悟り

覚者の書籍が読めるようになる

自我の抵抗の終わり

悟り系の書籍は、、、興味があってもなかなか読めない、、、こんな時期は私には長い期間ありました、、、これだけ悟りに興味があるにも関わらずです、、、、それがあることがきっかけでいきなり読めるように、、、それが糖質制限です、、、炭水化物、糖質を一切取らない生活をしてみましたら、、、急に気分が落ち着き、、、書籍が読めるようになったのです。マトリックスのNEOが選んだカプセル、、、こっちを選べば今までの生活が、、こっちを選べば新しい世界が待っている、、、、私にとって糖質は今までの生活を続けるカプセルだった気がします、、、

馴染むように体に染み込む

それからというもの、、覚者のメッセージが、、、馴染むように体に染み渡るようになりました。。。。そして書籍を読むと自動書記のように私自身もこのメッセージを伝えたくなりました、、、現在のこのブログはそのように書いています、、、、覚者の言葉が呼水になって自身の中から湧き出してくるのです。。。。書かずにはいられない、、そんな気分です。

書けば書くほどに静寂に、、、

このブログを書いていて様々な不思議な体験が増えていきます、、、先ず静寂に常に在るということ、そして外に出ると輝いているのです、太陽の光が、、、、さらに気温が心地よいという感覚を超え、、感じたことがない体感があるのです、、、為すべきことはなにもない、、、この不思議な感覚が腹落ちした時に、、これらの感覚が気づくと湧いていました。

神羅万象への信頼

今もこうして生きている

神羅万象への信頼、、今こして私が生きているのは神羅万象が生かしたのです、、私は今年で45になりますが、、、神羅万象が生かしてきました、、、、この事実、、、これは神羅万象への信頼になります、、、二十年前から悟りに興味を持ちましたが、、、これも神羅万象の現れです、、、、そこから二十年間ここへの興味が失せることはありませんでした、、そこも神羅万象への信頼になります。。。

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れ

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れです、、、全部個人的なものであると孤独に感じていましたが、、、そんなことは全くなかった、、、全部神羅万象の現れだったのです、、、、、これは癒されます。。。。そして肩の荷が降りていきます、、、、ただ葛藤が起こっていたんだなーという癒しが起きます、、、、なぜこんなことを悩むのか???他人はこんなこと悩んでいないのでは?????違います。。、、全部神羅万象から起きたのです。

それでも神羅万象の動きは止まらない

神羅万象の動きが止まることはありません、、、ですがそれを感じている自分(気づきの意識)は本当に静寂にこれを感じています、、こんな静寂が本当にあったんだなーと、、、本当に懐かしい感覚、、、でも感覚はいつもここにあった、、、ただ隠れていただけ自分から、、、光は暖かく、、音は静寂に、、、食事は美味しい、、、神羅万象の動きはあってもそこは変わらない、、、、

人間活動とは悟りへの抵抗

人間活動が悟りを遠ざける

今目の前に悟りがあります、、、今目の前に究極のリアリティがあります、、、今目の前に真我、、、神羅万象があります、、、、これを遠ざけるのが人間活動です。。。個としての自分が、、、、活動をする。。。。この分離の世界で、、、、これで。。真理は見えなくなります、、、真我が隠れます、、、、神羅万象が物質世界に変化します、、、、だから苦しい、、、、結果人間活動が加速されます、、、もっとこうすれば、、もっとこうなれば、、、もっとこうしてみれば、、、、が続きます。

個人は真我を見つけることができない

個人はこの真我を発見できません、、、なぜならば、、、個人という存在が真我を隠しているからです。。。。個人が実は、、、後天的に付けられた名前に過ぎないこと、、、にも関わらず本当に自分が居ると信じ切っていること。。。。この摩訶不思議な事実を覆い隠し、、、みんなそこには一切触れずに生きています、一生懸命、、、、そこにメスを入れます、、、、その矛盾、そのパンドラの箱を開きます、、、、

確かに、、、

後天的に付けられたこの名前、、、になぜ自分というパーソナリティーが宿るのか????考えてみれば不思議な話です、、、、ですがこの後天的存在を自分は全体に手放さないのです。。。。。ということでこれを手放すまで苦労は続きます、、、、八方塞がりになり、、、常軌を逸した状態にならないと。。。。自我を手放さない、、、、ですが徐々に徐々に人間活動は疲れていきますから、、、いずれは全員が悟ります。

で??明日からどうすればいいのですか??

どうもできない

ノンデュアリティ、悟り、覚醒のメッセージは分かりましたよ、、、、で結局明日からどうすればいいのですか????どうもこうもそれを決める力が見かけ上の個人には無いのです、、、見かけ上の個人はやっているつもり、考えているつもり、感じているつもりしかできません、、、それじゃあ廃人と同じですよね????違います、、それを物心ついてからずっとやってきたのです、、だからこれからもやっていくのです、、、、唯一の違いはそのことに自覚的であるか否かです。。。。見かけ上の自分以外に、、神羅万象、気づきの意識があり本当の自分はそっちだったという気づきがあるか否かです。

どうもできないなら死にたい

どうもできないなら、、生きていてもしょうがないですよね????見かけ上の個人が完全自由意志で行動してきたと勘違いしていた状況から、、完全に神羅万象そのものであったという気づきが起きると、、、そのような感情、発想が神羅万象から湧き出すこともあるでしょう、、、、、ですが神羅万象の動きそのものであるという気づきは本当に退屈でしょうか??本当に無感動でしょうか???私はそうは思いません。

何を目標に生きたらいいか分からなくなった、、、

もう何を目標に生きたらいいか分かりません、、、大丈夫です、、、その目標も神羅万象から現れます、、もしくは現れないこともあるでしょう、、、そしてそのことと、、至福感、静寂、、とは何も関係がないということです。苦しみとは何も関係がないのです、、、独立した個人であるという脳の錯覚が神羅万象から起こった時に苦しみが湧き上がり、、、これが脳の錯覚であるという気づきが神羅万象から起きた時に苦しみが終わります。

神羅万象の動きに大脳がドラマを付けた

神羅万象はただ動く

神羅万象はただ動きます、、これだけです、、、宇宙生命体は全てこの神羅万象の動きの中に在ります、、、、ではその中で人間はどのような動きをするのでしょうか????人間も例外ではなく完璧に神羅万象の動きのなかにあります、、、、コーヒーを飲むという動き、思考活動の全て、、、全部です、、、神羅万象の動きそのものです。え????コーヒーを飲もうは、、、自分で考えていますけど????そうです、、その考えも神羅万象の動きです。

神羅万象の動き以外の動きがあったらもうそれは神羅万象ではない

神羅万象が神羅万象であるのは、、、宇宙空間の全動きを支配しているからです、、、神羅万象が支配できていない活動があるならば神羅万象は神羅万象では無くなってしまいます、、、つまり我々人間の活動全て、脳の活動全て、、、は神羅万象の動きそのものなのです。。。つまり神羅万象の動きとは全く関係なく、、人間が個別自由に活動するなどありえないのです。

脳の動きも神羅万象

神羅万象の動きに脳が名前を付けてあたかも独立した者同士、物同士が関わり合っているように見せています、、本当は神羅万象の動きだけがあります、、、そこに脳の機能でそのようなドラマを誕生させてみせたのです。この活動も当たり前に神羅万象の活動です。そしてこの活動の最中は苦しいが湧きます、これも神羅万象の活動です。。。。そしてあまりに苦しい時に、、この活動を見抜いて、、苦しいを終わらせるという活動も起こります、、これを悟り、覚醒、、ノンデュアリティと呼びます。

手に入れた瞬間の安堵感を求めて

何かを得た瞬間、、安堵感が広がる

我々は常に何かを求めます、、異性、お金、地位、名誉、仕事、家族、安定、、、なぜこれらを常に求めるのか???それはそれを得た時の安堵感が欲しいからです。。。????対象でる、、、異性、お金、地位、名誉、、、、、などは実は何でも良くて、、、それを得た際の安堵感が欲しいのです。。。なぜ???それは今が苦しいからです、、、、今苦しから、、、、なんとかしてこれを拭いたい、、、これを拭う唯一の瞬間こそが達成なのです。

そのやり方は疲れる

しかしながらこのやり方は疲れます、、キリがない、、、、生きている間中、、、何かを目指さなくてはならない、、、、苦しい、、、、そうです、、、結局これも苦しのです。。。ということで我々はこの安堵感を目標達成から得るのではなく、、、、ダイレクトにそれを得たい、、、、これが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。

事実をただ理解する

そのためにはどうすればいいのか????事実をただ理解するだけです。。。この世界がどうなっているかに気づくだけでいい、、、何もしなくていい、、、気づきの意識がこの事実に気づくだけでいいのです。。。私ではなく????そうです。私が気づくのではなく、、、気づきの意識が私が居ないことに気づくのです、、そして私が居ないどころか、、、見える世界に広がるあらゆる対象(分別区別)が実は分離していなかったということに気づくことです、気づきの意識が。

私が気づくのではないならば、、不可能???

私が気づくのではなく、、、気づきの意識が気づくのならば、、、不可能ではないか???気づくの意識が気づくの待ちならば、、、こっちは完全な無力じゃないか?????まさに!!!その通り、、、、個人は常に無力なのです、、個人には何の気づきも起こせないのです、、、生まれてこのかた、、、個人が気づくというのは、、現象以外全く起きていないのです、、、全部は気づきの意識が気づいてきました、、、だから今回も気づきの意識の気づき待ちです。

トラウマの炙り出し

究極の防衛反応

トラウマとは究極の防衛反応です。自分という存在にとって脅威になる対象に対し(思い込み)強烈な緊張が走る状態です。このトラウマは悟りを開く際に邪魔になります、、、なぜならばトラウマを抱えるのは自分だからです、、この二つはセットです。。。強固に連携しています、、ですから自身がどんなトラウマを抱えているかを確認することは非常に重要になります。

自分では分からない

怖い対象がトラウマですから、、基本的には顕在意識には上がってきません、、、怖いのですから。、、これは何か事件、出来事があった時に急に現れるのです、、、、だからこそ厄介、、、自覚がない、、、、でも自分と強固に繋がっていて自我を完全防備しています、、

とはいえ無理にこじ開ける必要はない

とはいえこれを無理にこじ開ける必要はありません、、準備ができた時に勝手にそこの意識が向きます、、、悟りという事実に向き合っていく過程で、、、安心感からそこに意識が向く可能性があります。我々はどこまでいっても気づきの意識からの湧き上がりに委ねるのみ、、、安心してお任せです。お金に対しトラウマがある方は、、、全てを諦める(悟り)の際にお金がボトルネックになるのは当たり前のことです。。どこでお金の恐怖心と向き合うことになるかは分かりません。

エックハルトトールに人が癒される

文章全体が気づきの意識から湧いてくる

悟り系の書籍で世界で最も売れた本はエックハルトトールの書籍でしょう。彼の本は気づきの意識そのものが彼を通じて描かれています。思考の仕組み、エゴの仕組みをエンドレスに描き続けています、、一度表現した文章が何度も手を品を変え描かれ続けています、、、これは気づきの意識そのものに帰るトレーニングのようです。彼は一貫して思考を観察せよといいますが、、一貫して気づきの意識の立場になれば直ぐに分かるということを示唆します。

文章を読んでいるとなぜか癒されている自分に

文章を読んでいますとなぜか癒されている自分に気づきます、、気づきの意識が織りなす様々な文章に触れ続けることで自身が気づきの意識であったことに気づくのです。気づきの意識の視点からの様々な人間活動が説明されているのです。揺るぎない気づきの意識からのメッセージが続きます。ピカソの絵が気づきの意識からエンドテスに描き続けられてきたようにエックハルトは気づきの意識の視点での描写が続くのです。

彼は言葉と言葉の間に空白を入れる

実際の彼の講演では、、言葉と言葉の間に無言が作られます、、、意識的な空白の時間が作られます、、これぞ気づきの意識そのものの時間、、本当の我々はこの空白の時間、気づきの意識であるという示唆です。自我は彼の言動にイライラします。自我のメカニズムが終始バラされてしまっているからです。この本に対し興味深く読める方は、、もう自我の終焉プロセスに入っているかもしれません。自我がこの本を拒絶する場合はもう少しこの夢を見ていたのかもしれません。それも良しです。

思考に振り回されているという、、気づきは素晴らしい

なんか頭の中の思考が大変で、、、

これは重要な気づきが気づきの意識の中で起こっています。頭がグチャグチャで、、、、本当にグチャグチャならば、、、それにも気づかない、、、思考がこの苦しみの根源であるという気づきが起きればそれはもう悟り間近です。あの人のあの発言でモヤモヤする、、、そうです、、このモヤモヤこそが苦しみの根源です、、思考と自分(気づきの意識)が一体化しています。苦しい場所(分離)に意識が向いているのです。

じゃあボーッとしてればいいんですか???

その通りです、思考に一切邪魔されない、、状態、、瞑想状態、無我状態は至福そのものです。ですがその思考のコントロールを自分がやるのだと思うと失敗します、、、コントロールできる自分が居ないことを悟るのです。思考とは湧いてくる温泉のようなもの、、、それをコントロールできてきたと思っている自分も思考です。ワンネスをバキバキに切り裂く存在思考を自分(思考)がコントロールしている(思考)という究極の思考ゲームの罠に居たことに気づくのです、気づきの意識が。

思考とは湧くもの

思考とは湧くもの、、、この気づきが起きますと、、、湧いてこなくなる、、、、面白い、、、あれだけ脳内でグチャグチャと回っていた思考が湧いてこないのです。なんという奇跡、そうです、、、思考の罠から抜けるには、、罠であるという気づきが起きればいいのです。気づく存在は誰?気づきの意識です。

気づきの意識はどこに居る?

さっきから気づきの意識、気づきの意識言ってますがそれはどこに居るんですか???今ここで気づいている存在です、、、光、声、温度、視界に気づいている張本人です。。いやいやこの体が感じているんですよ、、違いますか???違います、、、この体が感じているという錯覚はたまに起きます、、、夢中になってラーメンを食べているときに、、、自分が食べているなんて思いませんよね???ラーメンを感じ尽くしているのが気づきの意識です。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。