悟り

悟りとは二元世界究極の遊び

悟りとは二元世界のカラクリを見抜く究極の遊び

悟りは遊びです、そもそも非二元でしかないこの世界に二元の世界を作り出し人間はこの二元世界の中で生きてきました。人間というこの独自の存在も幻想、そして人間がみるこの分離世界もまた幻想です。幻想が幻想を体験するという完全なファンタジーこれがこの二元世界の特徴です。この究極の遊びの終わりが悟りになります。悟りとはこの二元世界の謎解き、ネタバラシ、解明になります。名探偵コナンもそうですがこの最後の謎解きこそがクライマックス、最も盛り上がるエンタメになります。

この二元世界にはヒントがたくさん

なぜか我々はこの二元世界にどっぷりと浸かりながらも悟りという言葉を昔から知っています。悟りとは何かは何も分かっていませんが「悟り」という言葉自体は知っている、、、意味不明です。人間の本質のどこかが悟りがゴールであることを知っているからです。悟りなど自分の人生とは何も関係がないと思いつつもこの言葉が周知の事実になっていることこそが人間の面白いところです。

自我は悟りへの興味を拒絶する

私もそうでしたがこの「悟り」というジャンルだけは自我がなかなか興味を示してくれませんでした。それもそのはず悟りとは自我の終焉だからです。他のことならなんでも興味を持つ自我が悟りだけは御免蒙るとなるわけです。無我の状態になると悟りの本質を垣間見れるので私はこの悟りへの興味を絶やすことなく続けることができました。

分離の錯覚の終焉

分離した世界を結合させていく

世の中で名前を覚えていきますと分離が進んでいきます。あらゆる種類の花の名前を覚えれば覚えるほどに花畑に行けばあらゆる花が存在することに気づきます。これは分離が進んでいることになります。例えばサーファーは波の形に対して名前をつけることで海に行くと専門用語のよう今日の波を解説しています。サーファーには波が波ではなくより具体的な名称を伴う波なのです。サーファーには波はもうそのように見えてしまうのです。これが分離が進んでいく傾向です。ですが世の中には分離してしまった宇宙現象を再び結びつける情報があります。例えば波は海が形を変えてそう見えるだけ、、この情報を得ますと波が海に見えてきます。波という分離した存在が無くなってしまいます。抽象度をあげる、高い視点から見る視点を覚えると途端に情報量が少なくなるのです。

起業するために、、、

例えば起業するために起業ハンドブックを読めばあらゆる情報があります。もしもこれらを暗記していったら頭はパンクしてしまうでしょう。ですが起業のプロが現れ、、、要は起業とは、、自身のサービスをより多くの人に知ってもらいサービスを受けてもらうことなのだと解決が入ると、、、意識を向ける方向がそこだけに集約されます。プロのドライバーは運転のコツを掴み少ない情報量だけで卒なく運転しますが、初心者は何が重要な情報か分からないので目線を左右前後に忙しくなるのです。かといってプロのドライバーが周囲を見ていないわけではありません。意識の向けるポイントは少ないだけです。このように完全分離した世界を改めて融合させていくそんな情報の先に悟りはあります。というよりも究極の融合こそが悟りです。つまり分離は何もないということに気づくことです。

分離が悪いわけではない

分離意識全開で生きている人は苦労が絶えなくはなります。見てる世界に活気は一切なく、生気もない、、人生終わっているがデフォルトです。ですがその状況すらも悪くないのです、それも分離ゲームの醍醐味なのです。その分離状態がなければ融合されてその中に生気が取り戻されていく感覚を楽しめないのです。これがしたくて神はこの世を作ったのですから。分離は苦しくなる、融合は楽になる、、、その最終融合が悟りです。全ては実は一つのエネルギーだったという気づきです。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

色即是空、空即是色

先ずは空の理解が起きる

先ずは空の理解が起きます。普通に生きている我々は空の存在など、本当の自分の存在など全く興味なく生きています。目にする全てが新しく、目にする全てが輝いている、、この色の世界でただできる限り楽しく生きることだけを考えて生きていくようになります。ですが途中でどうも雲行きが怪しい、、どうも苦しいことが多い、、、こんな人生を今後も生きていき何か意味があるのだろうか?そのような疑問を持ち始める人が現れます。そしてその人はいつの日か実はこの世は幻想で(色)本当は空が本物であるという悟りに入るのです。

次に色の世界の再確認

この世は実は空の現れに過ぎない、、この気づきを得た人は、、実は私の存在すらも幻想で私が居るように感じているだけだという悟りを開きます。実は私も私以外もあった一つのエネルギーでできていて、ただ在るだけ。この気づきが起きます。ですがたった一つのエネルギーの様々な表現があるだけという世界は虚無でもあるわけです。ではこの私と感じるこの体、思考、感情は一体これから何をするのか?という話です。

空からの衝動

そこは心配はご無用です、私の本質を本当に理解し始めますと、、元私のもとに全体、本当の私からの衝動が起こるようになってきます。興味は湧くテーマが次々に湧いてきます、そしてそれをやるための恐怖心というのが全く湧いてこないのです。ただやりたいだけ、だからやろうが延々と続きます。自己超越状態の行動だけが続くのです。そこには駆け引きも腹のさぐり合いも無い、、ただ本当の自分からの衝動だけがあります。そしてそれを実行に移すとき、色の世界のこれまでの知識が非常に役に立つ、まるで王に使える最強の戦士のように思考がフル回転するのです。

悟った状態が人間のデフォルト

そもそも悟っていた

人間は悟った状態で生まれてきています。生まれてきて直ぐに自分を形成している赤ちゃんはいません、つまり悟っているということです。悟りが閉じている状態とは自我と大いなる一つが同一化している状態もことです。この状態でないとき同一化がされていませんから悟っているのです。赤ちゃんとは悟っているのです。ですが問題が起こりました、、、育てている親が悟りが閉じているのです。そうです、思考との同一化を起こしている存在が両親なのです。ということで赤ちゃんは徐々に思考と同一化していき悟りを閉じます。

悟りを閉じて苦しみの人生が始まる

我々は悟りを開いた状態で生まれてきて悟りを徐々に閉じていきます。思考との同一化が完璧になると悟りが閉じ切ります。この状態はこの体にとっては絶対王政時代です、どんな手を使ってもこの体の存続を維持しようと思考がフル回転します。ですが非常に苦しい、悟りが閉じ窒息状態です、思考を自分としその思考をフル回転されせればさせるほどに苦しい、窒息しそうになります。それでも生き延びたい、、、

苦しみフルマックス

悟りを閉じて、苦しいからとさらに閉じてを繰り返しているうちに苦しさがフルマックスになっていきます。こんな人生ならばもう生きていなくていい、、、急にこの人生を俯瞰する存在が登場します。ここまで苦しいならもう辞めちゃえば?大いなる存在と自我との同一化に日々が生じ始めます。共産主義が内部崩壊するように、、この自我と大いなる一つの共存も内部崩壊が生まれてきます。そこからが悟りを開くことへの意識転換です。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

なぜ我々はこの「体、思考、感情」のみを自分として生きていかなくてはいけないのか?

人間の相互洗脳

人間は長い歴史の中でこの体、思考、感情を「自分」と決めて生きてきました。生まれてきた子供にこれを教え伝え当たり前のこととしてこれを伝承してきました。ですがこの取り決めを継承し続ける限り人間の苦しみを解消することはできません。人間はどこまで行っても苦しみ、孤独、退屈、不足感を携えて生きていくことになります。この体、思考、感情を自分とする決め事を解放してしまうことを悟りと称しますがこれも一種のひっかけ問題で悟りというとんでもない難しいこと、チャレンジとすることでこれを不可能にする自我の策略が垣間見えます。

これは全く難しいことではない、、

この体、思考、感情を「自分」としそれ以外を「自分以外」とする人間としての共通認識はそれが当たり前過ぎて誰もこれを疑いません。ですがこの共通認識を受け入れている限り、苦しみから解放されることは絶対にありません。それでも人間続けますか?という話です。苦しみから絶対に解放されないことが分かっていて人生を延々と続けていけるとしたら完全なるマゾです。私は絶対に嫌です、そんな分かり切っている人生を歩むのは。この体、思考、感情を「自分」とするのは個人の自由でありそれをしないと決めて生きていってもいいわけです。

誰も至福に至れないこの人間同士の取り決めは辞めていい

この体、思考、感情を「自分」とする取り決めで国家は成立し、法律も成立し、全ては動いていますから突然それは勘違いであるというメッセージが共有されても迷惑千万、意味不明です。ですからこれは個人的にこれを理解すればいいだけの話です。あまりにも当たり前の大前提、この体、思考、感情を「自分」とすることで人間は苦しみから延々と解放されない宿命を抱えています。もしもそこから脱却したいならばこのトリックを見破ることです。

極端な価値観は映画に没入している証拠

人は全員信用できない

主人公がとんでもない悲惨な事故に巻き込まれたとき、その人はとんでもない経験からのとんでもない価値観を構築します。人は絶対に信用できない、、という信念、観念です。この価値観が強固に構築されますとそれを通した映画が上映され、、その人の周りには確かに信用できない人が多くなっていきます、街を歩けば信用できなそうな人がやたらと目につくようになります。その人の価値観がそのような風貌な人を探し当て見つけるのです。こうしてその人の人生は必然的にそのような信用できないような人々に囲まれるようになり屈折した人生を生きるようになります。

価値観に優劣はないが没入具合は人それぞれ

そもそもその人は被害者にも関わらずなぜさらに歪んだ価値観を刻み込み、歪んだ人生を歩まなくてはならないのか?不公平だ、、、これを気持ちがよく理解できます。ですがこの映画の目的とは最終的にこれが映画であることを見抜くことだとすれば、、、ハッピー映画を延々と観るよりも悲惨な映画を観る方が気づきが早いのは事実です。そういう意味では全ては完璧に平等です。ハッピーほのぼの映画よりもミッションインポッシブルのような敵しか登場しないような映画の方が、、これは映画だと見抜けるかもしれません。

その人がどのような価値観でどのような映画を生きているかを観察する

人間関係すらも目覚めのチャンスです。出会う人がどのような価値観でどのような映画を観ているのかそれを観察します。全てを観察対象にしてしまうのです、そうすれば人間関係に集中しそこから無我に入れます、そこから悟りへの入り口になります。その人がどこまでこの映画を映画と見抜けずに生きているか、もしも見抜けるチャンスがあるとすればどんな言葉がいいか?全てが無心、無我へ入り込むチャンスです。映画に入り込みすぎて自分の映画のことしか話さない人、映画に飽き飽きし早くこの映画を卒業したい人、、あらゆる人がこの私の映画には登場します。

眠るに入るから目覚めがある

思考との同一化は眠りに入ること

目覚め体験、覚醒体験、気づきの一瞥、、、、悟りを開く時にこの言葉を使うということからも我々は通常眠っている状態に似ています。起きているのに眠っている???意味がわかりません。要はこういうことです、気づきの意識、目覚めの意識がこの思考と一体化、同一化している状態は役に入り込んでしまった役者のように本来の自分を忘れてしまっている状態なのです。起きているけど、、寝て夢を見ているような状態なのです。夢を見ていることを気づいている気づきの意識はハッキリとありますがハッキリと寝ている状態なのです。ですからこの同一化に気づくということは目覚めると表現するのです。

目から鱗が落ちる

目から鱗が落ちるって全く自分では予期できません。いつのまにか勝手にそれが起きます。これと目覚めは全く一緒、夢を見ている時にこれって夢ではないか?という急激な気づきが起きます。この目覚めを誘発する行為こそが無我に入ることです。全作業、全行為に対して集中してことにあたることでいつでもどこでも無我に入る癖を付けていきます。これは起きている状態を最初に経験してしまう方法です。起きている、目覚めた状態が分からなければそこに意識的に入ることができません。思考の雑音に関しても意識的になることです、思考の雑音を意識して観察することで雑音が無くなります。この状態が無我です。これを毎日意識的に行うことで眠った状態で目覚めた状態を日々疑似体験できるようになります。

昔の覚者が山に篭ってそれを成し遂げた理由

昔は悟りを開くというと山に篭ってというのが通説でした、、、人間は俗世間に居るとどうしても情報に溢れ人間関係に縛られ思考のフル回転を制御できなくなります。それを避けるために意識的に人を避け、無我に入りに行ったのだと思います。今の世の中でそんなことをすれば社会復帰するのもままならなくなってしまいますから先ずは全行為に集中する、思考の雑音に意識的になる、、、これらから無我体験をするのがいいかと思います。毎日無我体験をしていると無我が強烈に目覚めたくなっていき自我を叩き起こします。

思考は思考に力があると信じ込ませたい

引き寄せの法則の罠

一時期引き寄せの法則というのがスピ界でかなり流行りました。あれは何か?私からすれば思考の悪あがきです、思考にはそれだけの力があるということの証明をしかたかったということです、思考が。実際には思考がこの世界を作り出すというのは間違いではなく価値観がそのままこの世界を作り出します。思考は確かに影響力があり我が人生に影響を与えることに違いはありません。ですが問題は思考でいかに引き寄せたような感覚を得ようとそれで幸福になることはないということです。つまり人間がどれほど富や名声、人気を得ようともそれと幸福とは何も関係がないという点が抜け落ちているのです。

思考には力はある

思考には力があります、それは間違いありません。どのような思考を持つかは今見ている世界を変幻自在に変えていきます、それは事実です。ですがそれと人間の幸福とは何も関係がないという点が重要になってきます。自分というものが得れる幸福は全て一瞬のものであり時間の条件がついて回ります、要は一瞬の快楽を出れないということです。快楽を得るという意味で思考は確かに力はありますがあくまでそのレベルの話なのです。一瞬の快楽というレベルであれば思考は力があると言っていいでしょう。ですが一瞬の快楽など意味がないと思う方にとっては無意味です。

思考を手放すには思考の限界を早く知る

私は就職して思考の限界を痛感しました。社会的ホワイト組織、有名組織に就職が決まり大満足が待っていると思っていたらストレスしかない生活が始まりました。思考が提案していたアイデアは何も信用ができない、、絶望を早い時期で味わったのを覚えています。それからは思考の言うことに全く信用を持てなくなりそこに答えがないことを悟りました。どちらかといえば感情は正直です、感情を信頼する方が苦しみが少ないことを知りました。