イメージ

ありのままなど誰も見ていない

作り上げたイメージを見ている

言葉とはイメージです、、言葉を覚えるとはイメージを覚えることです。。 イメージですからそこには意味が加わります。。例えば「ロレックス」という言葉を覚える際には「高級、海外、高く売れる、ゴツい」なども意味を加えます、、、そしてロレックスをつけた男性を見る際に、、、人はこのイメージをそこに見ます。ですから、、、人はありのままでは人を見ていないのです、、、そこにイメージを重ねて見るのです。

この「私」もイメージ

この「私」も言葉だから完璧にイメージです、、、このイメージにあらゆる経験が加えられていきレイヤーが何十層にもなっているのがこの「私」というイメージです。。あらゆる経験を重ねた「私」としてのイメージです、、「私」というイメージにとんでもない意味が加えられれば加えられるほどに苦しみは大きくなっていきます。「私」の肥大化は「苦しみ」の肥大化です。なぜか?「私」と思っている「存在」は本当はこんなに小さくないからです。

「存在」は「存在」で居る時に至福になる

存在とは存在そのものであることが完璧な至福です、、存在が「私」というイメージに焦点を当てると、、苦しくなり、、なぜばらば「私」というイメージではないから。存在が存在そのものである状態を無我と呼びます、、つまり「私」というイメージに焦点が当たっていない状態。「私」というのがイメージ過ぎないことを思い出しますと、、存在は「私」への焦点を緩めます、、、この「私」に焦点を当てると苦しいという気づきが起きますと、、焦点が「私」から外れます、、、これが悟りです。

私が他人と会う時

見かけ上の他人

見かけ上の「私」が見かけ上の「他人」と会う時に何をするか、、、その「相手」をあらゆるイメージを当てはめレイヤーを乗せていきます、、、この人は「性格が悪いタイプ」「相手を見た目で選ぶタイプ」「上昇志向タイプ」「お金に細かいタイプ」。。。私が覚えた言葉(イメージ)のどれがこの人に当てはまるかを確認していきます。。。そして5分も話せば、、その相手はその相手そのものではなく、、私の「イメージ」に変わってしまうのです。。これが人間関係です。

それぞれが「イメージ」を作り上げる

あの人は「男」で「収入が普通」で「性格は怒りっぽく」「幼稚」で、、、と全部が全部イメージとなります、、、そしてその「相手」すらもイメージですから、、イメージが何十層ににもなっただけなのです。。結婚とはこのイメージとの約束です、、、結婚し、、「私」というイメージが考える「相手」のイメージとのズレが生じた時に離婚になります。

イメージとイメージの出会い

本当は存在はイメージではないので、、イメージに焦点を当てて居ると苦しみが湧いてきます、、、つまりイメージとイメージの人間関係は疲れるのです、、、「私」というのもイメージでありこの「私」のコミュニケーションは基本疲れるのです、、、、、ですが「私」は同時に孤独な存在でもあり、、疲れるけども人に会わざるをえない存在でもあります。。。ですからどこまでいっても苦しいのです。「私」というのがイメージであることを見抜き、、苦しみの根本を壊す必要があります。

神から愛される?

神と人間

神様が居て人間が居て、、、、これでは神と人間二つの存在がこの世界に誕生してしまいます、、、これは間違い、、、神から、、、「人間」という言葉が生まれ、、人間という「イメージ」が誕生しました、、人間というイメージ、幻想が神の中で現象として生まれたのです。神がこのイメージを愛する、、、違います、、神から「神が人間というイメージを愛するというイメージ」が生まれたのです。。「かみ」も言葉ですからイメージです、、この世界は(これもイメージ)ただ現象だけがある、、、です。

前世はなぜ存在するのか??

イメージの世界での経験が、、記憶された場所がある

この世界には本質しか存在しません、、それ以外は何もない、、ですが、、この本質の世界に言葉が現れることで、、、イメージを本質が出現しました、、本質が作り出した創造物、幻想です、、「わたし」というのもイメージ幻想です、、この私が歩む人生というイメージは本質から確実に創造され、、その私の経験というイメージは、、、本質に回収され記憶されます、、、、この記憶、、、この記憶とリンクした新しい「私」が前世を持つというやはりイメージを作り出したのです。ですから前世もこの本質が作り出したイメージです。

100の前世があろうと、、、

私には100の前世がありました、、、、何回でもいいのですが、、重要なことは、、この前世という本質が作り出したイメージの世界の中は苦しいということです、、、このイメージの世界に私が居るというやはりイメーイを持つと苦しい、、、、ですから釈迦は言った「解脱しかない」と。。。解脱だけが、、、苦しみを終わらせると、、、イメージの世界から出ろと、、、

言葉はイメージ

言葉を覚えることでイメージを共有する

なぜ街をあるけば、、マックがあり、スタバがあり、、吉牛があり、ABCストアがあり、、交差点があり、、信号があり、、車が走り、、、という現象が続くのでしょうか???それは我々がその言葉を覚えたからです。。2、3歳児が生きる世界にはこれらは存在しません、、認識できないのです、、言葉で覚えていないから。。原始人も同じ、、この世界を歩いてもこれらの現象は現れません、、言葉で覚えていないから認識できないのです。視界に入った車を認識するには車という言葉を暗記する必要があるのです、、脳はこれをイメージとして認識に、、このイメージを現象に当てはめることでこれを見ることができます。

言葉を覚えない限り

言葉を全く覚えない、、すると、、2歳児のまま、、この状態で街を歩いても何も認識できない、、車も、横断歩道も、信号も、歩行者も、、、家を出る時に、、パンツも履けない、、靴も履けない、、服も着れない、、となります、、、なぜならばそれらを認識できないからです。。言葉を覚えそれをイメージ化しそのイメージがあるからそれを探し出せるのです。つまり我々は覚えた言葉のイメージを、、この現象界に重ね合わせてそれを「見る」ことができているのです。

だから夢

覚者が言う、、我々は夢を観ている、、というのは本当で、、、この「体」すらもイメージ、、この体の中に「私」がいるもイメージ、、見える世界のイメージを見続けています。この私が居て、私のストーリーがある、、、完全なイメージ、、幻想、、夢です。だからこの世界で私が幸福になる、、というのも完璧なイメージであり、、無理ゲーです、、、、なぜならば幸せになる「私」が実在しないからです。

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

ストーリーの中で頑張って生きる人々

このイメージの世界に居ることに気づかない

このイメージの世界、言葉が作り出したイメージの中に閉じ込められていることに気づいていない人々は、、この世界の中でなんとか生き延びようと必死です、もしくは享楽的にただこの苦しみから逃げようとする、この苦しみを直視することなく、、周囲の人々に合わせまあこんなもんだよと、、迎合する。。ですが本質に目覚めれば分かります、、これはただの苦しみの延命措置です。

苦しいからこそ打算的に生きる

このイメージの世界、ストーリーの世界は基本は苦しい、、ですから多くの方は打算的に生き、、少しでも苦しみの少ない人生を送ろうとします、、絶対的幸福はこの世界には存在せずだからこそ、、苦しさがより少ない人生を歩もうとするのです、、、ですがどんなに苦しみを解消しようとしても、、このストーリー、イメージの中に居るのが苦しいのであって何一つ根本解決にはならないのです。

本質に気づき本質に生きる

本質とはこの現象界そのものです、現象を作り出す存在、、それが我々の本性です、、この体はその一部でしかなく、、この体の中には私はいません、、、全ては本質から一時的に現れた現象でしかなく、、この体は便宜上、、名前が付けられた機能でしかない、、この体、、体以外に便宜上名前がつけられ、、便宜上の私と私以外の世界が誕生しました、、ですがこれは便宜上の話であって、、イメージです。ところがこのイメージの世界にどっぷり浸かりますと、、イメージであることを忘れてしまい、、苦しみの渦に自ら飲み込まれていきます。

本質でしかない

これが言葉によって作り上げられたイメージであることを見抜きますと、、もうこの体を幸福にしなくては、この体をなんとしても安全に生き伸ばさなくては、、常識に従って生きなくては、、の柵が抜け落ちます、、それよりも本質であることを思い出すことに関心が移ります。。この体を安全運行するよりも、、究極の本質であることを思い出すことに関心が移るのです。

ベクトルが横から縦に移る

我々が現実と呼ぶこの人間が生きるストーリーの世界は横軸の世界、、そして本質の世界は縦軸の世界、、この夢はこの本質によって支えられています、、本質から全てが生み出され、、人間というイメージが想像され、、その人間が経験する全てを本質が回収し、、この体が全てを経験しているというストーリーが生み出されました、、想像として。個別活動があるというストーリーは、、個を生き伸ばすには成功しましたが、、苦しみが伴います、、この苦しみを終わらせる活動こそが悟りです。

迷い人

イメージの中は迷い人だけ

この世界がイメージの世界、夢の世界、幻想の世界であることを見抜けていない人は全員が迷い人です、、言葉が作り出したイメージの世界にこの私が居るという認識があるうちは迷い人です、、全員が。大成功者も、人格者も、リア充も、、全員が迷い人です。。。この体の中に居る私が幸福を手に入れるという感覚を持っている人は全員が迷い人です。

状況は一切関係がない

このイメージの世界で、、、何を得ようと、何を獲得しようと、、全く関係なく、、これがイメージであることを見抜けない限り迷い人です。。。このイメージに中には自分が居ないという気づきが起きるまでは完全な迷い人です。。。〇〇太郎という名前がついた個人がイメージであり、、そのイメージの中に実在の自我など存在しません、、自我はイメージです。。。そのイメージが何かを獲得して幸福になるなどあり得ないのです。

イメージが何かを獲得しても一瞬だけ苦しみが消えるだけ

なぜこの人生ゲームの中では目標を達成した瞬間しか、、幸福になれないかと言えば、、実在しないからです。。この私というイメージがありそのイメージが何かを獲得しました、、何かしらのイメージを。その瞬間、、思考が抜け落ち思考が消え失せることで、、一瞬苦しみがなくなります、、それだけです。。本当に個人という存在が居るならば、、幸福が生涯続いてもおかしくない、、、、実在しないからみんながみんな一瞬しか幸福が続かないのです。

ストーリーを求めなくなる

映画が面白くない

本質はしっかりと分かっています、ストーリーはイメージで幻想、、本質はストーリーではないことを、、ですから本質に触れる時間が長くなっていきますとドラマ、映画、などなどストーリーに関心が無くなっていきます、なぜならば本質はストーリーではないから、、、ストーリーとは本質の中で作り出された想像物に過ぎません。本質は今この瞬間のみです。

ストーリーの中での喜怒哀楽に共感できない

ストーリーの中で主人公が喜怒哀楽を経験していく、、ですがこれはイメージの世界、、本質ではない、、本質に触れることが多くなりますと、、ストーリー内の喜怒哀楽に共感できなくなります。なぜならばそこに価値を見出せないから。。そしてストーリー内の喜怒哀楽は大勘違いが巻き起こしていますから、、ただの勘違いに見えてしまう、、、本当は全く深刻に考える必要がないのに、、と冷めてしまうのです。

ストーリーの中で幸福になれない

本当はストーリー内では絶対に幸福になれないことを知ってしまったらもう本気になって映画が観れません、、最初はこのストーリー内で幸福になれるのでは??と思い映画がそのまま学びになっていました、ですが今はそれがないことを知っています、、ハッピーエンドは全部嘘です、、、このストーリーがイメージに過ぎず、、このイメージの中に居る限り苦しみが続くことを今は分かっています。そうなりますと、、、ストーリーを本気で追いかけるなど無理です。

悟りへの最短距離はない

こうしとけばもっと早く悟りに、、、

このような思いを持つ方は多いでしょう、、エックハルトの本をもっと早く読んでいれば、、プンジャジに早く気づいていれば、、、、残念、、、イメージとしてのあなたの行動を決めるのは全部真我、、真我の化学反応によってそれが勝手に巻き起こるだけです、、、ですから悟りへの最短距離などは全くなく、、それを歩める個人も全く居ません、、、個人はあくまでイメージの産物であり、、これがイメージであるという気づきが悟りです。

悟るという言葉もイメージ

「さ・と・る」この音の組み合わせを覚えた方はそれぞれ独自の悟りのイメージを所有します、、、このイメージが実態とはまるで違うことから、、、悟りを難しい場所に追いやります、悟りを遠ざけるのです、、ですから悟りという言葉は、、本当の意味でのそれとは全く関係がない、、という気づきが必要になります、、とはいえ、、この二元の世界では言葉でこれを伝えるしかなく、、、便宜上、この言葉が使われますが、、ただこれは言葉という宿命を背負っていますから、、必ずイメージ化されます、、

言葉が真我をイメージの世界に没入させ

言葉こそがこの世界をイメージ化させた張本人です、、この言葉を使って今度は悟りを開こうとするのですからこれは矛盾をはらんでいます。悟りとは何だ???これを言葉で聞けば聞くほどに、、悟りがイメージ化されていく、、その悪循環に入り込み、多くの方は断念します。。。。ですがこの矛盾をはらんだ悟りに、、それでも気づく真我の存在があった時にそれは起きます。。。言葉で悟りを理解するという矛盾をも乗り越えた時に、、悟りは起きます。