夢の中でのあらゆる戦略は無駄に終わる

夢の中で夢の外のことは分からない

我々が生きている世界は間違いなく夢の中の世界です、、、事実、リアリティ、神羅万象は我々の目の前に確実にあります、、、ですが、、、そこに大脳が作り出した、、、イリュージョンが重なっていきます、、独立した存在(名前が付けられた)がボコボコと現れ、、、自分(名前付き)も現れ、、、劇場がスタートします。これは自分劇場という夢です、、、なぜならばこの現象界に独立した存在など不在だからです、、、にも関わらず我々にはハッキリとそう見えます。一度このイリュージョンを現実と勘違いしてしまったら、、なかなか夢から覚めるのは難しい、、なぜならばこのイリュージョンの世界の中に覚める方法が落ちていないからです。

メッセージを受けてもピンとこない

悟りというネーミングは小学生ぐらいで学びますが全くピンとこない、、、悟りとは???という疑問すら湧かない、、、それはそのはず当初はこのイリュージョンが楽しくて仕方がないからです、、、、ですが大人の階段を登り始めた途端に、、徐々に重くなる、、、気づいてみたらどっぷりです。そして夢であるという事実は完全に忘れ去られています。。。。ですがあれ???こんな苦しかったっけ???です。

まーまー苦しいですけど、、、

大人の階段を徐々に登り、、、しかもしっかりと登り始めると、、、かなりこの自分劇場は苦しくなります。。。そこで我々は精神世界やスピ、哲学、、そして悟りを学び始めるのです。。勘が良い方は、、、恐らく解脱以外に幸福になる方法はないことを悟りますが、、しかしメッセージが難解なのです。なぜならば悟りは体感で得ていくものだからです、、、メッセージを徐々に徐々に体に染み込ませるこのプロセスは骨が折れるのです。

メッセージが腹落ちしていく、、

悟りを体得しないとこの苦しみは絶対に終わらないという半ば諦めこそが悟りへの情熱になります、、あらゆる経験を重ねることでこの想いは確実に増えていく、、、なぜならば夢の中でのあらゆる幸福戦略はどれもはかなくも砕け散るからです。ということで年々増していく悟りへの衝動こそがこの体得を完成させるのです。

自由意志はないは虚無主義?

自由意志はない、、、

自由意志はない、、、これは虚無主義ではありません、、、完全なる受け身、完全なる神任せ、、、これは無気力に生きることではないんです。。。そうではなくやる気も積極性すらも全部全体、神羅万象から湧いていますよ、、ということです。。。なんかやる気が強烈に湧いてきちゃって、、、そうです、、、全体から湧いているのです。。。この事実に明晰になるのです。

どんどん明晰になっていく

全ては湧いているならばもう何も悩まずにボーとしていよう、、、まあなんでもいいのです、、、不思議なことに無駄な思考が減りますと、、、とんでもなく頭が明晰になっていきます、、、常に気づきの意識であるのですからこれは当然、、、明晰な頭脳であらゆることにチャレンジするようになります、、、本当にこれは神に使われている使徒のようです、、、そして起きた結果についても一切悩まない、、、なぜならばその行動、結果が起きただけだからです。

一番重要なことは、、、

自由意志がないことが腹落ちしていきますと、、とにかく思考が湧いてこなくなります、、、思考のラリーが起きないのです。。すると空白が空きます、、無意識の思考のおしゃべりが完全に止まります、、、するとそれらを観察する気づきの意識が現れます、、、ずっと隠れていた気づきの意識が現れるのです、、、これが目的です、、気づきの意識を引っ張り出すためにこの理論は重要なのです。思考の言動の全てを全体に委ねることで全体、気づきの意識が言動を観察するという状態になります。

自我同士の会話に興味がなくなる

赤の他人の会話に入れない

赤の他人同士が楽しくおしゃべりをしている、、、、自我同士の会話とは損得の会話がほとんど、、、そこへの興味が減っていきます、、、機能としての自分ではなく、、、主人公同士の会話、、、、これは苦しい、、、ですがここでも機能としての自分が何か役立てればそこで役目を果たし、、役目がなければ参加しなければいいのです。

機能としての自分で社会に参加する

この自分は実は居なく、、、機能としての自分しか存在していない、、、これが腹落ちしますと、、、機能として社会にどのように関わるかしか興味がなくなります。。。自分の損得で周囲と関わることはもはや不可能です、、なぜならば損得では幸福になれないことを完璧に理解しているからです。そこからの人生は機能としての自分がいかに社会に役に立てるかしか興味が湧かないでしょう、、先ず見える人間全てが同価値に見えますから、、特定の誰かのみを大切にしたいという執着がないのです。

ただしその行動も自由意志は働かない

とはいえこの自分には自由意志は完璧にありませんから神羅万象の動きにこの機能上の自分は身を委ねるしかありません。これしか選択肢が用意されていないのです。ただこの事実こそ多くの方は全く理解できないでしょう、、これは理解ではなく体感で感じていくものです。何かに集中し無我に入る、自由意志がないと思って生活してみるなど、、、です。。これが理解ではなく体感に切り替わった時、、安堵が湧いてきます、、平和が訪れます。

悟りとは全てが同価値であることの気づき

優先順位がないことの気づき

全ては神羅万象の現れ、この自分、相手も、世界の全てもが神羅万象の現れですから、、、そこに良否、善悪、優劣は絶対にないわけです、、あったらおかしい、、、、全ては同価値、、、、これが真実です。ですがその中で生きる我々は常に優先順位を考え、、、何を優先するかを考えていきています。。。これは間違っているのか???違います、、、、本来は完全なる同価値であることを把握し、、その上で、、、便宜上、機能上優先順位を付ければ苦しくないのです。。。

全ては同価値、、、

これは本当に幸福なことなのです、、全てに価値がるという気づきは幸福です、、、自分だけが価値があり、、それ以外には価値がない、、、これは苦しい、、、悟りとは全肯定、全価値平等、、そこが分かった上で、機能上、、何かを優先して生きていきます。。。本当は全てが同価値であることが分かっている、、、この認識の有無が幸福に大きく影響します。

空に触れる

空に触れる、気づきの意識そのものになる、、、この体感が神羅万象、全てが同価値であることに気づかせます。私は何かに集中する、無我に入ることでこの体感を得ていきました、、、そして人間の全ての行為が神羅万象から、気づきの意識からただ起こっている気づきを得ました、、、この自分という存在ですら神羅万象の動きの一つであるという気づきが起きました、、、これは体感で得ていきます。

自分を雑に扱うことではない

全ては同価値であるのは分かった、、、では自分よりを他人を優先して生きていってもいいんですよね????という疑問が生まれるはずですが、、、自分を大切にしなければ、、先ず生きていくことができません、ですからこれは他者優先主義ではありません。機能としての自身を大切にしていくことになるでしょう、、、とはいえ、、、神羅万象の動きから脱して自分が何かを自由意志で行うことはありませんから、、、そこに介在できる自分が居ないというのが答えです。

解釈の世界

我々は解釈の世界に生きている

どんな言葉を覚えたかによって我々は生きている世界が全く違います、、、例えば小さな子供にとって最初見える世界に独立した存在は皆無でした、、、ただ揺れ動く神羅万象があるのみ、、、例えば公園に行ってもそこに何か独立した存在など居ないわけです、、、母親は必死になって、、、チョウチョという名前を連呼することで、、、次第に子供の世界にチョウチョという独立した存在が浮かび上がったのです。

名前がなければ存在しない

会社に入って間もない頃、、、会社の中の言語が全く分からないですから、、視界にはPC,デスク、チェア、、窓、人間ぐらいしか存在しないはずです。ですがそこで徐々に社内用語を覚えていきますと社内にあらゆる物が溢れていきます、、、PR用〇〇、営業用〇〇、、、など、、、つまり言葉を覚えることでそこに何かしらが突如現れるのです。

便宜上の名前が、、、

究極を言ってしまえばこの私も、、、名前を覚えるまでは存在しなかったのです、、名前を親から連呼されることで、、、この世に現れたのです、、、、信じられないかもしれませんが事実です。。。ですから、、この私は方便、便宜上の存在なのです、、、、この便宜上の存在は便宜上であることが分かっているうちは苦しくないのですが実在しているという大勘違いに入っていきますと突如深刻さが湧いてきます、、、なぜならば本当は実在しないからです。

便宜上の存在は分別ある大人になる??

便宜上出現したこの「私」が今度は分別ある大人になるよう、、導かれていきます、、、もう苦しい世界です。。嵐に巻き込まれていくようにこの便宜上の「私」は「社会」というものに飲み込まれていくわけです、、、想像するだけでしんどいですよね、、、そうです、、、しんどいんです、、、、便宜上名前を付けまくって便利な生活をするだけのつもりが、、、便宜上が、方便が、、、、リアリティであるという大勘違いが起き、、苦しい世界になってしまったのです。これはリアリティでは絶対にないのにこれをリアリティであると信じるから苦しいのです。

これはリアリティではない、という事実に戻る

我々が見ている世界はリアリティではありません、、、言葉を覚えることで後天的に作り出した世界です、、、この世界は便宜上のものであり、、、事実ではない、、、だからこの事実ではない世界に真剣に入り込むのはおかしなことです、、、、勝手に後天的に作り出しておいてなぜそこに入って真剣に生きなくてはならないのか????入る入らないは自由でしょう。ノンデュアリティに生きるとは本来の世界に戻りましょう、ということです。便宜上作った後天的な世界に巻き込まれず、、あくまで便宜上の世界であることを見抜き、、上手く利用していけばいいのです。

矛盾

悟りのメッセージは矛盾だらけ

悟りのメッセージは矛盾が多いのも特徴の一つです。これは主語が変わると全く異なったメッセージになってしまうからです。私という主語、、、この私をこの体の所有者としての私、、、全体そのものである私、、、神羅万象としての私、、神羅万象すらをも起こす存在としての私、、、とそれぞれ異なるのです。。。主語が違えば、、、結論は全部異なりますから混乱します。

コミュニケーションでは、、、

コミュニケーションでは、、、この体の所有者としての「私」が必要になります、、、相手はこの「私」に話しかけてくるからです。。。ですがこの「私」の不在を悟りではお伝えするわけですから混乱します、、、「私」が「私」の不在を説明するという意味不明な現象が起きるわけです。「蜃気楼」が「蜃気楼」の不在を説明するという現象が起きます。

神羅万象が「蜃気楼」を通じて蜃気楼の不在を説明する

悟りメッセンジャーとは、、、神羅万象が「蜃気楼」を通じて「蜃気楼」は実は無いんですよ、、と説明しているようなものです。蜃気楼が説明してしまったら、、、あるじゃん!!になってしまうのが辛いところ、、、ですが蜃気楼が実在しなくとも、、、視覚としては100%ありますね、、これと同じです。。人間は五感レベルでは100%在るのです、、そこに脳の六感が加わり、、その中に「私」が居るが100パーセント感じられているのです。

なぜみんな悟りに興味が湧かないのか?の罠

神羅万象の動きは完璧

なぜ多くの人は悟りに興味を持たないのか????悟りに興味がある人は抱くかもしれません、、、ですがこれも罠です、、自我の罠です、、、神羅万象の動きにミスは100%ありません、、神羅万象はただ動くのです、、この動きに思考が当て込まれ、、、そのように見える現象が浮かびました、、そこを忘れてはいけません、、、あの人も悟りに興味を持てばもっと楽になるのに、、、、違います、、そのような神羅万象の動きがあっただけです。

自身の統合

見える世界は観念の世界、、この観念の世界は、、、自身の統合によって統合されていきます、、、自身の絶対肯定によって再統合されていきます、、、、あくまでも見える世界は自身の分離感が投影された世界であることを自覚します。。すると見える世界には一切の問題がないことが分かります。。。。これは自身の鏡、分離発見機ぐらいの感覚でいいでしょう。

問題を抱えている人は居ない

全ては神羅万象の動きですから、、、そこに問題を抱えている人が居るように見えてもそれは見えているだけです、、、神羅万象の動きに、、、問題を抱えた独立した存在は居ません、、、これははっきりしています、、つまりそこに問題を抱えている人が居るように見えるならば、、、、私の中に分離が存在しているのです。私の中の分離がそこに投影されているのです。

神羅万象への信頼

今もこうして生きている

神羅万象への信頼、、今こして私が生きているのは神羅万象が生かしたのです、、私は今年で45になりますが、、、神羅万象が生かしてきました、、、、この事実、、、これは神羅万象への信頼になります、、、二十年前から悟りに興味を持ちましたが、、、これも神羅万象の現れです、、、、そこから二十年間ここへの興味が失せることはありませんでした、、そこも神羅万象への信頼になります。。。

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れ

超個人的な葛藤の全てが神羅万象の現れです、、、全部個人的なものであると孤独に感じていましたが、、、そんなことは全くなかった、、、全部神羅万象の現れだったのです、、、、、これは癒されます。。。。そして肩の荷が降りていきます、、、、ただ葛藤が起こっていたんだなーという癒しが起きます、、、、なぜこんなことを悩むのか???他人はこんなこと悩んでいないのでは?????違います。。、、全部神羅万象から起きたのです。

それでも神羅万象の動きは止まらない

神羅万象の動きが止まることはありません、、、ですがそれを感じている自分(気づきの意識)は本当に静寂にこれを感じています、、こんな静寂が本当にあったんだなーと、、、本当に懐かしい感覚、、、でも感覚はいつもここにあった、、、ただ隠れていただけ自分から、、、光は暖かく、、音は静寂に、、、食事は美味しい、、、神羅万象の動きはあってもそこは変わらない、、、、

人間活動とは悟りへの抵抗

人間活動が悟りを遠ざける

今目の前に悟りがあります、、、今目の前に究極のリアリティがあります、、、今目の前に真我、、、神羅万象があります、、、、これを遠ざけるのが人間活動です。。。個としての自分が、、、、活動をする。。。。この分離の世界で、、、、これで。。真理は見えなくなります、、、真我が隠れます、、、、神羅万象が物質世界に変化します、、、、だから苦しい、、、、結果人間活動が加速されます、、、もっとこうすれば、、もっとこうなれば、、、もっとこうしてみれば、、、、が続きます。

個人は真我を見つけることができない

個人はこの真我を発見できません、、、なぜならば、、、個人という存在が真我を隠しているからです。。。。個人が実は、、、後天的に付けられた名前に過ぎないこと、、、にも関わらず本当に自分が居ると信じ切っていること。。。。この摩訶不思議な事実を覆い隠し、、、みんなそこには一切触れずに生きています、一生懸命、、、、そこにメスを入れます、、、、その矛盾、そのパンドラの箱を開きます、、、、

確かに、、、

後天的に付けられたこの名前、、、になぜ自分というパーソナリティーが宿るのか????考えてみれば不思議な話です、、、、ですがこの後天的存在を自分は全体に手放さないのです。。。。。ということでこれを手放すまで苦労は続きます、、、、八方塞がりになり、、、常軌を逸した状態にならないと。。。。自我を手放さない、、、、ですが徐々に徐々に人間活動は疲れていきますから、、、いずれは全員が悟ります。

影響を与えているという実感

ヤカンに火を入れると沸騰する

我々が自身の自由意志にどっぷりハマってしまう理由は個人の行動の全ては結果に集約されるからです。ヤカンに火を入れれば沸騰する、、、洗濯機をオンにすれば、、洗濯が終わる、、、全部が全部選択には結果が伴うのです、、、だから人間関係にもこれを応用し、、、言動を選択し、、、、関係を構築していると勘違いしています。

はい、、全部神羅万象の現れです

ヤカンに火を入れるのも、、、友人との会話の内容も、、、全部が全部神羅万象の現れです、、、と言ったらどうなるでしょうか????今までの苦悩が全部吹っ飛びます、、、、重さが全部吹っ飛びます、、、ただ同時に功績も吹っ飛びます、、、、全部がダイナマイトでぶっ飛ばされます。。。。そしてその後静寂が続くのです、、、、この静寂こそが、、、、素晴らしい、、、子供の頃に感じていた静寂。。。。

神羅万象の劇場として楽しむ

我々は言語を記憶することが出来るようになることでこの神羅万象に、、、独立分離した存在をたくさん作り上げました、、、、、本当は神羅万象ですからそこに分離は絶対にないにも関わらず、、、間違いなくあるかのように、、、見ることができます、、、、アメージングな才能です、、、、これをそのまま楽しめます、、、、独立分離しているように見える、、、この世界が神羅万象によって動き続けるという大映画をそのまま楽しめるのです。もしかしたらもう深刻にはなれないかもしれませんが、、、もう十分でしょう。