至福

友人からの悪口にすら全体を感じる

全ての発言は全体からの起こり

全発言は全体からの起こりです、、、悪口も称賛の声も、無駄話も、、全部が全部全体からただ起こっています。友人から痛烈な悪口を言われてしまってもその言葉は全体からただ起こりました、、、これが理解できますと会話の一つ一つに全体、神、至福を感じることができます。全体以外から湧く言葉はないからです。

個人にとって有益か否か

この視点に立てば世の中のほとんどの会話には興味が湧かないでしょう、、、なぜならばその会話のほとんどは個人には無益だからです。ですがその会話が全体から起きていることを腹落ちできますとそこから全体を感じます、神のアートを感じます、神そのものがそこに在ります。個人は常にその会話を判断します、つまらない、面白い、と。ですが全部全体のアートです。

老人の戯言のも

朝から晩まで不平不満愚痴を言っている老人のその言葉の全ては全体から起きています、個人と成り切った全体からの叫びです、、そう捉えて観察していきます。個人として生きることがどれほど大変なことか理解できます、ご苦労様、、という気持ちが自然と湧き上がります、、ですがそれも全て現象でありそこを深刻にとる必要はありません。3D映像、五感で感じる蜃気楼です。

自分探しの旅とは

自分が居なかった、、

自分探しの旅に出る、、、、決して珍しい話ではありません、、、、何が幸福で何が不幸なのか???何にも分からなくなったから自分探しの旅にでよう、、、、気持ちは本当に分かります、、、ですがその答えが出ることはない、、なぜならば、、自分が居ないから、、、、アベシ、、、本当はいない自分を探す旅ほど辛いことはないのです、、、、

色々な経験をしたら、、、

色々な経験をしたら、、、自分が分かるのでは、、、、残念!!!!色々な経験をする自分が居ないのです、、、経験を積めば積むほどに、、自称自分は、、、大きくなっていきますが、、、実は居ない、、、あらゆる経験を積んでいるのは自分ではなく気づきの意識、意識そのもの、全体です。。。

自分が居ないという気づき、、

あれ、、この自分を無視したような行動をしている方が幸福では???大正解!!!そうです、この自分が居ないのでは???という前提で行動すると楽しいのです、嬉しいのです、至福なのです、、、自分なんかを探すよりも自分なんて居ないと思って気軽に行動のすると至福に囲まれます。なんのこっちゃです。これだけ重視し大切にしてきたこの自分を無視した方が至福に包まれる、、、えらいこっちゃです。

今までも完璧だった

取捨選択してきたつもりが違った

これまでの人生あらゆる選択ミスもしてきたけど、、まあまあそれなりの人生かな、、、、残念!!!事実は違います、取捨選択できる個人などこの世に存在していません、取捨選択がただ全体か起こり続けただけです。つまりこの人生はある意味完璧なのです、、、こんなに苦しいのに完璧なのです。今の人生で完璧ならばこれから先もこんなものなのか???分かりません、、全く分かりません、、、ただこれまでのこの自分の取捨選択に一切のミスが無かったことが分かった時至福感が湧いてきます、そして今後の私ストーリーに対しても全くの不安が無くなる、、なぜならばそこに自己判断は一切ないからです。

今日の俺の決断はどうだったんだろう???

結局のところ、、、起きた事実に対し自分自身が評価を下し、自分自身を批判の対象に晒してきたのです。だからこそ他人の決断に対しても厳しくなってしまう、、、これがただ淡々と起こり続けのてきました、、、ですがもうこれができない、、、、自分で取捨選択していない、、そして自分も居ない、、、、全体からの起こりだけがある、、、この状況で誰を批判できるでしょうか???

これから俺はまともな判断を下していけるだろうか???

全く問題ありません、なぜならば今までも一つたりとも決断を下していないのです、、、今まで決断を下したことがないのならばこれからも無いだけです。つまり諸行無常、神羅万象に委ねていくだけなのです。この体はこれからもあらゆる物に触れ、あらゆることを感じ、あらゆる音楽を聞いていくでしょう、、、ですが本当にただそれだけなのです、、、この事実を空いととるか、至福ととるかです、、、それも全体からただ起きます。

病気から悟りに入る

病気を感じているのは全体

今私が病気である、、だから辛い、、これを感じているのは紛れもなく全体です。病気になったら休みますよね、自分活動を一切しないはずです。それは全体そのものになって病気を感じているのです。病気になると寝ます、寝れば思考が抜け落ち自分が抜け落ち全体に戻ります。すると病気が治りやすくなります。ただ休んで体を治すのではなく全体になっているという自覚を持つことで病気から悟りに入れます。

辛いの根底に至福がある

同じ病気でも本当に辛い時と至福に包まれた感覚を持てる時があります。自分が病気をしている、、、これが辛い、、ただ病気が全体から起こった、、、これは辛いを感じる至福の存在を確実に感じます。なぜならば辛いを感じている真犯人は全体、至福だからです。個人はどんなに「自己主張」しようとも結局は至福が作り出した劇場なのです。

全員が至福からは逃げられない

至福(全体)が作り出したこの自分ゲームですから最終的には全体(至福)に帰るしか道はありません、どんなに今病気で苦しくても、、全体(至福)からは絶対に逃げることができないのです。個人は今全体から分離したという錯覚が起こされ、、そこから苦しみのループに入り込んだだけ、、全体(至福)という落下シートが常に常に張り巡らされた綱渡りをしているだけです。

孤独感を感じているのも全体(至福)という大オチ

孤独感を全体が感じる????

孤独感を感じているのは誰でしょう、、、全体です、、個人ではありません、、、この世界で起こる全ての感情を感じることができるのは全体のみです。おかしい、、全体(絶対幸福)が孤独感など感じるのはおかしいではないか???そうです、、おかしいのです。全くもっておかしな現象が起きているんです。そしてこの現象を起こしているのも全体です。

個人は感情を感じる力などない

この全体の中に個人という全体とは関係のない存在が生まれるわけがありあせん、、、全体の中に「別個」の存在が生まれてしまったら全体が非全体になってしまいます。するとこの個人は100パーセント全体の表現、現象でしかありませんからこの個人風アートが体感する全ては全体が感じています。一見個人風アートが体感しているように見えても全部全体が経験しているのです。

それじゃあ目の前の泣きじゃくる老婆は本当は辛くないのか????

その通りです、、、老婆の感情を感じるのもこの全体です、、、全体以外に感じる存在は居ません。つまり私たちが見ている世界はスーパーマリオと全く同じだということです。マリオを操っている時、、クッパには感情は一切ありません、ピーチ姫にもありません、、ノコノコにもない、、、そしてマリオにもないのです、、感情を感じるのはプレイヤーです。。。。今回のこの自分劇場のプレイヤーは全体です。

全体は全体のままでは怒りを起こせない

全体は個人に成り切ることで初めて怒りを作った

全体とは至福です、至福が至福のまま怒りを起こすのは不可能です、、、怒りを起こすには一手間かかるのです、それが個人に成り切るという一手間です。。全体が「私」という存在、思い込みを作らなければ、、、閉塞感、苦しみを産めないので、、怒りも産めません、、、つまり人間が抱える怒りとはとてつもなく手間をかけなくては生じることができないのです。

先ずは個人に成り切る必要があった

先ずは個人というのを作らなくては怒りも作れません、、ということでこの個人を作らなくてはならないのですが、、、この個人が存在することを立証するには、、記憶が必要になります、、、存在しないにも関わらず存在しているという勘違いを起こすには記憶が重要になるのです、、それがこの見かけ上の脳です、、この脳が五感で感じる経験全てを見かけ上記憶し、、自分を作り上げたのです、、これによって毎日苦しいも生み出されます。。この勘違いは苦しいのです。どうしても。

そこに何か事件が起きると、、、

そこに何か事件が起きると、、、、怒りがこみ上げてきます、、、この事件は「自分」に向けられたものだという次の錯覚が起きるのです。友人が1時間遅刻してきた、、、この事件は「自分」に向けられるのです、、するといつも苦しい自分を通じて怒りが起きるわけです。ですがこれは勘違いの二重三重構造の中に起きていますし、、その感情を感じているのも全体(至福)ですから何も問題がないのです。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。

事実は優しい

事実は冷たくない

経験だけがあって現象だけがある、、、、こんな空い世界に生きて何が楽しいのか???真逆です、生まれたての幼児は見るもの触れるもの、香るもの、、全部から感動しているではないか、、、この現象に触れているだけで感動し至福の中に居るのです。我々はこの神が起こした現象に判断、分別を加え続け、、、切り裂きに切り裂き、、生命の息吹を完璧に抹殺して生きてきたのです。本当はそのように見えているだけで生命から生命を奪うことはできません。生命は生命以外にはなれないのです。

冷酷なこの世界を、、、

現実は厳しいよね、、、違います、、、そのように見えるまで判断を加え続けてきたのです。人は所詮信用できないよね、、、違います、、、そのように感じるまで判断を加え続けてきたのです。冷酷に感じるようになるまで判断をインストールし続けてきただけです。この現象、生命は、、、神そのもの、空の化身、、全体のアートですから、、それが冷酷である、、、、というのはそう見える現象になってしまっただけです。

熟睡から目覚めた時、、

熟睡から目覚めた時に、、、なんて冷酷な熟睡だったんだ昨晩は、、、、こんな感覚を覚えた人は皆無です。熟睡=至福=気づきの意識=空です。これが事実です。ここが安らぎの場所です。ここにいつでも帰れるならばもうこの現象界で、、、これが欲しい、あれが欲しい、評価を欲しい、称賛が欲しい、、、、が湧いてこなくなります。なぜならばその10000倍至福の場所を知っているからです。

事実の前に観念は崩れ落ちる

観念も湧いてくる

観念すらも湧いてきます、観念とはこの見かけ上の「自分」が経験したことと知識を混ぜ合わせ一体化したものです。観念とは記憶から成り立っていますからこの記憶が見かけ上の脳内に内臓されます、、しかし実際にはこの現象界は全部現象であって事実ではありませんから、、観念という記憶は全体、空に保存されていきます。そして何かのタイミングでこれが湧き出てくるのです。

「自分」の存在に対する理解が深まると

自分という存在、理解が深まりますと、、、観念が湧いてこなくなります。なぜならばこの世界、現象界で起こることは全部全体の現れであり、、そこに良否、善悪、高低などあるわけがないのです。全体のアートに良否があるならば全体は欠陥品になってしまいます、全体のアートに善悪があるならば全体は粗悪品になってしまいます。ただ淡々とこの目の前に現象が起きているだけなのです、そして目の前という言葉も実は間違いで、、その目も現象ですから、、実は存在しません、、ただ現象だけが在るのです。

ただ現象だけがあって、、この自分も実在しないならば

ただ現象だけがあって、、この自分も現象、、実在しないならば、、現象のみ、、終わりです。すると一々判断を下してきた存在(自分)が居ないのですから観念も崩れ落ちます。観念が湧いてこなくなるのです。というか自分在りきの観念は一掃されます。ただ現象の揺れ動きだけが残ります。ただ全体の表現だけが残ります、至福がそこに漂うのみです。

全部起きている

今は分からなくていい

結論から言えば全部起きています、全体から。ですがこれを個人に説明しても分かるわけがないのです。起きるという感覚は分かる時が来れば必ず分かります。ですが思考全開で生きている時はこれが理解できません、それでいいのです。思考とはこの体が存在するという前提でこの体をサバイブするために湧き上がっています。これが悪いわけがないのです、この体をサバイブするための思考は素晴らしいのです。ですがこの思考こそが全体を遠ざけ苦しみを作るのです。

分離最高、苦しみ最高

分離感覚は大人感覚です、大人とは分別がある存在、、、分別とは別れる、分かれるということ、、、、全体しかない世界において分別という錯覚を作り出すことを素晴らしいと勘違いするのがこの人間なのです。分別がある大人になることを素晴らしいとしですがこの状態は苦しみマックス状態ではありますがそこからどうしていいか分からないのも大人です。真実を言ってしまえば分別こそが苦しみです。

分別を超える

分別ある人間になりたい、、、これは苦しみに生きたいと宣言しています。別れ分かれ、、全体が分断された状態は苦しいのです。ですがこれを発揮すれば大人の仲間入りです。仕方ないから分別ある大人にさっさとなってしまいそこから分別を壊してしまう、分別をリセットしてしまう、、分別を辞めてしまうのもひとつです。分別を止めるとは全体に戻る、至福に戻ることです。