真実

これは「私」には見えない

「私」が居ると見えなくなる

本当の世界、真実の世界は「私」が居ると見えなくなります、、、、この「私」という存在体の中の存在を信じていると見えなくなるのです。真実を見ることができないのではなく、、「私」が居ることで、、そこに私の観念が反映した世界がベールとして広がり真実を隠すのです。色眼鏡がかかった景色に急変化します。

「私」という存在を嘘と見破る

私という存在を嘘と見破ることができますと、、、景色を景色のままで感じるが起きます、、、、それを見る私が消えます、、景色が景色のままにそこに在るのです、、、そしてこの体も景色に変わります、、、この体を含めた景色を景色が感じます。。。

悟りのメッセージを使い倒す

悟りのメッセージは個人の嘘を暴く内容です、、、個人という存在の嘘を徹底的に暴いていきます。これを個人は嫌います、、個人が嫌うというのも嘘で、、嫌うという感情が勝手に湧きます、、、個人が居ると言うストーリーをイメージしていると、、ですから悟りとは個人の存在を追い詰めることなのです、、個人をこの世界からはぎ取る、、個人をこの世界から抹殺する行為です。

視点の解放

悟りとは視点を解放すること

私が対象物を見る、、、、私からベクトルが対象物に行きます、、、そしてその対象物を捉え、、、その対象物を確認します。。。。これが私物語の基本です。私という視点から始まり、、対象物という終点で終わります。悟りとはこの視点が完全に無くなることです。見ている「私」を消滅させるのです、、、そして現象は現象を起こした存在が確認している、、という概念に切り替えます、、、ここは概念です、、、本当は、、、現象は現象を起こした存在が認識しているのでは????という概念を起こします、、、、すると、、それは真実なので、、、本当だ!!!!という体験が起きます。

マジックの種明かしの動画を見る

プロマジシャンのテクニックは何百回見ても、、騙されます、、、、何百回何千回見ても、、騙されます、、、、、ですが種明かしの情報を得ると、、、、騙されなくなる、、、、不思議です、、、なぜか????視点が変わるからです、、、マジックとは視点を利用したテクニックなのです、、、、物事は、、、物事を起こした存在が気づいている、、、、この視点、概念を信じてみます、、すると本当にそうだ!!!が起きます、経験として。

悟りとは宇宙が作り出したマジックの種明かし

悟りとは宇宙が作りだしたマジックの種明かしです、、宇宙そのものを今出現させている存在が作り出したマジックの種明かしです、、、、種明かしを聞いてからマジックを見るとあら不思議、、、マジックに騙されない状態になります、、、、ですがこの段階に行くには、、、種明かしに興味が湧く、、、というプロセスを踏まなくてはなりません、、、そして種明かしを聞いてしまったらもうマジックを楽しめないですから、、、究極の決断が起こるのです。

自由意思を使い倒す

自由意志を使い倒すと

自由意志を使い倒すと、、、「もういいや」が湧いてきます、、、自由意思あるきの生活をやり尽くす、、、自由意志という発想でこの自分という発想をどこまでやれるのか???これをやり倒すことで「もういいや」が湧きます。このもういいやは、、真我からの起こりですでから、、真我からの気づきですから、、戻ることがない、、、究極のもういいやが、、、悟りです。

自由意志を手放す

多くの方は自由意志を慎重に使い、、この体をなんとか安全に運行していこうと心掛け、、、死ぬまでを生きていきます、、、、、自由意志をこの体の安全に使っていきます、、これが自我の本来の目的です、、この「私」といアイデアも、自由意志も、、この体を安全に保つためのツールなのです、、、その自由意志を使い倒しますと、、、自由意志ってこういうことなんだね、、、という気づきが起きます、、、、自由意志に取り込まれていたのが、、、自由意思ってこんな感じなんだ、、、という思考との距離が生まれます、、、自由意志を観察する存在です、、、、、

すると、、、、

あれ、、さっきまで自由意志をこの私がこしらえていたと思っていたけど、、、この自由意志を観察する存在は誰だ????という矛盾が起きるのです、、、、自由意志を私がやっていた、、、自由意志はもういいや、、って誰が感じているんだ、、、この私ではなさそうだ、、、すると自由意志はないというメッセージが入り込んできます、、、、ようやく真実が雪崩こんでくるのです。。生まれてこれまで目の前にあった真実がなだれ込んできます。

宇宙としての偏見

宇宙人としての偏見が抜け落ちると、、、

私は宇宙人である、、この偏見が抜け落ちますと、、、、宇宙としての人間活動が始まります。主語は宇宙です、、宇宙の中でこの体の活動もあるだけ、、、宇宙全体の活動もある、、、になります。宇宙そのものが主語になり、、、この体もあの体も全部が同価値になっていきます、、、全生命が同価値になる、、、全現象が同価値になる、それはそれが真実だから、、、それが真実だから、、、そこに吸い寄せられるのです。

主語が宇宙に馴染みがでると

主語が宇宙になります、、、「私が存在せず、自由意志もない」、、、ただこの宇宙現象が起き続けているだけ、、、その中にこの体も、全現象もただ在るだけ、、、、、ここが腑に落ちますと、、、次の段階に進みます、、それはではこの宇宙現象はどこで出来たのか???私はどこに居るのだ????この宇宙としての「私」はどこに存在するんだ???この疑問が湧いてくるのです、、、、すると全ての現象を現す「空、絶対」の存在が見えてきます、、、認識するから見えてくるのです、、、見えるから存在を感じるのではない、、認識が存在を起こすのです。

色即是空

釈迦はこれを「色即是空」と言葉にしました、、、これを理解するにはん万物は一つだという気づきが必要であり、、万物が一つだという気づきのためには、、、「この私は居ない、自由意志もない」という気づきが必要です、、そして「この私は居ない、自由意志もない」に気づくためには「この私が居て自由意志がある」という錯覚が必要です。この錯覚を起こすためには私と自由意思という言葉を覚える必要がある、となります。

宇宙人の偏見

宇宙人は偏見を持っていた

宇宙人は偏見を持っています、、、それは「この私が居て、、自由意志がある」という偏見を持っています。。ですがこれは事実とは違います、、、「私も存在せず、自由意志もない」これが真実です。。。我々地球人も宇宙人の一種です。。。宇宙人は全員がこの偏見に騙されています。ではなぜこの偏見を手放せないのか???この発想はこの体にとって有効だからです、、この発想を持つ方が体を大事にするからです、脳は体の手下です、、脳が作り出した、、偏見は体のためにあるのです。

新しい偏見の獲得

「私は存在せず、自由意志もない」この新しい偏見を獲得します、、本当にこの体を安全に保持していけるかを確認します。。。しばらくは根性が必要でしょう、、、ですがやってみます、、、大丈夫です、、体は安全に全く問題なく維持できます、、、、しかも今までの苦しみが吹き飛びます、、、緊張感がなくなります。。。頑張って決める自分が居ないのですから、、、自由意志をフル発揮する自分が居ないのです。

合わせることができる

新しい偏見を獲得することが出来るのはなぜでしょうか????それは、、、新しい偏見を獲得しても、、古い偏見を持つ人と合わせることができるからです。地方出身者は、、自身の偏見に東京で気づいても、、地元に戻ればそれに合わせれます。だから何も問題が起きない、、、これと同じ「自由意志がなく、私も居ない」という偏見を獲得しても、、、何も問題が起きない理由は。タコが美味しいが真実であるように、、慣れてしまえば真実に吸い寄せられます。

納豆は美味しいは真実

腐った豆を美味しいと言って食べるのは日本人ぐらいでしょう、、これを外国人は信じられない、、ありえないと言います。。ですが一年もすれば、、、「美味しい」に変わります、、、真実に吸い寄せられました、、、腐った豆の多くは体に悪いので、、、「不味い」と信じ込んでしまった方が体は安全です、、ですからこの偏見が生まれたのです。「私が居て自由意志がある」という偏見はある時期まで人類には有効な偏見でした、、ですが今は違います、、今は、、新しい真実に合わせても大丈夫、、納豆と、他の腐った豆の識別ができるから、、日本人は納豆を食べることができた。。

地球人としての偏見

地方出身者

我々はその土地特有の偏見を持って生きています。関西人は関西人独特の偏見があり、京都人は京都人独特の偏見があります。この偏見がなぜ存在するかと言えば、、本当にそう見えているからです。。え???見えているならば偏見じゃないじゃないですか???違います、、、偏見という見方が、、そう見せるのです。マジックとはまさにそれで人間の見え方を利用したショウです。騙し絵もそう、、人はこうだと信じるものを見ているのです。

日本人としての偏見

日本人には日本人の偏見があります、アメリカ人にはアメリカ人の偏見がある、、、これはこの土地土地で有効な偏見です、、、日本人は海産物は美味しいという偏見を持ち、アメリカ人はタコは悪魔のような偏見を持っています、、全ては体を保持するためにもっとも有効な偏見なんです。偏見とは視点のことであり日本人としての視点です、、、世界で活躍する人は、、日本人としての偏見を捨て、国際人としての偏見を持つことです。

抽象度を上げ続ける

偏見は体のためにありますから、、今この場で偏見を捨てるのは不可能です、、今の偏見を捨てるには新しい偏見、しかも体に有効な偏見を手に入れる必要があります。悟りとは新しい偏見の獲得です、、、地球人としての偏見として、、、「自由意志がある」「私」が居るという偏見を持っています。。これを新しい偏見に切り替えます。この体には「私」は存在せず、、「自由意志もない」だが、、これで十分、、生きていけるし、、しかも幸福になる、、、この視点で生きてみます。。すると本当にそうだからビックリします。

タコは美味しい

アメリカ人にタコは美味しいよ、、、と話をしても無理でしょう、、ですが毎日毎日タコは美味しいと話し続ければ、、一年後には大好物になっている可能性がある。これと同じ「自由意志はなく私も居ない」が板につく可能性がある、、、なぜならばそれが真実だからです。タコが美味しいは真実であり、、自由意志がない、私も居ない、、は真実です。。この真実に目覚めますと、、、もう苦しみが人生から吹き飛びます。

視点の違い

この体の中に自分が居るという視点

我々はこの体の中に「私」という存在が居て、、その視点でこの世界を観察しています、、そして観察し経験し、、それによって感情、思考が湧き出し、、完結します。。ですが実はこれあくまでも幻想です、、この体の中に「私」が居るとイメージして、、その視点で経験を積んでいるんのです。本当はこの体の中には「私」は居ません、イメージ以外は。この体の中に「私」が居るという視点での観察、経験が価値観、観念を形成し、その観念こそがこの見える世界を作り出しています。本当は先ず最初に観念があり、、その観念に従った現象が現れ、、それをこの「私」が観察し経験しているのです。

観念に沿った現象

観念に沿った現象が先ず最初にここに在ります、、、ここで今まではこの体の中の「私」が見るというイメージ上の経験をしていたわけですが、、これを変えます、、、、全現象、全思考、全感情、全行動の全てはただ空から起こっているという事実を認識します。。。今見えている世界は、、、「私が見ている世界」ではなく、、全部空から直接現象化されたという事実を認識するのです、、「私が見る」これはイメージ、幻想、概念です。そうではなくただ空からこの現象がそのまま起きました。。。。景色から、、「私が見る」というストーリーを抜き取るのです。

視点が変わると認識が変わる

ストーリー上は「私が見る世界」です。。。ですがこれは事実では断じてありません、、私もイメージ、見るもイメージです、、、そうではなくこの世界が空から直接ここに現れたのだという真実の視点を持ちます、、もうここでは見るという行動が起きていません。。すると認識が変わります、、「私」に向かってきていた全現象が、、、ただの全現象に変わります。湧いてくる思考、感情、衝動が変わるのです。

認識が変われば観念が変わり、、見える世界が変わる

「私」が積んできた経験が、、ただの現象に生まれ変わることで、、、観念が変わっていきます、、、すると世界が徐々に変わっていきます、、、世界は観念を映し出す鏡ですから、、、変わるのです、、、空から世界に光が入り込んできます、、世界が光ってきます、、、世界に神が入り込みます、世界に空が入り込みます、、、これまでの観念によって重いベールが掛かっていたのが、、剥がれていきます、、、世界が神になります。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

この体の中の自分は諸行無常と関係がない???

大いにある

もしもこの体の中に自分という実在が居て、、この自分に自由意志があるとすれば、、、、毎日同じ思考をする、、ということが出来る人間が現れてもおかしくありません。ですがそのようなことが起きたら、、、諸行無常が、、、この私には当てはまらないということになります。。世界は諸行無常、、変わらない物はない、、、変わらない現象はない、、これがこの宇宙のルールです、、、、自由意志はこの絶対的ルールと完全に矛盾するのです。

自由意志と諸行無常は完全にぶつかる

自由意志とは思考、行動をコントロールすること、、、、これと諸行無常は理屈が合いません、、ではどちらが本当のルールなのか????諸行無常です、、、全現象は常に動き続けています、、、原子レベルでは確実に全部動いています、、、この事実と自由意志は真っ向からぶつかります。

全思考、全感情、全行動が諸行無常

真実はこれです、、全思考、全感情、全行動が諸行無常です、、、誰一人、、、これをコントロールしている個人は存在しません、、、コントロールしているという勘違いは起きます、、ですが、、、実在しないのです、、、自由意志も私も、、、これはイメージ、概念です。

究極の静寂

自我が緩み始めると

自我が緩み始めますと、、静寂が日常生活の中に入り込んできます、、音が明晰に聞こえるようになります、、音を聞く自分の存在はなくなります、、音が音のまま聞こえます、、人が人のまま見えるようになります、、、植物が植物のまま感じることができます、、、何もしていなくても、、なんとなく幸せ、、周囲からどう見られたいとか、、その感覚も無くなっていく、、、周囲の反応そのものが自分のものというなんとも言えない感覚になります。

この場所で起こっていない情報

この場所で起きていないこと、、海外のニュース、海外のエンタメ、日本のエンタメ、芸能ニュース、経済ニュース、、、、そこに興味が向かなくなります、、なぜならばそれが実際には起きていないことを知っているからです。この場所以外では何も起きていないことを知っています、、、だから見る必要性がない、、私の知らないところでは事件が実は起きていない、、

あのニュースを知っておけば

あのニュースを知っていれば良かったのに、、、それがないのです、、起きていないのですから、、この場所以外では何も起きていないのです、、実際には。起きていないことをなぜ知る必要があるのか???ということです。事件は現場で起きているんだ、、、は映画の有名な言葉ですが、、、事件はこの場所でしか起きません。

究極の静寂

この場所以外では何も起きず、、ゆえになんの心配もしなくていい、、私の言動も全て、、、勝手に起こっていて何一つこの私は決めることができない、、ゆえになんの心配もしなくていい、、、本当はこレは夢物語で本当はこの奥に真実が隠れている、、だから何もしなければならないことはなく、ただここに居ればいい、、、ゆえに何の心配もしなくていい、、、これが徐々に分かってきますと、、究極の静寂を感じ始めます。