悟り

分離感こそが私

分離感そのものが私

このたった一つのエネルギーがある世界で分離感というエネルギーが生まれました、、このエネルギーこそが私自身です、、、分離感を作り出したのも私(真我)それに気づく存在も私(真我)です。分離感はこのたった一つのエネルギー(真我)の中でただ起きました、、そこに理由はありません、、、あらゆる変化が起き続けるこの真我の中で、、、それがただ起きたのです、、、そこに理由はありません、、、

その分離感が起きて

その分離感が起きることで、、、この私と私以外という世界が誕生しました、、これも真我(空)から起き真我がこれを感じます、、、私を取り巻くストーリーが起こったのです、、、、何度も言いますがここに理由はありません、、、ただそれが起きたのです、、、このストーリーは苦しみが伴います、、閉塞感、孤独感、分離感、、、これを解消したいという衝動も起きる、、真我(空)から。。。。

そこでこれを解消しようとする動きが起こる

そこでこれを解消しようという動きが起こります、、、真我(空)から、、、その動きに気づきます、真我(色)が。。。この動きは多くの場合、、、ストーリーの中で解消しようという動きになります、、それがお金、異性、地位、名誉、安定、、、、となっていくのです、、、ですがこの夢、ストーリーの中では全くもって解消されないことに気づきます、、、この気づきが起きます、、、

絶望が起き、、この解消を悟りに求める

悟りという言葉は知っている、、、恐らくこの現実の中で何をやっても解決しない時にそこに意識が向くのだろうというぐらいの知識、、、ですが本当にそこに意識が向く時が来ます、、、全員が。なぜならばこの苦しみはこのストーリーの世界では解決しないから。これは究極の諦めです、、、心からの諦めですから、、、この現実でまだ可能性を感じている期間は難しいでしょう、、完全なる諦めが必要なのです。

信頼されるということ

自我と自我に信頼関係はない

本当に人を信頼するといのはどういうことでしょうか???毎日顔を合わせているから信用できるか???全くできません、、、むしろ不信感こそが募る可能性がある、、、信頼できるとは、、、その人の在り方がどの状態にあるかに依存します、、つまり、、、このストーリーに完全に取り込まれている人は損得でしか動けないので信用できない人になり、、、ストーリーをストーリーと見抜き、、ただ在るがままに生きている(人)と信用されます。。。損得の世界から脱出できたからです。

裏切られる

これがストーリーだと気づいていない人を信用するのは不可能です、、このストーリー上でなんとかこの私というイメージを生き伸ばしているだけですから、、、苦しいが常に伴い、、、本当の中で信用されるような行動を取れていないことを誰よりも自覚しています。ですから人を信用する、結果裏切られるという一連のプロセスは、、、信用した方がダメなのです。

みんな自分のことで精一杯

信用されるにも、、、みんなこのストーリーでは自分のことで精一杯です、、、信用されるような生き方は全くできていない、、だから信用してもらっても辛い、、、だって期待に応えられないから、、、、悟りが起き、あるがままで生きることができれば、、、まだストーリーの中で生きている人に期待を持つのは嫌味なことです。なぜならば誰も皆自分のことで精一杯だからです。

現実だと信じてきたからこその全行動が無駄になる

悟りのメッセージの限界点

人生を長く生きてきた人ほどに、、、私の人生には何か意義があった、、この現実を生き抜くための信念を貫いてきた、、、と人それぞれにこの現実と私という戦い、向き合いに意義を見出しています。。。。ですが悟りとはこの全てを全否定します、、このストーリー、この私が居るという大前提が錯覚ですよという究極のメッセージです。何十年間の努力を無駄にされたようなメッセージなのです。だからこそ多くの方はこの悟り系のメッセージに対し拒絶反応を起こします。

それでもいい

それでいい、、これまでの努力が全部無駄になったとしても意味が無かったとしても本当の幸福にたどりつきたいんだ、、、そのような心境にたどり着いた者が悟りのメッセージを受け入れます、、、ただ今が苦しいだけ、、では難しい、、、なぜならば、、、自我を信じている状態は、、、これまでの努力を必ず報われるようにしたい、、という衝動が働くからです。

身も蓋もない

この私がイメージに過ぎず、、実在していない、、、みんなでイメージを共有しあい、、、そのイメージが実在しているという前提でドラマを作り上げていた、、、これが事実です、、この事実を認めて初めて、、至福に至ります。自己意識が現れるということは同時に集団との共存を強く意識しますから、、そこを捨てるなどというのは大変な恐怖心が湧きます、、、ゆえに、、、そのメッセージを遠いどこかに閉まっておきます。

悟れば全部上手くいく???

悟れば上手い下手が無くなる

上手くいく人生、上手くいかない人生、、、この判断こそが苦しみ根源です、、、何をもって上手くいっている「判断」するのでしょうか??完璧のその人の価値観に照らし合わせています、、、起きる現象全てが中立、、、その中立な現象が見かけ上の私、イメージとしての私に有益か有益ではないか、、、が判断です。。この判断を下すという動きが、、苦しみを生み出すのです。

私にとって、、が無くなる

悟りとは、、私にとってという発想が無くなることです、、、周囲の状況に私は確実に影響を受けます、、、ですがこの影響と幸福が全く関係がないという気づきが起きます、、、例えば給料が二倍になるのはこの見かけ上の私に影響を確実に与えるでしょう、、、ですがその出来事と、至福とは何も関係がない、、、「わたし」というイメージを歩むストーリー上は、、嬉しい!!が一瞬起きるでしょうが、、その嬉しいは継続可能では全くない、、、と直ぐに気づくでしょう。そして収入が増えようと不平不満は相変わらず起き続けます、、見かけ上の私には。ですが悟りが起きればこの「私」はイメージに過ぎないという気づきが起きますから、、、収入が二倍になろうと二分の一になろうと、、もう私ありきの思考に取り込まれなくなります、、、この状態が至福なのです。

あるがまま、なすがまま

起きる現象が見かけ上の「私」に影響を与えようと、、与えまいと、、、基本的に常に至福です、静寂です。。。。この私に悪意を持って近づく存在は皆無であり、善意で近づく存在も皆無です。。。。ですからただ淡々と起きる現象と共に生きていきます、、、この状態が至福、静寂、平和です。これはストーリー上の楽しいとは違い、、、ただ気楽なだけ、、重くないだけです。。。ですがこれこそが我々が心から求めていた感覚なのだという実感が確実にあります。

ストーリーの中で悟るという嘘

ストーリ上で悟ることはない

これは夢です、、この夢の中で悟るのは不可能です、、夢だと気づくことはできます、これが悟りです。。夢の中で私は悟りブッダになった、、、これは理論が破綻しています。。。この現実世界(夢)で私(イメージ)が悟りました、、、おかしい、、、、悟りとはこの現実世界(夢)が現実世界ではなく、、夢っだったという気づきです。私だと思っていた存在がイメージだった、、実は居なかったという気づきです。

この言葉こそが夢を作り上げていた

この言葉こそが、、、夢を作り上げた張本人でした、、、見かけ上の「私」が使うこの言葉がこのたった一つのエネルギーを分断し個別化し、私を作りあげ、、この私の物語を作り上げていたのです。この言葉とはワンネスの世界のプログラム言語、、この世界になんでも作り上げてしまします、、その第一番が「私」という存在、、さらに数万の言葉を覚え、、この世界は完全な分離の世界(見かけ上)になります。ここはもう既に夢の世界です。

あるがまま

本当のあるがまま

本当のあるがままとは、、、この個人としての私、イメージとしての私、、が私らしくあることではありません、、イメージの私らしいって意味不明です。。イメージの私は変幻自在にイメージを変えているだけです。。本当のあるがままとは真我の生命現象の全て、森羅万象の動きの全てを許容するということです、、そこにはこの思考、この感情、この行動も勿論含みます。

起こる現象を判断しない

起こる現象の全ては森羅万象の動きのみです、、、どんなに性格が悪い友人の嫌味も、、森羅万象の動きでしかなく、、そこに関与できるような森羅万象の動きを変えれる存在は居ません。「私は私の意思で嫌味を言ってやった」と宣っても、、その宣言こそが森羅万象の動きです、、、その性格が悪い友人の姿形は、、実は見かけ上の私の観念が作り上げています、、、人間という言葉を学び、男という言葉を学び、友人という言葉を学ばなければ、そして嫌味という言葉を学ばなければ、、その存在の言動を理解できないのです、、、つまりそのなのストーリーを作り上げたのはこの私の観念です。だからこそそこの判断を下せば、、そのストーリーをただ延長させることになるのです。

ただ起きた

嫌味を言う友人も、批判をしてくる友人も、妬んでくる友人もただただ森羅万象の動きとして起きました、、この圧倒的理解、絶対的理解をした上で、、その現象をただ見つめます、、、するとほとんどの場合は反応をしなくていいはずです、、、言い返す必要がないケースがほとんどです。。。嫌味を超えて暴力を振るってきたら扉を閉めてしまうか、警察に連絡するだけです、、、これを癖付しますと驚くほどに平和な毎日がやってきます。本当のあるがままとはこの見かけ上の私、イメージの私のことではなく、、全部が森羅万象の動きであることを悟りただその動きと共にあることです、そしてそこから現象そのものであるという気づきが起きます。最後はその気づきも起きない、、現象そのもの、、、そして現象そのものを支える空の存在に気づき、、最後はこの気づきもなくなる、、空と色は一つ、ノンデュアリティ。

学べば食えるという気づきの重要性

学ぶというのは気づくということ

学ぶとはなんでしょうか???学ぶとは今まで知らなかった言葉、概念を覚えていくことです、、知らなかったことに気づき、、学習をしていきます。。。りんごには実は100種類の名前がある、、、このことを知らなかった人はそこに気づき学びます。。。学ぶということは新しい概念に気づき覚えていくことです。基本的に人間は多くの知識を持っている方が生きやすくなります、、肉体としては、、、例えば就職先を一社しか知らない人よりも100社知ってる方が入社成功率が上がります、、知識とは生き延びるための選択肢を増やします。

「私」にとって学ぶメリットがあることに気づく

この私はイメージですが、、このイメージの世界の中で学ぶことは生きるための選択肢を増やし生き延びやすくなっていきます、、、この気づきが先ずは学ぶことで起きます、、、学ぶというのはこの体を生き延びやすくするので、、、学ぶことに抵抗が起きにくいのは当然です、、そして学んで学んでよりこの体を安全領域に持っていきます、、

この延長線上に悟りがあれば、、、

学べば食いやすくなる、、これに気づきの意識が気づきますと、、学び続けることができます、、、ストーリー上の私を通じた思考もこれに抵抗せず、行動もこれに抵抗をしません、、、学べば生き延びやすい、、という気づきがあるからです。。。悟りとは自我の消滅にも関わらずこれらのメッセージを比較的抵抗に遭わずに、、学び続けることができます、、、学べば食えるという気づきが大きく作用します。自我が消滅してもこの体は食えるという気づきが気づきの意識にあるからです。

要するにこういうことだよね

大人は子供の悩みを一つ高い位置で解決する

子供に算数を教えることができるのは、、大人は子供がどのポイントで詰まっているかを一つ上の視点から観察し説明できるからです。。。高い位置からその人の行動を観察できなければ人に教えるということはできません。世の中を俯瞰するとはまさにそのことで、、この世界の成り立ちを上から眺めて理解することになります。その最高地点が悟りであり、、悟りとはこの世界がたった一つのエネルギーがただ揺れ動きているのを見抜くことです。

結論は分かっている

悟りを開くとは、、、覚者がその視点で気づいたことを今度はこの見かけ上の「私」がその視点になって体感として気づくことです。。。覚者が伝える「すべては一つだった」を体感できるかが重要になります、、、すべては一つらしい、、ということは、、この思考も、感情も、行動も全部同じエネルギーで、、それゆえ他人の思考も感情も、行動も全部このたった一つのエネルギーが作り出している、、というよりも変化してるだけ、、、それを作り出す存在はこの世界には居るわけがなく、、、ただエネルギーが変化していく様に過ぎない、、、個人が感情、思考を作り出すというのは妄想で、、その妄想がただエネルギー変化で起きた、、、しかしその妄想もいずれ変化する、、、たった一つのエネルギーが作り出している世界であるという気づきが起きることで、、、

言われてみればそうだよね

覚者が話す内容は当初は全く理解できないでしょう、、何を言っているか意味不明、、ですが根気強く学んでいきますと、、、確かにそうだよね、、言われてみればそうだよね、、となっていきます、、、必ず、、なぜならば真実は一つだからです。。。必ず真実にたどり着くことだけは分かっているのです、、、ただしこの自己意識は食べるために発達した機能ですから、、、今食べれているにも関わらず認識を変えたいとは全く思いません。認識を変えたくないという衝動と、、全てを理解して楽になりたいという二つの衝動が同時に起こるため苦しさを伴います。

分離感覚を持たないと生きていけない時期がある

分離感=悪ではない

ある程度の分離感はないと生きていけない部分はあります、、ですから幼少期から大人になる上でのプロセスとしての分離感は悪いわけではありません、、、学生時代に多くの言葉を覚えた方は強烈な分離感を所有することになります。この世界を言葉というイメージで完全に分離してみせるというマジックを自身にかけているからです。

完全に分離してしまった世界をまとめていく作業

完全に分離して見える世界を今度はまとめあげていく作業、、これが抽象度を上げていく作業です、、、「つまりはこういうことだよね」というのは、、細かく分離解体した世界をカテゴライズして一まとめにしていく作業です。。すると小まぐれではなく、、大きく分けて見ることができますから、、分離から融合に進み、、悟りへの方向に舵をきれます。。。人生を楽に生きているように見える人とは、、、実はこれをやっています。

最後はカテゴライズ自体がなくなる

抽象思考をしていく、、細い情報をカテゴライズしていくことをしていきますと、、、分離感が減っていきますから生きやすくなります、、、この流れで、、、最終的には何一つ分離していなかったという気づきに至るのが悟りです。この体も、あの体もたった一つのエネルギーで形成されていて実は何も分離はしなていない、、分離しているように見えているだけ、、、思考も感情も全部が全部同じ場所からただ起きていて、、そこには実は意味がないことに気づきます。思考を観察する個人も存在せず、、思考は起きては存在が気づき、存在の中に消えていく、、そしてまた存在から思考が湧き、また存在に消えていきます。

土砂降りの雨

ツイてない私

外は土砂降りの雨、、、ツイてない私、、、、もうこれはストーリーです、、、私も雨も、、、、人間が作り出した言葉、、これはイメージです、、このイメージの世界に直ぐに入り込もうとする動きが慣性の法則で働きます、、、この慣性の働きを止めなくてはならない、、、本当はただ起こっただけ、、何かが、、、そこに「私」という巻き込まれた存在は居ない、、それはイメージです、、

ツイテル私

パチンコで5万円稼いだ、、、ツイテル私、、、、もうストーリーです、、、パチンコも、五万円も、私も言葉が作り出したイメージです、、、このイメージ、ストーリーを経験することで、、「嬉しい」が湧く、、、ストーリーの中で、、、、ですが嬉しいは一瞬現れ、、、直ぐに消える、、、この世界、このストーリーの世界の最も怖いところ、、、嬉しいは直ぐに消えるのです、、、だから焦る、、、もっと嬉しいを欲しい。。。ストーリーではこんなことが起きます。

「私」に興味がなくなる

ツイテいようと、ツイテいまいと、、、結局意味が無いのならば、、じゃあ明日から何をすればいいのか???この私は、、、、先ずはこの私はイメージ故に本当の幸福を継続することができないことを理解します、、一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵、一瞬の快楽、、、しか経験できない存在(イメージ)だと理解します、、あぜならばこの「私」はイメージ故に、、、ストーリー上の出来事に対し何も得ることができないのです、、、そこを理解するとイメージとしての「私」に興味がなくなります、、、そこを満たしても意味がない、、、コスパが悪い、、、

私への興味が減り、、真実をすることしか興味がなくなる

このイメージとしての「私」は継続した幸福を獲得できないのならば、、、もうこのイメージとしての「私」に関わる必要がない、、、関心を捨てていいのです、、関心を向けるべきは、、本当の幸福、持続可能な幸福です、、、、ここに関心の全てを向けます、、、、それが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。本当はこの現象の全てを引き起こす真我こそが自分です、、この夢を作り出し、私物語を作り出した張本人が自分です。