宇宙としての偏見

宇宙人としての偏見が抜け落ちると、、、

私は宇宙人である、、この偏見が抜け落ちますと、、、、宇宙としての人間活動が始まります。主語は宇宙です、、宇宙の中でこの体の活動もあるだけ、、、宇宙全体の活動もある、、、になります。宇宙そのものが主語になり、、、この体もあの体も全部が同価値になっていきます、、、全生命が同価値になる、、、全現象が同価値になる、それはそれが真実だから、、、それが真実だから、、、そこに吸い寄せられるのです。

主語が宇宙に馴染みがでると

主語が宇宙になります、、、「私が存在せず、自由意志もない」、、、ただこの宇宙現象が起き続けているだけ、、、その中にこの体も、全現象もただ在るだけ、、、、、ここが腑に落ちますと、、、次の段階に進みます、、それはではこの宇宙現象はどこで出来たのか???私はどこに居るのだ????この宇宙としての「私」はどこに存在するんだ???この疑問が湧いてくるのです、、、、すると全ての現象を現す「空、絶対」の存在が見えてきます、、、認識するから見えてくるのです、、、見えるから存在を感じるのではない、、認識が存在を起こすのです。

色即是空

釈迦はこれを「色即是空」と言葉にしました、、、これを理解するにはん万物は一つだという気づきが必要であり、、万物が一つだという気づきのためには、、、「この私は居ない、自由意志もない」という気づきが必要です、、そして「この私は居ない、自由意志もない」に気づくためには「この私が居て自由意志がある」という錯覚が必要です。この錯覚を起こすためには私と自由意思という言葉を覚える必要がある、となります。

(Visited 3 times, 1 visits today)