悟り

失敗できないという重責

これを現実とすれば

これは現実で、この体には「私」が居て、、私には自由意思がありこの世界をこの私が自由意志を駆使してサバイブするんだ、、、という概念に染まりますと、、、、頭が良い人ほど、、、あらゆるリスクを考慮し、重くなります。リスクが見えれば見えるほどにそれに対応を迫られますからこれはきつい。あらゆる保険に入りまくってその保険料で首が何重にも巻かれた状態になります。

頭が良いからこそ

頭が良い人にとってこの人間の初期設定『この体、この思考は私』という概念は恐ろしく重い重い設定なのです。だからエックハルトトールは恐ろしいほどの重圧の中で悟りを開きました。あれは頭が良過ぎる故の重責ではないでしょうか。逆に言えば、、、これが夢かも!!!という気づきに頭が良い人が至ったら、、その理解はとんでもなく早い、、なぜならば夢という想定では何一つ矛盾がないのです。これは現実、、、こちらは矛盾だらけで正解がない、、これは夢、、、は正解しかない、、、となります。

どこでリミットオーバーになるか

「この現実の世界をこの私がサバイブする」この発想はどこかでリミットオーバーになります。なぜならば初期設定のこの現実は、、現実ではないからです。初期設定が間違っているのですから全く正解のない世界を私がサバイブしていかなくてはならずクリアは不可能なのです。勘違いをベースにした人生戦略は歩めば歩むほど矛盾をダイレクトに受けるので辛くなるのです。

夢だと分かって夢を生きる

これが夢だと見抜く最大の障壁はなんでしょうか???それは周囲に合わせて生きていく、、、というこの作戦と、、、コレが夢だと気づくという事実があまりにもかけ離れていることです。この夢の多くの方は周囲に合わせて安心する、、という作戦を信じ切っていますから、、、どれほど苦しくてもその作戦を変更できないわけです。そうなると限界リミットオーバーしかこのパラダイムシフトを起こせない、、となります。あくまで夢の中のストーリー上ですが。

これを「現実」と想定して生きる大変さ

失敗が許されない

「たった一度のこの人生」これが現代人類最大のプレッシャーです。この人生は一回しかなく、、この私は一回しかチャンスがない、、だから失敗などしていいはずがない。。。。このたった一回の人生で失敗したら、、虚しいにもほどがある、、、、だから私は怖いし、重いし、慎重だし、、常に怯えなくてはいけない。だけどそれは当たり前でこの「私の人生」は一回きりなのだから。。。これが人類共通の病です。

神経症的生き方

誰も悪くないんです、、この宇宙にたった一人で生きている、、という観念、価値観は、、、絶対に失敗は許されない、、、という脅迫になります。だから心配で心配で心配過ぎるのです。。。すべてのことが。絶対に失敗をしない生き方を、、しなくてはいけない。。となって当たり前なんです。悠々自適に、、、いやいや、、、それで失敗でもしたらどうなるんですか?????となります。

子供と自己超越の違い

子供はなぜ大人がこれほどまでに失敗を恐れるかが分からないんです、、子供は例の概念がありませんからただピュアに、、無邪気なのです。。。ですが自己超越、これが夢だと悟りがあれば、、、大人の怯え、恐れ、恐怖症を理解できるんです。理解できた上で、、自身はナチュラルにこの夢を生きることができます。相手が神経症状態でありことが分かっていますから、、その上でのコミュニケーションが成り立つのです。

夢が夢を見る

この夢の傍観者

これは夢です、完全に夢です。。。ではこの夢の傍観者は誰でしょうか????夢です。夢が夢を見ているのです。現象そのものが現れたと同時に現象に気づいているのです。つまり色と空は一つです。例えば自我がこの世界に現れた瞬間に実は自我が自我に気づいているのです。だから自我は現象としては在るのです、無かったら「私」は存在していません。ただしこれはあくまで現象です、夢です。

現象だからどうでもいいということではない

この私は現象、夢です、、現れた瞬間に自身で自身に気づきます。夢だから現象だからどうでもいい、、ということではないんです。現象は常に完璧で完璧な表れです、、この夢に優劣はないのです。完璧な現象が自我として現れたのです。この一時的に現れた自我『私』が永続するという思考が現れました、、これによって苦しみ、孤独感が生まれました。これも完璧な表れです。完璧ではありますが「苦しい」が続くのも確かです。

苦しいから逃げたいも完璧

それと同時にこの苦しみから逃げたい、、が起こります、、これも完璧な表れです。この夢の中で、、コレが夢だと気づいていない場合、、この逃げたいをなんとかこの夢の中で叶えようとする動きが起こります、これも完璧です。ですがその動きのほとんどは夢の中での逃避ゆえに成就しないのです。ですがこの成就しないのも完璧です。そして成就しないことに飽きたことで、、、この夢、このストーリーから出るしか方法がないのでは???が起こります。これも完璧です。それが悟りへの誘いです。

悟りに疲れたら

残念ながら私に出来ることはない

残念ながら悟りにおいてこの「私」が出る幕がありません、もっと早く悟りを開きたい、、誰が????その私が居ないんですよ。そしてそのために何かをコントロールできる私が居ないということの気づきが悟りです。悟りとは私が開くのではなく、、私の中で悟りが開くのです。悟りとは私の中で起こる現象です。私の中で「私」という現象が起こらなくなることが悟りです。私の中で「私」が居ると思っていたらそれが夢だったという気づきが悟りです。

悟りを焦るということは

悟りを焦るということはこの「私」が苦しみから解放されたいという願望があります。それが強すぎると「私」を強化します。強くなりたい強くなりたいと焦るよりも空手練習に染まっちゃった方が早いです。悟りたい悟りたいと強く願うよりも悟りのメッセージに染まっちゃった方が早いです。そしてそこに至る自由意志がないことからそれが起こらないことを引き受けます。積極的な受容です。

あるがまま

悟りのメッセージで最も楽なのがあるがままです、、このあるがままによって後悔というのが起きないんです。なぜ今日悟りの本を読めなかったのか???それが起きただけ、、なぜ今日読破できなかったのか???それが起きただけ。。。起こす自分は存在せず、、本当の自分の中でただ現象だけが起こるのです。進むことも進まないことも全部が全部自分の中で起こるのです。ただそれを受容します。

目標を悟りに置く

無意識とは習慣である

目標が悟り、ノンデュアリティになりましたら、、あとは簡単、、、ひたすらにシャワーのようにメッセージを聞いていきます。地動説に慣れた我々は放っておくと地動説に戻ります。「自我」前提生活は放っておけば自我前提生活に戻ります。ここに新しい価値観を受け込むためにはそのメッセージをシャワーのように浴びる以外にありません。日本語に慣れた人が英語を習得するには浴びる以外にないのです。

気づきの連発

今左手で食べましたよ!!!左利きの人は無意識に左手で箸を使ってしまう、右手に変えるためには徹底的な癖付けが必要になります。これが自我解放のポイントです。本当の世界の事実をとにかく徹底的に学ぶ、聞く、浴びるのです。重要なことは、、分かんなくて当然だということです。自我ベースで生きる我々が悟り、ノンデュアリティをスラスラ分かったらおかしいんです。

本当はそうだよね

自我も、自由意志も方便ですから嘘です。嘘は真実の前ではいつか必ず暴かれます、そして真実に吸収されます。それは分かっているんです、ですから何も恐れずにただ淡々とメッセージに染まっていけばいいのです。メッセージに触れ続けるだけでいいのです。毎日毎日触れ続け、、話せば英語がである、、気づけば真実に在る、、という状態を目指します。

悟り本の大弱点

個人のストーリーベース

悟り本とは、、ある普通の生活をしていた人間が、、、駅のプラットフォームで突然「私が居ない!!!」が起こり、、そこから認識が180度変わってしまった!!!という話がほとんどです。そしてインタビュアーからあらゆる質問を受けて、違うんです!!こういうことなんです、が本丸ごと起こり続ける。全てのやりとりが禅問答化し読んでる方はさっぱり分からないという流れです。

地動説の質問をノンデュアリティという全く異なった真実で返すという苦しさ

「ノンデュアリティへの気づきが起きたあと、あなたの生活はどんな気分なんえすか???」「その私がもはや居ないんです、だから気分を所有する私がいない生活をしています」「??????」「じゃあその気づきが起きた後に困ったことはないんですか???」「困る私が居ないんですよ!!」「?????」となります。これって別に双方に悪意があるのではなく真実を私地動説の中で理解しようとするインタビュアーともう既にそれがない本の作者とのやりとりなんです。

質問者

質問者の大前提には「私地動説」ががっつりとありまたそれ以外の真実を知らないので、、真実の言葉を「私地動説」の延長線上で理解しようとします。ですがその延長線上には真実はないのです。ですから回答は常に「それがない」「それもない」「あれもない」と、、、質問の前提を壊すような回答に終わってしまいます。すると次第に質問者は質問ができなくなるという最後に陥るのです。

比較からの卒業

自我は比較が大好き

自我は比較が大好きです、この商品よりもこっちが好き、このブランドよりもあのブランド、あの地域よりもこの地域、、、思考とは比較検討するのが大得意であり、、自我もその思考の一つです。ですから我々人間社会は常に比較比較比較、、です。ですがこの比較精神は悟りには邪魔になります。私は悟って多くの人よりも上に立とう、称賛を浴びよう、人格者と呼ばれよう。。。となります。つまり悟りすらも比較対象の道具にされるのです。

つまり

つまり悟った暁には、、、この自我は、、人よりも優位に立てると、、自我所有の悟りに貶められるのです。これでは悟りはむしろ苦しみの原因にさえなります。自我が抜け落ち、、一瞥体験が起こった際にその経験を所有する自我が君臨し、また自我ストーリーに戻るということです。悟りとは解放とは目覚めとは自我の解放にも関わらずそれすらも自我に所有されるのです。

個体の錯覚

この世界は空(絶対)の影、投影、蜃気楼です。その中に個別存在など実在するわけがなくそれゆえにこの世界はたった一つのエネルギーです、、ですがこの世界は観念、価値観によって個別する存在が多種多様に現れる世界に見ることができます。なぜか????ここは無限の投影だからです、たった一つのエネルギー(空)無限の投影場所なのです。だから観念によって無限の姿を写すのです。その中で偽りの私は比較検討し無限の世界に判断を下しさらに観念を書き換えてまた異なった無限の投影をしていくのです。ですがそれをしている限りは分離緊張の世界から脱出できないのでそこを見抜く必要があるのです。

ブラックボックス

疑わしきは無視

もしかしたら私が女子会に参加しなければ私が居ないところで友人Aと友人Bが私の悪口を言っているかも、、なんとなく気になるラインが来ている。。。。そのような時どうすることが正解なのでしょうか????多くの場合は探りのラインを入れたりして、、、起こっているかいないかを探ったり、もしくは無理して女子会に参加したり、、、するでしょう。ですがこれらは逆に悪口を現象化させます。友人Aと友人Bが悪口を言っているような雰囲気があるのならばそれを私は絶対に感じているのですから、、そこは関心が行くことで逆に現象化するのです。

このような場合は先ず、、

全ての問題はそこに執着があるか否かが試されます。もしもその友人二人に対して執着があれば間違いなくドラマに引き摺り込まれます、なぜか???自我はドラマに入って存在を維持するからです。ですからこのような場合は、、悪口を言っていそう、、という時点で関係を消去します。つまり自分からは一切連絡を取らない、そして悪口を一切言っていないような雰囲気ならば関係を続けると決めてしまいます。関係を自ら切ってしまうことで執着の糸が先ずは切れました。すると自我はドラマに入れなくなるので、、悪い関係自体を消去するのです。

良い関係だけを続けると決めてしまう

悪い関係でも関係を続けようというのは執着です、、執着は自我の大好物ですからここからドラマがわんさか湧いてくるのです。良い関係ならば継続しようというのは執着ではないので自我はドラマをそこでは作らなくなるのです。こうして全ての問題は執着を手放すトレーニングであると気付くのです。自我にとって一番怖いことは、、全てのドラマが終了し自身がドラマから追い出されることです。そのためには関心を常にドラマの中に向けてもらいたいわけです。

悟ると決めてしまう

関心を悟りのみに向けますと、、最小限のドラマ勧誘で抑えることができます。無意識だった車への執着、無意識だったパートーナーへの執着、、それでも無意識の執着は次々に問題化し、、ドラマの中に自我を引きずり込もうとするでしょうが、、それらは全て執着の膿み出しと決めてしまうのです。そしてバッサバッサと執着を手放していきます。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

読み込みエラー

空は悟りの情報をなぜ読み込みエラーするのか?

自我ドラマがまさに今上映中の中で、、あなたなんていませんよ!!自我なんて嘘ですよ!という内容のメッセージは読み込みエラーされます。スリサスペンス映画の上映途中で友人が話しかけてきてネタバレをしてきたら耳を塞ぎますよね。そうです、、自我はこの苦悩、苦しみ、憤りをまさにこのドラマの中で解消しようと集中していているのです。そのような中で水をさされると、、せっかくの活動がまさに水の泡、、ですから悟り系のメッセージは邪魔なのです。特に今何かを手に入れようとしている状態であれば尚更です。

何かを得ること何者かになることにウンザリした時に

悟り系のメッセージを読み込んでくれる時があるとすれば、、、何者にかなりたい、何かを手に入れるという人生にもうウンザリしている時です。この時であれば悟り系のメッセージ「あなたは居ない」は強烈に魅力的に感じます、何か大きな期待が膨らむのです。もう何かを追いかける人生に懲り懲り、結局何かを得たところで、、、この衝動が湧く時がベストタイミングです。

自然に自然に

もしもまだ悟り系のメッセージを読み込んでくれない、全く頭に入らないのならばそれはまだそにタイミングではないということ。無理してそこに執着するよりもあらゆる経験を積んだ方が楽かもしれません。増せた小学生がどうせ人生なんて頑張っても無駄、最初から悟っちゃった方がコスパいいでしょ!のノリで本を読んでも恐らく頭に入らないでしょう。なぜならばそちらに衝動が向かないから。

完璧なタイミングで

全ては完全完璧(空)の投影ですからこの現象界で起こる全ては完全完璧なタイミングで起こります。ですから今その方向に興味がないのならばそれが完全完璧なのです、そして今その方向に興味があるならばそれも完全完璧です。本当はもう苦しみを終わらせたいのに、、そう思っていたとしてもその思いが今出ていることが完全完璧なのです。