グラス

グラスが影ならばなぜ触って、動かせて、砕けて、、嗅げるんですか???????その感覚こそが影です。え??????そうなんです、、この影とは起こる現象全てで影です。「グラス」が示すのも影の一部であり、感触も影の一部であり、、動く絵面も影の一部です。。。。この影とは「つまり全部」なんです。「このグラスが影????」という分離を意味する思考が起こりますがその思考こそがまさに影です。

どんな思考が湧こうとも

どんな思考が湧こうとも、、影には分離は絶対にないし、独自に動く影もありません。影は完全に受動的であり、、影に独自性は存在しえないのです。もしも独自性、分離性あるのならばそれがあるという思考が受動的に湧いたのです。影は影であり、、それは物質ではありえず、、ましてや分離もありえず、、ましてや独自性もありえないのです。ですがそれら「全てがある」という勘違いの思考はどこまでも起こりえるのです。

窓の外を見れば

鳥が居ます、、、いま「それ」に鳥という言葉をあてはめ、、「それ」から鳥だけを切り取ったのです。これがまさに現象として起こるのです。影の上に「切り取る」という影が起こりました。これが全自動で起こっています。これが分離感という苦しみを生み出しますが、、そのことを止めることはできません。全ては影の動きとしてそれが起こるのですから。

ただし

そのことの理解(影の動き)が、、、次の動きを起こす可能性があります。全部が影であるという完全理解が、、分離の夢を覚めさせるという「影の動き」を起こすかもしれません。そして何が起こったっとしてもそのような影の動きがあっただけです。だから見かけ上の私たちは最初から救われていますしこれからも救われています。完全な影の動きの中で不幸を感じ苦しみを感じ、、完全な影の動きの中でそこに気づき、、解放が起こるのです、見かけ上。

(Visited 3 times, 1 visits today)