意識

私を中心とした思考が無くなる

夢から覚めると

この夢から覚めるが起きますと、、、この体の中に私が居るという概念が湧いてこなくなります。すると私を中心とした思考のあれこれが湧いてこない、、、「あの発言は私に対してどういう意味だったのか?」「あれは私のことを馬鹿にした行為なんだろうか???」などなど、、、ストーリーにならなくなっていきます。夢の中の現象がただ起きるという夢の展開だけが起きるのです。現実がこうだから、、私はこいうしようという現実に対しる作戦が起きないのです。

夢とはそういうもの

夢というのは、その現象自体がファンタジー、幻想であって、、それが分かった状態でこの現象をどうにかしてやろうという意欲が湧きません。思考はそれでも湧きますが、、、この現実ってこういうことだよね!という推測が起きえないのです。安倍派の裏金問題というニュースが起きても、、その裏事情を推測するという思考が湧かないのです、、、夢ですから。

あの時こう言われたけど、、何か私がやったのだろうか???

挨拶をされなかったけれど、、何か私が失礼をしたのだろうか?????気づきがない状況では何も起きていないのです。裏事情を推測するという思考が湧いてこなくなります。夢は今起きていること以外には何も起きていない、、この体が無い場所では、、、何も起きていないのです。見かけ上のこの体、この意識が存在しない場所ではパーティーが何も行われていません。

無我夢中の時に消える自分は実在しない

この体は常にあるが

この体は常にありますが、、、何かに無我夢中になる時、、自分の存在を忘れている時ってあります。あれ完全に無我夢中になっていた、、、自分ってそんな簡単に消せるんですか????という話です。もしも消せるならば、、自我は実在しないことになります。では自我はいったい何なのか????それは思考です。時に現れ時に無くなるのであれば思考でしかない。つまり自分なんていうものはやはり実在しないのです。

全思考はノーコントロール

そうだ!りんごを食べようと、、思考する時に、、、、その思考を自分が作り出したという自負はあるでしょうか????恐らく全くないはずです、、、なぜならばりんご食べよう!!!は勝手に湧いてきたに決まっているからです。例えば今日1日おいて思考する内容を最初に決めよう!はできないはず。今日は映画のことだけを考えよう!そう決めたとして、、数十秒後には、、お昼ごはんのことを考えるかもしれない、仕事のことを考えるかもしれない、、、つまり全くのノーコントロールなのです。

自分も思考でしかなく、、思考の内容はノーコントロール

これが真実です、、自分も思考、そして思考の内容は完全にノーコントロール、、、そして友人の中の自我も思考、そして友人の思考も勿論ノーコントロール、、、ノーコントロールな思考だけが行動だけが飛び交うのが人間社会です。そしてそれに気づきが起き続ける、、、それらの思考、行動に気づき続ける存在、、それを真我、気づきの意識と読んだりします。

思考分析を続けると、、、在るのは、、真我、気づきの意織

思考分析を継続していきますと、、、確実に存在するのは、、真我、気づきの意織だけです。ノーコントロールな思考、行動、あらゆる現象に気づき続ける存在、、この体の中に自我が実在しないとなると、、、それは真我、気づきの意識であると逆算されていきます。そうです私たち(思考)は真我、気づきの意識のことを「私」と呼んできたのでした。

空はなぜ色を生み出したのか???

空は絶対完全ゆえに何もしない

空とは絶対完全完璧です、、ここに意識が生まれ、、、などはありません。ですが空は完全完璧完成ゆえに、、、空の中には空の鏡が存在します(完全完璧ですから何でも存在します)、、、この鏡に空が映し出されたわけです、、、するとその鏡には完全完成完璧が映し出されるわけです、、、、この映し出された完全完成完璧が、、色(現象)です。つまり今目の前に広がりる世界(私の前)は完全完璧完成の姿が映し出されているのです。

いやいや、、、全然完全完璧完成じゃないですけど、、、、

ちょっと待ってください、、この不況の日本が、、この大気汚染の日本が、、この税金が高い日本が、、、なぜ完全完璧完成なんですか?????じょうだんじゃない、、、、と思うでしょう。。ですがそれは全部「自分」にとってですよね?????目の前の景色を良く良くみてください、、この景色はアートです、、完璧なアート作品なのです。「私」だけがこの景色にあらゆる意味をつけて不平不満を言っているのです。

目の前に一匹の鳥が

目の前に一匹の鳥が居ます、、、鳥しかいない景色の、、、何が不完璧なのでしょうか???もっと羽が大きければ、、もっと羽が綺麗だったら?????それはこの自分の趣味ですよね、、、鳥は鳥のままで完璧なのです。鳥の進化系???ありません。つまり世界はどのように見えようと完全完璧完成なのです。その中で突如自分という登場人物が現れ悪戦苦闘するわけですがそれすらも、、、無限(空)から派生した、、、無限の表現です、、悪戦苦闘というアートが始まったのです。善戦楽闘もあれば悪戦苦闘もある、楽勝もあれば辛勝もある、、無限になんでもあるという意味でここは完璧なのです。

現象(色)は空(絶対)の無限の表現

我々は毎日現象(色)と空(絶対)を行き来する

起きているとき我々は空の絶対表現、色(現象)の世界の中に住んでいる気分にさせられます。寝ている時空に戻ります、意識すらない状態。夢を見ている時、夢という現象(色)の世界に居ます。というよりも現象(色)が立ち上がると気づきが(意織)が起きるのです、ただそれだけ。現実と呼ばれる現象が起きても気づきが起き続け夢(夜間)が起きようとも気づきが起き続けるのです。

現実も夜間の夢も同じ

なぜ夜間見る夢でも、、、景色が広がり、食事を味わえ、痛みも感じることができ、、コーヒーの香りも感じることができるのか???それは現実も夢も全く同じ、、空から立ち上がった色(現象)であることに変わりがないからです。だから気づきが起き続ける、熟睡時以外は。そしてこのあらゆる気づきをこの体の中に「わたし」が気づいているという思考が立ち上がり、、自我が完成するのです。これは思考、想像であって真実ではありません。真実はただ空から色(現象)が立ち上がり気づきが起きているだけです。

空(絶対)に気づきはない

空は絶対完璧ですから進化も退化も全くありません、つまり何も起き得ないのです。では今この気づきはなぜ起きているのか???それは色が立ち上がることで自動的に気づきが起き続けているのです、色の中で。色の中は無限の現象界ですから何でも無限に起きるのです、あらゆる現象、あらゆる経験、あらゆる気づきが無限の起こるのです。だからといって空が進化するのではなくその無限の活動全てが空が無限である証明作業でしかありません。

究極の静寂=私

全現象に気付く「私」

小さい頃ってなんとなく分かっていましたよね、「私」が全部だって、、だから至福に浸っていました。幼少期にこの体が「あなた」だと学習することで嘘を吹き込まれていったのです。本当は見えるものが全て私だって感じてたはずです。そしてそれが真実なのです。私という言葉は概念でしかなく、、本当は私など存在しませんから「私」を主語にした説明はあくまで間違っています。ですが言葉でこれを説明するときにはこの「私」という言葉を使わないと伝わらないので説明します。

全現象は究極の静寂によって全部気づかれる

人間の五感が全現象に気づいていると思っていますがそれは嘘です。それは幻想、ストーリーの中の話です。本当は全現象に気づいているのは究極の静寂です。この究極の静寂が、、起こる全てに気づくのです。音、色、香、気温、などなど、、、、ではこの体は一体何をやっているのか???そのままです、動くのみ。思考してますよね???思考は湧き上がるのですがそれはこの体の中では起こっていません、体の中で思考が起きるならばそれを究極の静寂が気づきます。思考はただ起こり、、それを気づきの意識が気づくのです。

究極の静寂が気づけない現象はない

究極の静寂は全現象に気付けるから究極の静寂であって気づけない現象は存在しません。友人が「手を振ったのになんで気づいてくれなかったの?」と聞いてきたとしても、、そんな現象は起きていないのです。起きていれば自動的に気づかれます、究極の静寂に。

今も究極の静寂としての自分が居る

世の中の現象(波)に深刻にならなくてもいいのは、、、現象は究極の静寂である自分が居なければ一切気づかれないからです。気づかれなければ現象ですらない、、そして現象は究極の静寂の一部でしかなく、、現象は直ぐに究極の静寂に吸い込まれていくのです。目の前で怒り狂っていた人も、、この体が違う場所に行けば静寂に吸い込まれて消えていきます。所詮は全てそのレベルのことなのです。

渋谷のスクランブル交差点で

気づきの意識は何に気づく

この体は幻想です、幻想ですから、、、渋谷の交差点で周囲に気付くような能力はありません。。。周囲に気づいているとしたらそれは気づきの意織が気づいているのです。例えば渋谷のスクランブル交差点に行けば何千人規模の人の群れに気づくでしょう、、今それに気づいたのはこの体ではなく気づきの意織です。多くの人が見える、、、気づいたのは気づきの意識です。多くの人の話し声が聞こえる、、それを聞いたのはこの体ではなく気づきの意識です。排気ガスの匂いがする、、その匂いを感じたのはこの体ではなく気づきの意識です。この体は幻想ですから気付く能力などないのです。

じゃあ道ゆく人々はなぜ周囲の音に反応するのか???

では道ゆく人々が、、パトカーの音に反応するのはどういうメカニズムなのか????分かりません、少なくとも彼らの耳がその音を捉えていないことだけは確かです。なぜならばそれは幻想だからです。でも私の目の前では道ゆく人々が音に反応するという現象が起きたことは事実です。それ以上でもないしそれ以下でもありません。なぜ道ゆく人々が音に反応できるのか???それは全く分からないのです。それこそが無限の表現、アートでしょう。

完全に騙される

周囲の全員が音を彼らの耳で聴いているという反応を示すので「私」は完全に騙されます。こんなコントあるのでしょうか???周囲全員がこのコントをやってのけますから「私」などひとたまりもないのです。そしてこの私の体が全部を感知していると勘違いするようなになると息苦しさ、苦しさが同時に押し寄せてくるのです。勘違いの完成です。

悟る!悟る!悟る!

眠る!眠る!眠る!

寝るためにベッドに入ることは重要なことです、ですが入ってから集中して集中していざ眠ろう!は逆に眠れない。それでは無理です。悟りも全く同じ、そこに意識を向けることは大切、ですがそれが執着になると逆に難しい。そのバランスは重要です。

真実を理解していくことは

真実を理解していくことは寝具を整えていくのと同じです。寝具が整っていきますと当然眠りに落ち易いわです。ベッドを掃除し枕を綺麗にし加湿器をつけて暖房を入れる、、、こうしていくと瞬時に眠りに落ちることができます。悟りもこれと同じ、真実の仕組みを理解していきますと悟りに落ち易いということです。

再吸収、再吸収、再吸収

眠りに落ちる時、主語は自分じゃないんです。自分が眠りに落ちるってちょっと違和感があります。眠りに落ちる時って自分が無くなる感じですよね。悟りも全く同じ、自分が無くなるのですから主語は自分じゃないんです、、では誰が主語なのか????自分を眠りに落とす主語って誰ですか???居ませんよね、それをあえてあるがまま、全体、ワンネスと表現すんですがこれは非常にやっかいでどの言葉を用いても違うんです。言葉を当てはめれる存在ではないんです、眠りに落ちる時、どこかに吸い込まれうような感覚があります、、そのどこかです。でも間違いなく我々は眠りに落ちれう時にそこにアクセスしてます、そこに波長を合わせてる。悟りとはまさにそのどこかに波長を合わせ再吸収してもらう感覚です。

眠る時にあそこに行こうとは思っていない

眠るに落ちる時に、、さああそこに行こうとは思って寝ないですよね、、、あそこではないんです、、今ここに間違いなくある、今確実にあるこの場所です。悟りとはどこか遠くに行くことではなく元々ここにある場所に帰る感覚です。本当はずっとここにあるのに見えなくなってしまった場所、そこに再吸収されるように準備を重ねていきます。

進化する必要などない

完璧な世界で進化は必要ない

この世界は完璧なあるがままの表現の世界です、そもそもが完璧がアートしている世界において個人が進化する必要などあるわけがありません、既に完成完璧なのです。ですから進化成長を善とする文化は矛盾している、履き違えているのです。既に完璧でしかないこの世界になぜ進化を求めるのか?という話です。もしもこの世界が不完全に見えるのだとしたらそう見えるだけです、この世界はあるがまま、完璧のアートでなかった時などないのです。

それでも個人は成長すべきでは???

なぜ個人は成長するべきなのでしょうか???環境が完璧なのですからその中で個人が成長すべきという発想がおかしいのです、、、個人は成長することに意識を向けることで今ここで発生する苦しみから意識を逃れようとしているのです。成長とは完璧を否定する行為です、この世界はどこまでいっても完璧の表現でしかないのです。

輪廻転生はファンタジー

輪廻転生、これってあるんですか???という話ですがこの世界は大いなる一つ、あるがまま、無限の表現の世界ですから何でもあります、、輪廻転生という概念が現れるのはここが無限の表現の場所だからです、、だからあります。と同時にここは完璧の表現の場所ですから進化しなくてはいけない理由は一切ありません、進化も退化も許される場所です。地球が進むべき姿などないように個人も進むべき姿などない、現代社会の進むべき姿などありません。世界は本当に自由にどのような変化もありえるというただそれだけです。

これからどうなる?

多くの方は心配に意識を向ける

これから世の中ってどうなっちゃうんだろう???多くの方は将来に対しいネガティブなイメージを湧かせます。残念!!!この世界はあるがまま、大いなる一つの表現の場所ですよ、無限の存在のアートの場所で何を憂いているのか??おかしくないですか、、、この大宇宙を作り出した存在の表現の場所にも関わらず何を憂いているのか???です。

この大宇宙で小さく考える矛盾

この大宇宙は常に変遷膨大しているわけですが人類が考えた常識が来年も通用するって逆におかしすぎるわけです。この地球の中に常識って何なんだ、、という話ですし、、この日本の常識って何なんだという話です。宇宙は常に動いていて太陽系も動き続け、地球も動き続けているのです。この体を生きるばせるために小さく小さく考えて生きるって虚しすぎるわけです。

たった一つのエネルギー

宇宙がどんなに広大無辺であろうと、、、今ここにあるエネルギーが全てです、ここ以外にエネルギーは存在しません。ここ以外に宇宙は存在しえないのです。もしもここ以外に宇宙が広がっているならばここはたった一つのエネルギーではないことになります。ここは部分ではなく全部です。今私がいる場所が全部です、そしてこの私も実は存在しません、私という分離したエネルギーは存在しえないからです。

桜木花道の中には自我が確実にある

人気漫画の登場人物には自我が存在する

なぜ人気漫画は泣けるのか?なぜ人気漫画は興奮するのか???それはキャラクターの中にしっかりと自我を認識できるからです、、こんな時桜木花道だったらこんなこと言うよね!!です。これが確立しないアニメは全く人気がでないのです、、、キャラがブレブレで、、全く信憑性がない、、、そもそも漫画のキャラに自我など存在しえないわけですから言動で自我があるかのようにやってくれないと困るのです。

自我があるかのように無意識に行動していく

矢沢永吉は矢沢だったらこんな時どうするか???と考えて矢沢を確立していきます、、本当は居ないのです、、、ですが世間が求める矢沢を一生懸命演じるのです、、、まるでスター矢沢永吉が実在するかのように。これをみんなやっているのです、、親が求める自我を育てていくのです、両親が期待する、仲間が期待する自我を育て上げていくのです。これを人間はやっていくのです。

仕事場では仕事場の、仲間内では仲間内用の自我を作る

両親が期待する自我と就職した職場が求める自我が全く異なる時、、苦しいが際立ちます。そんな自我用意していないんですけど、、です。ですが家に居ても家用の自我は100%存在しますから結局は苦しいのです。自我は本当は無いのですから、生き延びるために方便として成長させてきたこの自我をどこかで見抜かなくてはならないのです。

矢沢永吉を辞めた矢沢永吉は楽になる

矢沢永吉が矢沢永吉を辞めると楽になるんです、だって本当は存在しないんですから。そして自我が自我を辞めると楽になるんです、だって自我って本当は無いんですから、思考の産物ですから。このことが分かってくると人生ってシンプルになるんです、だって死ねば自我は消えます、最終的には全員が至福に帰るんです。どうせ死んだら至福に戻れるならば、、今ここで至福に帰ってもいいんです、自我って100%存在しないよね!!が分かれば至福です。