただそれだけ、、そこに人間という脳を持った生命現象が起こりました、その生命現象は脳を持ち、思考を操り、まさかこの生命現象の中に独自の意識を完成させました、それが今の人間のデフォルトです。言葉という言語で意識を作り出したのです。全体は初めて全体ではない感覚を手に入れることができたのです。この人間という感覚は後付けの感覚です、そのため人間は個別意識と熟睡時の全体意識の両方を所有します。朝起きて人間活動をする時は人間意識、熟睡時は全体意識というわけです。

この人間意識は後付けであり居心地が悪い

この人間意識の特徴は基本居心地が悪いということです、試しに家で一人きり何もしないでボーと外だけを見ていてください。強烈な退屈感、孤独感が襲ってくるはずです。この人間意識は何かをしていないと苦しくて苦しくて仕方ないのです。そして何かしらの行動をとると色々な経験を詰めて充実感が湧いてきます。不足感、充実感、退屈、刺激的、、、このようにこの人間意識活動はどこまで行ってもマイナスとプラスを行き来する世界なのです。釈迦はこれを苦しみの世界と表現しました。全体によりこの人間意識体験は大変エキサイティングで自我はこれを必死になって維持しようとしますが同時にこれは全体という歓喜、平和、安堵がこれを体験しているという自己矛盾を抱えています。そこに帰りたい衝動を抱えています。

人間がプールを楽しむ感覚に似ている

人間はなぜプールという呼吸がしにくい環境で運動をするのか?身動きが自由に取れない中であえて負荷をかけて運動を楽しんでいます。呼吸ができないこと自体は非常に苦しいこと、ですが同時にこの不自由さこそがエキサイティング、楽しさの要因でもあります。これぞまさに全体が人間をやる理由です。人間は苦しい、だからこそ面白いという感覚です。

プールで遊び疲れたら陸に戻るように人間を遊び疲れたら全体に戻る

プールで遊び疲れた人間が陸に戻るように、人間に遊び疲れたら全体に戻ればいいのです。人間という感覚は人間であることに集中するからこそ人間活動ができます。もしも自分から意識を逸らし他に集中でこることを見つけると人間意識が外れ全体に戻れます。没頭できることを見つけていきます。もしくは悟り、ノンデュアリティーというこの究極のメッセージに耳を傾けることです、すると人間であることが後付けであることがはっきりと分かり人間活動が緩んできます。緩めば緩んだ分だけ呼吸ができるようになります。

「自分=全体」も正確には間違い

自分という感覚は分離したからこそ芽生えた感覚

自分がない時、全体だけがあります。本当に美味しい物を口にした時自分を忘れます、、その時に全体としての自分を感じません。ただ歓喜だけがあります。存在を自覚する自分はそこには居ません。かなり高度なレベルの話になってきました。本当に良い音楽に聞き入る時、自分を忘れます。その時歓喜、幸福だけがあります。これを感じる自分が居なくなります。自分が全体に戻った時にはそれを自覚する存在が居なくなるのです。本当に面白い映画に魅入る時自分を忘れます、その時楽しいだけがあります、、、それを自覚する何かは存在しません。この映画を楽しんでいる「自分」を自覚する時、その映画を楽しんでいません。ナルシストがどこまで行っても薄っぺらいのは常に自分を手放せないからです。

自分は神である、、、間違い

本当に全体に戻っている時、、、私、自分という感覚はなくなります。ですから私は神、私は全体という感覚はないです。私はワンネスもないです。書道にのめり込み書と完全に一体になっている達人は私は全体、神だ、、、などという感覚を持っていません。何もない、、、、ただ認識だけがあります。私は神である、私は全体である。。。これは主体客体の世界、、、二元の世界の感覚なのです。これは非二元、ノンデュアリティーのメッセージです。主語があってその主語が何かを認識する世界は分離の世界です。この体の中に自分が居るという世界と変わりません。

フルマラソンを走り終えて、、、

人はフルマラソンを走り終えた時に、、、自分は安堵している、、自分がやり切った、、、自分はほっとしている、、、という感覚を持てません、、、、本当の安堵、本当の安心だけがあります。自分のことなど一瞬で忘れます。本当の安堵、安心とは自分が居なくなった時に訪れるのです。だからこそ自分は本当の安堵、、などという感覚はありません。フルマラソンを毎年のようにチャレンジする人は、、実はこの感覚を得たくて走っています。自分というものを完璧に忘れ去った時の安堵、安心、歓喜が忘れられなくなって走ります。なんという皮肉でしょう。完全なジョークです。

「実は自分が居ない」という絶望的なメッセージ

悟り、ノンデュアリティーが陽の目を見ない理由

悟りもノンデュアリティーも陽の目を見ることがないメッセージです。実は自分が居ない、、などというメッセージは気が狂ったメッセージであり危険極まりない内容です。自分が居ないなどと病院で話せば、、即入院患者リスト入りです。二度とそこから退院できることはないでしょう。ですが自分がこの体の中に居るという人間の共通認識はどこまで行っても科学的に証明できません、医学的にも証明できません。99.99999%の人々がこの体の中に自分は居ると思い込んでいるからこそこれが既成事実になっていうのです。

朝から晩まで狂ったように忙しい日には自分が居ることを忘れている

この体の中に自分が居るなんて当たり前ではないか?そのように考える人の、、、絶望的に忙しい日にはおそらく自分の存在を忘れているはずです。自分のことを忘れている時が確実にあるということは自分がこの体に居るということを放棄しています。そしてそれでも全く問題なく生活できています。自分がこの体の中に居るという感覚がなくても何も問題なく上手く生活は回るのです。これはどういうことでしょう。覚者が「この体の中に自分は居ない」と気づいた後も普通に生活をし仕事をできるのはこのためです。

むしろ自分の存在を忘れてしまっている人の方が上手くいく

辛い仕事というのはその仕事に集中できない仕事のことです。その仕事をしているとあらゆる雑念が湧いてきてなぜ私がこの仕事をしなくてはいけないのか?と考えてしまう仕事こそ辛い仕事です。楽しい仕事とは仕事に熱中できて自分の存在を忘れてしまうような仕事です。これを天職と呼びます。自分の存在を忘れれるような恋愛、仕事、遊びこそが楽しい、、これは誰でも知っている事実です。