悟り

コスパ良く生きようとすると

思考がフル回転になる

コスパ優先、、ここに拘って生きていきますと、、どうしても思考に飲み込まれやすくなります、、人間としていかに効率良く生きていくかは重要なことですよね???勿論です、、ですがそのことと思考をフル回転させることは違います、、、思考をフル回転しますと多くの場合思考に取り込まれて、、、思考していることすら忘れる状態に陥ります、、これが自我全開、無我消滅状態です。すると何をしていても苦しい、コスパ良く生きているはずなのに苦しい、、となるのです。

思考飲み込まれは、、実はコスパが悪い

コスパを最優先して思考フル回転状態は、、思考に飲み込まれ自我全開状態、無我消滅状態です、、この状態は苦しいのですから、、コスパが悪いのです、、、何もしてもこの苦しさが無くならないのですから、、コスパが高くつくのです。。。ただ思考を観察し、、ただ思考に飲み込まれないようにし、、ただ無我の状態でいるだけで、、、平和、安堵、静寂に包まれます、、、この状態が最大限コスパが良い状態です。絶対的幸福に至るのに何かをする必要がないのです。

幸福になるためには何かをしなくては、、、の罠

幸福になるには、、、最低限こういった住居に住んで、、最低限年収はこのぐらい必要で、、最低限パートナーはこんな感じで、、最低限休みは何日あって、、、とやっていきますと、、、思考フル回転状態に陥ります、、これは思考に取り込まれる状態になります、、自我全開、無我消滅状態、、、苦しい、、、そうではなく、、、常に思考を観察することで無我に入ることを理解します、、本当の幸福とは自我、思考に取り込まれない状態しかないことを悟ります。

そうは言っても問題は山積みですけど、、、

違うんです、、問題は絶対に起きないのです、、、あらゆる現象が起き続け、、これを問題だと捉える習慣が身についているのです、、、、母親が重病で、、、それが起きたのです、、自然現象として、、息子が学校に行ってくれなくて、、、それがただ自然現象として起きました、、、そしてそれを大事件だと捉える自然現象が起きたのです。

これを理解すると問題に捉えることができない、、、

サバンナの自然現象の中で問題は何も起きません、、、ライオンがシマウマを残虐に殺す???ただ食べるという自然現象が起きただけ、、問題ではない、、、バッタが葉っぱを食い散らかす、、自然現象です、、、何が問題なのか???人間は全てを問題視し思考をフル回転することで思考に飲み込まれ自我が出現し苦しんでいます。

気づく

気づくためには

気づくためには、、、気づきの意識でいないといけません、、、ですが人間は常に思考に取り込まれていますから気づくことができません、、、なぜか??気づきの意識が思考に取り込まれ、、気づくことができない気づきの意識になっているからです。これによって今起きていることに気づけない状態になっています、、ニュースを沢山見ることで思考に取り込まれ今起きている事実に気づけないのです。

気づきの意識が気づいていないだけ

我々が抱える苦しみは、、、気づきの意識(無我)が、、、思考に取り込まれ自我になり、、、気づくことができない状態になっていることから生まれます。思考が湧いたらそれを観察する存在(無我)になり、、思考に気づき続けますと、、、無我は気づきの意識ですから、、、全てに気付けるようになります。相手の反応、周囲の反応、今起きている現象に気付けるようになるのです、これが悟りです。

周囲を見渡せば、、、

周囲を注意深くみてみてください、、、多くの人は、、、自分のことで頭がいっぱい、、、頭がいっぱいとは、、、思考がぐるぐると回り続け、、、、思考に飲み込まれています、、、何が???無我、気づきの意識です。気づくことができない自我になり、、、気づけないゆえに苦しみ続けているのです。このトリックを見抜きます、、

苦しみの本当の意味

苦しいとは。。勘違いの証明

生きるって苦しい、、なぜか苦しい、、テレビやお喋り、何かに頼っていないと退屈で死にたくなる、、、、これらの本当の意味は何でしょうか????真実の勘違いです、、、真実を誤解して生きている時に生じる感情、それが苦しみです。ですからこの苦しみこそが悟りへの誘いです、苦しみが悟りへの渇望になります。。何をしても何を得ても癒えないこの苦しみこそが真実に目覚めるきっかけになるのです。

そう思えば、、、

苦しいが悟りへの誘いになります、、そう考えると、、この苦しみは悟りにとって最重要事項、森羅万象の動きは完璧です、、、この苦しみ解消を、、名誉や、お金、異性、やりがいで解消しようとしても全く癒えない、、、この究極のお題解決こそが悟りです。悟りとは究極の現実に目覚めること、究極の真実、リアルに目覚めることです。

何も求めなくていいという解放感

何も求めなくていい、、、そうです、、、究極のメッセージが教えてくれることは革命的です、、川の流れのように我々がこの先に取る行動は全部決まっていない、、全て森羅万象の動き、、運任せ風任せ、、森羅万象任せ、、この状態で何を期待し何を失望するのか?という話です。この事実に向き合った時に根本的な脱力に襲われます、、人生に責任を取るという大きなプレッシャーから解放されます。

今この場所で悟りに入る

自我の無駄なお喋り

自我の無駄なお喋りに迷わされてはいけません、思考が次から次へと湧いてきてこれをこうしよう、あれをどうしよう、あの問題はどうなったっけ??あそこに連絡しなくては、、とエンドレスに湧いてきますが、、、、これらの思考と起こる行動、結果とは何も関係がありません、、、関係がないにも関わらず思考に取り込まれてもただ苦しいだけなのです。

これをする意味

何のためにこれをするのか???これをする目的は???何のメリットがあってこれをするのか???自我は何かしらのメリットがないとそれをする意味がないと考えます、、ですから行動の裏には絶対的な何かメリットが必要になります、、ところが本当の目的とは今にあることであり、、それ以上の目的など存在しないのです。

行動そのもの

今と一つにあるとき、、行動に目的など必要ありません、、、今と一つにあって何かをすることが一番価値があるのです、、それをこの行動には、、、この目的があるのだと、、その目的にフォーカスが当たれば、、行動の価値が一気に落ちてしまうのです、、、、今と一つになって何かをすることが最高の至福状態なのです。

1000ブログを終えて、

これは書道

私は二年近くをかけて1000ブログを制作しました、、この活動は私にとって大きな試みで、、、悟り、真の静寂、真の平和とは何かを馴染ませる活動になりました、、自身の気づきを文章にすることで体に馴染ませていきます。ここまでのブログは覚者と呼ばれる人々のメッセージを読んで新しい気づきが起きた時にそれを文章化してきました、、、今は気づきが気づきを呼んでいる感覚です、、気づきのドミノが倒れている感覚、、それをこれからは文章化していこうと考えています。

悟りを人生のテーマにする

自我は悟りに対してふざけます、、悟りを人生の一番にしようとしません、、、もっと大切なことがあるだろう、、仕事、結婚、趣味、お金、名誉、、、悟り以上に大切なことがいっぱいあるだろう、、、と悟りを遠ざけます、、先ずこの事実を理解します、、、自我にとって悟りとは自我のお役御免ですから、、ここに抵抗しない自我はいないでしょう、、だからこそ悟りをトップに据える必要な時期があるのです。

夢から覚めると、、覚悟する

これは夢です、、、夢だと分かっていても覚めない夢です、、、夢だと分かった上でいったい何をこの夢の中で達成することがあるのでしょうか、、夢だと分かった時点で一番達成すべきことは夢から覚めることです、、、もしくは夢であることを自覚しながら、、、夢から覚める方法を模索していく他ありません。ただしこれが夢であるという気づきが起き始めますと、、この夢の面白さにも気づいてしまいます、、なんという完成度の高さ、なんという展開力、、深刻さが抜けた後のこの夢は面白くなっていきます。これがパラドックスです。

人の成功に落ち込む自我

自我は本当の静寂を知らないから

自我は本当の静寂、歓喜、安堵を知りません、そのため他人の成功に過剰に反応します、、、他人が何かを獲得すると、、、私もそれを獲得したいという衝動が起きます、、、本当の静寂、安堵を知らないからこそ、、、他人が獲得した何かに答えがあるのではないかと、、期待するわけです、、、ですがその他人が獲得した何かを実際に得ても全く意味がない、、それは本当の静寂、平和ではないからです。

他人が上手くいっているに狼狽する

他人の成功、特に近くに居る人間の成功に特に過剰に反応するのはそれを獲得していない自分が焦るからです。ですがそれは本当の静寂、平和、安堵を知らないからに他なりません、、本当の静寂を知ってしまうと、、他人が獲得した何かは全く意味がないことを理解します、、、一瞬羨ましさが湧いてきますが、、、それと真実の静寂とは何も関係がないことを知ります。

自身が本当の静寂を知ると、、

自身が本当の静寂に気づくと、、、これを共有することしか興味がなくなります、、、本当の静寂は独り占めするものではなく、、誰でもどこでも獲得できる絶対的なものであることを知るからです。他人にそれを自慢したくなることもない、なぜならば全員が今そこに触れているからです。もしも悟りを遠ざける何かがあるとすればそれは依存心でしょう、、今感じている絶対的感覚、「IAM」ここに戻るのに他人の力は必要ありません、これを他人の力が必要であるという思い込みがあるとこれが邪魔します。

悟りなんて別次元の話でしょ、、、

自我は悟りを宇宙旅行ぐらいの話にしたがる

悟りなんて、、、宇宙旅行や、宇宙人に会った、、ぐらいの話にしたがります、、、、悟りなんて、、、どこまでいっても悟りをマジに話すことにしようとしません、、、この動きこそが自我の常套手段、自我の戦略、、、です。ですが、、、、悟りはあまりに近くに鎮座しています、、、悟りは今もここにあるのです、、、無視できない至近距離に、、、

私が居る、、、という絶対感覚

私という主語は横に置いておいて、、、居るという絶対的な感覚は誰しも持っています、、、この居るという疑いようがない感覚、、これこそがIAM、気づきの意識、大いなる存在です、、、この体のことは忘れることはあっても、居るという絶対感覚が無くなることはありません。この感覚の中に全てが起きているという絶対気づきが起きるのが悟りです、、、、体の中の自分に起きているのではなく、、、、体の外に絶対感覚を持つ存在がいて、、その中で全ての現象が起きています。

悟りのことは横に置いて、、先ずは現実を

自我は悟りを現実問題とは切り離そうとします、、、そうはいっても先ずは現実問題を、、、、です。ですが、、、現実と思っているこの問題こそが幻想なのです、、、この問題こそが、、思考の渦に自分を巻き込み、、偽りの自己を永続させる動きなのです、、、ここを見抜きます、、、ここで思考に巻き込まれないようにします、ここが勝負の分かれ目です。

ストーリーへの誘いを断つ

思考は常に誘う

思考はいつでも自分をストーリーの中に引き摺り込もうとします、、、これは問題では、これはいつか問題化するぞ、、、と思考は常に湧き上がってきます、、、これによっていつの間にか思考にしていることに気づかない状態になってしまいます、、、これが完全に悟りが閉じた状態、苦しい状態です。気づきの意識が思考と完全合一化している状態です。

思考が湧いたらそれに気づくだけ

思考が湧いたらそれに気づくだけです、、思考の手の内を完全に理解することです、、、目の前の状況を問題視し状況で終わらせないのが思考です、、、ただお金が無いという状況を、、、お金がないと飢死にするぞ、、と問題化し、、、グルグルと頭の中で解決策らしき思考が湧き続けるのです、、、お金が無いは、、ただの事実です、、それに対し、、淡々と行動が湧くのを待ちます、、、川の流れのように行動が湧いてくるのを待つのです、、これしか本当はできないのです。

思考はああでもないこうでもないと、、、騒ぎ立てるが、、、

思考はお金がなくなったら、、餓死するかも、、友人がいなくなるかも、、今の場所から追い出されるかも、、東京を離れることになるかも、、、、と騒ぎに騒ぎますが、、、事実は川の流れのように、、、淡々とただ起き続けます、、、状況は変わり続けますし、、、この体という状況も合わせて変わり続けます、、、ただそれだけです、、、思考がどうこうできる状況(森羅万象)はないのです。

ただ思考に飲み込まれずに状況を観察する

重要なことは思考に飲み込まれずに、、、状況を観察する気づきの意識になることです、、、ただ観察します、、状況の変化、、この体の動きの変化を観察します、、、この体と一体化、同一化してはいけません、、この体の動きすらも状況です、森羅万象の動きです、、、それを観察します。すると、、そこに平和があります、静寂があります、平和があります、、、このストーリーに一切飲み込まれないことが、、、悟りです。

朝起きると瞑想が始まる

朝起きれば瞑想から、、、

思考を観察するというのは、、、瞑想です、、、朝起きて思考を観察し始めますと、、、スッと静かになります、、風の音、鳥の声、太陽の光、全てが静寂に包まれながら起こります。そして昼になり、、、さらにこの瞑想が続きます、、ただ思考の観察をし続けます、、、静寂が増していきます、、、一日中が瞑想になります。

毎日いつでも瞑想生活

毎日いつでも瞑想生活になります、、思考が湧いてきません、仮に湧いてきても、、、直ぐにそれを観察する気づきの意識になります、、悟りが閉じるのは、、思考に飲み込まれて思考していることすら気づかない状態ですからそうならないように気をつけます、、、1日に何度も思考に飲み込まれそうになりますがその度に思考に注意深くなるのです。

思考に飲み込まれた状態が何なのかが分かっていないだけ

思考に飲み込まれた状態が何なのか??ここが分かっしまえばこれはもうほぼ終わりなんです、、思考に飲み込まれている状態とは、、意識がそこに完全集中し、、思考と同一化しているということです、、ゲームに集中している子供は時間を忘れ、自分がゲームをやっていることすら忘れますね、、、思考に熱中するとはこのことなのです、、、思考に熱中し過ぎて我(気づきの意識)を忘れているのです。

悟りとは思考の存在に意識的になるだけ

思考をどう扱うか

悟りとは思考との付き合い方である、、、そう断言してもいいぐらいに思考に左右されます、、、、というのは多くの方は思考癖がついて自分が今思考しているという事実に気づいていません、、、つまり思考に意識的であるということは、、、その時点で思考を観察する存在、、気づきの意識、全体、神に戻るということなのです。

思考を野放しにしない

思考の存在に対し意識的である、、、たったこれだけで、、、常に静寂、平和、歓喜に包まれます、、、こんな簡単なことで、、なぜ???そうです、、、我々は意識そのものであり、、静寂、歓喜、平和そのものなのです、、だから簡単にその境地に行けるわけです、、、ところが思考に簡単に取り込まれてしまうことでこの座を受渡してきたのです。だから幸福、至福を追い求めるのです、、おかしい、、そんなに遠い場所にあるとは思えないんだけど、、と。

絶対幸福が遠い場所にあるという罠

絶対幸福は遠い遠い場所、一部の一部の成功者だけが手に入れるもの、、、この発想が実は罠です、、、そうなるために思考をフル回転して、、獲得しましょう、、、全部罠、、、、絶対幸福とは、、思考に取り込まれていない状態、、ただそれだけ、、、、思考の発生に意識的である、、、ただそれだけで成就していしまう、、なんじゃそりゃです、、、、何も達成する必要もなく、、何も成就する必要もない、、、ただ思考に対して意識的であるだけ、、、それだけです。