悟り

探求者

子供の時の感覚を覚えている者

2歳、3歳児はまだ、、これが夢だと分かっています、、この夢を見ているのはこの自分一人で、、、全部自分が作って自分がそれを見ているのを実感しています、、ですから不安感がない、、万能感、、しかないのです。それは全部が全部自分がこしらえた物事だからです。。その中にこの体があり、、楽しんでいるだけ。。朝起きて寝るまで楽しむだけ。この記憶が残っている大人が探求者になります、彼らは、、この現実と称される世界の常識に違和感を感じる、、何かが違う気がする、、、何かおかしい、、本当はこんなんじゃないのでは、、

社会人になると

社会人になると鮮明にこの感覚が蘇ってくる、、それは会社などが徹底的に現実のルールを押し付けてくるから、、もう違和感では済まない、、、受け入れるか受け入れないかの強制収用、、それでもなんとか社会に合わせ生きていく、、でも辛い、、、しかし何が辛いかを言語化できない、、このもどかしさ、、、この状態が極限まで来ると彼らは本当の探求者になります。

悟らないと終わらない

社会に迎合し、、あらゆることを頑張った、、何年か働き、、地位も手に入れた、、家庭も、家族も、、、だが何かが足りない、、この何かは、、、この延長線上にはない気がする、、、、これが悟りへの入り口です、、、この体の中の個人が主人公の幸福探求ゲームは終わりがない、、、このままいくとこのまま死ぬぞ、、、そこまで追い込まれますと、、、悟りのメッセージが届くようになります、、

今夢を見ているという実感はあるか

多くの人はない

多くの人はこれが夢だという実感が全くないでしょう、、それは当然そのようなことを言う人は全く居ませんから、、、そして悟りの覚者が言う「これは夢だ」というメッセージに出会っても、、、色々な修行を重ねるとそれが分かるようになるんですね!とその言葉を深読みし、、悟りを遠い未来の場所に設定します、、、ですがその思惑、戦略こそが悟りを遠ざけるための覚醒を遠ざけるための思考なのです。

これを夢だと思って生活してみる

これを夢だと思って生活してみてください、、すると直ぐに大きな気づきが生まれます、、誰がこの夢を見ているんだ????見ているとしたら一人しか居ない、、、それはこの自分だ、、、、でもこの自分が夢を見ているとしたら、、この体の中の自分は一体誰だ???この体の中で自分をやりながら夢を自分で見ているのか???確かに夜みる夢でも同じことをしてる、、、すると、、、この体の中の自分が本物ではなく、、、夢を見ている自分こそが本物だという気づきが起きます。

夢を見ている自分がただこの体の中に居るという勘違いをしていた

要はこういうことです、、、これは夢で、、私がこの夢を見ている、、そしてこの夢にはこの体が主人公として登場し、夢を見ている自分がこの登場人物であるこの体に成り済ましていただけだったんだ、、ということです。この夢の展開は、、夢を見ている自分には全くコントーロが起こらず展開し、、この体も例外ではない、、あらゆる思考が湧き、あらゆる行動が湧くが、、これはただ起こっているだけで実は誰もコントロールしていない、、ただし「自分がやっている」という思考も湧き上がるので、、そう信じる、、が起こっている、、この夢の中で。。

I AMは常に今在る

この夢はI AMが見ている

この夢の傍観者はI AMです。この存在が熟睡から起きると経験を回収していきます、実は夜寝ている時の夢もこのI AMが傍観者として経験を回収しています。夜見る夢は、、全く無駄のではなく、、この夢の延長線上にある夢なのです、、、そして全部が全部I AMが回収しています、、夢の中で起きる全部の出来事をIAMが回収するのです、、、全出来事ですから、、この体から湧く思考の全て、、感情の全て、経験の全て、登場人物の全行動、、です。

夢(現実)の中で夢を見る

これは夢です、、この夢の中で、、この個人は思考を繰り返したりします、、この思考フル回転状態とは夢の中(現実)でさらに夢を見ている状態です、、誰がIAMです。夢中毒状態です。その思考の内容とは全部が全部この体の中にいることになっている「自分」が中心に思考される、、完全なる勘違い状態、孤独感が湧き出す、、これをIAMが感じます、回収します、、、夢の中にこの体があり、この自分がその中にいることを完璧に信じた状態、、自分という真我を自我に切り替えた状態、、苦しいが湧く状態です。

「苦しい」がこの夢を気づかせる

これが夢だという気づきは、、苦しいという感情の回収が大きく作用します、、苦しいという感情が、、夢を見る私を、、この個人という体の中の存在を解体させます、、、この体の中の自分に構っていると異常に苦しいぞ、、という気づきです。。さっきから思考フル回転でいるがなんか凄い苦しいぞという気づきです、、なんか分からないが、、この体の中の自分に構わない方が、、楽だけどなぜ???すると悟りのメッセージが響くようになります、、個人が不在であり、これが夢だというメッセージが腑に落ちるのです。

他人の感情はどう対処するのか??

夢の中の登場人物

正直に言いますと、、、夢の中の他の登場人物から生じる感情は、、縁起、、、つまり反応につぐ反応が起きているだけであって、、どうにもこうにもなりません、、ただこの夢の中であらゆる化学反応が起き続け、、続いていきます、、この世界の中で楽に生きるには、、、そこを見抜く以外に方法はない、、一人一人を幸福にするなど全くもって不可能です、、夢ですから。。

何が起きても夢だと見抜く

何が起きても、、これは夢の中での出来事です、、ここは絶対に変わらない、、、この体も、他人の体も、、全感情、全行動、全衝動、、が夢の中で起きています、、そしてこれを経験しているのは夢を見ているこの私だけ、、です。ですから、、、他人が深刻に悩んでいても、、その感情を味わっているのは自分、真我、神しか居ないのだという絶対的理解が必要です。

だから大丈夫

苦しむことができるのは神だけなのです、、神しかそれを味わう権利がないのです、、神が苦しみ、神が悲しみ、神が困惑しています、、なぜ神を心配する必要があるのか???ないのです。神はいつでもこの苦しみを終わらせることができます、、神ですから。ということでこれが夢だと悟り、、この夢の中でただこの夢を堪能していく旅にでます、、ただし堪能というのは何か???私がこの夢の創造主であり、経験者であり、夢のスペースであるという気づきを深めることです。

お水

このお水はなぜお水の状態を維持できるのか???

目の前にグラスがありその中にお水が入っています、、、このお水はなぜ、、この状態を維持できているのでしょうか??化学記号でいえばH2O、、、この化学記号の原子がなぜ収束した状態を維持できるのか???この力こそが真我の力です、、物質をその状態に維持する力こそが真我なのです、、、、とはいえこのお水もいずれは蒸発して気体になります、、この変化を引き起こす力が真我です。

気体が液体に、液体が個体に、、

気体、液体、個体、、、万物は常に変化を繰り返していきます、、、この動きを起こす力が真我です、、森羅万象、諸行無常、、、常に変化が起こるのですが、、この変化を起こす力こそが真我、大我、本当の自分です、、、つまり今この瞬間も我々は本当の自分の変化の中に居ます、、、そこから逃れられない、、本当の自分から一歩も逃げることができない。。。

諸行無常

諸行無常は分かった、、、では誰がこの諸行無常を起こしているのか???本当の自分です、、この体の中に居ると思っていた小さな自分がこの変化を作り出していたのです、、、大きな自分だったのです、小さな自分は。この大転換、シフトチェンジこそが悟りと呼ばれるものです、、パラダイムシフトです。

全員が悟っている?

たまにあるこの表現

そもそも全員が悟っています、、、この表現を使う覚者はいます、、、我々全員は真我の動きを体現する者、、真我に完全にコントロールされている、、、つまり自由意志など皆無、、ただ真我の動きに対する従順な奴隷、、、そうなれば全員が悟りの中に居る、、、という表現はできます、、、そもそも悟りしかない、、です。。悟りとはこの世界が夢であるという気づきですが、、、この気づきすらも完璧に真我にコントロールされています。ただし真我に自由意志があるのではありません、、真我の動きは、、、、化学反応です。

悟りを開く誰かはいない

全員が悟っているという表現の裏には、、、誰も悟りを開く人間はいないという大前提があります。悟りを開く個人は居ない、、、、個人という存在が夢の登場人物に過ぎなかったという気づきです、、、全員が夢の登場人物だったという突然の気づき、、これが悟りです、、ということはこの体も体に過ぎず、、それ以上もそれ以下でもない、、、

悟りを学び始めると、、、

悟りを学び始めますと、、、そんな夢物語のことを真剣に学ぶなんて、、と揶揄されます、、そんなことより現実が大切だよ、、と、、、、私から言わせれば、、、、現実を見るよりのこの夢をもっと真剣に没入した方が良い、、というアドバイスに聞こえます、、悟りとは現実を現実として見ることです、、これが夢だと悟ることです、、、、この夢の中で嫌われる行動第一位、、、これが夢だと気づかせることです。。

悟りを人に依存すると、、

危ない目にあう

悟りとは自分との戦いです、、この自分の再認識です、、この作業を人に委ねれば危険な目にあうこともあるでしょう、、あくまでヒントをもらうという発想が重要でしょう、、常に自分だと認識してきた存在が実は違ったという感覚です。。自分という感覚を絶対的に信じてきたのは、、この私が居るという絶対的感覚からです、、、何が起きようと、、この自分が居るという感覚は疑いようがないほどにあります、、それは事実です、、ですがその感覚をこの体の中に閉じ込めたのは苦しみの始まりです。

「私が在る」の中で

この体とは「私が在る」の中に存在するのです、、相手の体も、、友人の体も、、、鳥も、木も、、全部が全部この「私が在る」の中で活動しています、、独自の活動をしている、、、だから見える世界の変化に気づくのです、、目の前の鳥が動くのをなぜ確認できるのか??「私が在る」の中で起こったからです、、だから気づいたのです。。。この体の活動の全ても全部この「私が在る」の中で日々起こり続けているのです。

「私が在る」の中でマスターに会う

例えば覚者がの存在を知り、その人に会いに行くとしましょう、、、その覚者は「私が在る」の中で登場したのです、、、その人にどっぷり依存するのはおかしいこと、、、どこまでいってもその覚者は「私が在る」の登場人物に過ぎないのです。依存するというのはこの体の中の自分と、覚者が別々に存在するという圧倒的誤解の上で成り立ちます、、、ですから上手くいかない、、、ということになります。

自分史上最大の壁

何かを手に入れても幸福にはならないという絶望

何かを手に入れても、、幸福にはならない、、この絶望をいかに早い段階で気づくか、、、ここが最重要になります、、、地位、名誉、安定、家庭、愛妻、職業、人気、子供、、どの全てを手に入れても幸福にはなれないという絶望的な気づきこそが悟りへの最重要要素になります、、、そしてなぜなのか???という自分への問い、、この孤独な作業に向き合えるのか???ここも重要でしょう、、

この自分、この私は学んで覚えたこと

学んで覚えたことが本当であるわけがありません、、もしも学ばなかったら、、、一体人間はどうやって自分を理解するのでしょうか???居ないんですね、、本当は、、、もしも無人島に一人で生きてきた人が居れば自分なんていう発想が全くない、、全くないのに普通に生きている、、、つまり自分なて全くいらないもの、、もしくは無くても困らない、、名前も自分も、、全部無くても大丈夫、、無くても大丈夫なものを「在る」と信じて生きているのが我々現代人です、、「自分がこの体に在る」というは完璧な思考ですね、、ここをもう一度再認識するのです。

自分が幸せになる、、、はアイデア

自分が幸せになるというのは「自分がこの体に在る」という思考の延長線上にある発想です、、、自分という存在がこの体の中に居るというのは間違いのない思考ですから、、その思考の流れでこの私が幸福になると、、目標を立てたのです、、、これはなかなか難しいことが起きました、、無いにも関わらずその存在を幸福にするとはどういうことでしょうか???不可能です。。。

いや、、この私はたまには幸福ですよ

いやこの私は、、、美味しい物を食べている瞬間、幸福ですけど、、、違います、、食べている瞬間この「自分が居る」という発想が飛んだのです、消えたのです、、そもそも居ないこの体の中の「私」が消えることはできません、、その発想が消えたのです。。だから私は一瞬幸福感を味わったという勘違いが起きたのです。。究極の勘違いです、、

絶対的理解

信じるとかじゃない

私は神を信じます、私は仏様を信じます、、、違います、、、信じてる時点で嘘だと気づいています、、私は今飲んだのがコーヒーだと信じます、、、これはない、、絶対にない、、、確信できないから信じるという言葉が生まれるのです、、、悟りとは、、、「私は神だった」という絶対的理解です、、絶対的認識です、、、信じるとか信じないとかの次元ではない、、、私が食べたのはラーメンではなかろうか???そんなことは起きない、、

私は神だった

なぜそんなこをが絶対的に認識できるのか?????それは簡単です、、事実がそうだからです、、、信じるとかのレベルではなく確実にそうなのです、、、それが大前提、、そしてその感覚を幼少期は誰しも確実に持っていた、、、だから悟りとは幼少期の感覚を思い出すだけ、、たったそれだけ、、、、偉大とか、そんなんじゃない、、、騙し絵を見抜くぐらいのこと、、。騙し絵を見抜く人間は偉大でしょうか????

全生命、全物質、全思考、全行動

全生命、全物質、全思考、全行動をそう在らしめている動き、エネルギーこそが真我です、、私が経験した全ての動きこそが真我です、、、この世界で起きた動きが自分(真我)です、、、視界を今ずらす、、視界が変化しました、、この動き、、これが真我(自分)です、今この体に思考が起きました、、この動きが真我(自分)です。このブログの突然の理解がおきました、、この動きが真我(自分)です。よく考えてみてください、、全部が全部動き(真我)です、、、動き以外のものがない、、、

だから何だ?

だから何だ?が出る内は理解していない

頭に鳥の糞がついてますよ!だから何だ??にはならない、、、直ぐに頭を触るはず、、、そうです、、真理の理解とは、、疑問が起きない、、、、分かったらもう戻れない、、、気づきとはそういうもの、、今ここに全部がある、真我の活動のみ、、鳥も声も太陽の光も、それを感じるという動きも、全部が全部真我の動き、、求めていた全てはここにあった、、この理解が起きるのを待っていた、、、何処に行かなくてもいい、、、全部ここに在る、、、

動かなくては、、と動きたい

人間活動の特徴は忙しないこと、、、あれは、、、今が苦しいから、、ですが悟りが起きれば、、苦しいがないから焦らない、、、焦って成し遂げたいことはなくなる、、、ただこれをやりたいは起きる、、、満腹にケーキを食べた直後に、、直ぐにラーメンを食べたいが起きない、、この状態、、、精神的満腹状態、、、これが悟り、、

この体しか自由にならないから

この体だけしか自由にならない、、この体しかコントロールが利かない、、、だから悔しい、、モドカシイ、物足りない、、、そこで個人は他人をコントロールしようとする、、、なんとなく偽りの万能感を味わう、、偽物、、他人から評価を受けることで万能感らしきモノを味わう、、虚しい、、、大誤解が続く、、、全然ポイントがズレてます、、、そうじゃない、、全部が全部自分の活動、、それしかない、、全感情、全思考、全経験、全物質がこの自分、真我の活動、、、、全く視点が違う、、論点が違う、、、