観念

現象に優劣はない

起こる現象に良否の判断を加え続ける

起こる現象に良否など全くありません、、個人という存在をでっち上げた時に初めてこの個人にとって良いか悪いかの判断が始まるのです。個人という存在をでっち上げたのは誰か、、、自分ではありませんよ、、全体です。全体がこの全体内に個人をでっち上げた現象化させた、想像したのです。。。これによってこの個人にとって良い現象、悪い現象が起きているように見えているのです。ですが本当はただの現象ですから個人にとって良い現象と悪い現象は半々起きますから人生とは不自由、不具合、非完璧なのです。これがカラクリの全てです。

なぜこんな簡単な理論が理解できないのか???

こんな簡単なカラクリ、こんな簡単な理屈がなぜ個人には届かないのでしょうか????そこに意味はありません、、ただ事実だけを説明すれば個人というプログラム、観念は非常に強いということ、、見かけ上の脳の発達はこの見かけ上の体を維持しようと強く働くよう現象化し、、全思考、全行動がこの見かけ上の体を保持するよう連鎖反応するのです。この連鎖反応を止める個人がいませんからこれは長丁場になるのです。

このメッセージは個人にはパニックになる

24時間この個人のために全言動が作動しているにも関わらずこにの体の中に自分が居ないというメッセージがこの体に届けられるとパニックが起きます。裸の大様についに服を着ていないよ、、と発言した子供のような状態になります。。絶対に言っては行けない事実、、この体の中に自分は居なかった、、、ヒョエーです。ですがこの体の中に自分が居るゲームにほとほと疲れはてていた場合、、、このメッセージが届きます。。裸の王様も心の中で安堵が生まれます、、、ようやく服を着れると、、、

事実の前に観念は崩れ落ちる

観念も湧いてくる

観念すらも湧いてきます、観念とはこの見かけ上の「自分」が経験したことと知識を混ぜ合わせ一体化したものです。観念とは記憶から成り立っていますからこの記憶が見かけ上の脳内に内臓されます、、しかし実際にはこの現象界は全部現象であって事実ではありませんから、、観念という記憶は全体、空に保存されていきます。そして何かのタイミングでこれが湧き出てくるのです。

「自分」の存在に対する理解が深まると

自分という存在、理解が深まりますと、、、観念が湧いてこなくなります。なぜならばこの世界、現象界で起こることは全部全体の現れであり、、そこに良否、善悪、高低などあるわけがないのです。全体のアートに良否があるならば全体は欠陥品になってしまいます、全体のアートに善悪があるならば全体は粗悪品になってしまいます。ただ淡々とこの目の前に現象が起きているだけなのです、そして目の前という言葉も実は間違いで、、その目も現象ですから、、実は存在しません、、ただ現象だけが在るのです。

ただ現象だけがあって、、この自分も実在しないならば

ただ現象だけがあって、、この自分も現象、、実在しないならば、、現象のみ、、終わりです。すると一々判断を下してきた存在(自分)が居ないのですから観念も崩れ落ちます。観念が湧いてこなくなるのです。というか自分在りきの観念は一掃されます。ただ現象の揺れ動きだけが残ります。ただ全体の表現だけが残ります、至福がそこに漂うのみです。

観念を火炙りにする

観念火炙りは面白い、最高

あの人にこんな悪口を言われてしまって、、、どう思いますか??、、、ただそれが起こったんですね、、、ヒデー、、、、彼氏が全く働かなくなり、、愚痴ばかり言っている、、どう思いますか???、、、その現象が起きたんですね、、、ヒデブー、、、、社長が無駄使いばかりする人で社員のことを何も考えていないんですよ、、、、その現象が社長を通じて起きたんですね、、、、アベシ、、、となります。多くの方はそれに対し意見を求めます、、、ですがそれへの意見はただ一つ、、、、ただそれが起こった、、、そこに自己の介在はゼロ、、、それを起こすことができる人格はゼロです。

悩みが完全に無くなる

ろくでもない彼氏も、浮気ばかりする彼女も、、ぐーたらな息子も、、、全部本人の意思でそれをしていない、、、全部全体から起こっている、、、、するとこれについて悩むことができないのです。何か解決策があると信じているから悩むわけです、、、、勿論ぐーたらな彼氏に意見を言うのは良いでしょう、そしてそれによってぐーたらが勤勉になることもあるでしょう、、、、ただしそこには彼氏の意思は全く関わっていません、、、全体がたまたまそれを起こしました。

他人に興味が無くなる、、、大正解!!

相手に自由意志がないなら人と関わるって意味なくないですか?????大正解です!!!彼氏に自由意志がないなら浮気を止める方法なんてないじゃないですか????大正解!!!です。全体は常に何かを起こしますからアクションが無意味ということは断じてありません、、、重要なことは相手の中に自由意志が無いことを悟ることです。ここ最重要ポイントです。人間たるものこうあるべき、こう成長すべき、こう大人になるべき、こう自立すべき、、、全部自由意志があるという前提の価値観です。価値観は事実の前では火炙りにされます。

自分のゲームでは、見える世界は変わっていく

これはあくまでゲーム

このゲームは現象です、3Dです、五感で感じる蜃気楼です。このゲームの性質上、、観念が変わると見え方が変わります。見かけ上の私の価値観が変わるとそのフィルターを通じてこの現象を見ますから、、見え方が変わります。例えば子育て中は、、街を歩けば子供が沢山登場します、、例えばポルシェを買いたい、、そう思うと、、ポルシェが街中で登場します、、、エアージョーダン1がどうしても欲しい、、、街を歩くとエアージョーダン1が登場します、、現象を捉えるフィルター(価値観)が変わると現象の見え方が変わります。

事実を知ると当然価値観が変わる

頑張らない人間を見れば、、あつはなんて怠惰な奴なんだ、、、これが多くの日本人が持つ価値観でしょう、、ですが事実を知ってしまうともうそう思えない、、、事実はただそれが起こっているだけです、、そう見える現象が起こっているだけです。自分の意思で行動できる存在は居ません、全部全体からの起こりです。価値観ではなく、、事実に変わっていきます。。究極の事実を知る者、、、それが覚者ですが、、、これも実は嘘で究極の事実を知ると、、、知る自分が存在しないことを知るのです。

価値観が無くなる

価値観とはあくまでこの現象界での見方のことですね、、そうすると、、これが現象であること、これがただ全体からの起こりであること、そこにはどんな自己の介在も起きていないことが分かってしまうと、、見方がなくなります、、先ず見る「自分」が居ないのです。価値観とは「自分」とセットになっていることに気づきます。そうなると価値観が壊滅します、価値観が粉砕します、価値観が火炙りにされます。そこにはただ事実(全体)が残ります。

観念とは方程式

見える世界で観念が分かる

我々は本来たった一つのエネルギーの中に生きています。ですがそう見えないのは我々に観念があるからです、先ずはこの「自分」が居るという観念、これがこの自分ストーリーをスタートします。ここからスタートしてあらゆる観念がこの見える世界を分離独立させていくことになります。ということは見える世界がどんな世界かでその人の観念が分かってしまうということになります。

どのような世界に居るか

分かりやすく言えば、、、我々は価値観を共有している人と人間関係を結んでいます。会社や組織など、、同じことに価値を置いている人々と生活をしているはずです。例えば都会に出る人々は都会に価値を置いている、田舎に住む人々は田舎に価値を置いている、、、だから見える世界も似てきます。全く同じ世界を見ている人は居るわけがなく似ているけど違う世界を生きているのです。

観念を見抜く

観念書き換えによって生きる世界が変わっていくのは間違いない事実です。ですがこれは最初のステップです、観念が書き換わることで世界が変わるというこの事実に着目します。我々はとんでもないメカニズムの中で生きているのです。このとんでもないメカニズムを創造したのは誰か?神です。神はこんなとんでもないメカニズムを作り出しその中で小さな神体験を起こしたのです。小さな神とは「私」のことです。

観念とは定義

思考が材料、感情が大工

バシャールは言います、「観念とは定義、家の設計図、思考が材料、感情が大工」であると。大変面白い発想です。もしも定義が「人生は苦しい」という定義ならば、、思考や感情がフル回転すれば、、、「人生は苦しい」が証明されます。定義がオカシイ場合、真面目な思考、感情を所有すればするほどしんどい人生になります。思考フル回転、感情フル回転は地獄への入り口になります。

観念、定義を変えよ

今の人生が苦しいならば、、、思考、感情を変えるのではなく、、、定義、設計図を変えます。設計図が変われば後は思考、感情がダブルワークで家を速やかに建ててくれます。あなたの今の家の居心地はいかがですか???もしも居心地が悪いならば人生の定義を変える必要があるのです。例えば「高収入が幸福である」という定義を持って生きてきたがいつまで経っても違和感が消えない、、、この場合、、この定義を変える必要があります。

定義を変え続け最終的に定義を超える

一番大きな気づきとは観念が変わると見える世界が変わってしまうという事実です。この事実に気づくことが最重要です。これによってもう今居る世界に対し絶望も希望も求めません、なぜならば観念によって変わるという事実こそが凄すぎるからです。我々は小さな神です、大いなる神のエネルギーの中に住んでいます、だからこそ観念の変化がそのまま見える世界を変えてしまうのです。

人生とは常にその人にとって完璧

人生=観念

人生はその人にとって完璧です、例え周囲からは最悪の状態、その人にとっても最悪な状態であってもやっぱり完璧なのです。なぜか???それはその人の観念が完璧に反映された世界だからです。その人の目の前にあるのは紛れもなく神エネルギーが漂っています、これは全員同じです。ですがこの神エネルギーがその人の脳内の反映であることも全く平等です。ということでその人の目の前にはその人の観念、価値観が反映された世界が漂っているのです。

人生イコール観念ならば、観念を変えるだけ

たった一つの神エネルギーが目の前に漂い、それは全員同じこと。この神エネルギーがその人の観念によって書き換えられる、、これも同じ。ということでもしも人生を変えたいならば観念、価値観を変えればいいのです。どのようなことを体験したいか、、体験する現実はその人のこれまでの観念が反映されたものです。たった一つのエネルギーが観念によって分離独立し今目の前に出現しています。これが現象化の正体です。

観念で現実が変わるという事実に着目する

最重要事項は、、観念でガンガン現象界を変えていきましょう!ということではなく変わるという事実に隠されたこの世の真理に気づくことです。なぜ観念が変わると世界が変わるのか??ということです。正確には観念を明日から変えようで突然変わるなどありえず、、、観念を変えることよりもその事実に着目することが重要です。我々が小さな神、ミクロコスモスと呼ばれる所以です。マクロコスモス(神)はマクロコスモスのままでは何も体験できずミクロコスモスを創造することで小さな神体験を回収します。

観念が簡単には変わらないメリット

観念が現実を作り出し見せてくてる

観念が簡単に変わってしまったら、見える世界が簡単に変わってしまいますから混乱します。簡単には観念は変わりません、だからこそ多くの人は同じ世界を日々体験しているのです。毎日全く違う世界が広がっていたら人は混乱します。観念が簡単には変わらない=見せる世界も変わらない、、だからそこに集中して取り組めるという話です。

現実という鏡、投影を見て自身の価値観を知る

この世界は大きな神が小さな神体験をする世界です。人間という小さな神がその価値観に則った世界を生きています。小さな神である理由は価値観、観念が変わると見える世界も変わってしまうという変幻自在の世界に生きている、価値観を決めるのは小さい神こと「自分」です。これが小さい神体験です。価値観が変われば世界も変わり経験も変わる、、これを大きな神はやってみたかったということです。

小さい神体験

大きな神は小さい神体験をすることで神が神のままでは体験できなかったことを体験することができるようになりました。大きな神はこれによってあらゆる思考、感情、経験を積むことに成功したのです。だからこそ簡単に悟りを開いてゲーム終了など絶対にありません。簡単にゲーム終了ならばこの小さい神体験を構築した意味がないのです。大きな神は間違いなく小さい神体験を全部体験したいはずです、全部の感情、全部の思考も含め。ということで諦めるしかないのです、楽しいことだけして死ぬことを。

観念がなければこの夢は誕生しない

思考、観念、ビリーフが無ければこの夢は成立しない

思考、観念、ビリーフはこの世界を構築するプログラム言語です。この世界は自身の思考、観念、ビリーフに支えられています。逆にいえば観念が全くなければこの世界はただのエネルギーになります。プログラムがないのですから。この夢、我々が生きているこの幻想は我々が構築したプログラム言語で成立しておりそれが普段の我々の生活、経験、入ってくる情報から成り立っているのです。

人生を変えたければ価値観を変える、人生を辞めたければ思考を手放す

人生を真剣に変えたいのであれば価値観を変えなくてはなりません、価値観が変われば見える世界も変わります、脳が重要というモノのみを見せてくれます。その重要であるという価値基準が変わるのですから見える世界は変わって当然です。ですが価値観を変える、観念を変える、ビリーフを変えるというのはあくまでもこの小さい神のストーリーの中に話であり、このストーリーの中に居る限りは本当の苦しみから解放されることはありません。価値観がなぜ見える世界、感じる世界、触れる世界を変えるのか、、ここにフォーカスしていきますと人間の構築が理解できます。これは神として小さい神(人間)を観察する視点です。主人公が神になります。

視座が変わる

自分の人生というものに圧倒的なリアリティーを感じ、閉塞感、拘束感、閉鎖感の中に居る時人は絶望的な気持ちになります。ですがこの人生は小さな神の体験ストーリーであることを理解し観念、価値観が変わるとこの人生も変わることが理解できますと閉塞感にヒビが入ります、少し隙間ができます。その隙間から光が入ってきます。その光とは大きな神の光です。そして最終的には自分は小さい神ではなく元々大きな神であったという気づきが起こります。

なぜこの物理的現実に圧倒的なリアリティーを感じるのか?

物理的現実は幻想だが、、、神そのもの

スピ好きの多くは勘違いしています。この世は幻想、幻覚、夢、、、だからリアリティーを感じなくていい、、、そうではありません、この幻想は圧倒的にリアルです、なぜならばこの幻想の構成要素は神そのものだからです。神にリアリティーを感じないとしたら一体何にリアリティーを感じればいいのか?という話です。今目の前に見える幻想、物理的現実は神の変化です。ここにリアリティーを感じないわけがないのです。

リアリティーは感じるがその現実の多くが曇っている、ここが問題

究極の現実、リアリティーが曇っている、、ここが問題なのです。なぜ我々が生きているこの世界が曇っているのか???おかしい、、ここに違和感を感じなくてはなりません。目の前に神の変化、神の現象化がるならば、、なぜ曇っているのか???ここが最重要なのです。小さな神である我々はこの変幻自在の現実を曇ってみることさえできるということです。完全クリアー、輝く世界に見ることもできれば完全曇り、ネットリした世界にも見ることができるのです。その鍵を握っているのが観念、ブリーフ、価値観です。

神が曇っている、、、

多くの方はここに疑問を持っていません、なぜ私の神は曇っているのか???です。神は曇った存在ではありません、曇って見せることができる存在です。神は輝く存在ではありません、輝いて見せることができる存在です、人間の前で。今目の前の神が曇っているならばその価値観、ビリーフ、観念から変える必要があります。輝く神になるまで価値観、観念を変えていきます。ですがここで重要なことは観念の中に縛られている間はどこまで行っても観念という檻の中に居るのも事実です。解放とは観念の檻からの脱出です。