言葉

迷い人

イメージの中は迷い人だけ

この世界がイメージの世界、夢の世界、幻想の世界であることを見抜けていない人は全員が迷い人です、、言葉が作り出したイメージの世界にこの私が居るという認識があるうちは迷い人です、、全員が。大成功者も、人格者も、リア充も、、全員が迷い人です。。。この体の中に居る私が幸福を手に入れるという感覚を持っている人は全員が迷い人です。

状況は一切関係がない

このイメージの世界で、、、何を得ようと、何を獲得しようと、、全く関係なく、、これがイメージであることを見抜けない限り迷い人です。。。このイメージに中には自分が居ないという気づきが起きるまでは完全な迷い人です。。。〇〇太郎という名前がついた個人がイメージであり、、そのイメージの中に実在の自我など存在しません、、自我はイメージです。。。そのイメージが何かを獲得して幸福になるなどあり得ないのです。

イメージが何かを獲得しても一瞬だけ苦しみが消えるだけ

なぜこの人生ゲームの中では目標を達成した瞬間しか、、幸福になれないかと言えば、、実在しないからです。。この私というイメージがありそのイメージが何かを獲得しました、、何かしらのイメージを。その瞬間、、思考が抜け落ち思考が消え失せることで、、一瞬苦しみがなくなります、、それだけです。。本当に個人という存在が居るならば、、幸福が生涯続いてもおかしくない、、、、実在しないからみんながみんな一瞬しか幸福が続かないのです。

悟りへの最短距離はない

こうしとけばもっと早く悟りに、、、

このような思いを持つ方は多いでしょう、、エックハルトの本をもっと早く読んでいれば、、プンジャジに早く気づいていれば、、、、残念、、、イメージとしてのあなたの行動を決めるのは全部真我、、真我の化学反応によってそれが勝手に巻き起こるだけです、、、ですから悟りへの最短距離などは全くなく、、それを歩める個人も全く居ません、、、個人はあくまでイメージの産物であり、、これがイメージであるという気づきが悟りです。

悟るという言葉もイメージ

「さ・と・る」この音の組み合わせを覚えた方はそれぞれ独自の悟りのイメージを所有します、、、このイメージが実態とはまるで違うことから、、、悟りを難しい場所に追いやります、悟りを遠ざけるのです、、ですから悟りという言葉は、、本当の意味でのそれとは全く関係がない、、という気づきが必要になります、、とはいえ、、この二元の世界では言葉でこれを伝えるしかなく、、、便宜上、この言葉が使われますが、、ただこれは言葉という宿命を背負っていますから、、必ずイメージ化されます、、

言葉が真我をイメージの世界に没入させ

言葉こそがこの世界をイメージ化させた張本人です、、この言葉を使って今度は悟りを開こうとするのですからこれは矛盾をはらんでいます。悟りとは何だ???これを言葉で聞けば聞くほどに、、悟りがイメージ化されていく、、その悪循環に入り込み、多くの方は断念します。。。。ですがこの矛盾をはらんだ悟りに、、それでも気づく真我の存在があった時にそれは起きます。。。言葉で悟りを理解するという矛盾をも乗り越えた時に、、悟りは起きます。

ああしよう、こうしよう

自我のおしゃべり

向こうはこうやって思ってるのでは、、本当はこれを伝えた方が良いかなー、、、でもそれを言ってしまったらこう誤解されるのでは、、、、自我はこうやって常に状況の中で最善の結果を出すかを探し出します、、、そこには次のアクションが成否を決めるのではという期待と不安が隠れています。。。これは苦しみのラットレースに中にいます、、、次の行動を決めるのは真我です、、自我ではありません、、、そしてこのえ私が居るというイメージの中にいるから苦しいのです、、この苦しみを少しでも解消したくて今状況に悩んでいるのです。

苦しいんでいる大誤解

何故おの状況で最善を尽くそうとするのか???それは今が苦しいからです、、ここをバッサリ切らないと意味がない、、全ての自我の行動、イメージの世界での改善は全く報われないのは、、、これがイメージの世界であるという気づきがないからです。。みんな真剣にこの世界をリアルだと信じ込んでいます。。。リアルの上に独立分離したイメージ「私」「私以外」を作り上げ、、、その中で私の幸福を追い求めています。この初期設定こそが苦しみを作り出すのです。。イメージの世界を作り出し、、その中で幸福を追い求めている、、、しかしイメージの世界に居ることこそが苦しみを作り出している、、という絶対的理解抜きにこれを解決する方法はありません。

イメージと見抜き俯瞰して生きる

言葉を暗記することで、、その言葉をイメージすることができ、、このイメージが、、この現象界に、、分離した風のモノを生み出します。言葉を覚えれば覚えるほどに、、、覚えた分だけのモノが溢れてきます、、視界を見渡せば、、、知っているモノばかりになっていきます、、、このモノはイメージが最初にありますからこれに対するイメージがどんなものかによってこの世界は全く意味を持ち始めるのです。。これが我々が全く異なる世界に居ると言われる所以です。

所詮はイメージ

どんな世界に生きていようと、、あくまでそれはイメージですから、、、そこを見抜きます、、、、高級時計は、、多くの方が価値があるというイメージから生み出された商品です。。。あくまでイメージなのです、、エルメスのバッグが何百万という価値がつくのは価値があるというイメージを多く方が共有したからです。あくまでこれはイメージですから、、、イメージを購入しているのです、、、この私というイメージは、、高級時計をはめるにふさわしいと、、、ここを見抜きます。。。周囲はみんなイメージの世界に閉じ込められ、、見かけ上の私もかつてはイメージの世界に振り回されていたと。。

本当はただ現象があるだけ

本当は私もイメージ、全部イメージです、、、そんなイメージの中で幸福を追い求めても無駄、、これを手に入れたら、、あれを手に入れたら、、全部イメージです、、幸福になるわけがない、、その理由は全部イメージだからです。そして周囲からリア充な「私」とイメージを持ってもらってもそのイメージが幸福を作るわけがないのです。イメージの世界に居るのが苦しいのですか。

TVとは別の思考へのフォーカス

TV中毒

TVを見るのがストレス発散になるのは、、、自分という存在を忘れることができるからです、、、この自分ストーリーから一瞬外れることができます、、、、映画もこれと同じ、、、見ている期間は、、、見かけ上の私ではなく、、映画の主人公になりきり、、そのイメージに同化できます、、、だから多くの人は一日中TVを見たりするのです、、、ですがこれが苦しみを根本から解決できないのは、、、私の人生というイメージへのフォーカスから他人の人生へのフォーカスに一時的に移り変わっただけだからです。。夢の世界に居るという意味では何も変わっていないのです。

映画の世界に逃げる

映画に夢中でいれるのは、、、見ている間、、、この私の人生という映画から目を逸らすことができるからです。映画が終わればまた私の人生がリスタートします。。。そしてそのことを知っているからずっと映画を観続けようが、、、起こるのです。。ですがこれはどこまで行っても、、、イメージの世界です。。このイメージの世界には絶対幸福は存在しません。

映画の主人公がピンチに

映画の主人公が絶対的ピンチに、、、でも楽しい、、、これが映画の良いところです。。これが映画であって幻想であってイメージであることに気づいています。。。。これが答えです。。。この世界、現実の世界も言葉というラベルを貼ったイメージの世界です、、つまりこの見かけ上の私もイメージなのです。。これが分かるともう焦りがなくなる、、怖さがなくなる、、どうでもいい、、、だってイメージですから。。。イメージ上のキャラとしてのこの私は、、、このストーリーの中では絶対に幸福になれない、、、という気づきが起きます。

自分の辞書に敗北はない

あの人の辞書には敗北という言葉はないのでは???

この言葉は非常に意味深いです、、、あるサッカー名将監督を評して、、、あの人の辞書には敗北はないのかもしれない、、、と表現します。。。その通り、、、その人の辞書に収まっている現象以外がこの世界には登場できないのです。。言葉を覚えそのイメージを形成しなければ、、例えその現象が目の前で起こっても気づかない、、つまり存在しないことと一緒。キムタクという言葉を知り、キムタクをイメージできていない人はキムタクが目の前で飲んでいても全く気づかない。。。つまりその人の世界にはキムタクは全く存在していない、、これがこの現実のカラクリです。これがこの世界が夢だと言われる理由です。

多くの感情はこのラベル張りで起きている

キムタクを知りイメージができる人は東京でキムタクに気づいたら感動するでしょう、、、自然発生的に感動が起きます、、、ですがキムタクの名前すら知らない人は、、目の前にいても何も感じない。。。これがこの夢の特徴です、、言葉を知り、イメージ化ができ、、感情が生まれる、、、人間に喜怒哀楽はこのように形成されます、、とするならば、、、この仕組みを理解すれば、、、もう悲しむなど感じなくていい。。。

親友が死んだ

全部はイメージ、、、親友の存在もイメージ、、、そのイメージが死んだ、、、すると、、悲しむという感情の湧き方が変わる、、、親友という存在を出現させていた真我は一滴も何も失っておらず、、、これは移りゆく現象に過ぎない、、、この絶対的理解が、、、感情を変えるのです、、、、友人からの裏切り、、これも友人というイメージに、、、それが起きた、、、どうしても憎めない、、、、となります。夢の世界への没入が薄れていきます。

イメージと見抜く

言葉はイメージ製造機

言葉はプログラミング言語です、、、このプログラミング言語を覚えると、、そのイメージが形成され、、、、そのイメージが実際の現象界で、、、合致した場合にそのイメージがこの世界に出現します。。。東京に長年住んでおる人が見る銀座と、、地方から初めて出てきた人が見る銀座は全く違います。先ずブランドの名前を知らない場合、、、そのお店があることに気づかない、、、そのお店がその人の前にあっても全く視界に入りません、視界が気づきません。。。。それはその人の中にそのブランドが存在しないからです。

エルメスを知っている人

エルメスという名前を知ってる人は、、、エルメスビルの存在に気づきます。。。エルメスというイメージが既にその人の中に存在するからです、、、そのイメージがエルメスビルを発見します。。。だからそのビルを見て感動が生まれたりします。エルメスという名前を知らない人はエルメスのイメージがない、、だからビルが目の前にあっても気づかないのです。

名前を覚えることで

名前を覚えることでそのイメージがその人の中に生まれ、、そのイメージがそれをこの現象界の中で生み出します。。。探し出すと言ったほうがいいのかもしれません。これがこの現実が夢だと言われる所以です、、、名前を覚えなければ、、、それがこの世界に登場しない、、、名前を覚えて初めてそれがこの世界に独立分離した実態として登場します。。。この仕組みを理解し全ては脳が作り出したイメージであることに気づくと、、、、世界が軽くなります、、、どうせイメージの世界で、、、、が分かります。

ラベルの世界からの脱出

人間たるものこうこう常識を重視して、、、

人間たるもの、、こういうことはやらない方が良い、、これは従おう、、常識を少しづつ覚えて、、、とまあこのイメージの世界では、、社会人としての嗜みが求められます、、、ですが何であろうと、、この私も、、相手も、、全部が全部言葉で支配された世界の住人ですから、、イメージでしかありません。。言葉で決められた物が全部が全部イメージです、、、このイメージの世界で、、この私というイメージを向上させようとい試みは、、イメージの社会で多少は役に立っても、、、至福とは全く関係がありません。。至福とはこれがイメージあるという気づきが起きる以外にないのです。

イメージ同士の強化

他人と一緒に居るのがなぜ苦しいかといえば、、、その他人がイメージする役柄を演じ続けなくてはならないからです。相手も見かけ上の私がイメージする役柄を演じ続ける、、、これが辛いのです。。。本当はこの私も相手もイメージでしかないのです、、、、イメージという創造行為をエンドレスに続けていくのは苦しいのです、、本質ではないから。本質は本質の時に至福になります。本質はイメージになり切る時に同時に分離感が生まれます。

木を見ても木とは思わない、、不可能

我々は、、、木を見ればもう自動的に、、木というイメージが湧くように設定されてしまっています。コップを見ればコップというイメージが即座に湧く、、ですからこれを止めるのは不可能です、、、ですがこの仕組みを理解することはできる、、、、今見かけ上の私は、、、木という生命現象を見て、、木というイメージをそこに重ねた、、、だから木という独立分離した(見かけ上)存在に気づいた、、、となります。。全部はイメージ、、イメージのというレイヤーを現象に重ねただけ。。。。だからこの世には何の意味もないですよ、、と覚者は言います。。。たった一つのエネルギーにラベルを貼り付けまくり、、イメージを創造し続け、、、この私というイメージが、、この独立分離した世界を旅するというイメージを作りあげます。そこに意味はないです、、意味とはまさにこの言葉の世界が作り出したファンタジーです。

悟りのメッセージも言葉

言葉は全部イメージになる

悟りのメッセージこれは言葉です、、言葉はその人の中で全部イメージ化されます、、あたらしいイメージが出来上がります、、、悟ってことは、、こういうイメージなんだろうな、、です。。ですが悟りとは、、全部がイメージでありそのイメージを作り出す根本に帰りましょうということですから、、これはもう真逆のこと矛盾が発生するのです。

悟りを頭で理解しようとすると

頭で悟りを理解しようとしても、、頭は悟りをイメージ化します、、、この私がいないことをイメージで創造する、、これが夢だということをイメージで創造する、、、、このイメージが全くない世界、、これが悟りです。ですから悟りをイメージで探してはいけない、、、メッセージはあくまでも実践のための、確認するための課題として捉える、、、そのメッセージを五感を通じて再発見する。。

悟りのメッセージを食べる

悟りのメッセージは暗記しても無駄です、、ただ悟りがイメージ化して終わるからです。これまでの人生はイメージの中にありました、、この私もイメージ、この人生もイメージです、、、悟りはイメージではないのです。。。これがイメージであるという気づきです。。。悟りとは暗記ではなく、、気づきです。。。言葉を理解することは重要です、、言葉の理解がなければ確認のしようがない、、ですから悟りのメッセージを学ぶことは良い、、、ですが学ぶの延長線上に悟りがあるのではなく実践による気づきの先に悟りはあります。

イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。