ゲーム

自分のゲームでは、見える世界は変わっていく

これはあくまでゲーム

このゲームは現象です、3Dです、五感で感じる蜃気楼です。このゲームの性質上、、観念が変わると見え方が変わります。見かけ上の私の価値観が変わるとそのフィルターを通じてこの現象を見ますから、、見え方が変わります。例えば子育て中は、、街を歩けば子供が沢山登場します、、例えばポルシェを買いたい、、そう思うと、、ポルシェが街中で登場します、、、エアージョーダン1がどうしても欲しい、、、街を歩くとエアージョーダン1が登場します、、現象を捉えるフィルター(価値観)が変わると現象の見え方が変わります。

事実を知ると当然価値観が変わる

頑張らない人間を見れば、、あつはなんて怠惰な奴なんだ、、、これが多くの日本人が持つ価値観でしょう、、ですが事実を知ってしまうともうそう思えない、、、事実はただそれが起こっているだけです、、そう見える現象が起こっているだけです。自分の意思で行動できる存在は居ません、全部全体からの起こりです。価値観ではなく、、事実に変わっていきます。。究極の事実を知る者、、、それが覚者ですが、、、これも実は嘘で究極の事実を知ると、、、知る自分が存在しないことを知るのです。

価値観が無くなる

価値観とはあくまでこの現象界での見方のことですね、、そうすると、、これが現象であること、これがただ全体からの起こりであること、そこにはどんな自己の介在も起きていないことが分かってしまうと、、見方がなくなります、、先ず見る「自分」が居ないのです。価値観とは「自分」とセットになっていることに気づきます。そうなると価値観が壊滅します、価値観が粉砕します、価値観が火炙りにされます。そこにはただ事実(全体)が残ります。

大谷翔平の存在

大谷翔平はいつでも無我に入っている

これはあくまで見かけ上の話です、本当は大谷翔平はただの現象ですからその中では何も起きていません。ですが中に中身が在るという想定で話を進めます。大谷翔平は勝負中無我に入ります、無我への入り方を知っています、練習中も無我に入る、恐らくオフの時も無我に入っています。彼の毎日の生活はほぼ無我なのです。ルーティンということをスポーツ選手はやりますがあれは思考を一切介在させずその場で無我に入るテクニックです。

無我が気持ちが良い

無我とは我がないこと、これは全体、悟りのことです。自分が全く居ないのですから、、全体に戻っているのです。スポーツ選手は練習を通じてこの無我への入り方を学ぶのです。無我の状態を覚えるとその場所が最も気持ちが良い場所であることが分かるので率先してそこに入ろうとします。そしてあらゆるスポーツはこの無我への入りで上達し結果が出やすくなります。

ただし大きな落とし穴が

スーパースターが破産、犯罪、、、これもニュースに付きものです。無我に入って出た結果を自我が抱え込むのです。無我に入って大きな功績を残したが自我がしゃしゃりでて威張り散らします。本当は自我が居なかったから結果が出たにも関わらず自我がそれを一人占めするのです。なんという茶番、なんという喜劇、なんという詐欺でしょうか。自我は詐欺師なのです。ですがこれも全体からただ淡々と湧き上がるゲームです。誰も悪役は居ないのです。全体は自我を作って、、このゲームを楽しんでいます。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

何かに集中する、瞑想の極意

瞑想とは目を閉じるだけではない

日本の武道、茶道など、あれは瞑想です。動きに完全集中することで無我に入っていきます。型に入り込むことで型になりきり自分が型に溶け込んでいくのです。この時自分はこの世から無くなります。人は何かに集中し始めると、、自分が居なくなるのです。目の前の人との会話に集中しますと、、自分が居なくなります。この状態を人は無意識に気づき毎日のことでこれをやっています。仕事が好きな人は仕事に集中しやすいのです、キャンプが好きな人はキャンプに集中しやすいのです。人とのお酒が好きな人は会話に集中しやすいのです。

楽しいは実は集中

集中からくる無我状態を覚えてしまうと、、刺激を求めるという行為に興味がなくなります。多くの人がパチンコ好きなのは大音量の音の中に入り、パチンコ玉が入るか入らないかで持ち金の増減が決まりれるというリスクを背負うことでゲームに集中できるからです。つまり集中できるならばなんでもいいのです。集中すると自分が消え去り全体にその場でなれます。集中からくる恍惚状態は全体そのものです。何かに集中していれば、、1日何回も瞑想をしているのと同じです。

その場で集中に入る方法

ではその場で集中に入る方法をお伝えします。ただ目を閉じます、、そして先ず視覚から入る現象を完全にシャットアウトします、この時、、視覚から入っていた目の前の現象は完璧に無くなります。無くなっているように見えるのではありません、無くなるのです。視覚から入る蜃気楼が完全に無くなります。そして聴覚から入る蜃気楼に集中します、触覚から入る蜃気楼に集中します、嗅覚から入る蜃気楼に集中します。五感ではなく三感から入る蜃気楼に集中するのです。視覚から入るこの自分の体という蜃気楼は完全に無くなっていますから耳、肌、鼻という蜃気楼はもう存在していません。ですからそこには音、感触(触)、香り、、そのものが起き上がっているだけなのです。それを感じる自分(蜃気楼)は消えています。この三つに完全集中するのです。全体からの湧き上がりに完全集中します、、するとはっきりとそれらが静寂から湧いていることに気づきます。この静寂こそが全体です、そして音、感触、香り自体までも静寂に包まれているのに気づきます、音、感触、香りが静寂として湧くのです。激しい音の中に静寂を感じることができます。全て静寂で出来ていることが分かります。色(現象)が空(静寂)から湧いているのを感じます。そしてそこから静寂(空)に入っていきます、静寂そのもになっていきます、、最後に静寂だけになります。

神にうっかりは100%ない

神がうっかり自分になった??

神がうっかりこの体を自分と思い込み、、、あるわけがありません。神がこの体を自分と勘違いしてしまい、、全部嘘です。神にうっかりも勘違いも全くありません。全知全能の神にミスはないのです、するこの自分思い込みゲームは完全犯罪、計画犯罪に決まっています。悟りは完璧なタイミングで完璧な形で閉まったのです。すると悟りが開くのはいつか??それも神が完璧なタイミングで起こします。ですが何も努力なく、何の苦労もなく確かなタイミングで悟りは開くのです。

悟りを自分の努力の延長上にしない

悟りが閉じたのは、、、周囲からの呼びかけ反応です。名前をエンドレスに呼びかけられ、、この体に自分が居るという錯覚が起こりました。ここに自分の努力は全くありません。自然に悟りが閉じたのです。では悟りが開くには何が必要なのか???ここも自分の存在など完全に無力です。悟りの開閉に個人は完全に無力なのです。神、全体が、、完璧なタイミング悟りを閉ざし、完璧なタイミングで悟りを開きます。

川を流れる葉っぱは勝手に悟りを閉じ、勝手に悟りを開く

川を流れる葉っぱは、、川の流れ初めは完全に川の流れに委ねてきました、、葉っぱには自由意志などなくただ川の流れに身を任せてきました、、川と葉っぱの境目などそもそもなく葉っぱは川の模様の一部のようなものです。これは幼少期の感覚です。ところが葉っぱに脳が発達し、、葉っぱ(自分)が川の中で自由に動いているのだ、、という錯覚が起きました。これが大人になるということです。自由意志があるはずなのに自由に行かないこともある、上手くいく時もあれば上手くいかないことがある、なぜだ??です。あれどうも葉っぱには自由意思なんてなくてただ川の流れに従っているのでは???という疑問が起きます、、そして最後に川と自分(葉っぱ)には境目などないのでは???あれ川も葉っぱもただの名前であって全体しかなかった、(悟りが開く)が起きるのです。

マリオには自由意志も自由行動も一切ない

マリオを通じてただ思考、行動が起きている

マリオは3D画像です、そしてこの3D画像には五感が備わり、、このマリオゲームに臨場感が加わります。そしてこのマリオの中からは思考や行動がわき起こっていきます。マリオ自身には一切思考を生み出す力も行動を生み出す力もありませんからただ全体を通じてこれが起こっているのです。全体から思考も行動も浮かび上がり、、失敗すれば今度は悔しいが湧き上がりこれを全体が全部回収していきます。全体から全てが湧き上がり全体が全てを回収します。マリオは3D映像に過ぎず、、そこが最重要ポイントになります。

全体から思考、行動、感情がわき起こり全体が回収する

マリオ(私)のゲームの中で感情思考が湧き上がっているのがマリオだけという理由は、、、全体から思考感情が湧き上がり、、全体がそれを回収していますから、、、視界に何人のキャラクター(他人)が居ても、、もしもキャラクター(他人)から思考感情が湧いているならば全体が全回収しますから今ここで全部を感じることができるはずです、マリオの同様に。ところがそれは起きない、、つまり、、、マリオしか感情、思考が起きていないということになるのです。

全員の感情を今全体が回収しているが、、マリオののみを感じているようにしているだけでは??

この理論は最もな意見なのですが、、そうすると、、、ピーチ姫、クッパ、ノコノコの感情はどこに行ってしまったのでしょうか???全体は全部であるから全体なのであってここに全体があるのならば、、全体が回収する感情も全部ここにあります。ここ以外に感情が存在してしまったらここは全体では無くなってしまうのです。これが答えです。ここが完璧なのはここに全部があるから完璧なのです。ここ以外に感情の存在が確認されてしまたらここは全体、至福では無くなってしまいます。だとするならばここでは絶対に全体(至福)は見つからないことになります。ですが我々は毎日熟睡時に至福に戻っています、それがここに全体(至福)がある証拠です。だからこそ今起きている思考、感情が全体の全てなのです。

見かけ上の個人は常に不安を持つ

不安の本質は分離感

見かけ上の個人は必ず不安を持っています、どんなに楽しそうに見えても、完璧な人生を送っているように見えても、、そんなことでは絶対に埋まらない不安を抱えているのです。それはなぜか?それはこの個人というアイデアに牛耳られた者特有の苦しい、分離感の原因を発見できていないからです。「自分は個人である」このアイデアはアイデアであって真実ではないのです。このことを一番分かっているのは全体そのものでありそれゆえこの誤解はエンドレスに苦しみを発生させるのです。その苦しみの出所を個人が突き止めうことは不可能でありそれゆえ不安が自動発生的に湧き出るのです。

分離が悪いわけではない

分離は悪いことではありません、根源全体から起きる動きに善悪など全くありません。ただこの個人という分離が起きているという思考が湧き上がりますとそれと同時に苦しいが湧き上がるシステムになっているのです。ここは最重要ポイントになります、全体が朝起きて個人であると勘違いが起きますと同時に苦しいが生まれます。個人が朝起きてキムタクだと勘違いすれば嬉しいが起きます、勘違いには副産物がついてまわるのです。この副産物が何かを気づかないが起き続ける間は苦しい、そしてこの苦しいの理由が分からず不安が起き続けるのです。

分離錯覚のメカニズムを悟る

分離錯覚メカニズムを理解すればあとは日々の生活の中でこれを腹落ちさるだけになります。個人はゲーム上のマリオ同様に動き回ることが出来ると思っていますがこれが完全錯覚で、、マリオが動いているのではなく全体(3D画像)が動きているのです。そしてこのマリオの体も3D画像として動きますから合わせ技でマリオが自由自在に動いているという錯覚が起こります。触る物、香る物、見える物、味わえる物全てが3D画像でありこれは現象です。マリオという3D画像が動き回ることで五感が感じ続けそれがマリオがリアルに居るという錯覚を起こし続けるのです。すると全体からこのマリオの中に居るという錯覚が起き同時に苦しいが起きます。この苦しいを全体が感じますが「マリオの中に居る、そして苦しい」がこのゲームのデフォルトになるのです。何を感じても何を味わっても、何を画像確認しても、何を触っても、何を香っても、、この苦しいは消えることはなく、、このマリオの中に自分は居なく、現象の全て(色)であり現象を湧き上がらせる存在のもの(空)という実感に戻るまでこの苦しみは続きます。

この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。

何かに集中している時自分など居ない

TVゲームに夢中になっている時に自分を意識している子供はいない

何かに夢中になるのが気持ち良いのは、、その時だけは自分を完全に忘れることが出来るからです。この体の中に自分が居るという錯覚が抜け落ちます。ではその時は誰がいるのか、、現象が起きているだけです、つまり現象の揺れ動きしかありません、もしくは手の感覚、足の感覚、肌の感覚はあるかもしれません、ですがこの「手」「足」「肌」という存在は忘れています、夢中になってゲームコントロールをしている子供がボタンを押す際に、、手が押しているなどの感覚はありません、ただ感覚だけがあります。

ボールを夢中で蹴っている少年の場合

サッカーに夢中になるのが楽しいのは「自分」を忘れることができるからです。サッカーに夢中になりながら自分をしっかりと意識するのは難しいものです。自分が今ボールを足で蹴った、自分が今敵を抜き、相手からボーールを奪ったなど思考が湧くことはありません、、ただボールの感触、地面を踏む感触があるだけです。世界から名前が消え去ります。この時少年は現象そのものになっています、感覚そのものになっています、、色そのものです。

活躍すると自分がそれを所有する

サッカーをしているだけで楽しかったのに、、活躍して周囲から褒められたら最後、、褒められた「自分」がにょきっと登場します。全体、現象、感覚に溶け切っていた状態から「自分」に戻ってしまいます。すると一緒に苦しみが湧いてくるのです。サッカープレイ中は至福そのものだったのがインタビューを「自分」を受けた瞬間この体の中に閉じ込められ牢屋に打ち込まれ苦しみが同時発生で起こるのです。至福から孤独への強制返還です。

もう自分に戻らない

サッカーで活躍しインタビューを受けるならば、、、先ずインタビュアーのことを現象と見抜くことです、そしてインタビューを受ける際は「自分」をしっかりと演じるという自覚を持つのです。どれほど褒め称えられても「自分」を演じそこにのめり込まないことです。ただ役割としてこの現象界を乗り切ります。そしてインタビューが終われば自分など忘れてしまい現象と共に在るようにします。つまり全体に戻るのです。