意識

私だけが救われちゃっていいんですか???

いいんです

私だけが救われちゃっていいんですかね???何か都合が良い気がするんですが。。。。いいんです。なぜいいのか?????それは周囲は既に救われているからです。え?????周囲は既に救われている?????戦争が起こり飢饉で人が死に、テロが起き、、、、、どこが救われているんですか???????じゃあ聞きますが、、、、、苦しんでいるという証拠は?????どこに証拠があるんですか????そう見えているだけじゃないですか???????

分かっちゃうと分かっちゃう

少なくともあなたが生きる世界において、、、苦しみを感じているのはあなただけです、、本当はその苦しみもあんたが感じているのではなく、、、いまここに苦しいが湧いただけなんですが、、見かけ上はあなただけが苦しんでいるんです・。「この体この思考この感情が自分」という思考が湧きますとそれと同時に憤りを感じるようになっています、それは意地悪ではなく真実ではないからです。これを辞めちゃいます、、そうすると苦しみは無くなるんです。

そんなことしたら私が居なくなっちゃうじゃないですか?????

そんなことしたら私が居ないことになりますよね????この体この思考この感情が自分じゃなかったら何が自分なんですか??????大丈夫です、自分なんていう概念がなくたって「今に在る」という感覚は絶対になくなりませんから。。。。意識がなくなるんてことはないんです。今までは意織、今に在るという感覚の上の自分が存在するが乗っかっていただけです。だから無くなっちゃって大丈夫なんです。幻想が一つ消えるだけです。

至福に戻さない巧妙な仕掛け

観念通りの現実

この映画の凄いところは偽りの自己(この体この思考この感情が自分)があらゆる経験を積んで(錯覚だが)集めた価値観がそのままこの映画に反映され上映されるということです。これでは偽りの自己は自身が偽りで思うわけがなく『やっぱり!!!』とこの映画にこの主人公としてのめり込むkとになります。この世界ではこの私はしっかりと勉強しないと食べていけないよね!!!という価値観を持つと、、本当にそのように見える世界になるのです。これぞこの経験を積んでいる自分自身(偽り)の絶対的存在根拠になります。

今回のクッパはどうやらそうとう手強いぞ!!!

マリオをやっていて、、、どうも今回のクッパは見た目が強そうだぞ!!!という思考が湧いてきた時に、、その思考が反映され実際に強く感じた場合どうなるか????マリオはクッパの存在、マリオ自身の存在を疑うだろうか???ということです。これじゃ絶対にマリオが実は居ないなんて信じないのです。要は一旦マリオの存在を信じた時に、、周りの環境がマリオの観念によって都合よく変化するわけですから、、バレにくいわけです。

至福を感じてしまう瞬間

絶体絶命のピンチ、、いきなり大出血、大転倒、、、マリオ絶対絶命の危機、、、、こんな時があったとしましょう。。。。マリオが何も考える隙がなく、、全意識が問題解決に向かった時、、、どういうことだ???異常に気分が良い、、心が穏やかだ、、、こんな経験久しくしてないぞ!!!が起きます。その時ふと思うんです。。。なんで?????自分のこと考えている余裕がない時に、、なぜ????こんな楽なんだ????自分のことを一生懸命考えている時の方が苦しいって変じゃね?????です。

本当は誰もいないってマジかも????

そんな時に見かけ上の覚者が言っていた話がチラつくんです「本当は誰もいない」です。居るって思ってるから苦しんじゃね????間違ったことを信じてるから苦しいじゃね????自分が絶体絶命の時に至福をチラ見するってなんか凄い意味がある気がする、、、、、大正解!!!!!自分が居るって思えないぐらいにヤバイ時に至福になるって要は本当は居ないのが正解なんじゃねーの?????大正解!!!!!我々の本質は至福でしかないんです、、、自分が居るって思えないぐらいな状況の時、、、、本当の自分が偽りの自分に構っていられなくなり本当の自分に再発見したんです。

偽りの自分は将来に夢を描く

本来は存在しないからこそイメージに固執する

将来はこんな風になって活躍した、将来はこんな家庭を作って幸せになりたい、、、偽りの自己は本当は存在しないからこそイメージに固執するのです、もしくは過去という中で偽りの自己は実在していたことを強く主張します。過去に未来にイメージを強化することで自己存続にかけるのです。全ての行動原理は自身が偽りゆえの延命行動なのです。

本当は過去にも未来にも存在できない

セルフイメージが今に存在できるわけがなくゆえに未来にセルフイメージを作ることで意識をそこに向かわせます。もしくは過去にセルフイメージを作り自身の存在を保持しようとします。ですが「この体この思考は自分」というのはイメージですから、、、どこに意識を向けようと存在はしていないのです。

意識が将来に向いている間

本当の自分とは今この瞬間そのもの、今この瞬間を作り出す全てです。今この瞬間において「この体この思考が自分」という思考は真実ではなくフェイクですから、、今ここに意識を向けることを嫌うのです。偽りの自分を肥大化するためにはここに意識を向け続ける必要がありゆえに未来にそのイメージを意織し過去にそのイメージを意織することでこれを保持しようとします。今この瞬間に意識を向ける(大いなる存在)ことと偽りの自分を保持することは相容れないということです。

スポーツしたあと気分が良い理由

体は今(至福)にしか存在できない

スポーツ選手って爽やかなイメージがありますよね?????なぜでしょうか???簡単です、体を動かすって今(至福)でしかできないんです、思考は昨日に戻ったり、一年後のことを考えたりと、、時間という概念の中で行ったり来たりするんですが体は今(至福)ここしか居られないんです。だからそれだけで大満足なんです。だから思考で捏ねくり回して、、、こうなったら将来幸せみたいな技を使わなくていいんです。

思考は未来に向かってこうなったら(条件)幸せになれる気がする、、を使う

思考は、、こういう条件の人と結婚したら、、こういう家に住めたら、、こういう旦那さんだったら、、、って未来に未来に幸福を目標設定しそのために何をしなきゃ、こうしなきゃって宿題を出してくるんです。幸福というのを将来に設定するんですね!!!ところがそれは思考が考え出したイメージですから、、そこにたどり着いてもイメージしかないんです。イメージがその人を幸せにしてくれるってないんです。

スポーツは今しかできない

体を動かすって今しかできません、、、物理学上、、ここでしか体って持ち運べないのです。そうすると今(至福)に感覚を作ることになります、今という場所にチューニングをします。その時に雑念って邪魔なんで思考が湧かないようになります。意識が過去や未来ではなく今に集中するんです。すると今は至福なんで、、至福に触れるのです。体を動かす時に、、思考を使って先ずは左、次は右ってやらないんです、、、全部自動反応ですよね!!!

毎日運動して今にチューニングする癖を作る

運動をルーティン化しますと、、、今にチューニングする習慣ができます。今(至福)に触れる癖がつくんです。本当の自分は「この体、この思考」ではないんですが、、、その思考が抜け落ちるんです。そして至福に浸れます。毎日毎日至福に浸る癖が付きますと、、、、思考でこねくり回すて幸福になるという作戦が起きにくいんです。だって今ここで至福に浸れるんですから。

夢(思考)からの脱出

夢は思考が作るのだから

この世界はたった一つのエネルギーでありあるがままです、そこは至福、平和、歓喜の場所です。そこに思考が立ち現れることでその思考があるがままに読み込まれ、、イメージが湧き出てきます、思考通りのイメージです。そのイメージの連続こそが夢です、この夢の中では時間(思考)があり空間(思考)がありと続くのです。この世界(夢)に居るのは苦しく居心地が悪いのです。その中で常に今ここ(あるがまま)に住まう方法があります、それはしっかりとこの体と繋がることです、この体は思考ではないのでいまここにしか存在できないのです。つまりドラマ、ファンタジーに住うことができません。この体は常にあるがままに席を置くのです。

この体を感じる

エックハルトはこれをインナーボディーと呼びました。常に体を感じる感覚を得ることです、体を通じて今にある感覚を構築するのです。そうすると思考に支配されずに夢に引きずられないということです。思考は夢に意識を導き夢を維持しようとしますが体がそれを阻止します。今という場所の至福を忘れないでいられるのです。今は至福しかありません、思考の世界(過去未来)は分離の世界、ネガティブな感情の世界です。

虚(空想)の世界は空気が薄い

居の世界ドラマの世界夢の世界は、、たった一つのエネルギー(至福)が作り出した世界ではありますがここはネガティブ(分離)の世界ですから苦しいのです、、ここに居住し続けると苦しくなります。ですからいまここに居たい、、、そのためには今ここに絶対に存在するこの体に意識を向けるのです、この体を感じるのです。この体を感じているのは誰でしょうか???本当の私、あるがまま、真我です。思考ではなく体に気づくことでいまここに住うことができます。ここは至福、平和、歓喜の場所です。

老後が心配で心配で

今の苦しみが解っていないのに

いまなぜ苦しいのか?今なぜ不安感があるか??今なぜ不満足感があるのか???そこを理解していないにも関わらずもしくは理解していなからこそ人は自身の将来について不安になります。今ですら不満足なのに老後なんてもっと哀れになるのではないか????独居老人、孤独死、、、怖い怖い。ですがこれらが杞憂に終わるのは、、なぜ今苦しいのか????この答えがないからです。

若い時の焦燥感

若い時、体は自由に動き回り頭もキレる、、、、にも関わらず若い時期はなんか尖っていた、、若い時は常に怒りの感情が、、若い時っていっつも寂しくて、、、、聞いたことありますよね!!!!健康なはずがなぜか精神状態は荒れ荒れで、、、、です。なぜか?????「この体と思考が自分」この思考がより鮮明に描かれるからです、イメージ化されるからです。これによって孤独感分離感も鮮明に上がるということです。なんで若い時はあんなに苦しかったのか???それは偽りの自分という存在をありありとイメージできてしまう、、、、こんなトリックがあります。

頭が良い人ほど、、、

鬱病になるって頭が良い人が多いんです、、、こんなこと聞いたことがある人は多いはずです。思考がそのまま感情を作り出しますから、、その思考が真実から離れれば離れるほどにネガティブな感情が湧きます。ネガティブとは分離のことであり、、分離とは真実では絶対にありえないのでこれはあくまでイメージでしかありません。そのありえないことを頭あ良い人はイメージの中で描き続けることができるのです。結果ネガティブな感情も維持し続けることになります。頭が良い人はあるがままの世界の中に壮大な分離の夢を描くのです。

頭が良い人が真実に気づくと

頭が良い人はたったひとつの統合したエネルギー、至福の世界の中に思考でもって壮大な分離の夢、ファンタジー、幻想を描き、、ネガティブな感情を湧き出させ苦しみ続けます。この事実を頭が良い人が理解しますともう同じ過ちを犯さなくなり、、ベクトルは真実追求に向かうのです。イメージしたドラマが真実とあまりにかけ離れていただけだった、、ならば真実に気づけばいい、、となります。真実が思考の先にある真実に意識が向くのです。この体この思考そこが自分という仮説はあまりにもリアリティがあるために騙され続けてきましたが、、これが偽りであることは明白です。なぜならばネガティブ(分離)な感情がそれを証明しています。

毎週毎週みんなでパーティー

Facebookを見れば、、、毎週毎週パーティー三昧、、そんな方を見ますが、、、これって簡単な理屈、、、「この体この思考こそが自分」という徹底的にネガティブな思考がネガティブな感情を生みますから、、、それを解消するためには多くの人と分かち合って再統合したい、ポジティブな感情を感じたいという欲求です。個人という孤独な存在(イメージ)だからこそ多くの人と分かち合い(統合)、、ポジティブ(統合)の感覚を得体わけです。ですがパーティーが終わればまた一人(イメージ)を強固にしますから毎週パーティーが必要になるのです。

浮かび上がる思考を「自分」と思う間違い

思考を自分と思うことで

我々は浮かび上がる「思考」を自分と勘違いする傾向があります。次々に湧いてくる思考をこそを自分と捉えることでエンドレスに湧き続ける思考に対し未警戒であるのです。実際には思考はただ湧いてくる現象に過ぎずこれが自分なのではないのです。ですが実際には思考が湧くことで「自分」が出現したと勘違いしそのことに無自覚なのです。

本当の自分とは

本当の自分とは思考に気づくスクリーン、スペースです。今からマックに行こう!!!この思考に気づくスクリーン、スペースこそが自分自身です。「今からマックに行こう!」という思考が自分なのではなくそれに気づく存在こそが自分自身なのです。究極を言えば湧いてくる思考を含む現象の全ても自分自身ではあるのですが、、人間は湧いてくる「思考」こそを自分自身と勘違いし偽りの自分「思考中毒」に陥るのです。

頭が良い人ほど、、、

頭が良い、思考の回転が早い人ほど、、、この思考こそを自分自身と勘違いする傾向が強く思考中毒。偽りの自分中毒にお陥ります。空いている時間常に思考を回転させ、、自分(偽り)の存在を確認し続けるのです。ですがこれは自分ではなくただの思考に過ぎないのです、、この思考を自分と勘違いすればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)を自分自身とする感覚を忘れるために苦しくなるのです。

偽りの自分自身(思考)の保存法則

思考は自分自身ではありません、ところがこの湧いてくる思考こそを自分自身と勘違いしますと、、、思考に意識が向きこれを保持しようとするために思考がさらに湧き続けるという現象が起きます。思考し続けることに意識が向き続け偽りの自己を保持し続けようとするのです。結果思考中毒になっていきます。偽りの自分(思考)が拡大すればするほどに本当の自分(スクリーン、スペース)は忘れ去られ、、思考に伴う感情に支配されていくのです。

思考の内容は感情を生み出す

思考こそが私だ、、この思考が、、分離感、孤独感という感情を生み出します。思考こそが自分だという思考は体に跳ね返り孤独感、分離感という感情を生み出すのです。この感情が苦しいためなんとかしてこの感情を解消しようと思考を沸き続けさせ解決しようとします、、ところが湧けば湧くほどに偽りの自己は大きくなり、、その思考こそがさらなる分離感、孤独感を起こすという悪循環を起こすのです。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

砂でできたお城

それを自分と思い込む思考

多くの悟り本で例えられる話、、砂でできたお城を自分であるという思い込み、、そして我々の本質は城ではなく砂そのものである。砂でできたお城は自我意識が芽生えることでこのお城を維持しようと努めるわけですがどんなにしっかりとこのお城を維持しても不足感が消えないわけです。それはそのはず本来は見渡す限りの砂そのものですから。ところが自身をお城と勘違いした自我は隣のお城を屈服したり、、周囲のお城から評価されることを望んだりと全く見当違いのことをするのです。それが人間です。

砂でありながらお城を守ることは可能なのか????

お城は自身をお城であると思い込むことでお城の維持に成功したわけですから、、、いまさら自身をこの広大な砂そのものであると思い出すことで、、、二つを両立することは出来るのでしょうか????できます、なぜならば砂でなかった時など一時もなかったからです。砂でありながらお城をやっていただけで砂であったことには何も変わりはないのです。お城であるために砂ではなくなっていたのならば再び砂にシフトすることで城ではなくなってしまいます。ですがそうではないのです。

城をやるのは演じていただけ

砂として城を演じる、、、これをやるのです。本当は膨大に広がる砂だけど、、便宜上、、城をやるのです。本当は西田敏行ですが便宜上ハマちゃんをやるのです。ハマちゃんと呼ばれすぎて西田敏行であったことを忘れていただけ、、、西田敏行が再び自覚的にハマちゃんをやればいいのです。その時西田敏行は釣りバカ日誌の映画の中で苦悩することはできなくなります。我々人間もこの夢の世界で苦悩することができなくなります。

夢の中で主人公が入れ替わる??

たまにあります

夜見る夢の中で、、、たまに主人公が入れ替わることってないですか????最初は男をやっていたのがいつの間にか女になっていたり、、、最初は孫悟空をやっていたのがケンシロウになっていたりと、、、、、夢の中ってなんでもありです。ではなぜ主人公が入れ替わるなんてことが起きえるのでしょうか???それは状況の変化に意識が集中し主人公のことを忘れてしまったからです。意識が周囲に向かっていたからです。その時は主人公、私をやっている余裕がないのです。

この現実世界では

この現実呼ばれる夢の世界ではなぜそれが起きないのか?????それはこの体が変わらないからです、、、周囲に意識が完全に向かっても振り返ればこの体が居るからです。だから周囲を観察していたこの体の「私」を再確認、もしくは再登場させれるのです。ゲームに無我夢中になっても、、終わればこの体がしっかりといるんです、、、だから「私」がゲームをやってたと再確認するのです。ただそれだけ、、私が不動でそこにいるんじゃないんです、、、この体が不動でそこに居るんです。

そろそろ分かってきましたか????

夜見る夢の中で主人公が入れ替わっちゃうのは、、、体が変わっちゃうからですね。孫悟空をやってたのを忘れクリリンになったり、ベジータになったり、、、、ところがこの現実と呼ばれる夢ではそれはないわけです。だから自分がこの体の中には居るんだという理論、思考を維持できるんです。本当にそれだけなんです、、「私」という存在は100%だと言い切っていても、、体がそれを保証してくれているだけなんです。私たちはしょっちゅうこの私を忘れてゲーム、仕事、ギャンブル、アニメ、映画に没頭しています。そしてこの体を見て「我に帰って」いるだけです。