悟り

人に関心が高いのは悟りが閉じている証拠

人に関心を持つのが難しくなる

あなたの目の前に映る人々は全自動で動いています。根源からの動きがそのままあなたの前で行われているだけです。その体の中に確実に居るであろう魂のような存在は目に見えないのですから絶対に居ないのです。もしもあなたが認識できない世界があるのならば目の前のそれは完璧では無くなってしまいます。ということで自分が認識できないことを色々想像するのは辞めましょう、やってもいいのですが全く意味がありません。なぜならば事実としては存在しないに決まっているからです。

この人は家ではこんな感じであんな感じで

TVで犯罪者が警官に連れられて車に行くのを見たことがある人は多いでしょう。多くの人はその光景を見てこの人はなぜやってしまったのか?どんな家庭環境で悲惨な目にあっていたのか、、、と推測したりします。ですが事実をお伝えするとそんなものはありません、あなたが見ている世界以外に世界は存在しえないからです。ですからその犯罪者の幼少期は絶対に存在しないのです、悲惨な家庭環境も皆無です。ですがもしもあなたが彼につて調べればあらゆる情報が手に入るでしょう、そうしたらその情報だけが浮かび上がったというだけです。それ以上も以下もありません。

今目の前で起きている事実以外に関心を持たない

今目の前に起きている事象だけが全てであってそれ以外は絶対にない、、、この事実を先ずは理解しましょう。病弱な両親も、子供も、今目の前に居ないのならばこの世には存在しないのです、もしもあなたの目の前以外に存在するならばこの根源は完璧ではなくなってしまいます。ということであなたの世界で心配しなくてはいけない人は居ません、もしも目の前で苦しいでいるように見えるならば救ってあげればいいのです。

地球の裏側の戦争難民は

地球の裏側では戦争難民が溢れ、、、という情報を見てこれは大変だ、、、寄付をしなくては、、、と心配する人が居ます。ですがもしもあなたの目の前にその難民が居ないのならば事実としてはこの世には居ません。もしも居るならば目の前の現実(完璧)は完璧ではなくってしまいます。目の前に全部あるから覚者は悟り全体に気づくのです。全体は目の前で全体だからこそ全体なのです。地球の裏側が存在するならば目の前の全体が全体では無くなってしまいます。

理論としては簡単

自分もあなたも全部ラベルだけ、ラベルが剥がれれば全体だけが残る

理屈はこれだけです、悟りは超シンプルな理論なのです。名前がついていた物など何も無かった、自分もあなたも、コップも、机も、、、ただそれだけ、、この目の前に在る全体だけがあった。音を聞く自分も、話をする自分も、生活する自分も居なかったというこれだけです。これをどんなに頭に入れても我々はこれを実感できません、これが悟りの難しさなのです。話しかけられれば一瞬で自分が戻ります、スーパーのレジでもお釣りを渡される瞬間に自分を思い出します。悪口を言われてしまえばその瞬間に自分を思い出します。こうして我々は自分から縛られ続けて死にます。

自分が居ないという事実をどこまで実感するか

例えばAさんという友人から悪口を言われた時、事実ではAさんという存在は居なく、言われた自分も事実としては絶対に居ないのです。悪口という言葉が在ったという事実しかないのです。これをどこまで実感として感じれるかが鍵になります。Aさんと呼ばれる人の体の中にはAさんは絶対に居ないのです、居るというのは居るはずだという思考が土台になっています、Aさんとの会話はAさんが実在するはずだという思考が湧いただけということになります、そしてそれを聞く「自分」も間違いなく実在せず「自分が居るはずだ」という思考が湧いたという事実しかありません。

自分が居るはずだという思考とあなたも居るはずだという思考がただ湧いただけ

自分と友人が会話をするためには自分が居るはずだとAさんも居るはずだという二つの思考が湧く必要があります。これを我々は毎日行なっています。自分も居るし、自分に話かかけるAさんも居るはずだ、、がエンドレスに湧き続ける。逆にいえば湧き続けなければ会話が成り立たないのです。事実としては自分もAさんも居ないのですから、ということでこのストーリーに埋没し続けるには思考の湧き続けが絶対に必要になります。これが事実です。

五感が開く、現実が開く、悟りが開く

五感とは

我々はどこまでいっても現実に対し受け身です。目を開けば視界が入ってきます、匂いが鼻の中に入ってきます、音も耳に入ってきます、感触が手を通じて入ってきます、、、この現実を知るには我々は五感を通じて入れるしかない、、受け身に徹しています。現実とは根源です、この現実を堪能するには五感が開いていなければならないのです、五感が閉じていれば現実(根源)が入ってきませんから重苦しくなっていきます。睡眠不足の時のあの不快感とは五感を通じて現実(根源)が入ってこないからです。

五感を開くことを優先する

外でスポーツをすると爽快なのは五感が開くからです。五感が開く、現実が入ってくる、、根元(至福)に触れるです。サーフィンや登山など自然の中でのスポーツが病みつきになるのはこのためです。思考に触れると思考と仲良くなってしまい、、より思考が溢れてきます。これは空想の世界、ファンタジーの世界、喜怒哀楽の世界です。苦しい世界です。五感が開き現実に触れると、、現実が押し寄せてきます、現実とは根源であり触れれば触れるほどに根源が押し寄せてくるのです。根源とは=至福です。

五感を開けば思考が閉じる悟りが開く

五感を開くとは五感を鋭敏にしていくこと、そのためには自然に触れる、体を動かすことは役に立ちます。自然とは悟りそのもの、このエネルギーに触れると五感が強制的に開いていきます。あとは体を動かすこと、体を動かすとエネルギーが循環し五感が開いていきます。五感が開くと現実、根源が入り込んできますから自然と思考が湧かなくなっていきます。ファンタジーの世界が閉じ、現実(至福)の世界が開いていきます。思考が閉じ、悟り(現実)が開きます。

あの人は影で悪口を言っているのでは???

ここが完璧な場所

人間関係の苦しみとは、、実は影で悪口を言われているかも、、本当のところ嫌われているのでは??そんなとこりでしょう。ですが実際には影でとか私が居ないところで、、というのは100%ないのです。どういうことか、、、我々の目の前には完璧な事実が横たわっています、この完璧な事実とは裏が無いということです。私が知らない場所があるのならばそれは完璧ではない。私が認識していない世界などこの世に一切ないのです。つまり今目の前に広がっている世界以外に世界は100%ないのです。「私」が居ない場所での人間関係を一切気にしなくていいのはそんな場所はないからです。あったら完璧ではなくなってしまいます。

不穏な空気ならば

もしも友人が自身の前で不穏な空気を醸し出したならばそれは事実です。不穏な空気を醸し出したという事実は確実にあります、そうならばその時に相手にその理由を聞けばいいのです。間違っても影で悪口を言っているのでは???などの想像は禁物です。なぜならばそんな現場は存在しないのです。常に目の前だけが完璧な場所、完璧な場所以外に場所はないのです、だから目の前が完璧なのです。

目の前の事実に真面目に取り組む

根元は今目の前に横たわっていますから目の前の事実に大真面目に取り組むと五感が開き悟りが開きます。つまり根元に深く触れることができます。大真面目に取り組めない現実が横たわっているならば視界を変えてしまえばいい、常に大真面目に取り組める視界を求めていけば安泰です。目の前の友人の話に集中できないならば直ぐに逃げてしまえばいい、集中できないということは五感を開けない、結果悟りが閉じていきます。根源、全体に触れれなくなり雑念が湧き出しファンタジーに取り込まれ苦しくなります。

非二元では混乱する

主体客体

非二元という言葉は分かりやすいようで分かりにくい、、、主体客体の世界、、要は生命現象の中に別々の存在があると信じるか、ないと悟かの話なのです。そうです我々は生命現象に名前を付けるまでは主体客体、「私とあなた」「俺とお前」など一切ない世界に居たのです。これがノンデュアリティー、非二元、悟りです。恐ろしく単純な話です。悟りとはもともと名前がなかったたった一つの世界が広がっているだけ、、に気づくことなのです。

幼児はみんな知っている

名前を覚える前の子供は全員知っています、というか悟りの中にいます、というか悟りしかありません。なぜならば名前がない世界に居るのですから、そしてそこには自分が居るという発想もないのです。これが悟りです。こんな簡単なことなのか???そうです悟りとはこんな簡単なことなのです。悟りを難しく「考える」のは難しく考えないと簡単に見つかってしまうからです。

悟り、覚醒、一瞥体験、覚者

スピリチュアル用語では様々な言葉が使用されますがこれらは全部事実を逆に難しくするのです。こういった言葉を使うことで思考は悟りをどこか遠くの場所に押し込めようとするのです。幼児は全員が悟っていて全く難しいことではない、難しい言葉を覚えて悟りを奥深くに押し込んできただけです。そもそも名前のない世界に生まれた我々はいつでも元の世界に帰れるに決まっています、名前を思い出す前の一瞬は常に根元悟りが広がっておりその事実に触れるかだけです。思考が湧いてきたらそれによってドラマに入っていることを思い出すのです。この繰り返しで人は悟りに戻ります。

経験からしか気づきを得れない理由

実は悟っている

我々は最初から悟っているんですよ、、、スピ系の書籍にはこの言葉たまに登場します。これは事実で我々は景色を眺める瞬間実は何も名前がない世界を一瞬垣間見ます。名前が全く発動しない瞬間があります、これが悟りです。目の前には名前が一切付けられていない根源がそこに在るのです、毎瞬、毎瞬、、実はこの根源を我々は眺めています。ですが次の瞬間には名前がある世界に引き戻されるわけです。五感は毎瞬、毎瞬この根源悟りに触れているわけです。

経験するとは五感のこと

考えていても悩んでいても気づきを得れないのはその行為に五感が関与していないからです。五感がなければ根源に触れることができないのです、根源は五感でしか触れることができません。なぜならば五感は常に根源に触れることができる武器だからです。もしくは五感が無ければ根元は存在できないとも言えます。dont think ,feelこれはブルースリーの言葉ですが根元、悟りは感じるものなのです。

悟りなど大袈裟なものではない

我々人類は悟りをどこか遠い遠い場所にある未知の世界の場所に存在するものだと想像しました、ですがこれも思考の策略、この名前ドラマに閉じこもっているための仕掛けでしかありません。なぜ悟りを恐ろしく遠い場所、究極の境地にしたかと言えばそれだけ実は近い場所にあり誰でもこれは発見できてしまうからです。だからこそ遠い遠い場所にあると思い込ませたのです。実は我々は毎瞬悟りに触れています、そのことに自覚的になるだけです。

この世界が苦しい、、当たり前

苦しみも、悲しみも、何もない世界

なぜ人は悟りに興味があるのか???それは当たり前の話です、生命現象に名前さえ付けなければ人はその瞬間から至福の境地に戻るのです。全生命現象に苦しみなどありません、人間が勝手に名前を付け自分も作り出した時に初めて孤独、苦しみ、悲しみ、恐怖が生まれたのです。自分というこの世から完全独立した存在を思考の中で作り出したときに人間は苦しみを開発したのです。人間の脳が苦しみを発明したと言っていいでしょう。本当はただ生命現象が変わり続けるのみでそこには苦しみなど皆無なのです。

名前など一切ない世界に苦しみは存在しない

人間はこの体に名前を付けてしまったがゆえに自分がバカにされた自分が褒められた、自分が虐げられたという想像をするようになりました。事実はこの自分など存在しませんから自分が虐げられたなど空想の世界丸出しです、そして虐げられたと言って涙まで流すのです。思考にはそれほどの力があるわけですが事実は何も起こっていません。虐げる個人は存在せず虐げられる個人も存在しない、、これが事実です。

ユートピアなど大嘘

我々人類はどこか遠くにはユートピアのような平和な世界が在るのではないかと期待をしますが、、こんな滑稽な話はないのです。なぜならば今広がる世界には争いはそもそも全く起きていないのです、人間が勝手に名前を付けて争っているかのように見ているだけなのです。こんな自作自演はありません、本当に間抜けなことを人間はしているのです。この世から名前を無くしてみてください、襲われる個別生命体は存在せず襲う個別生命体は存在しないのです。ただ変化だけが起きています。

今ここで悟りを開く

今この場所が爽快

爽快であるのに条件が必要ならばそれは私というストーリーの中にい住んでいます。幸福であるのに条件が必要ならば私というストーリーの中に住んでいます。我々の本質は爽快そのものですから爽快であるために条件など全くいらないのです。覚者と呼ばれる人々が穏やかそうに見えるのはそれは本質が穏やかそのものだからです。自分を手放した覚者とは穏やかそのものにシフトした状態、もはや人間ではありません。人間という器を通じて全体が語りかけているだけです。

開く自己がいない

悟りを開くという言葉は人間が覚醒するイメージがありますがこれは間違い、体に住んでいるはずの自分は実はいなかった、自分が居るという思考が湧いてこない状態を言います。人間の体を通じて自分が居るという思考が湧いていなのがその思考がもはや湧いてこない、、この状態が悟りです。悟りを開く自己はいなかったという気づきが湧くことです。

嬉しい、楽しい、幸せを掴む自己がいない

嬉しを感じるのに自分は必要ありません、楽しいを感じるのに自分は必要ありません、幸せを感じるのに自分は必要ありません。ただその感情が湧くだけで何も問題はない、、、ところが嬉しい、楽しい、幸せを感じる自分が居るという思考が湧いてくる、、、感情を所有する自分が居るという思考が湧き続けます。これが苦しみを湧かせます。この嬉しい、楽しい、幸せを永遠に感じたいという思考が湧くのです。これで苦しくなるのです。なぜならばそんな自分は居ないからです。自分とは事実ではなく空想だからです。空想に顔を埋めると苦しくなるのです。水に顔を埋めると苦しくなるように空想に顔を埋めると苦しくなるのです。苦しいという完璧な感情が湧いてくるのです。ではどうしたらいいか?空想という場所に顔を埋めるのを辞めることです。

「悟り」と「自分」の綱引きに勝つ

五感全開で悟り、自分への呼び戻しを見抜く

悟りを学んでいきますと徐々に思考の仕組み、自分の仕組みが分かってきて五感中心、事実中心、根源中心の生活にシフトしていきます。思考のサイクル、悩みのサイクルが理解できてきますと悩み続けるということが逆にできなくなります。なえならばその思考こそが苦しさを生み出していることが腹落ちできるからです。するといつも爽快、いつも軽快という覚醒状態になっていきます。ところがこの状態は周囲からの評価も高いのでここでこの評価は「自分」が得たという思考が再登場してきます。この流れで多くの人はまた思考に振り回されていきます。

悟りが開きかけた時思考が大量流入してくる

この自分ゲーム最大の山場は悟りが開きかけたその瞬間、思考が大量流出して「自分が居る」を維持しようとする場面です。映画マトリックスでもネオが覚醒する瞬間までエージェントスミスが大量投入されてきます。覚醒を阻もうとエージェントスミスが大抵抗を続けるのです。この大抵抗こそが思考の大量投入、「自分」は凄い、「自分」はもっと評価されるべき、「自分」はついに悟りを開くぞ、、、です。気を抜いている間に「自分が居る」という最強の思考が湧いてきます。

爽快な状態に周囲は評価で「自分」を思い出させようとする

自我が薄れ爽快な状態が湧いてきますと、、この体に向かって周囲は最大限の評価を送ってきます。あなたはなんて素敵な人なのだろう、あなたの近くに居たい、あなたからその方法を教えて欲しい、という連打を浴びせてくるのです。これによってこの体は再び自分を思い出し自分への評価に酔いしれるという思考に取り込まれていきます。自分は評価されるなーという一瞬の酔いが覚めますとまた苦しみの人生が続くのです。これが思考(エージェントスミス)の悟り阻止メソッドです。

エージェントスミスの手の内を掴む

エージェントスミスの目的は、、、「自分が居る」を維持することそれだけです。これが目的ですからそのためにあらゆる思考が湧いてきます、例えばあいつはお前の悪口を影で言っているのでは?友人Aはお前を騙そうとしているかもよ、周囲から評価されているお前はいつか叩き落とされるかもよ、、、と、、するとそれは困る、それは腹立たしい、それはムカつく、、、という思考が再び湧いてきて、、、自分が再浮上するのです。まさか湧いてくる思考がエージェントスミスだったとは、、、、これは見抜けない。ただこれもエージェントスミスの手の内が最初から分かっていればスルーできます、思考が湧いたらバッサバッサと切り倒せばいいのです。

外に居るだけで五感が開き悟りが開く

五感をフル稼働させるだけ

そんな簡単な方法で????そうです人は五感が開けば悟りが開きます。悟りが開くとは五感が開くことなのです。めちゃくちゃ美味しいケーキを食るその瞬間、悩むことは不可能です。素晴らしい映画を観ながら悩むことは不可能です。五感をフル稼働しながら不幸になることができないのです。ということは自然に触れて五感をフル稼働すれば不幸になれない体になるということです。感じれば感じるほどに思考から離れてしまうのです。大切なことはこの事実を知っておくことです、五感全開、悟り全開の状態を覚えた思考はこの功績を自分のものにし自分を評価されたいという思考を湧かせこれに争います。

悟りが開いた「自分」をみろ

五感全開は悟り全開であり、、この状態は覚醒状態です。この覚醒状態をキープしよう、評価されたい、目立ちたい、人に教えたいという思考が湧いてくると覚醒状態が終わります。思考の波に襲われるからです。こんな覚醒した「自分」は評価に値すると思考するからです。これが思考の罠です。この思考を無視してさらに五感を開いていきますと悟りが開いてきます。五感がこの事実をより深く感じていくからです。

悟りを開いた「自分」を殺す

五感フル稼働状態は悟りフル稼働状態ですが、、この状態は周囲からの反応も良いのでこの状態を「自分」が独り占めしようとします。この状態すらも「自分」は所有しようとすることで自分を維持しようとします。覚醒を所有する自分が居るという思考が湧いてきてこの思考を維持しようとします。ここを見抜きます、思考の最終サバイバル術です。五感がフル稼働し思考が薄まったからこそ覚醒しているということが腹落ちしますともう「自分」という思考へのしがみつきも薄れていきます。