真実

幻想に触れると重くなり、真実に触れると軽くなる

真実は軽い

今が重い時、、、今苦しい時に多く方はどうしたらいいだろと考えます、考え続けます、、、するとどうでしょう、、どんどん重くなっていきます。これはなぜか??思考の世界に入り込んだからです、酸欠の世界に入り込んだからです、「非二元」欠の世界、「神」欠の世界に入り込んだからです。「大いなる一つ」欠の世界に入り込んだからです。真実欠の世界です。真我欠の世界です。ワンネス欠の世界です。さすがに理解できたでしょうか?笑そうです、、、思考の世界というのは、、、、楽な世界からガンガンに遠ざかる世界ということです。

五感に集中していく

今が苦しい、、、そうしたら真実が足りていないのです、こう考えます。真実が足りない??そうです、今が足りないのです。体に意識を向けるのです、運動したり、食事をしたり、友人とおしゃべりしたり、、、、五感の活動に専念します。体はいつでも今にありますから体に意識を向ければ真実が押し寄せてきます。幻想の世界がぶっ飛ぶのです。運動を習慣化する、全ての作業を無心になって取り込む、思考を放置する、、、とにかく思考と距離を置く生活に切り替えるのです。幻想、分離を徹底的に排除していくのです。

反復に集中する

多くの方は自身のタスク処理に思考を使ってしまいます。どうやったら効率良くできるか、どうしたら無駄なくやれるか???タスクに思考を入れてしまい苦しみます。そうではなく単純に反復反復で処理していきます。一切の思考を排して思考の介在を抜くのです。1日に何度も取り組んで反復でタスクを処理していきます。最後までやり切る、、思考はこんなことを言ってきますが無視です。ガン無視です。思考は思考を使わせようと必死です、そこを反復で処理していきます。公文式です。これで全ての作業を思考抜きで行えます、五感のみで行えます。無我、無心、非二元が押し寄せてきます。

体は何も所有できない、思考はあらゆる物事を所有していく

軽いの究極が悟り

軽いの究極が悟りです、重いの究極が苦しみです。体は何も所有できません、所有するのはいつも思考です。体の感覚に身を委ねて生きていきますと何も所有できなくなります。一方思考優先で生きていきまストあらゆるものを所有していくことになります。体優先は事実優先、事実の先には真実があり、真実の先に悟り、非二元があります。ですが思考の先には思考しかなく、これは虚の世界、幻想の世界です、ここは真実からどんどん離れていく世界です、苦しい世界です。

仕事など3割の力でできることでいい

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなりました、真面目な方だったということです。真面目な方は手を抜くのが嫌いですから何でも全力投球、それは素晴らしいことです。ですが自身の実力が至らないようなステージに上がってしまっても頑張ってします、何とか爪痕を残そうとする、、、これらは思考の世界です。思考の世界にガンガンに入っていきます、苦しくなります。仕事は三割の力でできるようなことがあるはずです、そこで真摯に向き合ってやればいい、この仕事は格好が悪い、見栄えが悪い、評価が低い、、、これらは思考です。苦しみの世界です。

思考のトリックを見破る

仕事で結果を出せなくて悩む、思考する、、、すると思考の世界に飲み込まれていきます。どんどん苦しくなります。そしてなぜこれほど思考しているのに苦しいのか?とさらに悩みます。結論を言えば思考しているから苦しいのです。仕事で結果を出せないのは実力が至らなかったから、それだけ。淡々とその事実を受け入れ実力で食べれる世界を探すのみ、そこに思考は実は入りません。ですがそこで考えてしまう、どうしたら結果が出るだろうか??ここから苦しみの世界に入り込んでいきます。

完璧な事実に対し不満をいう「思考」

現象は全部完璧

我々の前に現れる現象で完璧でないものなどありません。山に行けば完璧でない自然現象など絶対にない、、川があり木が育ち、動物がいて、、完璧なバランスで成り立っています。不完全を探す方が難しい、、、これは人間社会でも全く同じで全てはバランスで成り立っていますから完璧に向かって宇宙現象がただ起こっています。この宇宙現象に対し人間の思考(自我)が不満を言います。この不満は恐ろしいほどの無知から成り立っています、だからここに乗っ取られると苦しくなるのです。

不満を言いたがる「思考」

思考は常にこの目の前の事実、現実、現象に不満を言いたがります。というよりも不満を言うのが仕事みたいなものです。思考の役割はこの体を維持して行くことにありそれが最優先です、ですからこの不満は当然と言えば当然です。ですがせっかくのこの思考に引き込まれていきますとひたすらに苦しい、なぜならば思考が述べる不満は事実とは全く関係がないからです。そして事実には苦しみがありません。

思考で悟ることもできない

しかし思考によっては人を軽くしてくれるものもあるではないか??一時的にはしてくれるかもしれませんがあくまでも実戦でそれを腹落ちしなければそれはその場しのぎです。自己啓発セミナー、成功セミナーの受講生がなぜほとんど成果が出ないのか??それは実践が伴わないからです。実践とは五感(事実)の世界です、五感(事実)が五感(真実)を呼びます。五感(事実)の先にあるのが非二元、無心、無我です。思考の先には思考(幻想)しかありません。幻想の先には重さしかありません。

探求をやめない限り全体は見えない

先ずは探求をやめる

自分とはこの居心地の悪さを常に解消すべく動き回る存在です。自分とは孤独感、喪失感の根本を見ようとはせず常に何かしらの行為でこれを解消しようとする存在です。自分に行動、探求を許せば自分はひたすらにこの行動を続けていくことになります。なぜならば今というここにただ居るのは非常に苦しいからです。だかこそ先ずは探求、行動を辞めなくてはなりません。いかに苦しくても先ず行動を止めること、ここがスタートです。

行動の先に真実がない

先ずは動け、、、これを人間は真理のように言います。ですが全体は自分の行動の中では絶対に見えないようになっています。なぜならば自分が動けるのは時空間の中だけだからです。目を見開いて全開で行動すればそこから時間、空間が生まれ出し、、幻想の世界にどっぷりと浸かることになるのです。そこには全体、神は居ません。

全体は個人が動くのを辞め、個人を解体すると現れる

全体とは個人が動くことを諦め、個人という構造を解体することでそこから現れます。個人という存在が全体を隠しているのであってその個人が全力で存在を探すのがギャグになります。個人という存在が抜け落ちた時こそ全体が出現します。個人が実は幻想であることを見抜くことで見える世界も幻想であり、、ゆえに動くことでは何も掴むことはできず、そしてそこに気づくしかありません。

全ての価値観はトリック

全価値観はトリックである

価値観とはこの体、思考、感情が「自分」でありその自分が体験した経験こそを土台に構築されています。人は信用できない、、、という価値観を強く持った際にはそれが土台になりますし、その思考で世界を分離して見ますから街を歩けば信用できなそうな人間ばかりが目に入るようになります。ですがこれはその人がそのような思考を通じてこの世界を見ていることによって成り立ちます。ということで全価値観とはトリックです。本当はこの世はたった一つのエネルギーしかなくそれゆえ分離は一切ありません。価値観を所有する個人は実はいないのです。

では価値観には意味がないのか??

価値観は悪ということもありません、価値観を所有すればその価値観に沿った世界が分離をして見せそのような世界が広がるという事実だけがあります。それに良い悪いはありません。神はこのように人間体験をしているというだけです。人間は独自の価値観を構築しその価値観を通じてこの世界を構築します。その世界が苦しすぎる場合その人間は新しい考え方を取り入れていき価値観を徐々にシフトさせていきます。すると見える世界が変化をしていきます。それでもこの苦しさ、居心地の悪さが完全になくなることはないのでそこからも価値観は徐々に変わっていくということになります。そして苦しみが完全に解消するまでこの試みは続きます。

どんな価値観を所有するか、、その人の世界

どんな価値観を所有するかが、、その人の生きる世界になります。その世界はあくまで分離世界ですからどこまで行ってもそれは嘘、幻想です。世界はたった一つのエネルギーで構築していますから分離して見えている時点でそれは価値観に支えられた世界です。真実ではありません。真実はこの世は一つこれだけです。これ以外は全部幻想、妄想です。その人がどのような価値観を所有しどのような幻想の世界に今生きているか、というだけです。

自我は言う、悟った暁には絶対に幸福になれると

自我とは大いなる勘違いした存在

悟りという言葉ほど誤解されている言葉はないかもしれません。悟りとは、、、個人が成し遂げるもの、、この誤解を最もされています。あの人は悟っている、あの人は悟っていない、、、、どこまで行っても悟りをこの人間と結びつけたがります。ですが実際にはこの誤解こそが悟りを人間から遠ざける結果になるのです。人間が彷徨いながらこの世界を生きていく時、「悟り」こそがこの苦悩を終わらせるメッセージであるにも関わらず人間はこの「悟り」を理解できません。なぜならば人間が実は幻想という身も蓋もないメッセージだからです。

神から自我へのコンフォートゾーンのシフト

コンフォートゾーンで説明すると悟りは一気に理解できるようになります。先ず第一にこの世界の主人公は全体、神、ワンネスです、主人公というよりも、、それしかありません。たった一つのエネルギーだけがありそれが姿を変えて現象化しているだけ、、、これが真実です。で、その中で人間という形をとった生命現象が出現しました、、この生命現象は独自の進化を重ね、体、脳を相当なハイスペックなレベルにまで向上させました。これにより全体、神、ワンネスはこの人間に意識を集中させる、コンフォートゾーンを全体から人間にシフトさせることに成功したのです。

これに成功した神は。。。

これに成功した神はそこからは自身を人間として生きていくことになります。人間と人間以外の世界を生きることに成功したのです。その世界では常にこの体を守っていかなくてはならなくなり、、必死になって知識、体力を付けていきます。全ては生き延びるため、、、人間になり切った神はこれを消滅させないために必死に生きていくのです。ですがそれと同時に人間にコンフォートゾーンをシフトさせた状態では絶対的な永遠の幸福に至れないことも知っています。なぜならば神=人間ではないからです。これはどこまで行っても茶番に過ぎずだから人間は常に不足感を抱えて生きているのです。

人間に成り切った、人間にコンフォートゾーンをシフトした神は、、、

この人間体験を大いに楽しむわけですが、、そのためには自分が神であることを忘れる必要がありました。ですが実際には神は自身が神であることをどこかで気づくことになります。いつまでも人間になり切って自分が神であることを忘れ続けるのは難しいものです。それはある意味人間としての幸福実現の限界に達した時かもしれません、、、どこまで走れば人間は幸福になるのか???これって本当にゴールはあるの????こういった疑問が人間から湧いてくるようになると人間に成り切った神はそもそもが大天才ですから本当のことを思い出すようになっていきます。

コンフォートゾーンと悟り

100万通りでの悟り解説

世界にあらゆる宗教が存在するのは真実を意表す方法は100万通りあってもいいわけです。ということで私もこのブログであらゆる例え話で悟りを解説していきたいと思います。その一つがコンフォートゾーンという切り口、この切り口は苫米地英人さんが行う苫米地式コーチングから学びました。彼のコーチングの最大の特徴はゴールをコンフォートゾーンの外に設定するということ、ここが他と圧倒的に違います。コンフォートゾーンの中のゴールは現状維持でしかない、こう断言します。例えば巨人軍の選手が巨人で四番を打つのはコンフォートゾーンの中にあるのです、ここを目標にしますと達成が近づくにつれ目標意識が落ちていきます、そうではなく巨人では絶対に達成できないような目標をゴールにせよ、、、これが苫米地式コーチングの特徴です。例えばヤンキースで四番を打つ、、これならば巨人に居ては達成できません。これを目標にせよ!ということです。

実はこれコンフォートゾーンをズラすトレーニング

このコンフォートゾーンの外にゴールを置くという真の目的はコンフォートゾーンをズラすことにあります。多くの方はコンフォートゾーンの中に居続け死にます。一生同じコンフォートゾーンの中に安住してそのまま死にます、しかもそこが居心地が悪くてもです。どんなに居心地が悪くてもそこで食べていけるのならばそこに居ます、これがコンフォートゾーンです。だからこそコンフォートゾーンの外にゴールを設定せよ!が生まれるのです。実はこれ自我の働きそのものです。自我は自身の存在を消滅させたくないので一度そこで食べてると知るとそこに居続けようとする働きがあります。ですが同時にそれはそれで苦しいのです。同じ場所に居て自我を存続させたい、だが本当は居たくない、、、なぜならば自我の本質は神だからです。神は神に戻りたいのです。

自我がここに居たい、、だが自我の本質は居たくない、、、

苫米地氏はコンフォートゾーンをズラすことを積極的にせよと唱えます。悟りの観点から説明するとどのコンフォートゾーンも居心地が必ず悪くなると説明します。なぜならば自我の本質は神であり神は人間であるというこのコンフォートゾーンこそが苦しいのだと。苫米地氏は目標を達成する前にゴールを常に上に上いに設定せよと説明します。そして自身のゴールは世界平和、戦争の廃止、差別の解消であると唱えています。これは自己超越です、悟りです。悟りの観点では、、、目標設定の最終ゴールを悟り、神と設定することで最初から今の苦しみの根源を解説していきます。

知性では非二元は理解できない

言葉での理解を超えている

非二元は言葉によって二元の世界に豹変します。言葉こそが二元を支える土台です。その言葉で非二元を理解しようというのが人間の試みです。言葉で非二元を二元に表変させておいてその言葉で非二元を探すというこれはとんでもない矛盾行為を行なっています。それでも人間はなんとか非二元、真実を求めてそれを指し示す言葉を探すのです。

詩を読むように世界観に触れていく

私がお勧めする方法は詩を読むようにこの世界観に触れていくことです。ピカソの絵の素晴らしさを理解したければあらゆる「絵」に触れるしかありません。おそらくこれを言葉で理解するのは不可能でしょう。そうです、良い音楽も良い小説も、良い絵画も言葉で説明できるわけがない。非二元も同じです、これを言葉で理解するのは本来不可能でありゆえにこれは触れて触れて真実を掴むしかありません。

良い詩を作るのにマニュアルがない

良い詩を作るのにマニュアルがないように、、、非二元を掴むマニュアルなどあるはずがありません。ただ非二元は常に今ここにあり逃げることは絶対にありませんから少しずつでも触れていくしかないのです。ですが非二元に触れると言ってもこれは実態がない世界ですから焦れば確実に空振ります。ピカソの絵の素晴らしさを理解するマニュアルがないように非二元を掴むマニュアルがないこと、このことを理解すること、これが言葉の限界です。

今ここに故郷があることを探求者は認めない

今ここにあってはいけない

遠い未来に故郷はあるべきで今ここに故郷があってはならない、、なぜならば遠くにあるという大前提で今まで来たのだし、これからもそうだ、、これが探求者の思考です。今ここが不満足、欠乏、居心地が悪いから探求を続けてきたというのに「今ここ」が故郷だと言われてしまったらもう何もできないではないか、、、という理論です。ですが本当のことを言ってしまえば、、、故郷はここにしかありません。なぜならば今我々が見ている本質は宇宙のアートそのものだからです。にも関わらずそう見えていないのは宇宙のアートを切り刻んでしまった「自分」が存在するからです。

幸せの青い鳥は真実

幸せの青い鳥、、この童話の真意は分かりませんが、、、今ここに全部、故郷があるのは紛れもなく真実です。なぜならば今ここに動く空、色が顕現しているからです。ですが我々はそれを見ることがっできません、我々ができることは切り刻まれた色の世界、色の残骸のみです。今目の前に灰色の景色が広がっているならばそれがあなたの切り刻んだ世界です。覚者は一切の切り刻みを見抜きありのままの色を見ているのです、ありのままの色とは動く神、宇宙のアート、ダイアモンドの変容です。

足を知ろう、、、は間違い

欲を捨てろ、、、これは仏教の常套手段ですが、、、真意を知らないでこれを忠実に守ろうとすればただ絶望的な人生を歩むことになります。確かに故郷はこの目の前にあります、桃源郷は今目の前にあります。ですがそれが見えない、、、、その見えない理由とは何か?それを見れていない「自分」とは何か?ここまで掘り下げていきますと「足を知る」の真意が見えてきます。この「自分」が貪って貪って今ここ以外に幸福を求め歩き続けてもこの不足感が解消することはない、、、これが真実です。この貪る「自分」の欠落、分離の真相を見抜くことで目の前に故郷が再び現れます。

「最初に言葉あり」の真実

言葉がこの幻想を作り出した

本当は二のない一つのエネルギーが織りなす世界が我々の前にはただ在ります。今もこして私はPCでブログを書いていますがその瞬間も目の前に二ではない一つのエネルギーが蠢いています。ところが実際はそうは見えない、、これはなぜか?我々が言葉を覚え生命現象に名前を付けたからです。ここが超重要なポイント、ここが最大の転換点です。これこそがこの2のない一つのエネルギーを分離した世界に見せているのです。

先ずは「自分」を言葉が出現させた

言葉を覚えていく過程で一番最初に覚えていくのがこの「自分」という存在です。この「自分」という存在を言葉によって作り出しました。これによってこの2のない一つのエネルギーの中に自分と自分以外という分離した世界が出現したのです。たった一つの宇宙現象が分離世界というイリュージョンに変化していきます。これを脳が意識的に行います。宇宙全体、大いなる存在による幻想の出現です。

あらゆる生命現象に名前を付けていく

言葉を覚えた人間はあらゆる生命現象に名前を付けていきその度にその物と物以外という分離を起こしていきます。世界がバンバン分離していきます。意識した物が宇宙現象の中から切り抜かれていくのです。それによって確実にこの「自分」は生存しやすくなっていくのですが、と同時にこの宇宙アートがアートではなく殺風景な風景に切り替わっていきます。現実という錆びた世界に切り替わっていくのです。世知辛い世界に宇宙のアート、神の顕現が格下げされていきます。