幻想

苦しい病を治す

一番治さないといけない病気

自我が目覚めると、、苦しいが湧いてきます、、、これは病気です、、苦しいんですから、、、ですが社会はこの苦しいを肯定します、、否定しない、、上手く付き合っていくものだと、、、なぜか????この自分が原因で苦しんでいることを認めてしまったらこの自分を殺さなくてはならなくなるからです、、ですが死んでしまってまで病気を治す価値はない、、となります。

治ります

でも治せるんです、、この苦しいという病気を、、どうやって、、、自分という存在が実は幻想で偽りで、、これは夢だという気づきが起きればそれで終わります、、究極の真実を腹落ちさせます。私というのは、、この万物を動かしている、、エネルギーそのもの、、この経験を作っているエネルギーそのもの、、全細胞、全原子、全分子を動かす存在なのです、、、これを絶対的に理解できますと自分がシフトします、、究極の騙し絵、、

悟ってからが人生

悟ってからは人生があるんですか???あります、、だってこれまでもあったからです、、悟っている状態がデフォルトで、、その中に自分劇場という幻想が湧き出ていただけなのです、、夢から覚めてからが本当の人生です、、苦しいがデフォルトの人生なんてとっとと辞めて、、静寂平和がデフォルトの人生に変えてしまいます。主語がこの体から、、生命現象全体になります、、、ですがそれでもこの体が動く人生はしっかりと続きます、、主語が入れ替わるだけです。

万物を動かす完璧なエネルギー

我々はこのエネルギーそのもの

我々は実はこの万物を動かすエネルギーそのもの、エネルギー自体です。一見分離独立しているように見えますが、、分離独立した物体を物体たらしむエネルギーそのものです、、このコップも、このPCも、この植物も、この体もそうさせているエネルギーがあり、、、それです。ですからこの個人を個人たらしむエネルギーもそれですし、全部が全部このエネルギーによって構成されています。

コーヒーを味わう

コーヒーを味わうという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です、、、音を聞くという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です、、お金を得るという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です。この幻想を現実だと勘違いする経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です。個人としての全経験を作っているエネルギーが我々の本質です。

個人が吹き飛ぶ

個人としての全ての経験を作っているエネルギーが我々の本質であることが腹落ちしてきますと、、個人が徐々に軽薄になっていきます、、個人にフォーカスが当たらなくなっていきます、、全体としての全体の行動に意識がフォーカスされてきます、、全経験を生み出すエネルギーに意識がフォーカスされてきます、、、これが悟りです。

幻想だから落ち込める

究極の現実は平和

なぜ落ち込めるのか?それは幻想の世界に居るからです、、幻想の世界に入り込んで居るときだけ落ち込むことができます、、、この幻想では地獄も天国も状態としてあるからです、八方塞がりも状態としては確実にあります、、この自分が居るという大前提でしか周囲を塞がれるという感覚を持つことはできません。実際には周囲を塞がれる個人が居ませんから八方を塞がれても落ち込むことはできません。

究極の現実は生命そのもの

究極の現実は、、我々は生命そのものです、、生命そのものですからこの体、このコップ、この光、この雲、、全部を動かす生命そのものです、、、その中に思考が生まれ、感情が生まれ、この体の中に自分が居るという感覚が生命として起きているだけです。ですから我々は全生命そのものなのです。この体を動かす生命と、このコップを動かす生命が別々だという事実はありません。

幻想に入り込むという生命の動き

幻想に入り込むのも生命の動きです、、幻想の中に入り、自分が居て、相手が居てという現象が起こるのも生命の動きです、、そして我々はこの幻想を作り出す全生命です、、その実感が無いだけ、、、ですが実感が無いのも生命の動きです、、そこに突然全体だという気づきが起きます、生命の動きとして。。これが悟りです、ノンデュアリティです、、ユニティーです、、、。

自我に取り込まれるという自然現象

自我に取り込まれるのも自然現象

自我に取り込まれるという自然現象が人間というこの現象の中で起こりました、、これによってこの体は生き延びるという力を手に入れました、、、食べることができます、朝昼晩と、、、ところが同時にこの自我という自然現象によって苦しいという自然現象が起きるようになったのです。。

食べてはいきたい、、苦しいも解消したい

人類は食べるために、、、苦しいを背負いこむことになりました、、自我という幻想を作り出すことで、、食べていくことはできましたが、、同時に苦しいを生み出してしまいました、、、自我は比較の中で自分の幸福度を測りますから、、、生きている間中競争の中に居続けることになります、、そして絶対に安定しない幸福の中で怯えながら生きることになるのです。

自我が幻想であることに目覚める

食べるために都合が良かったこの自我ですがもうこれが幻想であることを完璧に見抜く時期です、、そうでないと死ぬまで苦しみ続けて生きていくことになります、、、思考に取り込まれることで思考をしているということすら気付いていない状態、、これが自我です。。思考が起きたときに必ずそれに気づき、、思考に取り込まれないようにしていきます、、常に思考を観察する無我を出現させます、、すると自我など実は居ないことが分かってきます。

悟りなんて別次元の話でしょ、、、

自我は悟りを宇宙旅行ぐらいの話にしたがる

悟りなんて、、、宇宙旅行や、宇宙人に会った、、ぐらいの話にしたがります、、、、悟りなんて、、、どこまでいっても悟りをマジに話すことにしようとしません、、、この動きこそが自我の常套手段、自我の戦略、、、です。ですが、、、、悟りはあまりに近くに鎮座しています、、、悟りは今もここにあるのです、、、無視できない至近距離に、、、

私が居る、、、という絶対感覚

私という主語は横に置いておいて、、、居るという絶対的な感覚は誰しも持っています、、、この居るという疑いようがない感覚、、これこそがIAM、気づきの意識、大いなる存在です、、、この体のことは忘れることはあっても、居るという絶対感覚が無くなることはありません。この感覚の中に全てが起きているという絶対気づきが起きるのが悟りです、、、、体の中の自分に起きているのではなく、、、、体の外に絶対感覚を持つ存在がいて、、その中で全ての現象が起きています。

悟りのことは横に置いて、、先ずは現実を

自我は悟りを現実問題とは切り離そうとします、、、そうはいっても先ずは現実問題を、、、、です。ですが、、、現実と思っているこの問題こそが幻想なのです、、、この問題こそが、、思考の渦に自分を巻き込み、、偽りの自己を永続させる動きなのです、、、ここを見抜きます、、、ここで思考に巻き込まれないようにします、ここが勝負の分かれ目です。

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

究極のリアリティ

幻想を見抜く

これは幻想です、今目の前に広がる世界は幻想です、、このことを理解できますと、、、、幻想に取り込まれなくなっていきます、、、思考はああだこうだと言ってきますが、、、その思考にも取り込まれなくなっていく、、なぜならば解決すべき問題があまりないのです、、、思考の出る幕が無くなっていくわけです、、、昔はよく考えていた老後の心配、将来の心配、日本の行末、、など、、全く心配する要因にならなくなっていくのです。

幻想を幻想と見抜くと、、、

幻想ならば深刻に捉えるべき問題って実はないんです、、、もしも深刻に捉えて解決しなくてはと考えるとすたらばそれはそういう趣味です、、、深刻に捉えて解決しなくちゃというゲームをやっている感じです、、実際には、、ただ幻想が起きているだけです、、、深刻に捉えなくちゃいけない問題など皆無です。

究極のリアリティを生きる

究極のリアリティとは悟ることです、、、幻想の世界を抜け出し、、非二元、真我を再発見することです、、非二元、真我を再発見することでこれが幻想であることを悟ります、深刻さが抜け落ち、この場が神の遊びの場に変わる、、深刻に深刻に世の中を眺める人々を見ると、、おかしくなる感覚、、、皮肉ではなく、、そんな時もあったなという安堵が込み上げてきます。

幻想はこの現実で十分

画面の世界に夢中になる滑稽さ

この現実は完全なる幻想です、、、我々は現実と呼ばれるこの幻想の世界にどっぷり浸かり生きています、、するとこの幻想の世界は現実的に見えます、、、この幻想の世界に疲れると、、、人は画面の中に吸い込まれていきます、、映画、TV、ゲーム、YOUTUBE、TIKTOKなどなど、、、これらはこの幻想の世界の中でさらに幻想の中に引き込んでくれる道具です。今既に幻想の中に居るにも関わらず、、、さらなる幻想に逃げ場を求めているのです。

この幻想をもっと楽しんでみる

ここがまさに幻想ど真ん中です、、この幻想が最高峰のクオリティー、この幻想が、、究極のサバイバルゲームです、、、なぜここを楽しまないのか???です。。。これを幻想と完全に見抜き、、この幻想を楽しみ尽くすのです。この幻想に後悔は禁物です、、、後悔できる自己は存在しません、、自由意志もないのです、、、本当は。。ゲーム中は勿論自由意志をフル発揮するればいい、、、本当はないけど。。

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分が存在します、、、この体です、、、この体を機能として、、いかにこの幻想ゲーム上で楽しみ尽くすかです、、、宇宙の機能として、、楽しいを追求していきます、、、神としてこの体をフル回転させていく、、楽しいを追求していきます、、こんな役として世の中に貢献したいな、、こんな機能として世の中にサービスを提供したいなーの連続です。自己超越して楽しみます。

今に居れないから、、、時間を気にする

今に居ることが出来れば将来不安はない

今に居ることができれば、、、その時その時にその行為に埋没すればいいだけです、、、仕事に入り無我になる、、作業に入り無我になる、、、読書を通じ無我になる、、、なんでも気が向くことに入り無我になればいいのです。。ここは静寂の場所、平和な場所、至福の場所です、、、、誰にも邪魔されません、、、ここに入れない人が、、将来を過剰に心配するのです。

後悔も心配もしなくていい

後悔も心配も自由意志があると信じているからこそです、、、ですが自由意志はありません、、、将来を左右するような決断を自分の意思では一切できないのです。。。これが真実です、、、、だとしたら一体何を心配し悩むことができるのでしょうか????無理です。。。。心配も後悔もできなくなると自然と今に居ることができるようになります、、小さな子供が今に居れるのは、、心配できないからです。

現象として幻想として情報を集める

株のブローカーであれば、、、情報を集めるのは当然のことです、、、この際にはこれは現象、幻想であることを見抜いて集めればいいのです、、、情報という現象から株を精査し次に買うべき株を吟味していきます、、、ですがこのことと、、、静寂、至福、平和とは全く関係がありません、、、静寂、至福、平和は時間ではなく今にしかないのです、、、、ここを理解し、、、情報収集を通じて無我に入ります、、、もしくは株に関して思考が湧いてきてもそこを気づきの意識として観察し今に入るのです。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。